(33)-2日蓮仏教の研究②(日蓮の法華経)

日蓮は、釈迦の出生の本懐が法華経であると信じ、法華経だけが釈尊の真実の教えであると主張して他宗を謗法とする「立正安国論」を著わし鎌倉幕府に訴えました。
この論旨は、当時、うちつづく天変地妖は既存の宗教の弊害であるとするものでした。その概要は、天皇や幕府が禅や念仏への帰依を直ちに悔い改めて法華経に帰依しなければ、内乱を誘発し、他国の侵略を受けるというものでした。
しかし、あまりにも奇想天外で理解不能の内容であったことから幕府から忌避され無視され、他宗徒の危害を受けて二度の流罪(伊豆と佐渡)に処されました。

日蓮正宗では、法華経の勧持品第13の預言(後述)を身をもって体験した日蓮は、伊豆の流罪で「法華経の行者」であることを確信し、佐渡の流罪で「上行菩薩の再誕」であることを確信したと信者に刷り込んできました。
この教義は第二祖「日興」、第三祖「日目」の妄信によって固められた「日蓮の真意」の特異性のある独善の解釈です。

日蓮の2度の流罪は、日蓮が法華経の行者に成りきろうとして、自ら望み積極的に他宗批判を仕掛けて対立を尖鋭化させ多数の権力者や他宗の信者を憤慨させた結果の反映であったと考えられます。日蓮が自ら意図して招いた結果であり当然の報いであったと考える見解に妥当性があります。

日蓮は比叡山・天台宗の僧侶とみなされていたので、他宗でもしばらくの間は様子見をし慎重な対応をして天台宗の庇護がないことを見極めたと考えられます。

日蓮は12才で安房・清澄寺(天台宗)に入山し、16才頃、道善房を師として出家得度(是聖房連長とう僧名)しましたが、師の道善房が熱心な念仏者であったことから下山し、新たな境地を求めて10年間の遊学の旅に出たといわれています。
日蓮は17才頃、虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と祈り続けたところ、虚空蔵菩薩が眼前に高僧となって現われ、明星のような智慧の大宝珠を授けられたと伝承されています。

実は先人の「空海」にも同じようなエピソードがあります。空海(当時の名前は「佐伯真魚」18~19才頃と推定)は、強靭な肉体と強い精神力が求められる過酷な密教の修法「虚空蔵求聞持法」を土佐・室戸岬で行っている時、口の中に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んでくるという仏と一体化する神秘体験をしたと伝承されています。

両人には、仏教の受け取り方や考え方、修行方法に明らかな違いがありますが、虚空蔵菩薩を対象として、これを機に新たな境地を開いていくという通過点が似かよっています。日蓮のこのエピソードは偶然でしょうか。

日蓮系の宗派の特徴は、法華経至上主義の日蓮の妄執から生まれた教条的な教義を受け継いだ弟子たちの「日蓮の真意」の受け取り方の相違により分裂を繰り返したことにあります。
祖師の教義の解釈でこれほどに激しい分裂を繰り返した教団は他に類例がありません。

日蓮滅後に高弟の六老僧の四人(日昭・日郎・日興・日向)と大檀越から出家した日常(富木常忍)が教義の解釈で譲ることのできない内部抗争と対立を繰り返し、それぞれが正当性を主張して分裂し独立しました。
この流れは何代もの弟子に受け継がれ、日蓮宗各派は新興宗教も含め日本で最も激しい分裂を繰り返した宗教団体という特徴を持っていますが、いずれの教団も熱心に信者の獲得を実行しています。

日蓮宗(身延)は、日蓮の墓所を擁し総本山の意識がありましたが実態はそうともいえず各門流は互いに鎬を削っていました。
江戸時代に至り、幕府の擁護の下で他の門流との政治的な派閥抗争に勝利したのは身延門流でした。
身延門流は、釈迦如来を本尊とする穏健な本迹一致派の立場が幕府に認められ日蓮門流の統括を許されました。明治維新で一時中断しましたが、昭和の戦時体制下で復活しました。
しかし、昭和20年の終戦後に信教の自由の下に各門流が独立し、この中から更に分裂を起こし、巨大な新興宗教団体が誕生しました。

日蓮の法華経(教説)の読み方、受け取り方は天台・伝教の両大師とは明らかに違う異質な特異性があります。
日蓮は、法華経の一字一句を仏と見做し、法華経の文句のすべてが真実と受け取りました。
日蓮の法華経の解釈の特質は、文章の前後や全体の文意を解釈するのではなく、文言を都合のいいように切り取って使い廻すという手法が随所にみられることです。
日蓮自身が末法の法華経の行者であり、日蓮こそが本仏であるとするプロパガンダに利用しました。

この日蓮本仏論は、日蓮に憑依された弟子や信徒に700年も継承されてきた不思議な解釈論ですが、この思想は釈迦仏教及びその精神を継承する大乗仏教とは全く相いれない内容を持つところから、仏教とは認められない思想と考えられます。

日蓮の行跡から判断すれば、日蓮は師僧の指導を受ける伝統的な仏教僧のあるべき姿に欠けています。その生涯と言動は僧侶としての資質に欠けていたところから、日蓮教の始祖となった思想家といった方が適切です。
日蓮は、法華経に様々に説かれたドラマを自身にあてはめ、身を持って如説修行の行者になりきろうとする信念にこだわった激動の鎌倉時代の思想家でした。

日蓮の思想の出発点となった法華経の三大思想は比叡山をはじめ法華経を用いる各教団が共通に持つ概念であり、その内容は①一乗真実、②久遠実成、③菩薩行道というものですが、日蓮はこれに飽き足らず、日蓮本仏論を主張しました。これはもはや仏教とはいえず邪教となることは明らかです。
日蓮は法華経の精神に従順ではありませんでした。日蓮の数々の行跡からそのような精神は全く見えません。

一乗真実は二乗(声聞乗・縁覚乗)作仏を説き成仏の普遍性を説く思想ですが、久遠実成は時空間を超えた仏の存在と教えの永遠性を説くものです。インドに生まれた釈迦は、実は久遠元初にすでに仏身となったことを示し、仏の永遠性を強調するレトリック手法と考えられるものです。

菩薩行道は一般的には社会事業(橋をかけ、道を作り、治療所を設け、貧しい人々に食料を与え、住居を与えるなど)やボランティア活動をいいますが、日蓮は一切の衆生は菩薩になる可能性があり、法華経を弘通することが無上の菩薩行であると解釈しました。
これが日蓮が考えた特異な法華経の世界です。日蓮の菩薩道は法華経の弘通に狭小化して特化するものでした。他宗の宗祖と比較すればその異質性は突出したものがあります。

日蓮は他の宗祖には見られない特異な思想(日蓮本仏論)に固執しました。日蓮自身が釈迦から法華経の弘通を付属された上行菩薩の再誕だと主張したのです。大乗仏教の精神を受け継ぐ真っ当な僧侶の身であればとても世間に向かって宣言できる内容ではありません。

ちなみに、上行菩薩は法華経の虚空会という釈迦の胸中にイメージされた架空の世界観の中にしか出てこない地涌菩薩の上首ですが、法華経を常用教典とする他宗派では地涌菩薩・上行菩薩の役割や権能を重要なものとして取り上げることがなく、法華経の殿堂・比叡山は日蓮思想を弾圧した歴史的事実があることから考えれば評価の対象にしていないことは確実です。
一般的にいえば、大乗経典の無数の菩薩の上首といえるのは「普賢菩薩」です。普賢菩薩は幾多の大乗経典に登場していますが、特に、華厳経の「普賢行願讃」が評価されています。

日蓮が常人と隔絶していることは、自身が法華経が予言する末法の本仏であるとの自覚(妄想)を育てたことです。日蓮は、鎌倉幕府や権力者から相手にされず無視されたことで、釈迦滅後に法華経を広める行者は様々な迫害を受け忍耐の道を歩むことを予言した『法華経』の「勧持品第13」の「殉教の誓い」を果たした者は日蓮だけだと主張する必然性に迫られたと考えられます。

そこで、日蓮は法華経を身で読んだ故に死をも恐れず迫害を受けたという事実関係を信者に示めさねばならない必然性から、あえて当時の権威者たちに挑発行為を繰り返すことで諸難を招いたのではないかと考えられます。
これを実行すれば必ず弾圧や迫害、場合によっては死罪となることが十分に予測できる状況の中で、あえて実行したということは、これによって引き起こされる全ての結果を受け入れる覚悟をした証であり、日蓮は確信犯であったと考えられます。

日蓮は、法華経の行者である日蓮の法華経だけが正しく、他宗は全て誹謗であるから禁止せよと幕府に執拗に迫ったことで、幕府から無視され、忌避されましたが、これは当然のことでした。
日蓮の思い込みは尋常ではなく、その数々の言動はパラノイヤーの所業であると考える鎌倉幕府の見解は一般的な評価であったと考えられます。

戦後に、創価学会や立正佼成会その他の新興宗教の活躍で多くの信者を入信させ獲得したからといって、事実関係を望むとおりに根本的な評価換えをすることは不可能です。
今、これらの宗教団体は信者数の数の力を頼りとして、日蓮の行跡を本仏の行いであると正当化し、再評価することによって事実関係を意図する方向に持っていこうとしていることが著作物の氾濫やネット上の書き込みなどに顕著に表れています。
祖師を高く評価し、祖師の行跡をことごとく美化したいと考えることは信徒の在り方としては当然とも考えられますが、事実関係の評価は信者数の力では変えらないこともまた当然です。

法華経は特徴的な大乗思想を持っていますが、それでも膨大な大乗経典群の一つの経典に過ぎません。法華経だけを学んでも大乗仏教を網羅した思想を理解したことにはなりません。
重要なことは、日蓮の法華経の理解は異常な世界を形成しているということです。日蓮が体系的に大乗仏教を学ばなかったと考えられる理由の一つです。日蓮は独学で法華経を学び、独自の世界を形成したものと考えられます。
仏教学者がこれを指摘しないのは、勢力を持つ宗派の祖師を誹謗中傷したと受け取られて蒙るであろう様々なリスクを回避する大人の対応をしているものと考えられます。

日蓮は『開目抄』(人本尊開顕の書)に「我、日本の柱とならむ」「我、日本の眼目とならむ」「我、日本の大船とならむ」と宣言し、自身が本仏の特性である主師親の三徳を備えた末法の本仏であると宣言しました。

ところが、日蓮の高弟たちは日蓮の真意が掴みきれず、各自が理解できる範囲内で理想とする日蓮像を作り上げるという受け取り方をすることになったと考えられます。例えば、身延派は「大菩薩」と考え、富士派は「久遠元初の自受用身如来」と考えています。

とりわけ、末法思想を重く受け止めた日蓮は「本門の題目論」「本門の本尊論」「本門の戒壇論」(三大秘法)というひときわ異彩を放つ教理を立てました。

久遠実成の釈迦如来(本仏)とは日蓮のことである。法華経を身読した日蓮以外にいるわけがない、と日蓮は前代未聞の宣言をしました。
信者の敬愛する気持ちが昂ぶり宗祖を仏として敬うことはありますが、僧の身でありながら自身を末法の本仏と宣言すれば、一般的には精神異常と見做されます。

久遠実成の釈迦如来とは、久遠の元初にすでに悟りを開いた仏(本仏)ですが、この説では、釈迦は久遠元初仏の法によって現世で悟りを開いた始成正覚の仏と位置付ける説です。
日蓮本仏論を極理として継承する日蓮正宗や創価学会には日蓮本仏論を実現するために折伏活動を展開してきたことで数々の社会問題を提起してきました。
結果として多くの信者を獲得しましたが、だからといって信者となった人々が日蓮の特異な教理を理解して入信したとは考えられませんが、徐々に教義を刷り込まれることになります。
また、この日蓮本仏論は、法華経の殿堂・比叡山が驚愕する妄説です。

日蓮の教団が一致団結できず大分裂を繰り返してきた原因は、「日蓮の存在をどう見るか」、「法華経の受けとめ方、宣教の方法(摂受か折伏か)などの問題」の相違によるものです。
それぞれが妥協できない諸事情を抱えて分裂を繰り返しましたが、基本的な相違点は法華経の前半14品(迹門)と後半の14品(本門)の価値が同一と見る立場(一致派)と優劣が明らかであるとする立場(勝劣派)の違いにあります。
勝劣派の中で特に異彩を放っているのは日蓮本仏論と文底下種仏法論という極論を主張する興門派の存在です。
また、この分裂が結果として危機意識を潜在化させたことで、教勢拡大競争の強烈な動機付けになって布教意欲を増進させたと考えられています。