(30)顕教と密教は何が違うか

大乗仏教の最終形として7~8世紀に登場した中期密教(純粋密教)の本質は、顕教との違いを理解することによって明らかになります。
顕教と密教の大きな違いは①仏身観(教主)、②仏が説く法の内容、③成仏観(その捉え方)、④教主の言葉の違い、などにあると考えられています。

実は、顕教という言葉は、密教と対比する意図をもって弘法大師・空海によって造られた言葉でした。「成仏の意味内容」「成仏の捉え方」「成仏に至る修道方法」などの違いを説明するために考えられたものです。

伝統的な大乗仏教(顕教)では、仏に成ること(成仏)を「智慧の完成」と捉え、真理や実相の知的な認識や獲得が成仏であると考えました。
これに対し、空海の密教では、成仏とは仏の智慧を実践することであり、仏として為すべき行為を(現実の社会の中で)実行することであると捉えました。
密教では、「智慧の完成」は入り口でしかなく、仏の行為を為すことが仏に成ることであると捉えられたのです。

仏(本尊または根本尊形)の存在をどのように観るかという仏身論(観)があります。
仏身論は、「仏陀とは何か」という仏教では避けて通れない本質的な問題を論じるものです。
仏教徒であれば無関心ではいられない根本的な原理原則論といえるものです。

釈迦の滅後、成仏して不死の存在となったと考えられた釈迦が死んだという事実に衝撃を受けた仏教徒は、この事実を受け止めなければなりませんでした。仏教徒はブッダの存在性、その在り方を再確認する必要性に迫られたのです。
そこで、釈迦が肉体を持つ実在の両親から生まれた事実としての存在=①肉体(色身)を持つ釈尊だけでなく、悟りを開いた釈尊は肉体を超越した存在=②悟りを内容とする法身であるとする二面性を釈尊の存在性として認識したのです。この考えは、肉体(色身)は滅んでも悟りの内容(法身)=精神内容は永遠と考えるものです。

次に、精神内容が普遍性(永遠性)であるならば、過去にもその理を覚ったブッダ(過去仏)が存在したに違いない、と考えたのは道理です。
ここから過去七仏が登場することになりますが、これらのブッダ(仏)はすべて智慧の光に満ちて、あらゆる場所に普遍的に存在する法身と目に見える肉体を持つ色身の二面性(二身説)の存在と考えられました。
過去七仏の縁起を受けて現在仏が生起し、あらゆる世界の普遍の原理をあるがままに覚ることで未来仏(弥勒仏)が生起する悟りの世界の永遠性が認識されたのです。

やがて、ブッダの考察の結果次のような三身説に収斂されました。
①悟りそのものを身体とするブッダ(自性身)⇒悟った法を体現している=法身

②悟りの法味を享受するブッダ(受容身)⇒過去の善行の報いによって得た=報身
報身は「自受用身(悟りの法味を自ら享受する)」と「他受用身(菩薩に享受させる)」に
分ける考え方があります。顕教の教理です。

但し、空海は自受用身を密教とし他受用身を顕教と判じる立場を取り、報身(自受用身と他受用身)が顕教と密教に通じることから、あえて報身の語を用いませんでした。空海は法身・応身・化身の三身説を用い、法身の所説が密教であり真実有である、応身・化身の所説が顕教であり仮名有であると断言しています。空海の報身観は、報身は他受用身に限るとするものであり、これを『秘蔵宝鑰』や『吽字義』に述べています。

密教の仏は宇宙の真理・実相を「法」と捉える法身観です。大乗仏教の教学を代表する四家大乗(法相・三論・天台・華厳)では、法身を真理そのもので人格を持たない理仏(理法身)であると解釈しました。しかし、空海は五大(地・水・火・風・空)の働きを単なる物質論として分析するのではなく、「五大に響きあり、十界に言語を具す。六塵(空海は色・声・香・味・蝕・法の最初の色塵が文字の源と説く)悉く文字なり、法身はこれ実相なり。」として人格論を展開しました。

空海は「五大とは五字五仏及び海会の諸尊これなり」としています。諸仏諸尊はみなそれぞれに音響を有している、人格を有するがゆえに「声の外に字なし、字すなわち声なり」「声字の外に実相なく、声字すなわち実相なり」(『声字実相義』)として、声と字と実相の考察において、声字には必ず実相があり、実装には必ず声字があるから人格の存在が証明できるとしています。空海の法身大日如来は、人間と同様に体・相・用の人格を有する実相であり、しかも、その実相は身・口・意の三密を具えている具体的な存在なのです。

空海の論理性は、教えがあれば、その教えを説かれた主体の人格が必ず存在する、というものですが、これが『大日経』や『金剛頂経』に説かれた「人法不二」「理智不二」の法身・大日如来なのです。

真言密教(空海密教)の仏身論は三身説ですが、空海は『辨顕密二経教論』において「仏に三身あり」とし、三身とは「法身」、「応身」(仮に衆生の機根に応じた姿で現れて衆生済度をする)、「化身」(衆生済度のために仏が人間としてこの世に現れる)であると述べています。応身と化身は顕教の教説に現れる仏、法身は密教の教説を説く大日如来(毘盧遮那仏)として、諸仏・諸菩薩・明王などをその分身とするパンテオン(金剛界と胎蔵界の両曼荼羅)を形成する仏身観を述べています。

③衆生を救済するために肉体を持って現れたブッダ(変化身)⇒衆生の苦悩に応じて現れる=応身

仏陀の捉え方は、特定の仏教教団の性格や本質を識別する評価基準となるものです。
例えばある宗教団体が本物の仏教教団といえるかどうかを判定する評価基準となるものであり、仏教教団の構造や性格を自ら語ることになるものです。
特定の既存教団が内包する仏身論は、その宗教団体の存在観や普遍性、そして妥当性を自ら語るという本質論を明らかにするものと考えられます。

真言密教(空海の密教)は、空海の「智」と「実践」によって完成されたものであり、大乗仏教の到達点に立つ秘密仏教であると考えられます。真言密教は、空海の卓越した思索と構成力によって構成された即身成仏思想に特徴がありますが、これはインドや中国でも形成された教理ではありませんでした。空海は、その思想を膨大な諸著作によって教相(教理論)と事相(実践論)の両面から詳述して日本仏教に大きな影響力を与えましたが、ここに真言密教の日本的展開の特徴が顕著に表れているのです。まさに、真言密教は空海の出現が無ければ成立しなかった秘密仏教なのです。

テラワーダ仏教(上座部仏教、小乗仏教)は成仏を目指しながらもブッダにはなれないというどうにもならない不可能の壁に行きずまり、せめて煩悩だけでも断じて阿羅漢を目指しました。大乗仏教は、この閉塞感を打破しようと努め、すべての人々が成仏できる(理具成仏=成仏の可能性の原理を示そうとするもの)という考え方を示しましたが、それを実際に可能とする実践行を示すことができず「三劫成仏」と呼称されました。『華厳経』や『法華経』などの大乗の諸経典は、即身成仏の可能性に言及しようと努めましたが具体的な教理と実践行を示すことができませんでした。密教は、空海の「智」と「実践」によって、三密加持の妙行による即身成仏の境地に到達できる実践行を示しています。

空海の即身成仏思想の特徴は、六大・四曼・三密と呼称される教理体系と三密加持の実践行にあります。六大は、地・水・火・風・空の五台と識の六大思想(空の思想の基礎)をいい、四曼は四種曼荼羅を示すものです。その四種とは、①大曼荼羅=宇宙の全体の形相を示すもの。②三眛耶曼荼羅=宇宙に存在する個々の事物の形相を示すもの。③法曼荼羅=一切の原語、音声、文字、名称を示すもの=一切の事物は存在の意味と理想を示し必然的な意義を持っているから、一切の原語、文字は如来の原語であり文字である。④羯磨曼荼羅=宇宙空間における一切の事物の活動、作用を示すもの=一切の活動や現象を実在の象徴と見る宗教的な考察、などをいいます。三密とは、「身密」・「語(口)密」・「心(意)密」をいいますが、その三密加持とは、①手に印(宇宙の実相の象徴、左右の手を衆生と仏、定と慧、理と智、本有と修生、胎蔵と金剛に配当する)を結び、②口に真言(仏の真実のことば)を称え、③心を三摩地(精神統一)に住する、ことをいいます。三密は「体(法の本体)・相(現象)・用(作用・働き)」の三大思想(大乗起信論の教理)から導かれた妙行と考えられますが、空海はこれを「六大無碍常瑜伽」云々とする「二頌八句」によって即身成仏を説明しています。詳細は「(29)真言密教(空海の密教)」を参照して下さい。

顕教の特長は、菩薩の修業によって諸法(宇宙観)の真理や実相を覚りその内容を「法」として「仏の身」と捉えたことにあります。菩薩の誓願を完成した報いを成仏(仏)と見て、これを仏陀といいます。仏陀は人の身であったので明らかに「人身」です。
よって、修業の動機などの諸要素が菩薩の誓願や修業内容の違いとなって現れ、顕教の仏身論の内容や性格が定まります。
なお、論理的にいえば、菩薩の修行者はどのような誓願を完成させようとも「応身」か「報身」であり、「法身」(宇宙の真理・実相の当体=根本仏)と見做すことはできません。人の身であった者を法身に仕立て上げることはできません。法身仏は、報身仏と応身仏の指導原理性または悟りの根源となる存在です。各宗の祖師や新興宗教団体のリーダーを法身(根本仏)になぞらえる戯論は否定すべきものです。

仏の説法、教説は顕教と密教では異なります。
仏の覚った法(真理・実相)は、顕教の教主は人であるところから、人が人に法を説くという在り方(対機説法)になり教主の覚った果分(智慧の内容)は間接的にしか伝わりません。これを「果分不可説」といいます。
密教の教主は法そのものであり、法である仏が人に直接に法を説くというあり方(法身説法)になります。これを「果分可説」といいます。

顕教と密教は成仏の捉え方に違いがあります。顕教では、仏と成る智慧の完成(成仏)は、菩薩の修業により善行や福徳、智慧などを三劫という果てしなく長い所要時間をかけて積み重ねることによって成仏が可能になると考えていますが、これを「三劫成仏」と言います。
これに対し、密教では、成仏とは「仏の行為をなすこと」と捉え、佛の智慧を実践すること、仏として為すべき行為を実行することと考えます。これが真言密教の成仏観であり「即身成仏」の思想です。

仏の説法の形式の違いは、顕教と密教の教主の「ことば」の違いにあります。
顕教の教主の「ことば」は、人である仏(応身仏または報身仏)が人である衆生に語りかけている「ことば」です。
密教の「ことば」は人の「ことば」ではなく、宇宙にあるがままに存在する森羅万象(真実や実相)を本体とする法身仏が法を直接に説く「ことば」であり、それは衆生の素質や能力に合わせた方便の対機説法の形式をとることなく真実のみを直接に語る「ことば」と考えられています。
弘法大師空海は、法身仏の「ことば」は、宇宙の真実・実相をありのままに如実に語る存在の「ことば」であり、「いろ、かたち、うごき」として現れる存在と考えています。この「ことば」の働き(語密)と法身仏(大日如来)とが互いに渉入する「入我我入」の境地の中でその意味(智慧)を読み取るのです。

顕教は文字で書かれた教典を読むことにより学ぶことができますが、密教は師僧の伝授によって学ぶことが伝統的な方法であり、単に文字を解釈したり、独学で学べるものではないと否定されています。

大乗仏教兼学の比叡山からはさまざまな教義を持つ新仏教(禅・念仏・法華)が生まれましたが、高野山や東寺では口伝の違いによる分派はありましたが、教義を異にする新仏教が生まれることはありませんでした。
伝法灌頂によって継承される伝統の密教修道システムから釈迦仏教の本質に抵触したり否定する新仏教が芽吹くことはありませんでした。
これは、決して偶然ではなく密教の修道システムが機能していたからだと考えられています。