(20)-6空海の特別ミッション(仮説)の背景を考える

本題に戻ります。留学前の空海の「空白の7年」の神宝探索とは、どのようなものが考えられるであろうか。その端緒となる出来事を「週刊・日本の歴史ー新発見・ここが変わった、ここまで分った(朝日新聞出版№13)」と「呪われた平安京遷都の知られざる理由(関裕二)」を参照し、または引用させていただき神宝探索の端緒となる出来事を整理します。

神宝探索の端緒は、400年続いた平安時代の幕開けに行われた2度の遷都(長岡京・平安京)にあります。その理由は、桓武天皇の「出自に対する負い目とコンプレックス」「怨霊に対する苦悩と恐れ慄(おのの)き」から解放されたい、という切なる願いにあったと考えられます。

天武天皇の皇統は、曾孫の聖武天皇に成人の皇子がなく、娘の安倍内親王が女帝(孝謙天皇、称徳天皇)となり重祚しましたが、後継者を指名しないまま死亡したことで皇位継承問題が発生しました。天武系の皇統を押す吉備真備と天智系を押す藤原(式家)百川が暗闘したと考えられています。吉備真備は藤原氏の包囲網にあい政争に敗れ「長生の弊、この恥にあう」と述べて朝堂から去りました。

770年(宝亀元年)、天智系の齢60を超えた天智の孫・白壁王(光仁天皇)が即位したことで天武の皇統が絶え、天智の皇統が復活しましが、今度は光仁の後継指名の政争と暗闘が勃発しました。実は、桓武天皇が皇位につけたことは奇跡的なことで、皇位簒奪の疑惑が囁かれる複雑な事情がありました。 光仁は他戸(おさべ)親王(母は皇后であった聖武天皇の娘・井上内親王)を太子と定め、山部親王(桓武天皇)は後継者とは認められていませんでした。

772年(宝亀3年)皇后が光仁を呪詛したという密告を受け、母子はその地位を追われて幽閉されましたが、同じ日に母子は死亡しました。殺害されたと考えられています。また、桓武は実姉が死亡したのも他戸親王母子の呪詛によるものだと攻めています。母子に何の利益があるというのでしょうか。藤原氏の陰謀と考えられます。

『公卿補任』は、この事件が藤原良継と藤原百川(ももかわ)が山部親王を即位させるために仕組んだ謀略であったと記録し、『水鏡』は、藤原百川が祟りに苦しめられたと記録にとどめています。『本朝後胤紹運録』は他戸親王母子は獄中で死んで龍になって祟ったといっています。

桓武天皇は、実母が百済の武烈王の末裔とされる高野新笠であり即位の資格要件(母が天皇の娘または藤原氏出身であること)が欠落していました。高野新笠の身分は低く、実母の身分が低い場合は婢母といわれましたが、桓武のコンプレックスとなりました。これが桓武天皇の即位の正当性を疑問視する要因ですが、桓武には、資格要件を満たしている他戸親王を抹殺しなければ即位できなかった事実があったのです。

天武系と天智系には皇統を巡る激しい争いがあります。672年の「壬申の乱」の勝者となった天武天皇が統一国家・日本を成立させて皇統を奪取しましたが、藤原氏は聖武天皇(母は藤原不比等の長女・首皇子)の即位によって持統天皇(天武の后、天智の第二皇女、当初は天智系に即位させるための中継ぎ役であった)から始まる天智系の王家の創立を目論みました。しかし、聖武は天武の子であるこに目覚めて藤原仲麻呂(恵美押勝と改名・藤原不比等の孫)と政争し、子の女帝・称徳天皇(道鏡とのスキャンダルの当事者、捏造のにおいがする)は恵美押勝を誅殺(藤原仲麻呂の乱)してしまいました。藤原氏にとっては悪夢の連続というべきものであり、藤原氏は天武系の皇位を嫌い簒奪を狙っていたと考えられます。

桓武は母を同じくする実弟の早良親王を僧籍から還俗させてを太子にしましたが、息子の安殿(あて)に皇位を譲りたい親心が芽生えたと考えられます。早良親王は、藤原氏の標的にされ、藤原種継の政的であった大伴家持を主犯格とする謀略を仕組まれました。『続日本紀』には中納言・大伴家持が大伴氏と佐伯氏を巻き込み、早良親王をそそのかして藤原種継を殺したとありますが、これは藤原氏の謀略と考えられます。藤原種継の母は秦氏であり、秦氏と太いパイプを持っていたことから遷都を急いだ桓武に重用されていたものと考えられます。

早良親王は廃太子となり淡路島に流罪されましたが抗議の断食により死亡したとされました。大伴家持は任地で死亡していましたが遺骸の埋葬が許されず、官籍から削除され、息子は流罪になっています。 788年(延暦7年)、長岡京に早良親王の祟りに襲われたという戦慄が走りました。河川の氾濫や飢饉の深刻な被害にみまわれたばかりでなく、桓武の后・旅子、早良親王の母、高野皇太后、安殿、桓武の皇后・乙牟漏、が次々に亡くなったのです。安殿の体調不良に際し陰陽師の占いに「早良親王の祟り」とでたことから、あわてて早良親王の御陵に塚守を置き周辺での殺生を禁じて「崇道天皇」を追号し祀りましたが、延暦9年の秋には疫病(天然痘)が大流行したことで人々は恐れおののきました。

桓武が長岡京を造営して遷都した理由には、奈良仏教との隔絶や水運の利便性に欠けていたことなどの的を得た見解がありますが、実は、桓武には聖武天皇系が造営した都城・平城京に対する大きな嫌悪感があったからではないかと考えられます。歴代の皇位を巡る謀略の数々は、さほどに桓武の心を悩ませ恐れさせていたと考えられます。

桓武天皇は、どうにもならないこのような恐れ慄きから解放されたいと切に願ったであろうことは、当時の世相や背景を考えれば、これらから解放される方法を見つけるべく探り続けたことが無理なく理解できます。 奈良の平城京を捨てたのは、「南都の仏僧の問題点」にあるのではなく「仏教の腐敗」とは、言い換えれば、「反藤原」「親蘇我」「親天武系」といっていることであり、藤原政権にとっては頭痛の種となっていたと考えられます。桓武は「祟られる対象」であり、藤原氏にとっては「平城京は政敵を葬り去った戦場」また「藤原氏を恨む人々の墓場」でもあるところから恐ろしい土地と受け取るようになっていたのではないかと考えられます。

しかし、長岡京にも問題がありました。長岡京は聖武天皇が造営した後期の難波宮を解体して移築し完成をまたずに遷都しました。発掘調査の結果、長岡京には特徴的な構造が大発見されています。南門両側の復廊が南に延び先端に楼閣を持つ構造がこれです。門の左右に楼閣を設置する建築様式は中国で「闕(けつ)」と呼ばれ、皇帝の権威と権力を誇示する建築様式といわれるものです。宮殿を丘に設け、朝堂院南門に楼閣を設けたのは長安城を模倣したものと考えられます。これには特別な意図が感じられ、長岡京に日本初の中国様式を導入したのは、新皇統を正当化する狙いがあったものと考えられます。

桓武は、河内の交野で昊天祭祀(こうてんさいし/郊祀)を行いました。郊祀とは、天を支配する天帝に地を支配したことを報告する中国の皇帝儀礼です。桓武は専制政治を目指して自らを皇帝に擬する宣布を行ったものと考えられます。

長岡京がわずか10年の短期間で廃都となり平安京に遷都された理由には、造都を急ぐあまり利便性を評価して川辺に都を造った構造的な欠陥があったこと、また、造営を指揮した藤原種継の暗殺事件の障害があり、先行きに暗雲の不安要素が見て取れていたことなどが考えられます。

長岡京は「丘と水の都」といわれましたが、水運と陸上交通の要衝でした。この意味では都市機能を向上させる地理的な要地でしたが、遷都から8年後の延暦11年に大洪水、突風の自然大災害に見舞われましたが、その特殊な地勢から大打撃を蒙りました。桓武天皇はより安全性の高い地勢を持つ新たな新天地を平安京に定め、ここで秦氏による平安京の大造営が行われたのです。 このような背景などから、祟りにおびえ切った桓武はあらゆる手段を使って調伏しようと手を尽くしたと考えられます。

811年(弘仁2)10月、空海は、早良親王の終焉の地・山城国乙訓寺(現・京都府長岡京市)の別当に補任されていますが、これこそ、無実の罪で淡路島に流罪される途中で乙訓寺に幽閉された早良親王が、食を断ち死亡したことにおびえ続けた桓武帝の亡き菩提を弔う息子・嵯峨天皇の怨霊封じの意思の表れと考えられる任命だと考えられます。空海が持つ密教の呪力と祈祷の力が怨霊鎮魂に期待されたのであろうと考えられるものでした。

これらの状況を変える力があると期待された「神宝」の探索について、藤原氏や秦氏が桓武天皇の相談にあずかり、阿刀氏に持ち込まれたことで空海に白羽の矢が立ったのではないかと考えられます。

因縁としか考えられませんが、空海は佐伯氏の出自で、母は物部系の阿刀氏です。佐伯氏は大伴氏と縁が深く、物部氏同様に藤原氏に恨みを持っている人々ではなかったかと考えられます。藤原氏の実態は、競合する有力氏族の存在を許さず、藤原氏の地位を脅かす恐れのある有力氏族を標的にして謀略を仕掛け、ことごとく失脚させてきた歴史を数多く持つ天皇家の外戚です。天皇家と独占的な外戚関係を形成して上級貴族の地位を藤原一族で独占してきた唯一無二の氏族です。天皇家はまさしく藤原一族といえます。皇室に古代王権を形成した大王のDNAが引き継がれているかどうか疑問符がつけられそうです。

「日本書記の垂仁26年秋8月の条」に、代11代垂仁天皇は、物部十千根大連(もののべのとおちねのおおむらじ)を出雲に派遣し、出雲に伝承されてきた「神宝」を検校(検査し監督すること)することを命じた記載があります。十千根は神宝の検校を済ませて奏上しましたが、垂仁天皇から出雲の神宝の管理を命ぜられています。これはヤマト王権が、出雲の祭祀権を収奪し、出雲王権はヤマト王権に屈服したことを示すものでした。出雲は物部から強制的な検校を受けたことで、神宝とその霊力を奪われ、祭祀権を失った地方政権に格下げされたことで消えることがない深い恨みを抱いたと考えられます。出雲王権は長い建国の歴史をも奪われたことになりますが、これが記紀に「国譲り」の神話として残された事実です。

物部氏はニギハヤヒ(饒速日尊)由来の「十種神宝」に加え、「出雲の神宝」をも所持したことで、絶大な祭祀権を手に入れたことになります。天皇家の三種の神器は皇位継承のシンボルであり、これとは意味合いが異なりますが、物部の「十種神宝」と「出雲の神宝」はその使用方法が霊力を期待するものであることにおいて同種の神宝と考えられ、同じ出自を持つ神宝、もしくは同一の神宝ではないかとの疑いが消えません。伝え方が異なっているだけではないかと考えらえます。 神宝は権力者が握った祭祀の権威を高めるために、霊力の威力を示すことによって、人々の尊崇と恐れを同時に掴む仕組みに利用されたと考えられます。

「同垂仁天皇3年春3月の条」には、新羅の脱解王・昔氏の王子とされるアメノヒボコ(天日矛命)の渡来があり、「神宝(羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の籬)」7種を持参したことの言及があります。 古事記には、(神宝は)珠が二つ、浪振比礼、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の8種という記載がありますが、これらは兵庫県出石神社にアメノヒボコと共に祀られているとあります。

神宝には、3種、7種、8種、10種の4種類の伝承がありますが、古代には「神宝」霊力あらたかな門外不出の秘宝として、神が持つ特別な権威の象徴として、人々の信仰や政治に大きな影響を与えていたことが分かります。人々は神宝の霊力を尊崇しながらも同時に恐れを感じる複雑な気持ちを抱いたであろうことが考えられます。

長岡京が安住の都でなかったことが、再び桓武に更なる遷都の決意を急がせたと考えられます。四神相応の清浄な候補地を早急に探させること、同時に、死活問題となった降りかかる天変地異や怨霊を鎮めて恐れおののきから解放されたいところから、再び南都の仏教勢力の知恵や効果的な対処方法を求めて接触する必要性を認めたものと考えます。どうにもならない死活問題の解決の糸口はこのような方法にしかなかったのではないかと考えられます。

桓武は少数の側近に接触を行わせ、能力の高い人材の推薦を南都側に打診したものと考えます。その基準には、「秘密を守れること、神宝の真贋が見分けられる特殊能力と探査能力が優れた者、宗教的能力の優れた家系を出自とする者、安心して使える者」などが考えられます。極秘任務であるところから、厳しい条件であったと考えます。

南都の最大の仏教勢力は法相宗です。要所であるところから内密な人選依頼が行われた考えられます。しかし、冷静に考えれば僧侶の中から推薦条件を満たす人物を探しだすことは非常に困難です。そのような人物が簡単に見つかるものではありません。可能性は信頼できる縁故者の中から適性能力を有する者を探すこと、このような結論に達したと考えられます。

そこで、法相宗の高僧を多数出している阿刀氏と縁故関係があり、その力量を買われた若き空海に白羽の矢が立てられたと考えます。桓武の寵愛を受けていた第三皇子・伊予親王の侍講を務めた伯父の阿刀大足が関係する皇室関係、空海と師弟関係を結ぶ大安寺(三論宗)の権操(秦氏の出自)などからも後押しを受けたことが考えられます。

その人物の適性検査の一端として差し出されて披見された決意書が いわゆる「出家宣言の書」といわれる空海の『聾瞽指帰』だったのではないかと考えられます。空海は、『聾瞽指帰』を改訂版して『三教指帰』を作成していますが、何らかの効果を目的として改定しなければならない事情や必然性があったと考えられます。この『聾瞽指帰』が、一般では入手できない天皇の専用紙「縦簾紙(じゅうれんし)」に書かれていたことから、朝廷の関与がなければ入手できないものであったと考えられます。これを総合的に考えれば、『三教指帰』は、留学前の直前に空海の力量を認めて貰うために手直しした改訂版と考えることができます。なを『聾瞽指帰』は国宝に指定された書です。

縦簾紙は、嵯峨天皇の書「哭澄上人詩」、光明皇后の書「臨楽毅論」などにしか使われていない貴重紙です。独特な製法で漉かれた特殊紙ですが、その特徴は、紙を漉く際に幅7mm位の簾目ができることです。王羲之の書「喪乱帖」などの中国・唐時代などにみられる特殊紙という特徴的な性質をもっている点から、中国の技術によって生産された輸入品と考えられます。入手困難な極上品であるところから、天皇、皇后の皇室専用紙として使われたと考えられ、桓武天皇の意思によって空海に渡されたものではないかと考えられます。

この特別紙がどのよう動機や背景のもとで空海に交付されたと考えればいいのでしょうか。伊予親王は、阿刀大足を師とするところから空海とは相弟子という関係があり、空海の能力を高く評価していたことが考えられます。伊予親王が特別な後押しをして桓武天皇を動かし、縦簾紙を下付させたという主張には可能性があると考えられます。しかし、空海が実績のない無名の青年であったことから、空海に特別ミッションを与えて、その結果を桓武が評価した後に信頼が生まれ、桓武は空海を側に置いて隠密に仕えさせていたのではないかと考えられます。『聾瞽指帰』が改訂され『三教指帰』に山岳修行中の宗教体験が盛り込まれ、空海の宗教修行者のイメージが強調された理由はここあったのではないかと考えられます。

伊予親王は空海留学のパトロンの一人と考えられますが、桓武天皇の遷化の後、807(大同2)年11月に母の藤原吉子と共に服毒自殺をしています。藤原宗成のクーデター発覚事件に巻き添えをくったものと考えられますが、兄の安殿親王(平城天皇)が競争相手を潰す画策をしたものと考えられます。平城天皇には、「薬子の変(平城太上天皇の変)」という後日譚があります。皇位継承を巡る謀略によって死に追い込まれた早良親王と伊予親王の怨霊から逃れるために嵯峨天皇に譲位した平城天皇でしたが、上皇になっても天皇の王権を握って離さず分掌したこと、大同5(810)年に皇位の復位を画策したことで二所朝廷の弊害が発生しました。平城の寵愛を受けた内侍・藤原薬子(正三位・式家)が首謀者となって天皇復位の陰謀を企てますが、嵯峨天皇側は先手をとってこれを制圧しました。平城は出家・剃髪し、薬子は服毒自殺、兄の藤原仲成は左遷、射殺となり、多くの人々が連座しています。

空海が大学を中退(20歳頃)して私度僧になったことは、『性霊集』に「二十歳前に吉野から高野の地に入った」と述べられていること、空海24歳の延暦16年窮月(12月)始(1)日に著した『聾瞽指帰』の内容から私度僧として市井や山林修行を行っていたことが分かります。『聾瞽指帰』は、儒教、道教、仏教、いわゆの三教の比較論を論じて仏道を志す意思表明に変えたものだと考えられていますが、これは中退後、4年も経過していたことから、今更の感があり不自然と考えられます。空海が『聾瞽指帰』を書いた本当の理由はなんであろうか疑問がわきます。ちなみに、縦簾紙に清書された『聾瞽指帰』には、その元になった草稿本があったと考えられています。

『聾瞽指帰』は、四六駢儷体で書かれ、王羲之の書風の影響が見える書の技能、また、文書構成力や戯曲風の物語の展開が優れたものであったと評価される内容でした。この書が誰に向けられて書かれたものか、空海は誰に自分というものを評価してほしかったのか、空海は何も語っていません。ここには、密教に対する記述が何もないところから、この頃の空海は唐への留学の具体的な意識を持っていなかったと考えられます。後に、これを手直して改題しなければならなかった事情とは何か。何らかの必然性があったことは事実です。

ところが空海は延暦16年臘月(12月)1日付けの改訂版『三教指帰』を著しています。その序文には「虚空蔵(菩薩)求聞持法」を阿波の大滝嶽や土佐の室戸岬で修法したことの言及が記述されているところから、明星来影の密教的体験をして、密教的感性や能力が決定的に飛躍したことを誰かに認めさせようと考えた行動であったことが分かります。久米寺で大日経に出会い、密教の深淵に触れて、サンスクリット語(梵字・悉曇)の難問を解決すべく南都諸大寺の僧に何度も尋ね回ったと思われますが、空海の求める回答を出せる僧が皆無であったと考えられます。そこで、これを理解するには中国に行くしかないと思い定めたと考えられます。

空海の留学の気持ちが明確になったのは『聾瞽指帰』の改訂版として『三教指帰』を著そうとした直前であったと考えられます。そこに留学の可能性が見えてきた展望があって、延暦16年12月に空海が留学を決意した必然性の高い出来事があったと考えられます。そこで、序文に仏教修行者としての到達レベルを書き加え 、巻末の「十韻の詩」を入れ替え、本文の文章や用語の間違いを徹底的に訂正して、空海の漢文素養が格段に高いレベルアップを果たしたことを誰かに認めさせる意図があったものと考えられます。『聾瞽指帰』と『三教指帰』が書かれた日付けの表現方法が替えられていますが同年同月同日の日付です。日付を替えられない何らかの事情があったものと考えられます。

『続日本後紀』の“空海崩伝”に略伝があります。この理由を考える上での重要な手がかりとなる記述があります。この書は空海が入定して34年後の成立ですが、この内容はほとんど『三教指帰』の序文にもとづいたもので、“求聞持法の修法”と“明星の来影”で終わり、空海が勅命によって執筆した『十住心論』や『秘蔵宝鑰』などの真言密教の主要著書には全く触れられていません。これを考えれば、この元となる『三教指帰』か、あるいはこれに関する書類が朝廷の役所に保管されていたことになります。考えられることは、空海がこの書を朝廷の役所に提出したからだということになります。やはり、遣唐使船に乗船できる留学僧に選任されるために『聾瞽指帰』を短期間で改定し、空海の仏教修行者としての到達レベルを誰かに理解させるために、空海の人物像を際立たせる内容の『三教指帰』を作成して提出する必要があったものと考えられます。それゆえに、作成日付が同年同月同日を意味する異なった期日表現になったものと考えられます。

これらは、無名の青年であった空海が独力で手に入れられるチャンスではなく、強力なサポータの存在があって、尋常でない支援を受けた結果、三つの困難な条件を完全クリアして遣唐大使第一船に同乗が許されたと考えられます。空白の7年の中に「山岳修行」と「南都諸大寺での密教文献の研鑽」の期間があったことは、空海の密教を学ぶ資質が一段と磨かれていた事実からも推定可能な範囲と考えられますが、空白の7年の全てをその期間に充てたということはとても不自然で考えられません。それであれば、そもそも空白の7年が発生する必然性がなく、空海はこの期間の具体的な事実関係を明らかにできたはずだと考えられます。この間の空海には、桓武の要請に応えなければならない特別なミッションがあったと考えられます。

従来の仮説の中に、空海の「空白の7年」は唐留学の費用の捻出のために「水銀鉱山の探査」に従事することで莫大な資金を捻出する効果が考えられるとする説がありますが、この説は当時水銀は高価であり寺社仏閣を荘厳する塗料「朱」に大量に使用されたことで、留学費用の捻出に効果があると考えられた仮説と考えられます。この説は、後の空海の社会事業の一端からヒントを得た仮説と考えられます。

山師の仕事は専門的な知識・経験が必要なところから、実績のない青年空海が簡単にできるものではなく、雲をつかむような仮説ではないかと考えられます。この説は、空海のように目的に向かって着実な手を打つ性格の人には蓋然性が低いところから、これに賭ける必然性はないものと考えられます。もし、空白の7年が水銀探査に使われていたのであれば、空海がいかに有能であろうとも、僥倖をつかむ可能性はほとんどなかったのではないかと考えられます。

同様に親しかった山師から資金提供を受けたのではないかとする説もありますが、実績のない青年私度僧にそこまで義理立てする必然性があったかどうかの合理的な説明にかけているところから、単なる餞別と混同する説ではないかと考えられます。

他方では、南都の諸寺院の有縁の僧からカンパを受けたのではないかという説がありますが、南都の僧のカンパで空海が持って行ったと考えられる換金性の高い金、または砂金の必要量がカンパで足りるとは考えられず、何よりも空海が特別扱いを受けられた僥倖に対する嫉妬の感情の方が強かったのではないかと考えられます。若干の餞別と混同する説ではないかと考えられます。餞別で受けた金額で20年の留学に必要な額をまかなえたなど到底考えられません。空海自身もそのようなことはあてにしていなかったと考えられます。

これらの説の欠点は、短期間で迅速に留学僧に選任され、すみやかに遣唐使の随行員に選ばれる保証がなく、その前提条件である南都の有力寺院の推薦枠を獲得して国立戒壇(東大寺)に入壇し、正式な僧侶(国家公務員)の資格を取得できた可能性が全く見えてきません。この条件は、いかに有能な空海であっても個人の能力だけでは難しいと考えられます。この説は、空海に必然的な僥倖をもたらす特別ミッションであったとは考えられません。