(33)-7日蓮仏教の研究⑦(日蓮の法華経の捉え方)

法華経は、釈迦が説いた経典ではなく、釈迦滅後500年後頃に中央アジアの諸菩薩によって編纂された大乗経典です。諸経の王を自己主張(『薬王菩薩本事品第24』)する特異性を持つ不思議な経典です。
この説は、天台宗や傍流の日蓮宗系によって力説されてきましたが、インドには法華経を最高とする思想はなく、法華経流布の痕跡もありません。
伝統的な僧の指導を受けない日蓮や今日の新興宗教が天台・伝教の高名を勝手放題に便利に使いまわして、日蓮の妄説を正当化に利用してきたこは非難に値するものと考えます。

法華信仰には特異な功徳信仰が指摘されています。
ここでは法華経の受持が信心そのものとして語られます。巷で有名な「折伏」と「広宣流布」はここからでた日蓮宗系衆徒の精神を束縛する独特な妄説です。

「如来寿量品第16」は釈迦の神格化を推し進めて久遠実成の仏とする観点を示し、天台宗や真言宗では、これを法身の大日如来を予言するものと考えました。
この立場では、法華経の久遠実成の釈迦如来はあるがままに実在する宇宙の法則そのものを当体とする「大日経」「金剛頂経」の大日如来(毘盧遮那仏)と同体と解釈しています。

日蓮は「如来寿量品第16」の文底に法華経の行者になりきった自身こそ末法の本仏であるとする妄想の根拠を見出しました。
日蓮宗系の一部に蔓延する『法華経』の「久遠実成の仏=日蓮」(日蓮本仏論)という構図は、仏身論としては論理性に欠ける主張です。

日蓮が如説修業によって本仏になったと主張するのであれば、釈迦仏教と異なる新たな宗教の教主であるといっていることと同じことです。
日蓮の主張は、釈迦の仏教を足下に位置づけることになるものであるところから、もはや仏教とは言えないことは自明の理です。釈迦の仏教を否定するものは仏教を名乗る資格がありません。

もし、日蓮が菩薩の修業を成し遂げて成仏した者と仮定したとしても、人身である日蓮は百歩譲っても応身如来でしかなく根本仏(法身如来=毘盧遮那仏=大日如来)と比肩したり同一視することは不可能であるといわなければなりません。この場合でも、釈迦仏と異なる応身仏であるところから、やはり仏教とはいえません。日蓮本仏論は妄想の論理と考えられます。

法華経は二処三会といって、教主・釈尊の説法の場所を霊鷲山、虚空会、霊鷲山と移して行われました。
インドに霊鷲山は実在していますが、この舞台は釈尊の胸中の世界を壮大なドラマ仕立てで展開するもので実在の世界のことではありません。釈迦の胸中を憶測し、脚色して展開された宗教ドラマです。

このドラマでは、釈尊が久遠の世界で教化したという地涌の菩薩を地中から出現させ、その上首の上行菩薩に法華経の広布を委ねるという筋書きのドラマが展開しますが、この上行菩薩こそ末法の本仏であり、日蓮がその再誕者であるというのが日蓮正宗と創価学会の特異性のある教義です。
また、末法の世で法華経を受持する日蓮正宗信徒や創価学会員こそ地涌の菩薩の再誕であると主張し、折伏行為は仏意仏勅であると公言しています。

このように、日蓮正宗と創価学会の本尊と菩薩には他宗と異なる特質があります。
日蓮以外の諸仏のすべてを否定し、地涌の菩薩(代表は上首の上行・無辺行・淨行・安立行の四菩薩)以外の諸菩薩を否定することです。

この教団は、特異な教義を振り回して自教団以外のすべての大乗仏教教団が謗法だとして誹謗中傷してきたので、教義的には大乗仏教の資格を喪失していると考えられます。
上座部仏教からも大乗仏教教団からも相手にもされない教団です。

ちなみに、この四菩薩は法華経の「従地涌出品第15」にしかでてこない無名の存在で他教団では何の対象にもされていません。
大乗仏教の四菩薩は「観音菩薩・弥勒菩薩・普賢菩薩・文殊菩薩」が一般的です。
特に顕教では普賢菩薩が菩薩の上首として扱われ、仏は「毘盧遮那如来・阿弥陀如来・釈迦如来・薬師如来」が有名です。
密教では大日如来(毘盧遮那仏)を中尊にするほか顕教の諸仏も本尊とします。密教の菩薩の上首は金剛手菩薩(金剛薩埵)ですが顕教の諸菩薩も信仰の対象となります。

この宗派と教団は、日蓮本仏論を立てたことによって、大乗仏教の特色である様々な諸仏・諸菩薩との整合性を失い、他宗派や他教団との協調性を喪失し共存することがで出来なくなりました。
同時に特異な教理や教義を先鋭化させたことによって、互換性のない用語を多数作り、他教団と共通の仏教用語で話すことができなくなりました。
日蓮本仏論の致命的な欠陥は仏身論の整合性を欠き、論理の普遍性が欠落したことです。
このような偏った信仰を持つ人物が世界平和運動を提唱しても精神的には誰からも相手にされないことは自明の理と言わなければなりません。

この教団は生き抜くために手作りの信徒を獲得して特異な教義を刷り込むほかなくなったと考えられます。
これを折伏とか広布といい、自らの信者獲得を広宣流布と呼ぶようになりました。オカルト宗教にはこのような論理性の矛盾が顕著に表れます。

新しく入信した信者は、他の教団との比較が自由に許されないまま、日常の活動の中で特異な法華経観が最高唯一の宗教だと刷り込まれることになります。
このような特異性に満ちた教義を振りかざして折伏(布教活動)行為に疑問を持たない人々の精神構造は一体どうなっているのでしょうか。
折伏の功徳が現世利益に特化されたことで折伏行為の結果が見えなくなっていると考えられます。

法華経の開経とされた『無量義経』は、釈迦が40年余り説いた法華経以外のすべての教説は方便の教えであること。ゆえに唯一究極の真理である法華経を説く、という法華経の優位性のプロパガンダに使われましたが、中国で作られた偽経です。(後述)

法華経の「序文」は、法華経が説かれた由来や因縁を述べる構成となっていますので「因縁文」ともいいます。
「正宗分」はいわゆる本論にあたる文です。法華経の教義・性格が明らかにされる本文です。
「流通文」は教義的な本論を受けて具体的な実践を説く部分です。

法華経の全体は「迹門」と「本門」に二分されます。
本門と迹門を比較して本門が優れているという立場が「優劣派」であり、優劣の差別をつけない立場を「一致派」といいます。
また、「迹門」と「本門」はそれぞれが同様に「序文」「正宗分」「流通文」に仕分けされるので法華経28品は「一経三段」で構成され、本迹の区分により「二門六段」に分けられています。

法華経の構成内容とその思想を概観しながら、天台大師と伝教大師の法華経の解釈と「日蓮の法華経」には相容れない本質的な相違点があることを指摘したいと思います。
同時に、日蓮の法華経がいかに大乗仏教の法華経の精神を歪めた異様な世界を作ってしまったのかを指摘したいと考えます。

法華経28品の前半分の安楽行品第十四までを迹門といいます。
迹門の内容は、釈尊が永遠の仏であるという実体を明らかにする(本門)以前の教えです。
声聞、縁覚、菩薩の三つはそれぞれに異なる階梯にあるものとして三つの道が説かれていましたが、これらは方便の教えであるとして法華経では一乗であることが明かされます。これを「開三顕一」または「法華一乗」といい、法華経が全てを包摂する経典(究極の経典)であるというプロパガンダに利用されました。

本門の内容は、仏の存在の永遠性を語り、伝道の困難に立ち向かう信仰の在り方と功徳が語られています。
しかし、法華経は理論的に記述された経文ではなく、大乗経典に共通する経典の受持の功徳による攘災招福を強調して信仰を奨励する特徴を持っています。

法華経の本門は従地涌出品第16~普賢菩薩勧発品第28までを言います。その内容は、釈尊(釈迦)が、インドに生誕して修業し初めて成仏したのではなく、実は遥かな過去世で成仏した永遠の仏であり、以来この世で人々を教化し続けてきた存在である事を明かす内容です。これを「開迹顕本」または「開近顕遠」といいます)
ここでは、法華経を受持するものは宣教の行為によって諸仏諸尊に守護され現世利益を受けられるとする功徳が語られます。

法華経の実践部分の中核を構成す部分が『観音経』と『普賢菩薩勧発品』」です。
法華経の菩薩の特徴は、法華経第23『薬王菩薩品』、第24『妙音菩薩品』、第25『観世音菩薩普門品』(観音経)に見て取れますが、いわゆる修行者としての菩薩ではなく、法華経信者の守護者の役割を持っていることです。
特に、観音経の「普賢菩薩」は法華経信者の守護を釈尊に誓う菩薩ですが、観音経は懺悔、滅罪によって利益が受けられる実践的な思想内容を語るところから法華経三部経(無量義経、法華経、観音経)全体の結経とされています。

しかし、日蓮信者は、自らが地涌菩薩であると妄想して、観音菩薩と普賢菩薩、妙音菩薩など大乗の菩薩や両経の精神をも否認しています。
観音菩薩と普賢菩薩を否認する日蓮信者が、何故に法華経を受持する者として、これらの菩薩から守護されなければならない必然性があるというのでしょうか。
日蓮信者が広めているのは、紛れもない日蓮の妄想から生まれた日蓮思想であって、大乗仏教の法華経ではありません。日蓮の思想は、天台、伝教の法華経の精神や思想とは本質的に異なる無縁のものです。

日蓮の思想が受け入れられたのは、法華経の持つ「現実肯定主義」と日蓮の持つ「現実改革の現世主義がもたらした宗教エネルギー」に対する共感にあると考えられています。しかし、これは、日蓮の表面的な評価に過ぎません。

日蓮思想は、他宗の祖師の思想とは根本的な違いがあります。①日蓮本仏論(本尊論)、②文底下種仏法、③国家諌暁にみる政治性、④徹底した他宗排斥などに明らかに見えますが、もっとも特異なことは⑤布教方法と⑥信者の育成方法にあると考えられます。
釈尊の真説は法華経以外にない、これが日蓮の出発点です。
日蓮は、鎌倉幕府に国家諌暁(『立正安国論』)を敢行し、諸宗の排斥を訴えて、妥協や迎合のない姿勢をかたくなに取り続けることによって幕府権力者の弾圧と迫害を望みました。
意図的に仕掛けて蒙った諸難でしたが、日蓮は、法華経の行者ゆえの法難と確信して、揺るぎない使命感(上行菩薩の再誕=末法の本仏)に燃えました。

主観的な妄想に過ぎない法難を法悦と捉えることは、客観的に観れば、幕府、権力者、諸宗の宗教的権威に宣戦布告し、自ら様々な反撃や攻撃を受けて、自ら傷つく宿命を背負う行為であったといわなければなりません。
諸宗から見れば、正気の沙汰とは思えない日蓮思想でも、日蓮の著作を学ぶ日蓮信者に強い共感を与えました。
日蓮が絞り出した言葉には、信者自らが日蓮に同意しないではいられない力があります。
日蓮の言葉(その実体は毒にまみれた呪文)を反芻し続けることで日蓮の言葉に憑依された信者は、自らを小日蓮に駆り立てる衝動にとらわれていきます。
初めは、日蓮思想を刷り込まれたうぶな日蓮信者は、自ら日蓮思想を学び続けることで小日蓮に憧れ、心の内なる正常な精神は日蓮思想に塗り換えられることで憑依のプロセスが完成します。

また、法華経は「法華文学」ともいわれ文学性の高い教典であるという人がいます。これにはしばしば「法華七譬」といわれる譬喩が挙げられています。
いわゆる①「三車火宅の譬(比喩品第三)」、②「長者窮子の譬(信解品第四)」、③「三草二木の譬(薬草喩品第五)」、④「化城宝処の譬(化城喩品第七)」、⑤「衣裏繋珠の譬(五百弟子授記品第八)」、⑥「髻中明珠の譬(安楽行品第十四)、⑦「良医治子の譬(如来寿量品第16)」がこれです。

これらの譬えが真に優れた文学性といえるのでしょうか。これらの譬えは現代的にいえばとてもリアリティがない譬え話でしかありません。
法華経の解説書は、法華経はありがたいものだという立場から無批判に書かれたものが多く、ここでは無前提に素晴らしい説話であると絶賛することが通例ですが、この評価は最高、唯一を主張する法華経の自画自賛の立場を容認するものではありません。

この譬え話は、法華経の素晴らしさを身近な題材に置き換えて人々に理解させるための寓話や神話で語る手法です。
寓話や神話は抽象的な事物の表現形式であり、これ自体が絶対的な評価基準を示すものではありません。これらは法華経が用いた単なる自画自賛の譬え話に過ぎません。