(33)-3日蓮仏教の研究③(日蓮の法華経解釈)

更に、勝劣派の中で特筆すべきは日蓮本仏論を主張する存在です。その代表格は日蓮正宗です。
この宗派では、身延「久遠寺」(一致派)の第二祖「日向」の流れを否定し、その他の派の血脈付法をすべて否定する立場です。

日蓮正宗は、巨大宗教団体・創価学会を育成しましたが、宗祖・日蓮、第二祖・日興、第三祖・日目と続く「血脈相承」を主張し、日蓮の唯一の正当な教団であることを主張し続けている宗派です。
この宗派は、日興、日目の特異性のある日蓮本仏論によって固められた教義を持つ宗派です。

日蓮正宗の教理の特徴は、(天台宗が極理とする)一念三千の法門は(釈迦の)一代聖教の中には但法華経であり、法華経の中には但だ本門寿量品、本門寿量品の中には但だ文底深秘(三重秘伝)のみであると主張するところにあります。

三重秘伝とは、日蓮正宗が持つ特異性のある教義「文底深秘」の根幹とする概念です。
日蓮の前述の著作『観心本尊抄』の「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但題目の五字なり」文、『開目抄』の「一念三千の法門は但法華経(一重)の本門寿量品(二重)の文の底に秘して(三重)しづめたまえり」にあります。これらの文から日蓮本仏論を導きだしたのは第二祖日興、第三祖日目の日蓮信奉論にありました。

この二名が、日蓮の他法門とは明らかに異なる日蓮正宗の性格を決定しました。時の政権から弾圧を受け、近年にはハリガネ宗の異名を付けられた要因はこの特異性を振りかざす独自路線を危険視されたからでしたが、この宗派ではこの事実を法難として信徒に刷り込み語り続けてきました。

日蓮宗の教理に「五重相対」があります。これは天台の教理①内外相対、②大小相対、③権実相対、④本迹相対に日蓮のテイスト⑤種脱相対を上乗せした論です。種脱相対の根拠は、『観心本尊抄』の文「彼は脱此れは種なり、彼は一品二半此れは但だ題目の五字なり」にあります。

この五重相対のうちの③権実相対、④本迹相対、⑤種脱相対が三重秘伝の理論的根拠とされおり、日蓮本仏論を導き出す根拠となる日蓮正宗の特異性のある教理です。

一品二半とは、如来寿量品第16、従地涌出品第15の後半分、分別功徳品第17の前半分をいいます。この宗派では、一品二半が法華経の中核であると主張して日蓮本仏論を宗派内の信徒に徹底し、同門のその他の日蓮系の多宗派の存在を否認し続けてきました。

この門流の本尊は、法華経と日蓮の名前(南無妙法蓮華教・日蓮)を本尊とするもので、このような形式の本尊は仏教教団に類例がない特異性のある仏身観であり、法華経の教主釈尊を否定する仏身観といえます。いわゆる非仏説ではないかとの疑いの目を向けられることは避けられません。

日蓮宗諸派の本尊は書写することができる権能者が定められています。達筆だからと言って代筆できません。また、誰でもが書写できるものではありません。
日蓮正宗では代々の血脈付法の法主(管長)だけが持つ特別な権能とされ宗内に絶対的な権力を行使してきました。
日蓮宗(身延)やその他の宗派では管長以外の高僧にも許されているようですが、特別な権能であることには変わりがなく、誰にでも許されるものではありません。

書写された本尊は、日蓮正宗では中央に「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」と書きその下に書写した法主(管長)の名前を著名しますが、日蓮宗(身延)では日蓮を書かず書写した者が署名しています。

日蓮宗では、次のどの本尊を日蓮宗の本尊に見做すかという未決着の議論がありますが、日蓮正宗には一種類の本尊しかありません。
①大曼荼羅    (「南無妙法蓮華経」の題目の周囲に諸尊の名を文字で書いたもの。)
②一尊四士    (釈迦如来と脇侍の四菩薩を文字で書いたもの。)
③一塔両尊四士 (宝塔を中心に釈迦如来、多宝如来、四菩薩を文字で書いたもの。)

法華経を依経にしているからと言って大乗仏教とは言えません。法華経の精神を正しく継承するものであるかどうかが問題なのです。法華経の読み方、法華経の精神の受け取り方が尋常でない、ということになれば大乗仏教の資格を失うことになることは道理です。この宗派にはこのような疑問に答えていく必要があると考えられます。

一念三千の法門は天台教学の中核をなす概念です。法華経方便品第二に説かれた十如是という諸法の実相が典拠です。相、性、体、力、作、因、縁、果、法、本末究竟の十如実相は究極において等しく存在するといいます。
しかし、この理は仏と仏のみが知りうる世界であり、声聞・縁覚・阿羅漢は難信難解であるといいます。

天台の教理では釈迦の精神を受け継ぎ、人も事物もすべては不変の実体がなく(空諦)、物事は原因によって様々な条件の中で生起したものと考え(仮諦)、人々を悟りに導くためにその縁起により救いに導く方便(手段)とする基礎理論が明確です。諸法の実相は三諦円融(空諦・仮諦・中諦)のバランスのとれた中道にあるとみることが天台の教理です。

法華経には、他の諸経典にない特異な自己主張があります。「薬王菩薩本事品第24」に、法華経は「一切如来が説いた諸経、菩薩たちが説いた諸経、声聞の阿羅漢たちが説いた諸経の法の中でもっとも勝れ、諸経の中で第一」と、自己賛辞し、自己評価している不思議なお経です。このような形式をとるお経は他に類例がありません。
法華経を「受持する者は一切衆生の第一」とも言っています。法華経を編纂した大乗の菩薩(不詳)は並外れた自己顕示欲の強い菩薩とみられます。何を狙いとして編纂したお経であるかが一目瞭然です。

法華経を第一とする天台宗の偏見は、法華経を究極の経典と自画自賛するプロパガンダです。この天台宗の我田引水の自己主張が法華信者の優越性を刺激して煽りつづけ、結果的に有害無用の対立軸を中国と日本で形成してきました。

天台宗が法華経を最高の経典と主張してきた根拠は、天台智顗の主張にあります。しかし、法華経はインドには布教の形跡が残らず、天台宗の発祥の地・中国では見る影もなく凋落して消滅同然の状態にあり、ただ日本でのみ諸宗から重要経典として学ばれている不思議な経典です。

法華経の要点を挙げれば、大乗の諸経典が声聞・縁覚(独覚)・菩薩の道を別々に説いた方便の教えであると主張し、法華経で釈尊の永遠の生命を明かして、声聞・縁覚(独覚)・菩薩の三乗は真実の一仏乗に帰一するとして法華一乗(開三顕一)を語り、法華経はすべてを包摂する究極の経典であるとするものです。

これによって、法華経が最高経典とする妄説が中国と日本で蔓延し世間に喧伝されたことで仏教界に不毛な争いを引き起こすことになります。この説は天台宗の僧の手によるプロパガンダでしたが、これが日蓮に引き継がれて日蓮のテイストが付加され、日蓮系のさまざまな新興宗教に引き継がれてきたのです。

最高だとか、至高だとかいう比較第一の最上級をいう場合には、比較基準を明確にして釈迦の精神を継承する全経典の教理の判断基準と項目を縦と横に明確にして公平な評価をしなければなりません。
天台が比較した経典は、今日に伝承された全ての仏教経典の教理を公平に網羅したものではなく、客観性も妥当性もありません。

仏教の本場インドには、今日に知られている発掘寺院にも法華経の流布の形跡が無く、法華経を最高経典とする説は存在しません。
この説は中国の一部の勢力でしかない天台宗が作った説に過ぎないものです。天台智顗の思い込みを最澄が受け入れて日本に直輸入したものです。

法華経の『従地涌出品第15』には、弥勒菩薩の問いに答える形で、世尊(釈迦)が久遠の過去世に成仏をして教導してきた無数の弟子がいることを明かし、この地涌の諸菩薩が上行菩薩らの四菩薩を上首として法華経を宣教する為に地下から涌出するという記述があります。

仏の命の永遠性を示して本仏の姿を表すことを「開迹顕本」、「開近顕遠」といい、釈尊の悟りの永遠性を表しています。
この要点は、釈迦はすでに前世で悟りを開いた仏であることを強調し、釈迦をこの世に生まれた人間で、この世の修行によって悟りを開いたと考える固定観念を否定し、時間と空間を超越した世界観を仮象することによって、伝えたい「法の精神とは何か」を示そうとしています。
しかし、日蓮の法華経の解釈は、法華経に書かれた一字一句を真実の世界と受け止める解釈をしました。

ちなみに、この宗派では、日蓮を虚空会の霊山に出現した地涌菩薩の上首である上行菩薩(久遠本法の所持者)の再誕者であると主張し、上行菩薩に結要付属をした後の釈尊は末法の化導に何らの具体的な関係がないから、末法の一切の弘教は上行菩薩の権能の中にあるという空虚な主張をしています。

日蓮の世界では、ブッダの永遠性(法の精神世界)を説明するために用いられた手法としての方便(釈迦の胸中をイメージした世界=仮象世界の譬え話)が真実の出来事と受け止められて、現実世界の化導のすべての価値判断の基準にされるという驚愕する価値転換の論理が無造作に行われています。

上行菩薩は、釈迦が法華経を説く中で釈迦の胸中の方便上の仮象空間(いわゆる劇中の劇)に突如として登場させた菩薩です。端的に言えば、法華経の精神を布教するリーダーとして布教の役割を期待された菩薩であり、仮象空間にイメージされた菩薩です。

また、地涌の菩薩は法華経の精神をイメージ上の娑婆世界に布教する仮象の群像であり、信仰の対象とされる具体的な一人称の固有名詞を持つ菩薩ではありません。いわば、名もない無数の布教者(庶民)に仮託された抽象的な人々の群像です。ゆえに独自性のある誓願内容や固有の働きが賛嘆され信仰の対象とならない抽象的な菩薩です。

そもそも、このドラマは釈尊の胸中を効果的に演出するための法華経の仮象空間のフィクションに過ぎず、現実世界の法華経の精神の弘教は現実世界の具体的な存在である無数の名もない衆生の手によって行われることを述べたものと解すできものです。
どんなに優れた法門でも自然に人々に受け入れられ広まるということはありません。必ず人の口や手によって人々に浸透して広まるものです。
地涌の菩薩は固有の人を指すものではなく、法華経の精神を流布する名もなき人々を抽象化したものですが、(複数の)法華経編纂者はこのような人々を讃えて地涌の菩薩と表現したものと考えられます。

一般的に、菩薩(bodhisattva、または、bodhisatta)は「成仏を目的として修業する人」ですが、それぞれに誓願内容を定めています。その誓願内容が人々を救済するさまざまな内容を持つことから多くの人々から信仰の対象とされ、諸尊として信仰されてきたのです。

大乗の菩薩の誓願は、衆生救済の内容を具体的な行動目的とするもので阿弥陀如来(修業中は法蔵菩薩)の48願、薬師如来の12願が有名です。菩薩の誓願は衆生から見れば有難い功徳や効能として受け取られるもので、衆生は救済を受けたい内容によって仏・菩薩に対する信仰態度を決めることになります。
衆生は菩薩の誓願内容の違いによって本尊の選択をすることになり、信仰する仏・菩薩の関係性が明らかになるものです。

地涌の菩薩のリーダは上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩という(法華経の)四菩薩ですが、この菩薩は法華経の流布以外の誓願内容や働きが何も述べられていないところから、固有名詞を持つ菩薩とは見做されない不思議な菩薩です。

地涌の菩薩は信仰の対象にされる菩薩ではなく、抽象的で数えきれない無数の人々の抽象名詞として法華経流布の役割を与えられた菩薩で具体的な存在観はありません。現代的解釈では、法華経の流布に係わる人々は皆な地涌の菩薩といえます。

しかしながら、法華経の解釈に「日蓮本仏論」「文底下種仏法論」を強引に混入させた布教を目的とする日蓮信者が自らを地涌の菩薩になぞらえることは危険な妄言であると考えられます。

この宗派の問題点は、日蓮思想に憑依された信者に刷り込んだ教義が、信者の口から世間にまことしやかに様々に語られたことによって、人々に不安を与えていることです。
日蓮思想に憑依された信者は、刷り込まれた教義に疑問を持つことがありません。法華経の解釈に日蓮思想を強引に混入させ、組織的な布教活動させたことによって法華経の精神を毀損してきたといわなければなりません。