(3)十字軍と宗教改革

キリスト教会は、異端者を創りこれを極端に弾劾した暗黒の歴史を持っています。13~17世紀に吹き荒れた「魔女狩り」や「宗教裁判」、「異端審門」等がこれです。犠牲者は数百万人の単位です。 フランスの救国の女戦士となったオルレアンの救出者「ジャンヌダルク」は優れた戦績をあげましたが、「神の声のままにフランス王を擁立するために戦った」と語ったことが教会の逆鱗にふれ、見せしめのために魔女として火焙りの刑に処せられました。
一神教の特質から、その信者は唯一の神のみを信仰の対象とし、神の言葉といわれるものを受け入れる純粋性を強く持ちます。宗教的には多様な信仰や価値観を認めないので、独善的になりやすいという欠点があります。 キリスト教の立場では、正義は常にキリスト教やキリスト教徒側にあることになります。宗教上の対立は戦争に発展し、いつも悲惨な結末を招きました。 多くのキリスト教徒が、他宗教の信者を見下して異邦人として差別し、キリスト教の価値と独善的な正義を押しつけた歴史を持っています。
カトリックの教皇は、各国の王や皇帝の権威を破る力となった「破門権」を所持していました。 「教会の教えに背く者は地獄行き」という脅しが、教会が唯一の地上の救済機関であると信じられたカトリック社会においては「破門」が何よりの強烈な脅しとなりました。 イエス・キリストに託された天国の鍵を所持する唯一の者が教皇であると信じられたカトリック社会では、カトリックの信者は庶民から王侯貴族に至るまで破門を非常に恐れていました。
教会に破門されることは、天国への門が閉じられ、地獄行きが決定されると信じられたのです。 神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世は、頼みとするドイツ諸侯に叛旗を翻され、王位を失う瀬戸際に追いやられてローマ教皇グレゴリウス七世の破門宣告に屈しました。 1077年1月25日から3日間、北イタリアのカノッサ城に滞在する教皇に破門の解除を願って許しを乞う「カノッサの屈辱」は長くドイツのプロテスタントに語り継がれた屈辱の歴史となりました。
この事件は、北イタリアの勢力の拡大を狙った皇帝が司教の叙任権を勝手に行使したことを原因とする「叙任権闘争」でした。教皇が叙任権は教会にあるとして皇帝権の剥奪と破門を決定したことにより、皇帝が教皇に破門の許しを乞うほかなくなったのです。しかし、1085年に今度は勢力回復に成功した皇帝の軍勢がローマを囲み、教皇は逃れてサレルノで客死しました。 叙任権闘争は、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の間で長期間続きましたが、1122年、ドイツのヴォルムスで叙任権が教皇にあることを定める「ヴォルムス協約」によって終止符が打たれました。
カトリック教会の支配は人々の精神の拘束にまで及びました。地上の世界と地獄の中間に「煉獄」という存在を考え、信者をコントロールしたのです。 「煉獄」は天国に行く資格は無いが地獄に行くほどの悪人ではない者が行くところです。これらの人々はこの「煉獄」で厳しい責め苦を味わうことを背負わされました。実は、免罪符は、この煉獄から天獄に行ける切符なのです。
キリスト教徒は、十字軍を組織し「レコンキスタ(聖地エルサレムの奪回)」という身勝手な論理を弄してイスラム諸国を無差別に侵略し、悲惨な戦乱に巻き込みました。 十字軍の発端は、イスラム王朝(セルジューク朝)の侵略を受けた東ローマ帝国の皇帝アレクシオスⅠ世がローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請したことにありました。
ローマ教皇ウルバヌス2世は、これを政治的に利用することをもくろみ、教皇権(Paparacy)の権威を東方世界にも拡大させて多くの領土と財産を手中にする野心を抱きました。 1095年のクレルモン公会議で十字軍の遠征を提唱し、「乳と蜜の流れるカナン」の地を神のために武器をとって奪回させることを力説したと多数説では考えられています。
このとき、教皇ウルバヌスは「神がそれを望んでおられる」「異教徒を聖地から根絶やしにすることが、神の意志にかなうことであり、聖なる戦いである」と聖戦を保証したといわれています。 参加者には「免償(罪の償いの免除)」を与えることが宣言され、人々は“Dieu le veult(神の御心のままに)と応じました。 王侯貴族は教皇の呼びかけに応じる体裁をとりながら、本音ではイスラムの領土、富の収奪を望み、交易で盛えるビザンツ帝国への影響力の行使を望んだと見られています。
東ローマ帝国とは、ビザンチン帝国ともいい、395年にローマ帝国が東西に分割統治され、ギリシャを中心とする東方地域に建国された帝国です。首都はコンスタンチノープルでギリシャ文化を継承し1000年ほど繁栄しましたが、1453年にイスラム世界の覇者となったオスマントルコに滅亡させられました。(西ローマ帝国は脆弱で476年に滅亡しました。) キリスト教は、1054年にローマ・カトリック教会と東方正教会(ギリシャ正教会、ロシア正教会)に分裂し、相互に破門し合うという因縁の歴史を持っています。
キリスト教の聖地エルサレはイスラム教とユダヤ教の聖地でもあります。宗教戦争に解決の出口はありません。悲惨な結果が待ち受けています。 組織的な十字軍の回数は8回(1096~1270年に間欠的に続く)ですが、この他にも、諸侯が手勢を引き連れたり、庶民の混成群など雑多な十字軍がイスラム諸国を継続的に侵略、略奪、強盗、強姦などさまざまな蛮行を行いました。 中でも非キリスト教徒に対する蛮行は筆舌に尽くし難いものがあります。神の敵であるユダヤ人を何千人も虐殺し、財宝を得るために同じキリスト教徒の東ローマ帝国にも攻撃を行っています。
度重なる十字軍の遠征軍は、執拗に虐殺と略奪を繰り返し、たくさんの犠牲者と焦土をつくり続けましたが、聖地や占領地の継続的な支配は失敗しました。 遠征軍は疲弊し、士気が低下して厭戦気分が蔓延しました。長期間の遠征を支える戦費の調達に苦しむヨーロッパ諸国の人々の熱狂的な殉教精神も次第に薄れ沈静化していくのは致し方のないことです。 十字軍は、失意のうちに最後の拠点アツコンを失い、1291年にはイスラムの名将サラディンによって地中海に追い落とされ、十字軍は聖地から完全に一掃されました。
十字軍の遠征は、参戦したヨーロッパの貴族諸侯を疲弊させ、没落の道を歩ませることになりますが、これが封建制の崩壊と絶対王権の誕生につながりました。
他方では、教会が直接かかわり批判を浴びて宗教改革の発端となるまで諸国に蔓延した「免罪符」がありました。これは聖職者自身が神の権威を利用して錬金術師になった出来事で、宗教改革の嵐をヨーロッパに巻き起こすことになります。
免罪符とは 16世紀にカトリック教会が発行した「罪の償いを軽減する証明書」です。       正しくは『贖宥状』または『免償符』といいます。 ラテン語の“indulgentia”には免罪という意味はなく、洗礼後の「ゆるしを得たのちに課せられる罪の償いを軽減するもの」を意味します。

その初めは、十字軍の従軍者に対し贖宥を行って士気を鼓舞したものですが、従軍できない者は寄進をすることによりこれに代えました。 洗礼後の罪は、まず、『痛悔』で犯した罪を反省し、次に、『告解(告白)』により 司祭に罪を告白する、最後に、罪に見合う『償い』をする、という三段階の方法で 消滅すると考えられました。 中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという思想が 生まれました。贖宥の始まりです。

後に、メディチ家の出身、教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のために 全贖宥を公示し、効率のよい公益工事の推進の手段として、また教会の重要 な財源として、また、一方では簡易な蓄財手段として販売されました。 特に、ドイツが問題視されたのは、マクデブルク大司教のアルブレヒトが政治的に重要なポストであった選定候の資格を持つマインツ大司教位を手に入れようと野心を持ち、ローマ教皇庁から特別許可を得るため多額の献金をする調達手段として販売方法を組織的に考え、ハプスブルク家統治下のドイツで大々的に販売活動を行ったからです。

教会の荘厳には莫大な費用が必要です。この費用は結果的に質の高い芸術、美術 、絵画をつくるための人材の発掘と育成を継続的に促進することになりました。 これなくしては、、今日の文化遺産はなかったともいえるものです。実は、教会や有力貴族は職人や芸術家を育て、特別な美術品を発注する大パトロンの役目を十分に果たしていたのです。芸術家の競争原理を刺激し芸術を発展させました。 フィレンッエのメディチ家は史上最強のパトロンで数多くの世界遺産を今日に残しています。
1517年11月1日、聖アウグスチノ修道会のマルティン・ルターは、『贖宥状』を買うことで「煉獄の霊魂の罪の償いが行える」というドイツで販売された贖宥状の宣伝文句に疑問を感じ、その疑問となる点を『95カ条の論題』としてラテン語で書き、ヴィッテンベルグ大学の聖堂の扉に掲示しました。 「悔い改める」というキリスト教の基本行為が全く無視された販売行為が純粋に神学的な問題点と感じたのです。そのため、意見交換を呼びかけるために掲示したのですが、次第に、諸候の思惑によって政治問題化に発展することとなり、民衆をも巻き込む巨大な宗教改革の発端となりました。
カトリック教会は、ヨーロッパ中に広がった宗教改革の嵐を静めるために、その対抗策として、改革に着手し綱紀粛正を図りましたが、思うような効果が得えられない状況でトリエント公会議(1545-1563)の決議により免罪符を金銭で販売することが禁止されることになりました。