(26)中期密教の成立(空海と最澄)

空海が密教に出会うことになった経緯は次の通りです。
都の大学に入学を果たし将来を嘱望されていたのにもかかわらず、父母や周囲の期待に背いて、空海が出家の決意をするに至る心境の変化を『聾瞽指帰』(後の『三教指帰』)というユニークな戯曲風の自伝で語っています。
出家の動機を述べ、仏教が儒教や道教とは比較にならないほど優れていることを結論づけています。一人の沙門から虚空蔵聞持の法を聞き、仏典を学ぶうちに仏教への関心が高まっていき、大学を中退して、私度僧として各地に修行を重ねた結果、仏教の奥義を極めたいとして衆生済度の為に出家する動機を語った出家宣言の書です。

空海と密教の出会いは、伝記によれば、奈良の大安寺や東大寺で経典を学んだが空海を満足させる経典が無かったということです。そこで、空海が「唯一無二の教えを示したまえ」と一心に祈ると、夢の中に見知らぬ人が立ち『大毘盧遮那経』(『大日経』)という経典が大和の国高市郡の久米寺の東塔の下にある。そこに不二の教えが示されている」と告げ、姿を消した、といいます。

さっそく夢に示されたとおり、久米寺に行くと、東塔の柱の中に『大日経』が眠っていました。『大日経』には「自己の探究と悟りへの真実に生きる道」が説かれていることがわかりました。
しかし、手に取って見ても神童といわれた空海にも全く歯が立たない内容が随所にある経典でした。
密教経典はサンスクリット文字や真言、印契、密教儀礼などが多数あり、顕教の僧や研究者から見れば未知の領域にある経典です。基礎知識が全くない状態では無理もありません。

『大日経』は遣唐使船がずいぶん前に中国から持ち帰ったものの、誰もこれを研究する者がいないまま放置されていたと考えられます。誰に尋ねても空海に教えられる師はいませんでした。唐に渡る以外に方法は無い、空海の胸に入唐求法の思いが急速に膨らんだものと考えられます。

インドから中国に伝来された最新の大乗仏教である純粋密教(中期)は大日如来の慈悲を語る「胎蔵生」と大日如来の智慧を語る「金剛界」の両部の大法を相承する中国・青龍寺の恵果阿闍梨から、その弟子千人余を差し置いて、伝法の素質を認められた留学僧「空海」が伝法灌頂を受けたことにより日本に請来されました。

空海が常人と異なるのは、渡海するまでに10年以上も密教の基礎(山岳修行のようなものと考えられる)を修行していた実績があることです。しかも、西安に到着して直ちに密教を教える寺院を尋ねることなく、中国密教の第一人者・恵果阿闍梨に弟子入りして本物の密教を学ぶための用意周到な事前準備と情報収集に努めたことです。
このため、西明寺に逗留して密教を学ぶための準備期間を設け、中国語、サンスクリット語の練達と様々な筆法を修めて、直ぐに密教が学べる態勢を用意周到に整えていたことです。
空海は、密教を学ぶ十分な予備知識と心構えを持って、万全な状態で青龍寺の恵果阿闍梨の弟子入りに臨みました。

空海は書や文芸についても仏道修行の一環として熱心に研究しています。様々な書風や技巧を学び、その実力は本場の中国皇帝より「五筆和尚」の敬称を送られたことでも明らかです。空海は僅か二年の在唐中に中国人が驚愕するほどの書や漢文の達人の域に達していたのです。
恵果はこのような西安での空海の評判を聞き知っていたのではないかと考えられます。空海の留学の目的が密教の受法と伝授にあることも風評によって聞き知っていたものと考えられます。

空海と恵果の出会いの情景とエピソードが『御請来目録』に記されています。
ここでは、恵果は余命の少ないことを自覚して、付法すべき適任者の出現を待ち望んでいたと考えられています。恵果は遠く東の国から渡海してきて密教の受法を願い出た日本の留学僧・空海を一目見て、その才能を見抜き、自らが受け継いできた密教の奥義をことごとく異国の留学僧に伝授しようと決意した、と見られています。
恵果は、空海に「我先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。報命竭きなんと欲すれども、付法に人なし。必ず須らく速やかに香華を辨じて灌頂壇に入るべし」と語り、密教の劇的な縁を示しました。空海32歳のことです。

空海と恵果の発菩提心戒の授戒や胎蔵生・金剛界の両部の伝法灌頂などの授法、阿闍梨位の認定までは6カ月間かけて行われています。空海の有縁の仏菩薩を定める密教儀式に於いて、目隠しをした空海が金剛界・胎蔵界の敷曼荼羅に導かれ投華得仏という儀式に臨んだところ、いずれの投華でも大日如来に落下するという不思議な縁で、恵果から「遍照金剛」の号を授けられました。
この故事により、空海の法号が「南無大師遍照金剛」となったのです。
師僧の恵果も、弟子の空海も常人ではない器の大きさが分かるエピソードです。空海に密教の法統を伝授した恵果はこの直後に60歳で遷化しました。

空海と最澄は同一の遣唐使(804年)に随行した留学生でした。空海は自己負担で長期間(20年)学ぶ留学生として正統密教を、最澄は朝廷の命令により莫大な留学費用のすべてを国家から支給される待遇を受ける環学生(短期留学1年)として、天台教学(法華文句、法華玄義、摩訶止観など)を、それぞれ中国から持ち帰る目的を持っていました。

空海が持ち帰った密教は統合性のある純粋密教でしたが、留学期限を待たずして目的を達成し僅か2年余で帰国したことで帰朝報告の入洛が4年余も許されませんでした。空海が太政官から入京を許可されたのは809年7月のことでした。
密教はすでに最澄によりもたらされた(空海は二番煎じ)という事実があったことで希少性が損なわれたことは事実です。空海が帰朝報告を許されたのは遣唐判官の高階遠成を通じて『御請来目録』を朝廷に提出したこと、この中に書かれた密教文献の膨大な量と内容から正統密教への期待感が高まったこと、また、皇位の継承が平城天皇から嵯峨天皇に移ったことが大きく影響したと考えられています。

空海の『御請来目録』の中身とは
・新訳の教典   142部 247巻
・梵字真言讃    42部  44巻
・論疏章(注釈書) 32部 174巻
・仏像、曼荼羅、密教法具
など多数

『御請来目録』から判ることは、まず、その多彩さです。これは、密教が単に教典や注釈書などを読んで理解できるものではないということです。密教儀礼には、梵字真言を唱え、仏像や曼荼羅を祀り、密教法具を用いるなど、誰が見ても識別できる分かりやすい特徴があります。これは、先人の僧が導入した顕教とは明らかに違う性格のものを請来したことが分かります。
空海の請来した教典は、不空(恵果の師僧)の訳した教典が多いことです。不空訳の教典をたくさん持ち帰ったことが空海の密教の大きな特徴です。

また、この目録に「密教の教えは奥深くて言葉や筆で表現しきれるものではない。だから、図画の形をかりてまだその奥深い教えを知らない人たちに示すのである」と書いた空海の注釈が印象的です。

最澄は、ついでに禅や密教を学びましたが不完全なものでした。最澄の帰朝報告では中国天台宗の報告のついでに奉呈した密教教典に天皇や朝廷が予想外の大反響を示したので大変驚きました。その後、空海が持ち帰った密教の内容が『御請来目録』(今日の国宝や重要文化財を多数含む)として奉呈されたことで、最澄の密教が部分的で不完全なものであったことが判明しました。

806年10月22日、空海が帰国後に最初に執筆して朝廷に提出した『御請来目録』には要所に説明がありますが、これによれば①密教は仏教の中でもっとも優れた教えである。②密教は即身成仏の教えである。③密教は鎮護国家の教えである。④密教は民衆の攘災招福の教えである。との説明があります。

812年、空海は京都の高尾山寺(神護寺)において、日本最初の純粋密教の灌頂を行いましたが、この時、最澄とその門下生らが弟子となり初歩の灌頂を受けました。

真面目な天才最澄はさすがです。なんと当時は格下の空海に弟子入りして2度の灌頂を受けています。しかし、最澄は密教が「師弟相承=面授」で行われることを理解できず、法華経と同様に経典を読んで理解できると考え数々の教典を空海から借覧することを繰り返しましたが、秘教の『理趣釈経』の借覧を空海から拒否されたことをきっかけとして二人の宗教観の微妙な相違点が大きくなり、交友関係は疎遠になりました。

二人の密教の取り組み姿勢の根本的な相違点は、空海は「密教は五感の全てを駆使して学び、師の面授によって体得するものであり、文字や言葉を理解することではない。教典を読んで解かるというものではないのに、何故に教典や筆授にこだわるのか」と考え、最澄は「密教を学びたいために教典を借りて書写したいだけなのに貸してくれない」と考えたことにあると云われています。
この事情が空海と最澄の7年間の交流を示す往復書簡である国宝の『風信帖』『忽恵帖』『忽披帖』『灌頂歴名』からありありと分かります。

最澄が帰国後に目標としたものは①鑑真が定めた戒壇制度(全国3拠点「奈良・東大寺」「下野・薬師寺」「筑紫・観世音寺」で行う僧の認定制度)を改めること、②比叡山(一乗止観院)を「大乗戒壇」にして仏教アカデミーの拠点とすることでした。

実は最澄は、空海が帰朝を許される以前の805年(延暦24年)に、勅命により、最澄が阿闍梨となって、奈良・南都六宗の高僧(道証・修円・勤操など)を無理やり集め、日本で初めて密教の灌頂を京都・高尾山寺(神護寺)で行い名声を得ました。しかし、このことは最澄にとっては驚きであったと思われます。なぜなら、最澄に密教の阿闍梨位の適正な資格があったかどうかといえば否定的だからです。