(40)-3日本の国家の形成過程を考える-①(古代氏族と大和王権)

日本の真実の歴史とは何か。記紀をいつまで日本の正史として位置付けたまま放置しておくのか、また、中国、韓国との歴史教育問題について、学校教育の現場で日本の立場をいつになったら明確にすることができるのか、政府の公式な見解を聞きたいものです。国の歴史教育の根幹にかかわる問題であるところから、手をこまねいて様子見や先延ばしを考えても自然鎮火する問題ではありません。こだわりを持つ特異な価値観や歴史観を持つ隣国(中国、韓国など)との外交交渉には解決策の選択肢を見つけることは困難を極めますが、毅然とした外交努力は続けなければなりません。

平安初期、815年(弘安6年)に編集された『新撰姓氏録』は、その出自により氏族の改賜姓が正確であるかどうかを判別するために嵯峨天皇の命により作成された古代氏族の名鑑です。氏族の対象範囲は京と五畿内に住む姓氏に限られたものです。
全部で1182氏族が「皇別」・「神別」・「諸蕃」の3分類で記録されていますが、その内訳は、真人(48)、朝臣(101)、祝称(98)、忌寸(50)、臣(66)、連(258)、首(93)、造(80)、公(63)、直(42)、史(28)、村主(20)、県主(12)です。

「皇別は神武天皇以降に天皇家から分かれた氏族で335氏族ありますが、皇親の真人の姓を持つ氏族とそれ以外に分かれています。真人は新羅王族の真骨や真人との関連性を連想させる用語ではないかという疑いがあります。
「神別」は神武天皇以前の分流と神武以前に生じた氏族で、404氏族あります。また、南九州の日向に天孫降臨したという神話に彩られた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)につき従った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代までの間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前に土着していた神々の子孫を「地祇」に分類しています。

「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏族、「天孫」は尾張、出雲など128氏族ですが隼人系の氏族は「天孫」に分類されています。隼人系が天孫に分類されたのは、神武東征に付き従った(従軍の恩賞)という評価の意味合いが考えられます。

「地祇」(国津神、土地の神)には、安曇、弓削など30氏族が入れられています。安曇氏は、古代の海神族の中でもっとも優勢を誇った氏族でしたが安曇蓮氏が代表格です。大和王権の下では特定の職能集団(品部)を統率する伴造でした。弓削氏は、河内弓削氏と吉備弓削氏が代表格ですが、河内弓削氏からは位人身を極めた弓削の道鏡(法王禅師)が出ています。吉備の古代社、スサノオが八岐大蛇を退治して入手した十握剣を祀る「石上布都魂神社」(物部氏の祭祀神社)の職能集団を統率した氏族で物部氏族と縁故を持っていたと考えられています。スサノオの出雲とニギハヤヒを祖とする吉備は近親性が高く、共にヤマト建国に関わったと考えられます。

「諸蕃」は渡来系の氏族で、秦、大蔵など326氏族で、これらを5分類してあります。「漢」に163氏族、「百済」に104氏族、「高麗」(高句麗)に41氏族、「新羅」に9氏族、「任那」に9氏族が分類され、祖先が渡来系であり、中国、朝鮮半島(西アジア、中央アジアからの経由した氏族を含むと考えられる)との関係性を認めるものですが、 さらに、どこにも属さない氏族が117氏族あります。この分類で見えることは、早い時期に渡来して日本列島に確固たる橋頭保を築いた天孫族が、遅れて渡来してきた氏族を体制下に包摂して支配下に置き、それぞれの集団の特性に合わせた役割をもたせて共存してきた関係性を表すものだと考えられます。

天神(天津神=天孫)、地神(国津神)の違いは、天孫系から見た区分と考えられ、渡来系か先住系かという単純な区分とは考えられません。渡来系の系譜を持つと考えられる天孫系が、同じく渡来系の諸蕃を受け入れて共存してきた関係性の中に、天孫系の本当の姿が見えてくると考えられるのです。天孫系が、諸蕃というカテゴリーを設けた理由が疑いないまでに解明できれば、天孫の姿が確実に見えてくると考えられます。「諸蕃」は、ヤマト建国後の渡来人として分類されていますが、姓氏録の殆どが渡来系の弥生人の系譜にある氏族と考えられるところから、渡来系の意味内容はその故地と渡来目的や渡来原因の再検討が必要と考えられます。なぜなら、大陸、朝鮮半島の権力の奪い合いという競争に敗れて逃亡してきた敗者集団が、日本列島で敗者復活を実現できた出来事として捉える視点だけでいいのかどうかの検証が必要だと考えられるのです。

各氏族の出自を明確にするのであれば、天孫も天神も三韓(西アジア、中央アジアから経由した氏族を含む)に由縁を持つ氏族であるところから、これらを新羅系、百済系(加羅系または金冠伽耶系)、高句麗系に、古い渡来系であれば、馬韓系、辰韓系、弁韓系にそれぞれ仕分けするべきだと考えます。詳細な区分をしなかった理由が別にあったと考えられます。今日的な学術研究や歴史認識では出自を明確にすることで信頼や尊敬などが損なわれることはありません。実際にあった歴史事実は変えることができないからです。

『日本書記』天武天皇十年条(682年)には、天皇が川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記して校定し、大島・子首が自ら筆をとって記した、という記載があります。
持統天皇の五年条(691年)には、大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせています。

記紀の編纂に先立ち、「帝紀」や「墓記(氏族史)」に類する歴史書を作成させていますが、ほとんど現存していません。後年にも、各氏族が秘匿してきた残存記録を元に復元を試みましたが、上古の系譜が不鮮明になってしまった家系が多く、提出された纂記を焼却したことが原因と考えられます。

後醍醐天皇の側近・北畠親房は、『神皇正統記』を表して天皇の唯一正当性を説きましたが、この中に「昔、日本は三韓と同じ種族であったが、桓武天皇の治世に、このことが書かれた書物を焼き捨てた(現代語訳)」という記述があります。
当時の為政者が、天皇を日本列島の在来氏族と位置付け、天皇家を中心とする全氏族の統率に説得力のある論理的な根拠を与えるために、各氏族の出自を消去したのではないかと考えられています。

朝鮮半島では、新羅の朝鮮半島 全土の統一(676年)によって、百済系、高句麗系氏族は、故国、本貫地(氏族の発生地)との関係を完全に断たれ、日本列島でしか生きる道が無くなってしまいました。
また、敗戦によって半島の既得権益を喪失したあまたの氏族が大量に日本列島に渡来してきたことから、天皇を中心とする統一日本の建設が急務となる激動の時代背景がありました。

日本史の検証が困難を極める原因は、歴史事実を正確に記録した史書がないことにあります。文字による史書の編集は、今日的な評価でみれば、どの国でも客観的な信頼性のある史書は存在しません。比較的早期に文字を持った民族でも、断片的な資料しか存在しません。

しかも、勝者の歴史観に立つ記述に特徴があり、ここでは支配の正統性を際立たせるプロパガンダとして作られた歴史観が色濃く反映された神話や伝記が事実の解明を大きく妨げています。実は神話や伝記をどのように読み解くかで、歴史認識が大きく異なったものになってしまいます。
戦前の日本の教育現場、特に、義務教育課程で天皇支配を正当化する皇国史観を組織的に刷り込んできた事実が、中国や朝鮮から歴史認識の捏造として批判にさらされてきたことは遺憾でした。

日本の正史とされてきた『日本書紀』や『古事記』は、天武天皇の発案を奇貨として、これを欲しいままに編集した編者たち(藤原不比等)の強い意思によって、日本は万世一系の天皇が統治する国という皇国史観を正当化する目的で創作された史書です。この中では、明らかにしたくない史実が意図的に隠され、または歴史事実を消すための神話や伝説を繋ぎ合わせる数々のレトリックが使われています。

日本の歴史を明らかにするためには、解決しなければならない高い壁があります。
記紀によってさまざまに作られ、彩られたさまざまな神話や伝説の事実関係を読み解き、①天皇(大王)の出自、②これを支えた貴族層の出自、③国や国家の形成過程とその概要(「邪馬台国」の卑弥呼や「ヤマト」の形成過程と初代王)、④日本民族の形成過程(特に、中国、朝鮮半島との関係性など)の概要を史実に基づくものだけでなく、史料がない場合でも、複数の判定事項の合理的な判断から得られる推定概要をも参考にするケースがあっていいと考えます。

記紀が、「銅鐸(出雲文化)、邪馬台国、卑弥呼、倭の五王、藤原氏の出自、天武天皇の出自など」を意図的に記述しなかった理由は、これらを記述すれば記紀の目的とする皇国史観が音をたてて崩れる危険性に満ちた事実を含むものとなる矛盾を回避するためのレトリックであったと考えられます。

『日本書紀』は、大帝国「唐」に対して、天皇家の国家支配を正当化する説明と、天皇を神聖化してその権威の継承を裏付けようとするものです。この中では出来事を時代順に漢文で記述する編年体の歴史書の編纂形式を踏襲しています。
明治以降から昭和20年の終戦まで80年間、これを真実と受け止める国家の歴史教育が国民に万世一系の統治者としての絶対化された天皇像を刷り込んできました。敗戦以降にはその教育内容が改められていますが、日本人の意識の中に濃厚に残っている残滓は少なくないと考えられています。

『古事記』は、日本国内向けに書かれた書物ですが、天皇の統治を正当化する目的で神や天皇の伝記を中心に物語風に和文体で構成されています。
天皇の出自は隠されたままですが、神話と伝説によってさまざまに彩られる手法によって天皇を貴種として崇め奉ることを目的としています。
記紀には同一事項についてそれぞれ異なる記述が散見できるところから、記述内容の統一性を重視しなかったことが分かります。

この意味では、今日に伝わる史書のみでは解明でき無いことが明らかであり、「史跡の発掘(遺物の研究)」、民族の「遺伝子の分析」、民族の「言語の研究」、など周辺の民族の歴史的実在に係わる総合的な研究が必要です。
また、敗者の歴史も学ぶ必要があります。具体的には、大国主(出雲)、素戔嗚(スサノオ)、葛城氏、物部氏、蘇我氏などの諸王権の存在と主張に耳を貸して、これらの歴史的存在と真実を読み解く必要があります。
明確な意図をもって作られたと考えられる記紀の古代史を読み解くことは平坦で容易な手法ではありません。合理的な推理力をも必要とする判断のプロセスを排除することは歴史研究を封殺することであり、真実性の芽を摘むことになるからです。勿論、合理的な推理はあくまでも推理の範疇であり、証拠の裏付けがない限り史実とは扱われないことは当然です。

この視点から資料によって日本史を仮説すれば、①西暦239年、卑弥呼が魏に初めて朝貢し、親魏倭王の金印を授かる(中国二十四史「北史」)。②西暦240~249年頃卑弥呼が死し男王がたったが国中が従わず内乱となったので卑弥呼の宗女「台与(とよ)」を王にたてて混乱が収まった。③西暦600年倭王「阿毎」が遣使したが、この国には阿蘇山があり、天に火柱を登らせている。新羅や百済は、倭は大国で珍しいものが多いので敬い常に往来しているとあるところから九州王権のことだと考えられる。④同「旧唐書」には、倭国は古の奴国である。四方の小さな島々と50余国が奴国に属しているが王は「阿毎」といい諸国は皆畏怖しているという記述があります。西暦631年にも朝貢の遣使があり、西暦648年には新羅に倭(阿毎)から遣使があったことから、倭国、奴国は九州王権であることが分かります。

この倭王「阿毎」は「隋書」にも登場する名前です。⑤同「梁書」、「南史」、「宋書」には、西暦396年~482年に讃・珍・済・興・武の「倭の五王」が登場しています。邪馬台国が「晋」に朝貢して150年余りの後、「宋」に倭の五王が朝貢しました。済・興・武を允恭、安康、雄略の各天皇に比定する説が多数説ですが、讃には応神、仁徳、履中の各説が、珍には仁徳、反正の各説があり定まっていません。この時代は北部九州王権(倭国)が健在でありえたかどうか不明ですが、正当な外交権を持たないヤマト王であれば、三国時代の朝鮮半島で高句麗王や百済王より上位の軍事的な称号を賜ることを中国・宋(宗主国)に願い出る資格はなかったと考えられます。

倭の五王は九州勢力が東征してヤマト王権を形成し、4世紀頃からに徐々に九州の倭国王権を簒奪していたものと考えられますが、朝鮮半島に進出し影響下に置く地域を拡大して温存するために朝鮮半島での外交を有利に進めたいとする思惑を持っていたと考えられます。しかし、倭王の称号は高句麗王や百済王より低い地位に留め置かれました。華夷秩序の上下関係が反映されたものと考えられます。

この『宋書』(487年編纂)には、「秋七月甲辰、安東将軍倭国王濟、安東大将軍に進号す」という記述があり、国王が「倭」という姓を名乗っていたことが分かります。何故に「倭」という姓を名乗ったのでしょうか。これは、外交的な戦略であったと考えられます。ヤマトが宋に無断で倭国を併合したことを隠す意味で、併合は平和裏の禅譲であったとする偽りの外交交渉を行い、疑念を払拭させて宋の暗黙の了解を取り付けたものであったと考えられます。倭は卑称であり、宋の自尊心を煽って疑念を持たせないための手段であったと考えられます。倭国王を名乗るゆえに倭を姓とする王名を仕方なく使ったのだと考えられるのです。ヤマトの勢力が九州の王権を吸収したという露骨な説明では宋を納得させることは困難だと考えられるのです。

五王は、倭国王の正当な継承者として宗主国(南朝の宋)に承認されなければ朝貢による既得権益や外交権を認められることがありません。五王がヤマト(近畿)の王とすれば、正統な外交権を持つ倭国(九州王権)の王権を4世紀頃に簒奪し、倭国王権の継承を宗主国に認めさせたものと考えられます。どのような理由をあげて宋を納得させたのでしょうか。

10世紀に中国で完成した『旧唐書』と『新唐書』には、「倭国」と「日本国」が併記され、「もともと倭国の東にあった小国の日本が倭国を合併した」と記述されています。また、「日本国は倭国の別種である。その国は日の出る場所にあるので日本と名付けた。倭国はその名前が雅でないことを嫌い日本に改名した」ともいう。日本は昔、小国であったが倭国の地を併せたという記述は、『魏志倭人伝』にある倭国と日本国はまったく別の国で日本は小国であったという意味になります。ヤマトが九州の倭国を実力によって宗主国に無断で併合したが、宋が詳しい事情を知る前に外交的な手を打って弁明に努め、宋を納得させて朝貢関係を継承することができたものと考えられます。

しかし、宋は倭(日本国)が切望したの朝鮮半島での権益拡大を認めなかったことから、倭(日本国)は478年に朝貢(遣使)を打ち切っています。なお、『続日本紀』によれば、日本国の正式な国号の使用例は、702年の遣唐使(対外的な外交関係)であるとも考えられ、これをもって日本国の成立と見做す考え方があります。天皇の称号は7世紀後半に成立した律令国家にポイントを置く考え方から、天武・持統天皇から始まったとする説など諸説がありますが、日本国の最初の天皇の称号は、推古女帝であったとする有力説があります。

九州王権が大和王権(統一王権)に併合されたのは西暦650頃のことと考えられます。前方後円墳が作られなくなった時代と一致します。この時代は唐が朝鮮半島の三国(百済、高句麗、新羅)に軍事介入して新羅と同盟し、百済、高句麗が亡国を迎えていく激動の時代でした。空白の4世紀頃から変貌を遂げた大和王権が力をつけて諸国の盟主となり影響力を拡大して扶植した激動期でもあったと考えられますが、⑥王権の威圧感をデモンストレーションする意図で見せるための前方後円墳が築造され始めた西暦300年代から、400年代には畿内を制圧し、450年代から全国に勢力を拡大し、592年の飛鳥(天武天皇)時代の到来は統一王権・大和王権の誕生であったと考えられます。

記紀は、このような激動の歴史的な事柄を記述しない方針を取ったものと考えられますが、日本国の誕生の瞬間を隠すことは許されません。記紀を日本の正当な史書とするのであれば、歴史事実でない記述や神話伝説は参考資料として資料編ににとどめ、本文は客観的な事実のみで記紀に替わる日本史を作成して信頼回復に努めるべきです。
また、記紀の相互に異なる記述は教育の現場でその違いを明らかにするべきです。少なくとも、何を国の正史とすべきかの責任を果たしてほしいと考えます。歴史ファンタジー小説の記録でしかない記紀の編纂者の立場を容認することがあるべき教育の姿とは考えられません。中国、韓国から歴史問題にからむ文化的な侮辱をいつまで受け続けるのでしょうか。学会の叡智を結集して事実の解明に努めるべきであると考えます。

戦後一貫して、政府はこのような歴史認識を明らかにする責務を放棄してきました。対外的な批判に公的な歴史認識を示してこなかったことで、国民は中国、韓国(朝鮮)が発する日本の歴史認識に対して組織的に対応することができず、大きく国益を損なっていることはまことに遺憾です。
内政干渉というべきこれらの歴史認識が言論の自由の範疇にある問題でないことは明らかです。これらに毅然とした反論をしてこなかったことで批判に正当性があると錯覚させたことは外交の失敗というべきです。日本は有史以来、中国、朝鮮半島との関わりを絶つことできない宿命の歴史的な因縁の位置関係にあることを再認識しなければなりません。

中国や韓国(朝鮮)は自己中心に歴史問題をとらえる国民性に覆われています。日本政府がタイムリーかつ適切に反論してこなかったことで、外交問題(尖閣問題や竹島問題、慰安婦問題など)に限らず、国内問題(靖国問題など)にまで容喙させ、非難を受ける立場に立たされています。

中国、韓国との政治対話による解決策は見えず、当面の期待感は全くありません。この二国は伝統的に国力の差が歴然としない限り、中華思想による自国中心の世界観を譲る気配は全くない国です。敗戦のショックで65年もの間、平和ボケを続けてきた現在の日本には相手に譲歩をさせる国力もなく説得力もありません。軍事力と外交力、経済力(国力の要素)の威圧感がない国の言い分に理解を示す不仲の隣国があるはずもなく、国益を損なえば、話し合いで問題解決ができる環境が整うはずがありません。

日本の外交努力は、適切な説明能力を養ったうえで、直接の利害関係にないアジア諸国や欧米諸国に対して積極的に日本の主張を発信する方向に舵を切る必要性があります。効果的な打ち手がないところから、遠交近攻策が有効な手段だと考えられます。