(31)日本密教の特徴

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『大日経』は、正式名称を『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます。宇宙の真理を具現する法身仏である毘盧遮那如来(大日如来)が執金剛秘密主(金剛薩埵)の質問に対して答える形式をとっています。この経には仏の智慧(一切智々)を獲得するための根拠や三密(身・口・意)の構造が主体に説かれています。

大日経の中心は前述の三句の法門です。「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」ことを説きました。ありのままの自らの心を観察し「如実知自心」が仏の智慧の獲得にほかならないとして心を分析していきます。
また、毘盧遮那の慈悲を表す大悲胎蔵生曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)の描き方、灌頂や護摩の説明、印や真言の次第などが説かれています。

『金剛頂経』の正式な名称は『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(三巻)といいます。金剛頂とは大日如来の智徳を説明する語です。金剛は堅固不壊の金剛宝に喩え、頂はその智慧が最勝無上であることを意味します。
この経は、真言密教では「初会の金剛頂経」といい『真実摂経』といいます。

金剛頂経は、大日如来が一切義成就菩薩(釈迦)の質問に答える形式を取っています。大日如来が自らの如来性を語り、仏身を成就する修道法として「五相成身観」という瞑想法を説きます。
金剛界曼荼羅の詳細説明を説き、釈迦が如来になるために必要な方法や「即身成仏」の方法が説かれています。

『大日経』と『金剛頂経』は真言密教の根本教典で、両部の大経といわれています。

金剛頂経十八会の第六会が有名な『理趣経』です。正式名称を『大楽金剛不空真実三昧耶経般若波羅密多理趣品』といいますが、大日如来が金剛手菩薩(金剛薩埵)らの諸菩薩に一切諸法は本来は自性清浄であることを説きます。

このとき、「十七清浄句」をあげて一切の人間的欲望を肯定する大楽思想を語ります。この中に、性欲でさえ清浄な菩薩の位であるという、般若の智慧を通じた価値の転換が語られます。
ここでは欲望を単純に悪として否定せず、欲望を大楽思想の智慧を通じることによって、個人の欲望にとどめず、世の為人の為になる欲望に昇華させて価値転換を図る大胆な現実肯定を説いています。
現実的な欲望もそのまま絶対の世界(真如・仏)に裏付けられた真実であるから本質的には清浄であると見るのです。

尚、理趣経の主旨を曲解する教義を持ってしまったことで、「左道密教」の評価を受けて真言密教から否定された一つの宗派があります。これを「立川流真言宗」といいます。衆目の誤解を助長しかねない性欲にまつわる諸儀礼が密教の本旨を逸脱するものであると指弾されて否定されたのです。
この影響は、密教に今日まで続く計り知れないダメージを与えました。興味本位の世間の無責任な風評の流れを堰き止めることはできません。無知による誤解が新たな誤解を作り続けて無責任な風評がまことしやかにささやかれていることは事実です。
密教という語にそのような誤解を受ける響や要素があると受け取ったのでしょうか。

密教では本尊の多様化がありますが、その精神内容は「慈悲」と「智慧」という共通の要素で表されます。「大悲胎蔵生曼荼羅」は慈悲を、「金剛界曼荼羅」は智慧を表すものですが、この曼荼羅は全ての仏を集合させそれぞれの役割を合理的に位置づけ、密教の大日如来の悟りの世界観を可視的に表現したパンテオンを形成しています。

この両界曼荼羅は、法身仏・大日如来の自内証の真実の境界を示すものですが、思想面において特徴的な包摂性を示しています。すべての思想と対立することなく、暖かく包摂して仏教的パンテオンの中に適材適所の座を設けています。これは密教が持つ普遍的な思想性と包摂性を如実に示すものであり、象徴的な構図になっています。

大悲胎蔵生曼荼羅は、13のグループに414尊の仏菩薩等を配置していますが、中心部の中台八葉院の9尊は大日如来を中心に四如来四菩薩が囲む構図です。これを東の4院と西の4院の計8院(仏部)と南の3院(金剛部)と北の3院(蓮華部)が取り囲む構図になっています。

金剛界曼荼羅は、9グループの会に1461尊の仏菩薩等が配置されていますが、中心部の成身会は大日如来を中心に、東は阿閦如来、南は宝生如来、西は阿弥陀如来、北は不空成就如来(釈迦如来)の金剛界5仏などの37尊の他1061尊を配置する構図です。

ちなみに、五相成身観は、この37尊とそれぞれに入我我入した後に中尊の大日如来(毘盧遮那仏)と一体となり悟りを得る金剛界の瞑想法です。

法界のあらゆる存在は悉く因縁や縁起によるものであり、このような関係性の中に「法」の存在が認められます。
一切諸法は不生不滅の中道にあります。仏の境界は始めも終わりもない不滅・常住の「本不生」であり「本有常住」です。法(=仏)は大宇宙(大自然)の中に本来のあるべき姿のまま実在していると認識することになります。

密教では、付法の系譜が重要な意義を持ちます。密教では師弟関係がとても重要です。宗教体験そのものは、文字や言葉で表現できない境地のものです。神秘体験を正しく伝えるには、師となる阿闍梨の資質が重要であり、弟子である行者を的確に導くことができる深い宗教体験を持っていることが必要不可欠です。
阿闍梨が相伝した法灯が由緒正しいものであるか否かによって、弟子の宗教体験の中身が左右されるのは道理です。阿闍梨との出会いによって弟子の宗教体験の質が決まってしまうことは避けようがないと考えられます。
密教では、素質にすぐれ、正しい法脈を継承する阿闍梨との出会いの「縁」をことのほか重要視します。このため、阿闍梨は、素質を認める者しか弟子入りを許可することがありません。このような関係性からは、相伝は文字や言葉などの筆授で行わず、阿闍梨である師僧と弟子とが面授によって相伝することが基本形となりますが、これが密教の伝統的な「伝授」の在り方と考えられます。

密教の付法、その時期の選定、などはすべて大阿闍梨の判断に委ねられる性質のものです。修行そのものは、入門から「伝法灌頂」迄の準備期間としては長期にわたりますが、伝授自体は長期間を必要としません。宗門所定の「四度加行」を規定通りに修了して、総本山の認定試験(年1回)に合格することにより「伝法灌頂」という付法がなされています。「伝法灌頂」の入壇を許可され、諸儀礼を無事に通過した者は「伝燈阿闍梨」となることができます。

インド仏教は最終的に密教になりましたが、12世紀に完成した後期密教(タントラ密教)はインドからチベットに伝わりボン教などと習合してチベット密教に変質しました。
また、モンゴルにはチベット密教がもたらされ国教となりましたが、モンゴル人の覇権とともに中国やロシアに伝播されました。
しかし、インド密教はイスラム教徒に全部破壊され1203年には完全に消滅しました。

今のインド仏教は「バウッダ(仏教)」といわれヒンズー教の一派として吸収されたとみるのが日本の多数説です。ちなみに、インドではすべての宗教がインドの民族宗教であるヒンズー教の一派と見做される伝統を持っています。

インドには、世界的に有名なカースト制度(四つのヴァルナー)という階層間の差別があります。
しかし、本当の差別は同一カーストの中にあるジャーティ(世襲の職業が3000以上もある)の上下関係によって作られている、といわれています。
インドで問題になる差別はこの同一カースト内のジャーティの上下関係の差別なのです。
カーストの差別よりもジャーティ内の差別の方が耐え難い、といわれています。
インドは今でも職業選択の自由はありません。例えば、婚姻は同一ジャーティの中で行われています。
この差別から逃れるため、平等主義の仏教に改宗する人々が増加し、1000万人以上の新仏教徒が誕生している模様です。

現在の密教は、中期密教を深化させた日本密教(東密、台密)と後期密教を受け継いだチベット密教に集約されます。
後期密教の中心を形成したチベット密教は、中国政府の干渉を嫌ったダライラマ14世が1959年にインド亡命したことによってチベット本国を離れて亡命政府を樹立しました。これにより、新たな独立運動を世界に認知させなければならない受難の道を歩むことになりました。