(40)-2日本民族の形成過程を考える-②(古代諸王権の興亡を考える)

3世紀の後半に西日本を中心に規格化された前方後円墳が築かれるようになり、埋葬方法や副葬品に共通点が見られるようになりました。古墳は、ほぼ400年間、日本列島の広範囲に築造されましたが、奈良地方に前方後円墳の巨大古墳が集中し、4世紀半ばころには広域に広がっていたと考えられることから、この頃、広域に支配力を及ぼす政治勢力が誕生したのではないかと考えられ、これをヤマト政権と呼んでいます。この規格化された大型の墳墓は権力を見せるためのデモンストレーションであったと考えられ、西暦600年頃には築造されなくなったことから統一王権が出現して統一国家がほぼ出来上がったものと考えられます。

古墳の形状、規模、副葬品の内容から古代日本の政治勢力の存在などの国内事情を考える史観があります。縄文時代は屈葬(遺体の体を折り曲げて甕の中に入れて葬る)でしたが、弥生時代になると周溝墓(周りを溝で囲む)や、支石墓(埋葬地の上に大石を置く)が作られました。3世紀中頃~4世紀頃の古墳は円墳、方墳、前方後方墳、前方後円墳(地域色がない規格化された古墳)が丘陵や台地を利用して作られましたが、近畿、瀬戸内海沿岸を中心に分布しています。副葬品に銅鏡や玉が出土することから埋葬された人物は宗教的性格を有していたと考えれています。

畿内の巨大古墳の築造地が時代と共に移動している事実が指摘されています。3世紀中葉の箸墓古墳の大和南部⇒大和北部⇒大阪南部・河内(和泉)と移動しています。大和北部の移動は4世紀中葉~後半、河内は4世紀末頃と考えられますが、古墳の変化は築造の形状だけでなく、埋葬施設の構造、副葬品が大きな変化があります。王墓や最有力者の4世紀中葉頃までの古墳は長大な竪穴式石室と割竹形木簡の組み合わせでしたが、これに代わって短い幅広の竪穴式石室と長持形石棺をもつ構造の変化しています。また、地域首長の古墳には木棺を粘土で覆った粘土槨が普及しています。

5世紀に入るとその規模が大和北部を圧倒する巨大な大仙陵古墳(墳丘の長さが486メートル、仁徳天皇陵に比定)が現れました。築造地の移動や副葬品(威信財)の内容も三角縁神獣鏡や鏡などが激減し、朝鮮半島系の鉄製武器(帯金式短甲など)に変化していることから、威信財を配布する中心勢力が交代したのではないかと考えられるに至りました。河内勢力との強い結びつきを示す新興の古墳には大量の刀剣類や甲冑類が副葬されています。

三角縁神獣鏡の集積や再分配を主導したのは、大和盆地東南部の王権です。卓越する古墳の出土数や多量副葬の存在から、初期ヤマト政権と地域首長との政治的な連携を示す威信財であると考えらえます。帯金式短甲の生産や分配を主導した王権は南河内の古市・百舌鳥古墳群を残した政治権力と考えられますが、両社が同一の埋葬施設に共伴した古墳が発見されていないことから、三角縁神獣鏡と帯金式短甲は同一者(王権)が保有していたとは考えられません。古墳築造の構造の変化、副葬品(威信財)の変化は、河内の新興勢力(南九州から東遷した勢力)が各地の首長勢力を傘下にいれて近畿政権の主導権を握っていくプロセスを物語るものであると考えられます。

政治的な秩序を維持するためのシンボルと考えられる副葬品(威信財)を同一者の手で平和裏に取り換えることなど考えられないのです。有力者の古墳構造や副葬品は単なる葬送儀礼ではなく、それ自体が政治権力の大きさ、権力の正統性を対外的に刷り込む政治セレモニーであったと考えられるからです。

このことから、河内勢力と大和盆地の勢力が主導権争いを行い、鉄製武器の軍事力を持つ河内勢力が近畿の盟主権を簒奪したことが考えられます。中国華北の諸王朝から冊封を受け、これを権威の拠り所として出発した初期ヤマト政権は没落したものと考えられるところから、王権が平和裏に継承されたとは考えられません。

この説では築造地の移動は「権力中枢(王朝)の交代」、または「いくつかの勢力が連合して運営された同政権内の内部における主導権の移動」が考えられていますが、いずれも証拠に欠けています。しかし、葬送の考え方伝統は、同一氏族、同一民族間では保守的な傾向性を持つ特性があり、簡単には代えられないと考える立場では、威信財の変化は葬送の考え方が異なる氏族、民族の交代を意味するものと考えられます。奪った盟主権の下で政治的秩序を維持するためには統治のシンボル(威信財)を意図的に取り換えることで威信を示す必要性が考えられます。

ちなみに、6~7世紀になると、有力農民が「群集墳」といわれる小規模な古墳を作り始め、その数が飛躍的に増加していきましたが、大化の改新(クーデター)の翌年の646年に実施された「大化の薄葬令」により“民の負担を軽減する”という大義名分のもとに葬儀の簡略化と墓の規模縮小の締め付けが行われ、古墳時代は終焉しました。

近畿に統一王権を成立させた大和王権は、平安初期の記紀の編纂事業にあたり、有力氏族の「氏族の由来書」を提出させ、また、有力諸神社の「由来書」を提出させて焼却した事実があります。その理由は天皇氏族の出自を隠蔽する意図だと考えられますが、天皇に姓がない(姓を持たない国家元首は日本の天皇家しかない)理由もこれと関係があるのではないかと考えられます。

日本の古代史を紐解くには、記紀が神話の世界に追いやった(閉じ込めた)物語を読み解き、これらの関係性を探ることが考えられます。具体的には、「大国主」、「素戔嗚(スサノオ)」、「天照(アマテラス)」の関係性を読み解き、「アメノヒボコ(日本書紀では「天日槍」、古事記では「天之日矛」)、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」、「天孫降臨」、「神武東遷」の内容を時系列の出来事として読み解くことにより、これらの関係性から日本建国のプロセスの概要を可視化することだと考えます。また、これらと古代有力豪族(氏族国家)と、倭国、出雲、吉備、ヤマト、北陸(越)などの諸王族相互間の関係性を明らかにすることにより、何故に、記紀が天皇家の建国に先立つ先史を持つ諸王族(出雲、吉備、葛城、物部などの諸豪族)の歴史を神話の世界に閉じもめて不記載の態度を取ったのか、考えたいと思います。

記紀は、これらの諸王権の歴史を抹消したことで、この一定の歴史期間の穴埋めに架空の天皇を配置したのではないかと考えられています。特に、初代神武の存在が疑われ、第2代綏靖天皇から9代開花天皇まで、まっとうな事跡や実績がなく、不自然に長い在位期間の天皇が続いたことで存在を否定され「欠史8代」といわれていますが、更には15代応神天皇までは皇室の血統ではないとする説まであります。これは、天皇家がもっとも古い建国の歴史を持つ万世一系の統治者であるという世界観を作り上げる必要性から考えられたのではないかと考えられています。ちなみに、天皇家は世界最古の王室と言われています。

神話の中で、古い順からいえば、「大国主」と「スサノオ」が最古のものであるところから、まずはこの関係を読み解くことから始めたいと考えます。

記紀は、イザナギとイザナミの祖神がミアマテラスとスサノオ、そしてツキヨミ(「月夜見」または「月読」)の三姉弟(三貴神)を生み、高天原をアマテラスに、夜の世界をツキヨミに、海原をスサノオに、それぞれ統治を任せたという神話をつくりました。しかし、この三姉弟説には現実性が全く感じられず、8世紀の記紀編纂時に皇室の祖を神として尊崇させて支配の正当性を持たせたる為に創作したレトリックと考えられます。

ちなみに、スサノオには、異なる漢字表記があてはめられています。日本書紀は「素戔嗚尊」、古事記は「建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)」と表記し、他の史書には「神須佐能袁尊」「須佐乃袁尊」「須佐能乎命」などの数種類の表記がありますが、これは名前の発音が先行して語り継がれていたこと、これに後から漢字をあてはめたのではないかと考えられます。それぞれがスサノオの意味内容を表す漢字を選んで表記したものと考えられますが、古代の人名や神の名は日本語の古い言語とも思えず大きな疑問が残ります。中国語や朝鮮語とは異なる言語ではないかとも考えられ、本当は一体何語であろうかという強い疑いが消えません。

スサノオは牛頭天王と呼ばれ、京都祇園祭の総本山・八坂神社の主祭神です。日本書紀には「スサノオが五十猛神と共に新羅国のソシモリに降りた」と記述されていますが、朝鮮語のソシモリは日本語で「牛頭」という意味になるそうですが、その場所は「洛東江上流」や「多島海岸地帯」に比定されています。これは、スサノオが新羅を経由して日本列島に渡来した人であることを示唆するものです。日本列島から見れば新羅からの渡来人ということになります。

スサノオは全国多数の神社で祭神として尊崇されていますが、その評価の中心は建国の祖神としての存在です。伝承では葦原中国を統一した出雲の大国主(その出自が正体不明であるところからユダヤ系とする説がある人物)はスサノオの血縁のスセリ姫を娶って第6代の出雲王のなり、スサノオーの国造り事業を継承したと考えられていますが、スサノオの実体は縄文人ではなく渡来系弥生人と考えられます。現島根県の石見地方に上陸して物部王権を立てた物部の祖と考える説がありますが、この説ではユダヤに出自を持つのではないかと考えられています。スサノオーは出雲神族(原始出雲族=クナトの神に率いられた出雲神族)にすり寄って姻戚関係を築き出雲の仲間入り(出雲族)をしたと考える説があります。石見地方の「韓」や「辛」の名がつく地名の場所には必ずスサノオ伝説が伝承されていますが、出雲国風土記にはスサノオは須佐地方の一首長にすぎないとあります。

スサノオが出雲の祖とする説は、古代出雲王権の創始者、正当な支配者の祖とすることで、国津神として尊敬させようとする意図であったと考えられます。また、物部は出雲と共に近畿諸王権の連合体に参加し、纏向に祭祀連合体を形成した有力氏族と考えられ、ヤマト草創期に物部王権を建てたという説があります。

纏向祭祀連合の成立には吉備王権(岡山・瀬戸内海)が大きく関わっていると考えられます。吉備王権は、朝鮮南部から(もしくは経由して)敦賀に上陸したアメノヒボコ(天日槍)が現在の兵庫県・但馬地方を経由して吉備に至り建国した王国です。瀬戸内海の海上交通を支配下に入れ朝鮮半島南部地域との鉄の交易権の取得を目指したものと考えられますが、物部氏がその後裔であるところから物部王権でもあります。当時、 鉄の交易権の占有率は王権の存亡に関わる重大事であり、北部九州勢力(倭国)や日本海側の出雲勢力やヤマト勢力(古ヤマト)との既得権獲得の争いが、激しく展開したものと考えられますが、この鉄の交易圏の勝者が他の王権を圧倒する巨大王権を確立していくことになります。

出雲を国津神とするのは、4千年前頃、龍蛇族のクナトの神に率いられた人々(縄文人に比定されてきた)が日本列島に入り日本海側を南下して出雲に王権を樹立したという伝承を持つことから、先住民(縄文人)として尊敬うされ支配の正当性を認められていたと考えられます。原始の出雲の人々(出雲神族)の出自はどこにあるのでしょうか。これについてユダヤとの関係性を考える説があります。

天孫族が朝鮮半島から九州に渡来し、東遷して近畿で王権を形成するまでの中心的な王権の一つが出雲国であり、ゆえにヤマト王権から強引に「国譲り」させられ、政治の主役から引きずり降ろされたことが考えられます。ヤマト王権は近畿の諸王権をまとめて地固めを図り、出雲の対抗者であった物部王権を籠絡し、吉備王権(岡山、瀬戸内海)を調略して足場を固め、次に出雲王権に国譲りをさせて実権を奪い、倭国(北九州、瀬戸内海地方)を滅亡させて統一集権国家の実現を図ったと考えられます。

古代日本史を概観すれば、①6千年前頃中国南部からオオクヌヌシ(大国主)に代表される先住民(縄文系の出雲神族=クナト族、国津神)が出雲に渡来し王朝を建国していた。②そこに、2世紀の後半頃、朝鮮半島南部の新羅・加羅(伽耶)からスサノオ(天津神、弥生系)が渡来し征服して出雲王国を建国した。スサノオーは婚姻により習合して出雲王国を統治。次に吉備に侵攻する。大国主(出自不詳、西アジア系の渡来人の可能性がある)はスサノオの女婿になった。③新羅系渡来人・天日槍(アメノヒボコ)が気比(敦賀)に上陸し、出石を経由して吉備に侵攻し、スサノオと連合、融合して物部氏族を形成した。ここには、スサノオとアメノヒボコの両人と、新羅王を金氏に譲位した倭系の元新羅王・昔氏(譲位後の行方が不明)との関係性の有無に疑いが残る。④出雲からスサノオ、オオクニヌシの出雲神が、吉備からはスサノオ、アメノヒボコの物部氏族が纏向に進出して物部王権を樹立した。⑤この頃、北部九州では邪馬台国の卑弥呼が存在していた。⑥九州南部には遅れてきた百済系のアマテラス族が九州南部政権を樹立していた。遅れて渡来してきた⑥の勢力が近畿に東征して政権を奪取し統一政権を樹立したという概観が考えられます。最後の王権となった大和王権(百済系)は、実質的には千年の外戚となり、上層貴族を独占した藤原一族の「藤原王権」であったと考えられます。

神武は応神と同一の諱「ハツクニシメススメラミコト」を持つところから、記紀が皇室の正当性と統治の歴史を古く見せようとするために、同一人物の事跡を分割して作為的に記述したと考えられます。神武は崇神の事跡を振り分けて古く見せようとするレトリックと考えられ、記紀には、このように捏造された人物が多数登場させられています。第2代から第9代事跡のない存在で「欠史8代」と見られ、伝承されてきた神話伝説は架空の創作であり、マトタケル、聖徳太子、オオクニヌシ、吉備津彦、などは固有名詞ではなく複数の人物に振り分けられた普通名詞です。日本国の正史がこんなものでいいのかと情けなくなります。

記紀に書かれた事件、重要な出来事は、あるがままの事実関係を客観的に記述していることがなく、ほとんどの場合が意図的に脚色され都合のいい世界が作られています。あまりにも作為が多すぎて、何が史実なのか信頼性がありません。他の王権の存在や事跡を消し去った行為は、歴史の真実性を否定することであり、まさしく記紀の信頼性を毀損する行為であり、記紀の本命である皇室の尊崇でさえその正当な継承性を疑われているのです。

中大兄皇子と藤原不比等は、亡国の百済を救済するために、大軍を派遣して唐・新羅の連合国と戦い、663年の「白村江の戦い」で大敗して亡国の危機に瀕した事実があります。664年、唐は将軍「カクムソウ」の鎮軍2千人を筑紫都督府(大宰府=倭国首都=倭国は北九州王朝)に派遣し、倭国を管理下に置きました。670年新羅が唐と交戦し朝鮮統一の勢いを示したことで、唐は捕虜としていた前倭国王・薩野馬(サチヤマ)を帰国させ、倭国を新羅包囲網に加担させようとしましたが、前王にその力がなく、新羅優勢に推移する中で672年帰国してしまいました。中国の報復におびえ切った危機が奇跡的に救われたのです。

天智の近江朝でも671年天智が崩御して皇位継承問題が発生し672年「壬申の乱」が勃発しました。天武天皇(大海人皇子)が天智の長子・大友王子を自殺に追い込み、飛鳥で即位して、藤原京に遷都しました。天武は天智の弟とされていますが血縁関係はなく、母(皇極天皇=斉明天皇)が舒明天皇と再婚したので連れ子であったと考えられています。天武の近江朝追悼には統一新羅のお墨付きがあったという説もありますが、天武は九州・倭国(新羅系)を近畿に統合し、統一王朝「大和朝廷」が誕生したと考えられています。

天智は生前に大海人皇子をはばかり、娘4人を差し出しています。天智と天武が兄弟であればありえない婚姻です。天武の死後、天武の長子・大津皇子が謀反を捏造されて処刑され、藤原不比等の策謀で天智の長女が持統天皇に即位しています。ちなみに、天皇家の菩提寺は京都・泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)ですが、天武天皇の直系の位牌は全く祭祀されていません。天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇・皇后の位牌のみ安置されているところから、天智系の持統天皇(天武の皇后)や藤原不比等の政治的な意図によって天武系が排除されたものと考えられます。

大化の改新以降、天皇家の陵墓も「薄葬礼」(陵墓の簡略化により古墳文化が終焉する)に準拠して簡略化し、仏教思想を取り入れて仏式の葬儀が行われるようになりました。遺体の火葬が取り入れられ、初めて持統天皇が火葬され、以降の葬儀は仏教形式、遺体は火葬がスタンダード化しました。特に、淳和天皇は、倹約を旨として葬儀の簡略化をつとめ、死後に火葬し遺骨を山上から散骨することを指示した異例の天皇でした。淳和天皇は、倹約につとめて良官能吏を上級貴族に登用し、庶民の声を聴いて溜池を築くなど政治を非常に安定させた天皇でしたが、(桓武・嵯峨天皇以上に)空海をもっともよく理解した天皇と評されています。

古代日本史の研究には、多くの史家が中国史書や朝鮮史書、日本史書などから関係性を認めて参照している記述を拾い集めて再統合し、無理のない推理をも含めた合理的な判断や先行の研究結果を吟味しながら再構成する他ないという実態があります。しかし、これこそが、この問題の概要を見ることができる唯一の手法です。記紀の捏造の罪は重いのです。

日本各地の歴史遺跡、陵墓の発掘、特に明治時代に天皇家の陵墓として比定され抱え込まれた奈良・大阪の古代陵墓の発掘を次々に行わない限り歴史の事実は発見できません。 歴代の政府(主に宮内庁)は、天皇家の神聖を損なわせないという理由で天皇陵墓に指定した幾多の陵墓の発掘を拒否してきましたが、本当は歴史事実の何を隠そうとして国民の耳目を塞いできたのでしょうか。 国民目線からは見れば、1000年を超えた陵墓に「追悼施設」の適格性は無いと考えます。

学術研究の目的でさえ立ち入ることができない、天皇家の祭祀施設「陵墓」に国民の税金を投入してまでも神聖を捧げ続ける正当な理由はないと考えます。この問題には天皇の神聖性に立ち入る危険性がある故に、歴代の政府と国会は政治問題として扱えない性質のものでした。管理者である宮内庁は、その業務内容から判断すれば国民のために設置された国家機関ではなく、主権者である国民の為に行動する責任も義務もありません。 政府が責任を感じて日本民族と国家の形成過程の歴史事実を明らかにする努力をしない限り、日本の古代史の真実は闇の中に置かれたままです。

このままでは、外国(特に中国や韓国、北朝鮮など)から、日本は歴史を偽造する国という屈辱的な批判を受け続けるだけです。この問題を解決するために何をなすべきかは誰にでもわかる単純なものだと考えます。1000年を超える祭祀施設を手つかずのまま保存しなければならない価値観と、国の歴史事実を明らかにする学術目的の発掘をした後で完全保存をする、このいずれを国民が選択することが必要な時期に来ているのではないかと考えます。