(28)後期密教の成立(チベット仏教)

インドでは、7世紀から12世紀にかけて、密教が全盛期を迎えましたが、8世紀以降の後期密教の時代には『大日経』系の密教はほとんど展開せず、『金剛頂経』系の密教がタントリズムの隆盛とあいまって目覚ましい展開を見せました。
しかし、1203年頃、密教の最大寺院ビクラマシーラ寺がイスラム教徒に破壊され、このときインド密教が終焉したとされています。

12世紀頃までに成立した後期密教を「タントラ密教」といい、後期密教はインドからチベットに伝播され、チベットの民族宗教のボン教などと混交して独自のチベット密教を形成しています。この流れは、チベット周辺国、モンゴル、ロシアに伝播されました。

日本密教は後期密教の影響を全く受けていません。後期密教の特徴の一つに性的儀礼がありますが、これは理論上から導かれる観念的な瞑想法です。実際にこのような性的行為を修行として取り上げる密教僧がいないのは当然です。この行法は精神的に高度な瞑想法です。

後期密教が中国に伝わらなかった原因には、中国が独自文化(儒教・道教・大乗仏教・中期密教など)を持ち社会的な価値観が安定していて、生理的・性的な実践法を受け入れる社会的な宗教土壌がなかったことです。
今日でも日本に後期密教が受け入れられていないのは、空海を始め密教の請来者が意図的に否定してきたこと、また、日本の社会風俗の習慣、価値観の違いによるものだと考えられます。

チベット密教はインド後期密教をそのまま受け継いると考えられていますが、民族宗教(ボン教など)との混交習合も相当に進んでいるものと考えられます。

チベット密教といえば、ヤブユム(yab-yum)という男女合体像があまりにも有名です。無知な人々は、あたかもこの像が淫祀邪教の如くに誤解して好奇の目で見ています。しかし、これらの像立はインド後期密教を受け入れた8世紀以降のチベット的変貌であり、チベット密教の基本理念は「金剛頂経」系統のインド密教を継承するものです。

大乗仏教がチベットに伝えられたのは7世紀のことです。ネパールと中国から伝播されたのですが、8世紀頃から本格的な仏教の移植が始まりました。
初期のチベット仏教は王室と貴族を中心とする国家体制を擁護することが主目的でした。日本やアジア諸国と同様に「金光明経」が篤く崇拝されました。

8世紀後半からインド密教の移植が始まりましたが、王室の安泰に危険性を与えるものと見做されて忌避されたことで初期及び中期密教が選択された経緯がありましたました。また、9世紀には仏教が迫害されその勢力は一時的に失われることがありましたが、11世紀の初頭から仏教の復興が始まりました。

9世紀までのチベット仏教は顕教が優勢でしたが。11世紀以降になると仏教は王室の援助を失い、民衆との接点を重視するようになりました。チベット仏教は多数の宗派に別れ、それぞれが学問的な伝統を形成しました。
各派は顕教や密教の経典を依経としましたが、次第に戒律と顕教、密教の融合に関心を持つようになりました。顕教の上に密教を位置付け、密教の学習は顕教を一通り理解できるレベルに達した少数のエリートのみに許されました。

チベット密教の分類法は、これまでの研究の成果では密教の分類法としてはより進んだ分類と考えられています。

第一期「作タントラ」
現世利益的な要素の強い祈願的な修法の作法を中心とする特徴があります。呪法、陀羅尼、印契の作法などです。

第二期「行タントラ」
修法に加え理論づけを行って修行と理論の両面を説きます。
大日如来が即身成仏について語る『大日経』はこの行タントラの基本経典です。

第三期「瑜伽タントラ」
ヨーガ(サマーディ)を中心とするもので、禅定により精神を統一し、仏と修行者が合一することを目指すものです。
大日如来が即身成仏の実践法を語る『初会金剛頂経』はこの「瑜伽タントラ」の基本経典です。

第四期「無上瑜伽タントラ」
これが8-10世紀の後期密教といわれるチベット密教の立場を特徴的に示すものです。
中国・日本の密教伝道者たちが意識的に受け入れなかった秘教であり、日本密教に全く影響が無い範疇にあるものです。
この中には快楽思想とか、左道密教といわれる生理的・性的儀礼を含むタントリズムに特徴があります。インド、欧米の学者が研究する密教の領域はほとんどがこの無上瑜伽タントラです。

無上瑜伽タントラの基本経典は、方便(大悲)・父タントラ系の『秘密集会タントラ』、般若(空性)・母タントラ系の『呼金剛タントラ』、不二タントラ系の『カーラチャクラ(時輪)タントラ』の三つに細分されます。不二タントラは父・母の両タントラを統合した系統を云います。

チベット密教では、経典や諸仏・諸菩薩が様変わりして、修行の行法や実践法にも大きな変化が現れます。インド後期密教の受容がチベット土着の習俗を濃厚に持つ既存宗教(ボン教など)と混交したからだと考えられています。
これらのチベット特有の変化は、社会風土の異なる人々には、まるで別種の密教のような異様な印象を抱かせるものです。精神は外形ではなく中身で判断すべきことは十分承知していても、なお、一般的には否めない違和感が残るものと考えられます。

『父タントラ』、『秘密集会タントラ』『ヴァジュラバイラヴァ・タントラ』の系統は、チベット密教特有の「秘密仏」を対象として生理的行法を実践法とするようになりました。

『母タントラ』『ヘーヴァジュラ・タントラ』『サンヴァラ・タントラ』の系統は、「秘密仏」を対象として性的行法を実践法とするようになります。
「秘密仏」は各実践法に合わせたと考えられる像立に特徴があり、中国・日本の仏像とは全く異相の姿形を持つ仏像です。
観音像は法華経(観音経)の観音とは様変わりした女性観音「タ―ラ」が登場します。チベットでは、「タ―ラ」は威力を示す観音として人々から篤く信仰されています。

『父タントラ』と『母タントラ』を統合した『カーラチャクラ(時輪)タントラ』では、智慧と慈悲という菩提心に関わる心の在り方の両側面の多様性が父・母不二タントラとして止揚されています。

チベット密教の特徴は、無上瑜伽タントラに「生起次第」という曼荼羅の生成過程をリアルに観想し、性的ヨーガによって万物を生みだす秘儀を詳細に解き明かす瞑想をすることにあります。
この目的は、日常の固定観念や様々に彩られた現実の価値観を粉砕(凡常の慢を退治する)して視点を転換させる意識革命にあるといわれています。
チベット密教の最高の学者・ゲルク派の開祖であるツオンカパ(Tson-kha-pa 1357-1419)は、これは「空性観」を修得するためであると明快に示しています。

その次の階梯が「究竟次第」です。此れは究極のプロセスといわれるもので、「空性観」を修得するために修道中もっとも重要なものとされています。
この相承は厳格を極め、このチベット密教の奥義に入れる者は師僧によってその能力が認定された極少数の選ばれた弟子に限られています。
究竟次第の修道目的は風(ルン)を伴った意識の働きを知り、森羅万象を支配している光(ブッダ)の本性(実存する真理=勝義の光明)を悟ることにあるとされています。

この「究竟次第」では、身心にあらゆる現象が明確に生起してくるので現実的な対応の経験なくしては理解できない身体意識に取り憑かれ始めるといいます。
これに十分に対応できる方法をシュミレーションによって訓練し備えておかなければなりません。
そのため瞑想による風(ルン)のコントロールに習熟しなければならず、「死者の書」を基礎知識として「生起次第」を繰り返し修道し、次第の完成をさせなければなりません。、
チベット密教では、釈迦はこのような瞑想によってブッダとなったと考えられています。

密教では人間の身体を小宇宙とみなし、一切の真理のよりどころと考えます。そして、人間と一切の森羅万象の大宇宙と合一させる観想方法を考えました。
『大日経』の観想方法の特色は、五字を身体の五カ処に布置する「五字厳身観」です。金剛頂系の『真実摂経』の観想方法は「五相成身観」といいます。

父タントラ系と母タントラ系は、もともと起源や基盤を異にする実践体系です。無上瑜伽タントラ系の体系化によって止揚されたものです。
方便・父タントラ系では、大宇宙である法身を展開して、五仏・四明妃・八菩薩などを現実世界を構成する蘊処界に配して、これらを究極的には無自性空・清浄光明と観想して小宇宙と大宇宙の合一に至ります。
般若・母タントラ系では、行者の身体に抑圧を加え、生気の環流する脈管と霊の中心である輪を支配し、菩提心を下位から次第に上昇させる観想によって、小宇宙と大宇宙が合一する不変の大楽を得る境地に至ります。
母タントラ系の修道システムは、ヒンズー教のシャクティ派の色彩の影響が見られますが、大乗仏教の基本姿勢としての般若・空性と方便・大悲の合一する菩提心の獲得を目的とする点で、ヒンズー教とは一線を画しています。

中国に後期密教の無上瑜伽タントラ系の教典が受容されなかった理由は、道教や儒経の価値観が形成されていて、中国社会の風俗習慣に無上瑜伽の性的修法を受け入れる土壌が無く消極的な態度をとらせたものと考えられます。
中国最大の大帝国を建設した元朝は、チベット密教に篤く帰依し極端な保護政策を実施したので中国各地にチベット密教が急速に拡大しました。

中国密教は元朝以降にチベット密教が主導権を握りましたが、元朝の滅亡後には次第に衰退していきました。中国には老荘思想が人々に定着していたので、老荘思想と異なる外来思想が定着できる社会環境を整えることは困難を極めたのです。

チベットでは観音は特別な意味を持ちます。ゲルク派の法王は長年、チベットの国家元首として君臨しましたが、代々のダライラマ(現在は14世)は観音の再誕として転生を信じられた存在です。
ちなみに、第二位のパンチェンラマは阿弥陀如来の転生と信じられています。
ダライラマとパンチェンラマはそれぞれが同一人物(仏)の間で代々に継承されてきたことになります。

このような転生活仏思想は、チベットの特性の民族性によるものと考えられます。
チベットでは、師僧(ラマ)をことのほか尊ぶ伝統があります。この考えから、優れたラマは仏の化身として転生を繰り返し衆生を導くものと考えられたのです。
15世紀、ゲルク派、カルマ派は転生活仏を宗派の指導者と定めました。

1578年、ゲルク派のソナム・ギャンツオがモンゴルのアルタン・ハーンからダライ・ラマ(大海)の称号を受けたことにより、次代の転生者が全チベットを統一し、政教一致のダライ・ラマ政権が成立しました。これ以後、ダライ・ラマの転生者がチベットの宗教・政治の最高指導者とされましたが、現在のダライ・ラマ14世は中国のチベット侵攻に抵抗してインドに亡命しました。
ダライ・ラマ14世は、世界各国を歴訪して講演を行って世界平和とチベット独立運動の理解を求める旅を続けています。