(2)医学と宗教の関係-その否定と肯定-

無宗教ということが云われる場合があります。無宗教とはどういうことなのでしょうか。
「あらゆる宗教を一切信仰しない」という積極的な無神論ばかりでなく、「特定の宗教は持たないけれども、神や霊の存在は信じ、宗教活動には参加(神社、教会、寺院の参拝)する」などということが考えられます。
実は後者の「特定の信仰を持たない」という人々が増えていることは国際的な現象だといわれています。しからば、この現象は今日に発生した特有な社会現象といえるのでしょうか。どのようなデータと比較すれば今日の社会現象と言えるのでしょうか。
私見ですが、人々を「政策的に宗教に縛り付けた社会」や「宗教を自由に選べない特殊社会」のデータと比較しても何の新たな発見もないと考えられます。

日本は古代より八百万の神仏を自然に受け入れて来た多神教の民族です。それぞれのいいところ取りをする器用さがあるので信仰心が無いのではと見られることがありますが、見方を変えれば、実はこれは欠点ではなく長所ともいえるものです。

日本の宗教には特殊事情があります。平安時代から明治維新まで数世紀もの長い間は神仏習合でした。神と仏は混淆して神道と仏教を分けられない状態にあったのです。

明治新政府の神祇官によって断行された不当な「神仏分離令」の宗教政策をうけて、極端な不満を暴発させた民間の暴徒によって「廃仏毀釈」が全国規模で行われました。貴重な仏像や仏具が多数破壊されましたが、廃仏毀釈の暴発は、あたかも社会の在り方に反発する勢力のはけ口に利用された観がありました。これによって失われた貴重な文化遺産は再生できませんでした。文化遺産の損失は計り知れません。

「神仏分離令」は、天皇の権威を高め、天皇を現人神とする国家神道を復活させるための極端な神道保護政策であったと考えられます。これによって、神国・日本の思想が再生され、天皇を中心とする国体思想が蔓延しました。敗戦によってこの思想は勢いを失いましたが、社会の末端まで浸透したこの思想は、戦後も残滓が残り影響を与え続けて、国民の宗教観念を払拭できなかったこと、また新興宗教がしばしば蔓延したことなどが、宗教の理解が遅々としてすすまない事情として挙げられます。

宗教観は人々の住む地域社会の環境や個人の価値観、思考能力、などの総合的な判断能力に大きく影響された結果ともいえます。新興宗教が蔓延したのは、宗教が「現世利益」に特化されて利用されたからだという識者がいます。では、古代や中世の宗教の真実や在り方はどうだったのでしょうか。その実態は、「神話の正当性」を主張するものであったり、「現世利益(心願成就)」や「祟りや魔除け」の類などで、真理の探究は少数派(僧侶)だったのではないでしょうか。人々が宗教の本来の目的(真理探究、成仏)を正しく理解してこなかったとする批判は当たりません。宗教には、そのような人々をもあたたかく包摂する懐の深さが求められているのではないでしょうか。

それでは、信仰に入る動機は一体何でしょうか。冷静に考えれば、一般的には、宗派の教義や教理などを理輪的に理解し賛同して入信する人は皆無に近いのではないか、と云われています。この見方は限りなく実態を反映しているものと考えます。

唯一絶対の一神教の場合、例えばキリスト教やイスラム教の場合は、社会の全体が一色の宗教に染まっているので、出生とほぼ同時に親の意思で授戒を受けるのがごく普通の入信です。本人の自我の目覚めを待つことなく自然に信者になる事になります。

キリスト教社会やイスラム教社会では、医学と宗教を対立する概念と捉える必然性はありません。
医師も普通のキリスト教やイスラム教の一人の信者であることに変わりありません。
医師であっても、聖母マリアの処女懐胎を信じる者はたくさんいます。だからといって、これに目くじらをたてる必要はありません。
このケースはキリストの神性を際立たせるための神話であり限定されたケースです。一般的な普遍性にまで発展する性質のものではありません。
この社会では、宗教と医療が分離する過程に於いて機能的な棲み分けが行われています。

本人の意志で入信する成人の場合でも、ほとんどの人々は、親子、友人知人の縁故者の紹介や勧誘(新興宗教の特徴)により、入信するケースが圧倒的多数であると云われています。
あるいは、寺院や教会の荘厳で文化的な雰囲気(仏画・絵画や彫刻などの造形美・装飾品、讃美歌や歌、建築様式、仏具・神具など)に魅せられたり、癒される人もいます。

寺院、神社、各種の宗教団体の信徒数の統計を見ると、その合計数が日本国民の総数をはるかに超える信じられない数になります。各宗派の信者数の実態は実は正確に把握できていないのが現状ですが、統計数値が独り歩きをしています。

それにもかかわらず、各寺院は信者の減少化や墓地の放棄という近年に特有の問題を抱えその対策に必死です。これは、各個人の信者の自覚が希薄(寺院離れ)になって来ている証だと考えられています。その原因は、現代社会の家族関係が稀薄化してきているからだと見られています。

しかし、一般的には、平和な社会では健康な若年層のアンケート結果には「無宗教」の傾向が強く出ることが容易に想定できます。なぜなら、宗教が必要と感じる社会経験が少ないからです。
若年層の自発的な関心度からみれば、宗教の切実感や優先順位は極めて低いことが容易に想定できます。若年層は、宗教よりもっと関心度の高い各個人の将来設計などの重要項目をたくさん抱えているという「思い込み」だけで手一杯なのです。

実は、宗教の有効性を理解できる「精神的な適正年齢」というものがあるのではかという仮説が考えられます。
宗教の必要性は、個人の諸事情によるものだけでなく、宗教のニーズが高まる社会的な条件や生活環境があるのではないかと考えるからです。
また、宗教を正しく理解するには相当な学力や社会経験が必要です。

無宗教かどうかは人の一生の歴史を総合的にみて判断するしか方法はありません。臨終を迎えて判断すべきものだと考えます。従来のアンケートは、一過性の流動的な、且つ、一時的な回答に過ぎません。一過性の傾向性が見えるだけです。

医学と宗教の役割で決定的に異なる点は「死期をどのように迎えるか」ということです。
医学は病気治療と死には職業上係わらざるを得ませんが、死後の世界にまで関わることは一般的にはありません。患者の死によって医師の役割は終了します。
ところが、宗教は死後の世界に対する疑問や恐れに積極的に取り組むことによって成立した歴史的な側面を持っています。

世界三大宗教のキリスト教、イスラム教は、人は死後に審判を受け、罪の軽重により天国か地獄に行くことを予定されています。
仏教はこれとは異なりますが、大多数の人々が死後の世界を同様な感覚で意識しています。死ねば全てが終わると考える人々は実は少数派と考えられます。

どの様に生き、どの様な死を迎えるかは、生きている人間にとっては避けて通れない関心事です。
医療はこのような患者を相手にし続けなければなりません。在るべき医療の姿は、このような患者にどの様に接するかという視点の欠如は許されないと考えられます。

宗教は、死後の世界に対する恐れや疑問に対する解決の糸口を探ることによって、人々の共感や安心を形成してきた側面を濃厚に持っています。
宗教は「人が死んだらどこに行くのだろう」と考えるようになったときから発生したものです。これに対する考え方を示すことが宗教の役割なのです。

死と密接に関わるレベルの医療は、まさにこのような患者の気持ちを大切にしなければならないことは当然です。
哀しいことに、人は、できれば自分の死に直面したくないという身勝手な欲を捨てきれません。
しかも、これは不可能な欲だということを知りながら、心穏やかに、あるがままに受け入れる心を定められず、避けがたい死をも受け入れる心境になれないのです。

医師から見た場合、治療の手立てが無くなれば医師の役割は終わりだと簡単にいえるのでしょうか。
生きられる人間を治療することだけが医師の仕事だと割り切れるものでしょうか。
医療は死期を迎えた患者の死の尊厳に適切に関わる配慮を持たなければならないと考えることは医療の範囲を逸脱する妄念なのでしょうか。
医療は最後には避けることができない人間の死に直面する職業でもあるのです。

多くの患者が、死後の世界はない、死ねば無になってなにも感じない、などと考える医師の手で死出の旅に送りだされたいとは考えていません。
医師は、死後の世界に積極的に関わってはなりませんが、宗教の基礎知識を学び常に自戒の念を堅持する必要があるといわなければなりません。