(29)真言密教(空海の密教)

空海の密教(真言密教)の思想的な体系化は、三部書といわれる『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』の著作によって、その教理的な基盤が構築されました。
真言密教は、空海の深い思索によって再構築された独自性のある日本密教の思想体系です。
真言密教の特質は、①説主(大日如来)、②教説(法身説法)、③実践の可能性(菩提心・三昧耶)、④実践の超時空性(三密瑜伽)、⑤利益、にあります。

「菩提心」と「三昧耶」そして「三密瑜伽」は真言密教の根本思想を示す特徴的な概念であり、眼目です。菩提心は梵字のbodhi-cittaの音写で「阿耨多羅三藐三菩提」という最上の仏の悟りを求める心をいいます。                                          三昧耶は梵字のsamayaの音写で仏と衆生が本来的に平等であることをいい、また、一切衆生を救い尽くす仏の本誓を意味する言葉です。なお、三密瑜伽は下記のとおりです。
これらの言葉は密教の教えの持つ包括性と寛容な価値観に彩られています。

空海の真言密教の教理の中核は「六大・四曼・三密」に要約されています。空海は即身成仏の論を『即身成仏義』と二経一論八個の証文(『金剛頂経』四文、『大日経』二文、『菩提心論』二文)を引くことによって説明しています。
ついで、次の「二頌八句の偈」によってそのプロセスを語っています。

「六大無碍にして常に瑜伽なり、四種曼荼各々離れず、
三密加持して速疾に顕る、重重帝網なるを即身と名ずく。
法然に薩般若を具足して、心数心王刹塵に過ぎたり、
各々五智無際智を具す、円鏡力の故に実覚智なり。」

この短い二頌八句の偈頌は「即身成仏」の内容を語るものですが、「六大無碍」(体)、「四曼荼羅」(相)、「三密加持」(用)は真言密教の教理の真髄を語るものと考えられています。                     これを適切に解説することは困難ですが、2~3の解説本を参考にして意訳すれば、次のような内容になると考えます。

「六大無碍にして常に瑜伽なり」は、即身の本体(体性、存在性)を示し、「四種曼荼各々離れず」は、即身の存在相を表すものです。「三密加持して速疾に顕る」は、即身のはたらき・用を示し、「重重帝網なるを即身と名ずく」は、即身の本源的なあり方を示しています。

「法然に薩般若を具足して」は、一切衆生の本体(法仏)に具わっている成仏の可能性を示し、「心数心王刹塵に過ぎたり」は、無数の智の存在者を表しますが、心王は心の働きの基本となる識をいい、心数は心王に伴って従属的に働く心作用(心所という)です。心王は認識対象の全体に対して働き、心所(心数)はその全体と部分とに対して働き、両者は常に相関関係の認識を示します。密教では心王は諸尊の中心となる大日如来に擬し、諸仏、諸菩薩、明王等の諸尊を心数とみる仏身の統一観を示します。「各々五智無際智を具す」は、すべての仏が完全なる知恵をすべて具えていることを表します。また、「円鏡力の故に実覚智なり」は、成仏の理由を示すものと考えられています。

インドに発生した仏教では、宇宙の本体は宇宙を構成する6つの要素であると考えます。この思想では、宇宙は色(地・水・火・風・空=物質)と心(識=精神)が渾然一体となった実相(瑜伽)であると考えられています。                                      この6つの構成要素(六大)はさえぎるものがなく(無碍)、永遠に融け合って結びつき、万物を構成する本質的な要素であると考えられています。

宇宙も大日如来も私たち人間もこの六大が深く密接に結びついたもの(瑜伽)であり、瑜伽の中であらゆる生命体が生かされ、それが集まって世界が構成されている。            大日如如来の慈悲と智慧がこの世界を包み込んでいると空海は考えます。六大の活動的な事実を持って宇宙の実在、万物の実在と考えるのです。

大日如来は宇宙の根源仏として、すべての如来、すべての菩薩を統合する存在です。大日如来は宇宙を形成する原理そのものを示す存在ですが、本来的には姿も形もありません。しかし、草木や動物、人間やあらゆる生命に宿り、現われる存在と見做されます。
あらゆる現象や真理を認識する智慧は大日如来から生まれ、人が修行によってこの智慧を修得すれば、大日如来と一体になれると空海は主張しました。即身成仏の思想の基盤はこのような考えによるものです。

宇宙を構成する六大は眼で見ることができません。四種の曼荼羅は宇宙の相をその働きによって可視化したものであり、六大を捉える手段としての役割を持つものです。

四種曼荼羅曼の①「大曼荼羅(形の相)」とは、宇宙が大日如来の形となって現われる全体を表すもので、 一つ一つの仏菩薩の姿・形を具えた身体をいいます。

②「三昧耶曼荼羅(姿・形の奥にある意味や働きの相)」とは、さまざまな諸尊が所持している法具(刀剣・輪宝・金剛杵・蓮華など)を目印とするもので、仏の持ち物によって仏の本誓を象徴的に表わすものです。

③「法曼荼羅(音声の相)」とは、仏菩薩など智慧を秘密のことばである真言で象徴し、梵字(これを「種字」といい「種字曼荼羅」とも云う)で表わしたものです。仏の智慧の印(しるし)です。

④「羯磨曼荼羅(宇宙の活動の相)」とは、さまざまな仏の活動を立体的に表現するものです。供養や威儀として表すもので「立体マンダラ」ともいいます。立体マンダラには、瞑想で虚空に観想したもの(自性マンダラ)や実際に人の目に見えるように木・粘土。金属で表現したもの(羯磨マンダラ)があります。

宇宙は絶え間なく変化する働きに満ちています。人はこの四曼を心に念じることにより宇宙を観想し捉えることが可能になるとし、空海はこの変化を捉える手段として「三密」を主張します。

三密とは、①「身密」(印を結ぶこと=手の形によって宇宙の活動を表す)、②「口密(真言を唱えること=言葉の持つ力を表す)、③「意密(瞑想すること=宇宙の調和と秩序を図る為の働き)」をいい、宇宙の絶え間なく変化する働きや現象を三密という行為によって把握するためのものです。
人は、真言を唱えることによって宇宙のエネルギーを発し、大日如来と一体になれたり、大きな力を身につけることができる、と空海は考えたのです。

仏と私たちの身体、言葉、心の働きが不思議な働きによって感応するとき、速やかに悟りの世界という質的な変化が現れる。あたかも帝釈天が持つ天網のように幾重にも重なり合いながら、映じ合うことを名づけて即身という。
あらゆるものは、あるがままに、計り知れない多くの仏の姿をしていて、一切の智慧を備えている。すべての人々には各々に「心の作用」や「心の主体」が備わって数限りなく存在している。
心の作用、心の主体のそれぞれに五智如来(「金剛界の五仏=①大日如来・②阿閦如来・③宝生如来・④阿弥陀如来・⑤不空成就(釈迦如来)」)の智慧と際限のない智慧(五智=無際智=大日如来の智)が備わり何一つ欠けるものは無い。
これらの智慧を持って、すべてを映し出す鏡のように照らすとき、真理に目覚めた智者となる。
そのポイントは三密加持(三密瑜伽)にあると空海はいいます。

716年、中インドから入唐した「善無為」が、法華経を凌ぐ教え『大日経』(正式名称は『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます)の解釈書(論)を洛陽に於いて著しました。
また、720年には、インドから渡来した「金剛智」により『大日経』を凌ぐ最高教典『金剛頂経』が長安にもたらされました。
この両経は真言密教で「両部の大経」とされる根本教典ですが、これにより「即身成仏」の理論体系が整えられました。
両教は別々の密教の流れの中でそれぞれが継承されましたが、この両教の正式な継承者である中国・青龍寺の恵果阿闍梨から空海が伝法の灌頂を受けたことはすでに述べました。

真言密教の修行の中核は『大日経』の「入真言門住心品第一」に、金剛薩埵の「仏の智慧とは何か」という問いに対し、大日如来が「菩提心為因、大悲為根、方便為究竟」と答えた記述にあります。                                                    これは三句の法門(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす)といいます。
菩提心とは「白淨信心(白く清らかで信じて疑わない心)」といい、仏性・如来蔵とも言います。大悲とは、一切の苦を抜く無量の楽を施す(抜苦与楽)ことをいいます。             方便は他を利益する働きをいい、具体的には六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)や四摂法(布施・愛語・利行・同事)などを指すと考えられています。

この「三句の法門」を理解する前提となるものが密教の核心ともいえる「如実知自心(実の如く自身を知る)」です。如実知自心は「ありのままに悉く自らの心を知る」ことであり、これを正しく知ることが密教の修業目的となる概念です。                              密教の修業は「三密加持」によって示されるもので阿耨多羅三藐三菩提(この上ない正しい完全な悟り、無上正等覚ともいう)を目指すものです。

三句の法門を端的に表現すれば、第一に「悟りを求める心(発心の句)」を出発点として、第二に、そのためには「優しい思いやりの心を養うこと(修業の句)」を根本にして、第三に、最終的には工夫をして「世のため、人のために尽くす(証果の句)」ことが求められる結果でなければならない、ということです。

「方便」とは釈迦が示した実際的な救済方法の中核となる概念です。釈迦は救いを求めてくる人の理解力や苦悩の現実性に即した救済をこころがけました。                  救済には存在するものの本質を見抜く知恵を持ち、ものごとの特性を見分けて対応する方便が必要とされたのです。

三密加持とは、「手に仏の本誓を示す印契を結び、口に仏の教えである真言を唱え、心を静め清めて仏の悟りの境地に入るように努める」ことをいいます。

[三密」とは身密、口密、意密をいい、身体と言葉と心の三種の働きをいいます。大日如来には色も形も活動もあり、あらゆる場所で、あらゆるときに説法し続けていると考えることが密教と顕教との考えの違いです。
しかし、大日如来の説法は無目的で効果を期待する説法ではありません。故に、この説法を把握して自らの宗教体験に生かす法の受け取り手(金剛薩埵)が必要です。          次にその体験を伝えて現実社会の中に具体的に示して人々に役立てうる付法の阿闍梨の出現が必要です。

「加持」とは、加は仏の大悲の力、持は衆生の信心の力をいいます。「衆生の信心の力」と「仏の大悲の力」とが結合して法界(大宇宙)に働きかける力となって祈りが成就する、と考えられたのです。顕教には加持という考えはありません。
しかし、思うままの結果が得られる精神の集中は簡単ではありません。そこで、「月輪観」「阿字観」などの基礎的な瞑想法や「五相成身観」などの観想を日々訓練する必要があります。

釈迦仏教では、凡夫の意識や行為・経験は「身・口・意の三業」と考えられました。しかし、密教では、その本性から見れば、凡夫の三業も仏の三密と異なるものではないと考えます。
そこで、法身仏(大日如来)の三密と加持感応すれば凡夫の三業が浄化されて、三業がそのまま三密となり、仏と我とが「入我我入」して即身成仏すると考えるのです。これを「三密加持の妙行」といいます。

密教経典の特徴は、顕教のような「教え」だけでなく、「成仏に至る修行方法」を具体的に語ることです。
仏教経典を仕分ければ、「教えが文字によって表されている教典」を顕教といいます。    顕教の教典は「スートラ」といいます。これに対し、密教経典の大部分は「タントラ」といいます。
顕密ともに、教典や「経・律・論」を兼学し、宗派の論書を学ぶことが必須とされています。
論書とは、例えば、天台では『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』など、真言密教では『十巻章』(その内容は『般若心経秘鍵』1巻、『即身成仏義』1巻、『声字実相義』1巻、『吽字義』1巻、『弁顕密二教論』2巻、『秘蔵宝鑰』3巻、の空海主要著作と『菩提心論』1巻をいう)、『大日経疏』、『釈摩訶衍論』がこれにあたります。