(22)密教の萌芽の過程

インドは多民族によって形成された混成国家です。多数の民族が興亡を繰り返した数々の歴史を持っています。 紀元前13世紀頃、コーカサス北方を本拠地としていたアーリア人の一派がインドに侵入し、インダス上流のパンジャブ地方に定住して独自の文化を形成しました。 これがインド・アーリア人の起源です。その文化をアーリア文明といいますが、インドには多数の先住民族が存在していてそれぞれの文化を持っていました。その代表格がインダス文明です。


先住民族のインダス文明は、青銅器を用いる文化です。ハラッパやモヘンジョ・ダロなどの都市を建設し、メソポタミア文明との関係性をもつ文化でしたが、アーリア人に征服され衰退しました。 征服された先住民族は、現南インド地域に居住するドラビダ人、現中インド地域に居住するムンダ人と考えられます。これら非アーリア人は、平野部に住む人々は農耕を、山間部に住む者は牧畜、狩猟採取をおこなっていましたが、部族構成は母系的な家族制度でした。


インダス文明の遺品から、人々は獣・鳥・樹木・女神・生殖器などを崇拝し、宗教的な実践法としてヨーガ(yoga)を行っていたと考えられます。また、これらの人々は呪術に長じていて日常生活や生産活動に用いていたことが知られています。 このような非アーリア系の文化が後世のヒンドゥー教に影響を与えましたが、密教もまたその多くの要素を非アーリア文化から継承しています。


インド最古のヴェーダ聖典は、もっとも古い「リグ・ヴェーダ(賛歌)」(Rg-veda)が紀元前1200-1000年頃にパンジャブ地方に定住するアーリア人にって編纂されました。 紀元前1000年~500年頃に「サーマ・ヴェーダ(歌詠)」(Sama)、「ヤジュル・ヴェーダ(祭詞)」(Yajur)、「アタルヴァ・ヴェーダ(呪詞)」(Atharva)の3ヴェーダが作られ、バラモン教が成立しました。


紀元前10世紀頃、アーリア人と先住民のドラヴィダ人の混血がはじまり、宗教の融合が始まりました。紀元前5世紀頃にバラモン教が誕生する淵源となる出来事でした。
バラモン教とは司祭階級のブラーフマナが祭祀を通じて神々と関わる特別な権限を持ち、宇宙の根本原理・ブラフマンに近い存在とする宗教です。カースト制度という四姓制に特徴があります。


これは、司祭階級のバラモンを最上とし、クシャトリア(王族・戦士階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)という身分制度ですが、生まれによって決定され生涯変わることのない身分制度で、現代でも生きています。
カースト制度の下には四つ身分の他に身分外のアチュート(パーリア:不可触賤民)が置かれています。現在のこの身分の人口は一億人を超えるといわれていますので、ほぼ日本の総人口に匹敵する人々が存在していることになります。異常な数字です。


なお、異なるカースト間の結婚は認められないのがこの制度の特徴です。しかし、カースト制度のヴァルナ(身分)の差別よりもジャーテイ(職業)の差別のほうが耐え難い差別であるといわれていますが、インド人は現在のカーストは過去の生の結果であるから、これを受け入れて人生のテーマを生きるべきだと考えています。 1950年にカーストによる差別は憲法で禁止されましたが、インド社会の中には根強く生きています。


カースト制度の思想的な背景はカルマ(業)とサンサーラ(輪廻)にあります。これらがインド人の死生観や世界観を形成してきたものですが、この思想(バラモン教とヒンドゥー教)は仏教の解脱思想に大きな影響を与えました。仏教はバラモン教やヒンドゥー教に対するアンチテーゼによって出現した側面があります。


リグ・ヴェーダの神々の神格が発展し、土俗神と結合して変容し密教のマンダラに編入された代表的なものに、帝釈天、水天、火天、月天、風天があります。また、密教の大日如来(毘盧遮那仏)の起源はアスラにまで遡ることができるといいます。 アスラは後期ヴェーダ時代にはデヴァーと対立する神格でしたが、これはアーリア人に征服された先住民の象徴と見られています。 密教の真言の祖型はリグ・ヴェーダのマントラ(mantra)に求められます。
古代インド人にとっては、宗教儀礼と呪法は本質的には同質のものと考えられていました。これらはいずれも願望達成のための手段です。ヴェーダ祭祀は呪法と密接に結びついたものでした。


リグ・ヴェーダの神々に捧げたマントラには、ほぼ30種類の呪法があります。その代表的なものは、病気治療、怨敵放逐、危害除去、祈雨、戦勝などの呪文です。
紀元前1000年以降の後期ヴェーダ時代には、アーリア文化と非アーリア文化の交流が促進されて「アタルヴァー・ヴェーダ」が生まれ、呪文や呪法の占める比重が急激に増大しました。 その内容は、治病法、息災法、長寿法、増益法、贖罪法、和合法、女事法、調伏法、王事法、バラモン法などでした。
息災、増益、調伏の修法は「蘇悉地法」や「大日経」系統の三種法の名称と一致し内容も異なるところがありません。ちなみに、「金剛頂経」系統は、これらに敬愛と鉤召を加えた5種法です。5種法のサンスクリット語もヴェーダ文献の一部に見られるものです。 また、密教の護摩の炉は、ヴェーダ時代の火炉と類似する点が多く、密教のパンテオンや修法の中にはヴェーダの文献にその祖型が見られるものが少なくなくありません。


アーリア文化がガンジス河の上流地域から次第にインド中央部に浸透するにつれ非アーリア系の土着文化を吸収して融合し発展した結果、土着民の思想と文化がアーリア人の宗教の中に次第に摂取され表面化するようになりました。
密教の忿怒尊は非アーリア文化系にあったものです。五大明王はドラヴィダ人の家内奴隷に起源をもつといわれ、グプタ朝時代以後に密教に取り入れられたものです。金剛夜叉明王はインダス文明の母神像と密接な関係が想定されるものです。 大元帥明王の前身はアータヴァカ(Atavaka)に、毘沙門天の前身はヴァイシュラヴァナ(Vaisrevana)に求められ、母権制社会を構成していた非アーリア人の姿がそのま投影されたものと考えられます。 孔雀明王のマユーラ(mayura)はムンダ語のモーラ(mora)から、龍王のナーガ(naga)は非アーリア語に起源があります。


また、したたる生血、人肉に対する食慾、蛇の腕輪、人間の頭蓋骨の首飾りや腕の飾りは非アーリア系のドラヴィダ語を話す人々の間で尊敬されている母神の特性です。これらの特徴は後期密教の母タントラ系の母神の特性であり、農耕儀礼の名残りと考えられます。 祈雨・止雨などの農耕呪術は非アーリア社会では女性の役目でしたが、アーリア化したことによって次第に男性の役目に転化したと考えられます。


仏教は釈迦によって始まりました。紀元前500年前後のことです。 釈迦は呪術やバラモンの宗教儀礼を否認しました。これは原始仏教教団の基本的な性格の一つと見られてきました。 初期の仏教教団が呪術の類を排除した原因は、ブッダの教説が、他に依存することなく、徹底した自己の凝視を求める基本的な立場を取ったことにあると考えられています。 それにも関わらず、ブッダの教説の中には、究極の智慧が明として表現されています。明は、明呪とも云い呪術を意味する言葉です。


中国の教典翻訳の過程でパリー語のvijja、サンスクリット語のvidya(宗教的な目覚めの智慧)が明と訳されました。明は人間存在のあらゆる苦悩の原因である無明を除くものです。 明は古代インド人にとっては明呪の法であるとともに一種の科学と受け止められていました。また、本来的には明は宗教的・神秘的な知の意味合いの強い言葉です。 古代インドでは、明はヴェーダ聖典、知識、学問や神通力、あるいは真言、明呪などの意味で用いられました。


真言、陀羅尼、呪句の起源は次のように考えられています。 ①古代インドの人々が日常生活の中で使用していた呪句が次第に仏教に取り入れられたもの。 ②真実なもの、真実の言葉は攘災の機能を持つ、というインドに古くから存在した信仰にもとずくもの。 ③禅定によって精神統一した結果として生じた攘災の機能を持つもの。
南方仏教圏でも病気平癒とか護身のためにパリッタ(paritta)が誦されてきました。パリッタはパーリ語仏典にもしばしば現われますが、インド民衆の間で、日常生活の円満のために誦された呪句です。


パリッタは、南伝の上座部仏教(部派仏教)に引き継がれ、除災の為に読誦されています。 農村部の氏族制農村社会に仏教が浸透するにつれ、原始仏教教団の呪術に対する厳格な態度にも実際的には軟化せざるをえず、護身のための呪文は黙認されたのではないかと考えられています。


明は五明処(panca-vidya)にまとめられましたが、五明処はインドでは学問や科学的な知識をあらわすものとして五種にまとめられました。 仏教徒が学ぶ五明は、①声明(文法・文学)、②工巧明(工芸・技術、暦数)、③医方明(医学)、④因明(論理学)、⑤内明(哲学・教義学)です。 また、世俗一般が学ぶ五明は、①声明、②工巧明、③医方明、④呪術明、⑤符印明でした。呪術明と符印明は呪文に関わる明です。
大乗仏教では、菩薩が修める学として展開しますが、密教では明呪に呪術的な生産知識、原始科学の意味を含めています。 明呪と科学は「ある行為において一定の効果が約束される」という共通の基盤に立っています。


密教が、呪術的な様式の根底にブッダの自内証の明の意義や精神を踏まえなければならないことは当然です。 ブッダの伝記の中には奇跡的な記述が少なくありません。ブッダは神通力の濫用を戒めましたが、ブッダの伝記には超自然的な神通力による能力を発揮する説話が実に数多く含まれています。
「明」、「呪」や「咒」、陀羅尼もその言語は「マントラ」です。「真言」と訳されています。玄奘三蔵の時代には、「心咒」や「神咒」または「明咒」と様々に訳され、訳語は決定されていませんでしたが、中国・漢で「真言」という訳語が定着しました。 真言は密教の特殊言語と考えられていますが、実は、浄土真宗と日蓮正宗の2宗を除く大乗仏教の宗派で日常に読誦されています。


ブッダの奇跡譚(物語)は宗教的な意味を内包するものですが、これらは大乗仏教の神話や密教の神話に取り入れられて雄大な構想によって表現されるようになります。 これらの記述は、ブッダの行為を記録する宗教的な表現として一定の法則に従って伝記作者が取った表現方法であろうと考えられます。
マウリア朝のアショーカ王はインドを政治的に、軍事的に統一し、仏教を奨励してギリシャ地方にまで伝導師を派遣しました。インド各地に萌芽した仏教教団は急速に勢力拡大の好機に恵まれました。


2世紀初期、クシャーナ朝の三代目のカニシカ王は、西北インドに侵入し中央アジアからイランに至る地域にまで支配権を及ぼしました。ローマと通商し、ヨーロッパの文化を受け入れると中央アジア、ローマ、インドの文化の諸要素が混交して独特のインド文化を生みました。
このような社会背景のもとで、大乗仏教が興起しました。天文学、医学、論理学などの学術が興隆し、ガンダーラ美術が最盛期を迎え、ギリシャ彫刻の影響を受けた仏像の造立が起こりました。 仏菩薩像の製作は、菩薩が三昧を得るための課題として取り上げられましたが、礼拝儀礼と不可分の関係にあります。三世紀頃には、仏像の前に香華や灯燭を供養してダラニを読誦する儀礼が仏教でも行われるようになりました。これはバラモンの儀式に習うものであったと考えられます。


クシャーナ朝の積極的な文化交流は、中央アジアに仏教の隆盛期をもたらし、シルクロードを通じて後漢に伝播されました。 仏教経典の翻訳は中央アジア出身の訳僧の手で行われ、遊牧民族の呪術的な傾向が大乗教典の翻訳に影響を与えたことは間違いない事実と考えられます。
紀元前2-紀元後2世紀頃はバラモンの勢力が優勢を取り戻し社会に強い影響力を与えました。アーリア文化が非アーリア文化の部族信仰や民間信仰を包摂しアーリア化して行き、アーリア文化と非アーリア文化が混交した新しい宗教・ヒンドゥー教が形成されました。 1世紀頃にはバラモン教の勢力は衰退し、ヒンドゥー教に包摂されて行きました。


注)この章の多くは「松長有慶著・密教の歴史(サーラ叢書19)・平楽寺書店」を参照し引用させていただきました。