(27)中期密教の成立(東密と台密)

最澄の仏教界に占める地位や権威は入唐後にはもっと強力になっていました。
ところが、最澄はとても困った事態に直面しました。ノイローゼで病床にあった桓武天皇から密教の祈祷や呪文で救ってほしいという切実な期待をされたのです。また、貴族たちからも法華経ではなく密教の加持祈祷のご利益を期待されてしまったのです。

最澄は天皇の命令により密教の加持祈祷や儀礼を行わざるを得ませんでした。
しかし、最澄の密教は中途半端なものでした。このような時に、空海が唐から本格的な密教を持ち帰ったのです。
もし、最澄が完全な密教を持ち帰っていたら、最澄の運命は大きく変わったものになっていたはずです。

空海は、能書家ゆえに嵯峨天皇のなみなみならぬ信頼を受け、真言密教を確立するための一つの手段としましたが、これによって空海の本質が損なわれることはありませんでした。

空海は「密教の第一人者」、「文学・芸術(書)の大家」、「医療と漢方医学に精通」して非凡な才能を示し「民衆救済と社会福祉事業」で活躍して嵯峨天皇に重用されました。

この頃、空海と最澄の立場がすでに逆転していたのではないかと云われています。
かつて桓武天皇の内供奉に任じられた最澄は、嵯峨天皇の時代では空海の密教に完全に抑えられていたことが分かります。

また最澄は、密教を修得させるため空海の下に派遣して修行をさせていた最愛の弟子「泰範」が密教に魅せられて空海の弟子となってしまったことで深い落胆をすることになりました。

空海が年分度者を許可されたのは835年のことでした。空海の教団が成立したのは伝統的な説では807年とされていますが、弟子集団が成立したのは813年~814年頃ではないかという有力説があります。

806年、最澄は天台宗を認められ南都六宗に対抗できる存在となりました。これにより、最澄は朝廷に南都六宗と同様に国家公認の僧の授戒が独自に出来ることを朝廷に願いでました。

天台宗が大乗戒壇院の設立を認められたのは、最澄の死後七日目のことでした。南都仏教界の妨害により、生前の実現が叶いませんでした。比叡山に延暦寺の戒壇院が設立されたのは、最澄の死後から五年後のことでした。

天台宗は、年分度者として、遮那業(密教)1名、止観業(法華)1名の計2名を毎年、国家公認の僧として選出することを嵯峨天皇から認可されました。南都六宗以外からは初めてのことです。

最澄が存命中は、比叡山には正統な密教は伝わりませんでした。
最澄の滅後に天台座主となる直弟子「円仁」と孫弟子「円珍」が相次いで中国に密教を求めて留学し、比叡山に本格的な密教を請来することになります。

台密の特徴は、空海の東密が『大日経』と『金剛頂経』を理智不二とするのに対し、両部の上に『蘇悉地経』を別に総括的にたてることです。これには東密から理論的に不要との批判があります。
『蘇悉地経』にはサンスクリット原典が残っていないのでインドでの成立事情が不明です。この経は、所作を徹底的に整備するための儀軌書ですが、何故に、天台宗では『大日経』や『金剛頂経』の上に置いたのでしょうか。
『蘇悉地経』には『大日経』や『金剛頂経』に匹敵する哲学がなく諸尊の配列もありません。しかし、両部の真言法(仏部・蓮華部・金剛部)を成就する修法の経としての観念が中国では青龍寺の義真、法全、比叡山の円仁、円珍、宗叡らの伝授の流れの中で形成され受け止められてきたものと考えられます。
なお、『蘇悉地経』の教説主は執金剛、対向者は軍茶利、中尊は仏頂尊という特徴的な構成になっています。

比叡山では、密教の解釈の相違により、円仁の門流は比叡山(山門派)を占拠し、円珍の門流(寺門派)は園城寺(三井寺)に追いやられ、その門弟たちは正統性を争い、骨肉の争いをすることになります。
天台法華宗ともいわれる比叡山が密教の解釈の相違で二つに割れたのです。比叡山の密教の比重がどれほどに大きく妥協できない性質であったかがわかる出来事でした。

円仁(慈覚大師・794-864))は最澄の弟子です。第17次遣唐使に随行し在唐9年の艱難辛苦の修行を行い、比叡山に蘇悉地経を請来して、台密を東密の『大日経』、『金剛頂教』に『蘇悉地経』を加えた三部構成にし、法華経を同列に扱い、東密に対する特色として台密の基礎を固めました。
円仁の密教の特色は法華経や他の一乗教を密教に含め、三乗教を顕教に配するという特異な見解でした。東密の顕劣密勝の立場に対して劣性にあった天台の顕密観を示さねばならない宿命によるものですが相当に無理を重ねた見解です。

円仁は天台宗第3代座主となり、天台宗を10年間指導しました。
最澄や空海が入唐した9世紀初頭には蘇悉地経には両部と同等の評価はありませんでしたが、円仁が入唐したころ中国では蘇悉地法が最盛期であったことの影響だと考えられます。

円珍(智証大師・814-891)は天台初代座主義真の弟子です。遣唐使の派遣が中止されていたため唐の貿易船に便乗して中国にわたり6年間天台山や青龍寺で学びました。延暦寺別院・園城寺(三井寺)の初代別当となり、五代天台座主を歴任し、天台密教を完成させ、根本中堂の改造に着手して比叡山の伽藍配置を現在の形にしました。円珍は空海の甥(妹の子)といわれています。
円珍は、円仁の密教観を継承しつつも円教(法華経)に対する密教の優位性(円劣密勝)を大胆に主張しています。

ちなみに、比叡山の根本中堂は密教壇で荘厳され日々の儀式は密教儀礼で行われています。密教では、最澄は空海の弟子として灌頂を受けています。最澄は円(法華)密一致の立場でした。矛盾するものと捉えていませんでした。
最澄の後継者である「円仁」「「円珍」は比叡山が密教に於いて、純粋密教の正統な血脈相承者である空海の高野山や東寺に見劣りしている現状を憂いて相次いで中国に留学し整合性のある密教を導入する努力を続けたので比叡山は著しく密教に傾斜することになりました。

比叡山は、平安時代から戦国時代まで何度も武装した僧兵が京都市中に乱入して朝廷に強訴するなど政治介入を繰り返した歴史を持っています。織田信長に反抗して無謀な政治的介入を繰り返し、全山の焼き打ちという前代未聞の壊滅的な打撃を受けましたが、これらは法華一乗の思想をもって朝廷も武家も恐れ入らせることができると過信したからだと考えられています。
比叡山は政治に介入する悪癖を濃厚に持つ歴史に彩られています。

天台密教を完成させたのは五大院「安然」でした。安然は円仁の弟子ですが、最澄の一族でもあります。安然は相反するものと思われた法華と密教を統合する理論を打ち立て、天台密教を確立した学匠です。密教を中心にすべての仏教を統一する一元論を説き天台密教を大成させました。

安然の教学思想の特色は、その著作の『真言宗教時義』や『菩提心義』などに示されていますが、蔵教・通教・別教の三乗教や法華・華厳の円教の上に密教の優位を位置付ける五時教判によって、一切の仏教を密教によって統合するものでした。
如来隋自意の立場から見ればあらゆる教えはすべては密教に帰納するという立場で、台密の教義は、密教を中心に置きつつ天台法華教学との融合、一致を模索するものでした。安然はこれが密教の本質と捉えたのです。安然は天台宗の名を廃して真言宗の名を用い、台密の教理を完成させました。
台密の流れは、良源、覚超、皇慶、覚運、源信などに引き継がれ、密教の修法を中心にして比叡山を発展させました。

比叡山では、覚超の流派が横川を修行場所としたので「川流」と呼ばれ、皇慶の流派は東塔南谷を修行場所としたので「谷流」と呼ばれました。谷流は時代とともに分派を重ねています。

比叡山延暦寺は密教化により護国の大法を修する王城鎮護の寺として発展を遂げましたが、後に法華一乗の立場からこれを批判する勢力が現れました。
比叡山には密教を中心とする「遮那業」と法華経を中心とする「止観業」の二つの側面があります。中心が二つあることは、折に触れて何かと問題が発生しやすいといことでもあります。これが天台宗の限界です。比叡山は今後とも密教と法華の間で彷徨うほかないと考えられます。