(32)鎌倉新仏教(祖師仏教)の登場

平安末期から日本独特の「末法思想」が急速に広まり、仏教界は混乱に陥りました。 鎌倉時代には、広がる社会不安を背景にした終末の厭世観が末法思想と同化して人々に流布されて広まり、人々を混乱に陥れました。 末法思想は、比叡山の中で生まれた特異な思想ですが、比叡山の中で育った僧によって流布された最大の風評被害でした。この中で、人々が求める民衆救済の時代の要請に答える形で、新たな思想と気風を持った日本独特の新仏教が誕生し民衆の中に急速に広がりました。

鎌倉時代は、比叡山から出てきた新宗教の祖師が、それぞれ特異性のある意図を持って、様々な思想を蔓延させたパフォーマンスの時代でした。あたかも比叡山の僧によって捏造された「マッチポンフ劇場」の舞台裏を見てしまった哀れな観客の気分が伝わってくるようです。 末法思想とは、インド、中国、日本それぞれに異なる説がありますが、日本では1052年から末法の時代に突入したと見られました。 この時代の特徴は、武士が台頭し武力によって摂関政治による王侯貴族の既得権益を奪い、武士の世が台頭する特徴的な世相を反映する激動の社会でした。有力な大寺社が僧兵を抱えて武装するのはこの頃のことです。


この思想の特徴は、釈迦滅後の仏法の盛衰を特徴的な時代区分に仕分けて語るものです。 最初に用いたのは中国・南岳慧思(515~577)の「立誓願文」といわれますが、インドでは『大集経』に500年ごとの時代区分による説明があり、この説の典拠とされています。

これによれば、釈迦滅後500年は「解脱堅固」、次の500年は「禅定堅固」、同様に500年毎には「読誦多門堅固」、「多造寺堅固」となり2000年後に「闘争言訟・白法隠没」となる末法になって仏教は完全に廃れる、と云っています。日本では『扶桑略記』、『霊異記』、『愚管抄』などに記載があり、最澄・撰の『末法燈明記』なども同様の主旨を述べています。


末法思想は、中国、日本でも主として天台宗系の僧侶によって風評の流布がなされてきたという特徴があります。法華経を流布する社会環境を狙ったのではないかと考えられます。


この三時の思想は、釈迦滅後の千年間が「像法時代」次の千年が「正法時代」それぞれ釈迦仏教の真意が徐々にすたれ、2000年以降には「末法時代」になって仏教の正しい教えが無くなる世の中になり人々は救われない、というものです。

人々は奈落の底に落ちる思いを強く持ちました。 しかし、末法思想はいわゆる終末思想(この世の終わり)とは全く異なるものです。末法思想は釈迦の教えの有効性の問題でしたが、民衆は同時に終末思想をも関連づける連想をしたものと考えられています。 従って、この思想を重く受け止めた人々は、末法の世からなんとか救われたいと強く願ったのです。 このような時代背景の中で鎌倉新仏教が登場しました。


鎌倉時代の特徴は、仏教に期待されていた国家鎮護の役割が相対的に低くなり、個人の救済を主な役割とするようになったことです。修行の厳格な比叡山から出てきた僧が持った思想は、伝統的な比叡山の教理論を否定、もしくは、縛りを受けない「簡便化された教理論」でした。その共通認識は「信じる者は救われる」という一点にあります。この手法は、キリスト教の伝道に見られる特徴的な教法流布の仕方と軌を一にする手法と考えられます。 

法然、親鸞は「無阿弥陀仏」の六字の称名念仏を、日蓮は「南無妙法蓮華教」の七字の題目を唱えるだけで仏から救われると主張して、庶民の信者の獲得を行いました。鎌倉仏教の祖師が庶民を対象とする 仏教の大衆化という新たな社会状況が生まれ、仏教の教勢拡大は王侯貴族の庇護ばかりでなく、大衆の支持が深く関わるようになりました。


この末法思想は、その後の世の中の流れを知っている現代人から見れば、それほどまでに悲観的にならなくとも良いのではと考えますが、真実でなくとも、当時の人々はそのような流言飛語にすぐに乗せられやすい心理状況にあったのです。

ちなみに、この思想は真実ではありませんでしたが、このような特殊な社会状況の中で鎌倉新仏教(祖師仏教)が民衆の昂ぶる不安感の蔓延を契機として、次々に成立したことは事実です。

僧院では、この末法思想を言い訳にして修行が疎かになる風潮が随所に見られましたが、曹洞宗の道元は末法思想を批判し否定しています。


「禅宗」「念仏宗(浄土宗・浄土真宗)」「日蓮宗」は、日本独自の典型的な祖師仏教で鎌倉新仏教と呼ばれています。これらの宗祖は比叡山で学んだという共通点を持っています。

武士団を統率する幕府の庇護を受けた臨済宗・黄檗宗を除けば、民衆の中に布教され民衆の支持を得て成立した教団といえます。難解で手の届かないな仏教を「簡素で分かりやすい教義」にしたことが民衆に支持されたと考えられています。


なお、学校教育の現場で使用する歴史教科書に明らかに間違っている仏教認識がある事実に言及する必要があります。この点で、黒田俊雄著『王法と仏法』中世史の構図・P7)」は冷静にこの事実を指摘していると考えます。

黒田説が指摘するこの教科書に見られる定説は、顕密仏教(真言・天台および南都六宗)を「古代仏教」と呼んで中世仏教史の主役から降ろし、鎌倉新仏教(法然・親鸞・道元・日蓮など)を中世的な仏教、又は思想として扱うことにあります。


鎌倉新仏教が起こり顕密仏教が古い時代のものであるかの如く扱うのは仏教の基礎知識が欠落した明らかな事実誤認を示すものです。

顕密仏教こそが時代を通じて大乗仏教世界に多大の影響を与え、中世から今日までばかりでなく、今後も思想界をリードする仏教哲学を伝えて行くことは否定できない事実だと考えられます。


キリスト教やイスラム教の哲学が現代思想を持ってしても越えられないのと同様に、顕密仏教の思想を超えることは事実上では不可能と考えられます。これと同様なことが世界の歴史遺産となっている建築、絵画、美術工芸の世界や音楽の世界に数多く存在していることを私たちは知っています。


鎌倉新仏教の発芽は、顕密仏教の思想や哲学があったからこそなしえたことでしたが、鎌倉新仏教は自宗の独自性や布教の便宜性を競って教義の簡素化や単純化に努めた結果、民衆を信者にする布教活動に一定の成功を収めることができました。


その結果は、釈迦仏教の本質論を逸脱し、基本精神を大きく見失って、日本独自の祖師仏教を築きあげて釈迦仏教を著しく毀損してしまいました。末法思想の縛りが大きく影響したものではないかと考えられます。これは、大乗非仏説を惹起させた大きな原因の一つと考えられ、釈迦仏教の本質を大きく逸脱する教義を持ったからだと考えられています。


大乗哲学を代表する法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗は「四家大乗」として大乗仏教の発展に大きな貢献をしてきた実績があります。
密教は大乗仏教を統合する理念を示し、大乗仏教が目標とする「即身成仏」思想を集大成した実績があります。 今日でも、高野山や比叡山、東大寺や興福寺、薬師寺などの顕密寺院を除いて仏教を語ることは不可能です。


顕密仏教とは                                                                                                                  「顕」とは、「現われていること(文字により表現化されている)」⇒顕教                              ・南都六宗 ・天台法華 ・禅宗 ・浄土(真)宗 ・日蓮宗など                  「
密」とは、「隠れていること(本質的にものをみること)」                      (教義や修行方法が文字や言葉で表現されない秘密の教え)⇒密教                      ・真言密教 ・天台密教                                           顕教とは、「誓願によって出現した報身仏(阿弥陀如来、薬師如来など)」または、          「歴史的に存在した応身仏(釈迦如来)」の教えです。                        教えの相手の機根(知的レベル)に合わせて説法します(隋他意)。

密教とは、「宇宙の真実そのものを人格化した法身仏=大日如来」が説く教えです。           教えの相手の機根(知的レベル)に関係なく真実を語ります(隋自意)。             自己の探究(如実知自心)と悟りへの真実に生きる道の探究を目的とします。           密教は、インド仏教が生んだ最後の思想です。  

空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような記載があります。                       「顕薬払塵」(顕薬は塵を払い)、「真言開庫」(真言は庫を開く)                  顕教はものごとの塵を払い清め美しく見えるようにする働きをするようなものだが、           しかし、密教はものごとの本質の中に、直接に真理をみる、という違いがあります。  

 顕密仏教が王侯貴族の庇護を受けて来たことが受け入れられない事実であっても、鎌倉新仏教が現世的・世俗肯定的で親しみを感じた庶民に受け入れられたとしても、仏教には仏教の伝統的な(釈迦仏教の)判断基準があります。時代の要請を持ちだして、その時々に適当な評価基準を設定して決められる性質のものではありません。


一般的に、ほとんどの教科書的な表現は、仏教の内容を専門的に分析することなく、単に文化的に顕著に表われた潮流の側面や動きを捉えた評価になるので年代順の新旧感覚に重きが置かれる記述になる欠点があります。

もし、仏教の評価基準を無視して誰かの意見を参考にして決められるようなものであれば、それは正当な評価ではありません。仏教は、一過性の文化的側面では評価できない性質をもっています。


鎌倉新仏教が教勢を拡大できた時代は鎌倉末期から戦国時代と明治時代以降のことです。室町幕府、織田・豊臣政権下や江戸幕府の下では教勢拡大の活動は権力によって抑え込まれていました。権力者に宗教の関心が濃厚にあったからです。

全国規模の教勢拡大の活動は明治以降、特に昭和20年以降の戦後の信教の自由の下でのことでした。この時から新興教団の教義をチェックする機能が自動的に消滅しました。宗教は各人の自由に任されたのです。


特に、昭和20年代以降の戦後の新興宗教の乱立によって仏教の本質的な教義が歪められてきました。戦後に宗教の自由に目覚めた新興宗教団体が多数出現し、熱心に信者を手作りして囲い込む布教拡大の競争が行われるようになりました。

戦後の信教の保障の中で、信徒の数が教勢や宗旨の正当性を左右する指標に利用されるようになりました。まさに数は力なりです。戦国期の一向宗の興起以来の新たな社会問題が発生する温床が形成されました。


今日の仏教思想の混乱に拍車が懸ったのは、戦後に複数の在家信者中心の巨大新興宗教団体が出現して、言論の自由のもとに自教団に都合のいい教理を蔓延させ信者の獲得競争に狂奔したことにあると考えられます。

この奔流の中で仏教の基本精神は歪められ、矯正が不可能な非仏説が蔓延する社会状況が出来上がりました。仏教の精神を回復させることは容易ではありません。