(21)-3大乗仏教③(宗派の論争)

この論争は、端的に言えば「成仏の可能性」についての争いです。最澄は「誰れでもが成仏できる」といい、徳一は「人には生まれつき成仏できる能力を欠く者がいる」という争いです。
人々に成仏の具体的な方法を示すものでなく、成仏の可能性の考え方や観念の相違でしかない水掛け論です。この議論の勝負がついても人々の成仏に何の影響もありません。

しかし、この議論の勝負がついても本質的には「可能性の問題」でしかないことは双方が十分に認識できるはずです。勝負にこだわるのは「論理性の帰結」に関わる問題だからです。
個人の資質を無視した論理は虚しさが募ります。また、個人の資質にこだわって、成仏の可能性さえも閉ざす人々を作ることになる論理性も無残です。
本質的にはこの争論の決着がついても、日々に変化する現実の社会に生存する個々の人々の成仏は個人の可能性の問題であり、どんなに優れた教理・教論であっても人々の成仏を保障するものではなく、また、本人以外には誰であれ責任が取れる問題ではありません。

成仏論の前提には人間の存在をどの様に見るか、という現実的な問題が解決される必要性があります。
「個人の資質」を問題にしたのが、唯識論を学んだ法相宗の徳一の立場です。しかし、徳一は法相宗・唯識思想の大家であり、奈良仏教が研鑽した華厳や三論などの大乗の教理に通じた類まれな資質を持つ高名な高僧です。
最澄の立場は人間性の個別性や特質、個人の資質を問題にしていません。人間が生活環境の中で様々な影響を受けながら、向上心を失わず、悟りに向かう心(菩提心)を持ち続けられる存在かどうかの考察がありません。
この議論は、様々な環境要因に様々な制約を受けながら生存している人間存在を見誤った空虚な空中戦でしかないように考えられます。人間をどうみるかの考察を解決してからこの問題を議論すべきだったのではないかと考えます。中道の視点が欠落しているように見えてしまいます。

中国でも決着がつかなかった問題を蒸し返すのは、何らかの意図があるからだと考えられます。この問題は、天皇や朝廷の意向を背負った最澄が政治的な作為をもって仕掛けた法論だと考えられます。
最澄の背後に天皇の意向を感じた南都六宗側に十分な対応ができるはずもありません。

南都六宗であっても天皇の意思に背けないのは当然です。唯識論や倶舎論などで論陣を張り議論なれした南都六宗が、天台教学や法華一乗の論理に屈することなど考えられません。
見方によっては、この法論は王法が仏法を責める一方的なものであり、天皇の意思を背負った最澄の生真面目な性格が災いして妥協のない修羅場に行き着くことになったものと考えられます。

当時、奈良仏教の勢力を抑え込むことは天皇や朝廷の政治的な方針でした。桓武天皇が平城京を捨て平安京に遷都した大きな理由の一つに南都六宗の政治に対する介入を阻止することがあげられます。
奈良時代の仏教は、政治体制の中に組み入れられ過剰な保護を受け続けた結果、①寺院が大土地を所有して律令体制の経済政策に悪影響を及ぼしたこと、②僧侶の腐敗、例えば、玄昉や弓削道鏡は政治に深入りして失脚し追放されています。さらに、③多数の寺院への出費がかさみ国家財政が逼迫した、ことなどにより仏教の革新が要請されたのです。

比叡山は総合的な仏教アカデミーであったという説明を聞くたびに違和感を感じます。
比叡山自体が密教なのか法華なのか定まらず、しかもこの中から出てきた禅宗と浄土(真)宗は比叡山の教義から外れたものです。.
日蓮宗の思想はあまりにも尖鋭的でドラステック、しかも教条的で頑迷です。それぞれがあまりにも違いすぎる教義を持ち、思想そのものが激しく対立する概念を持っています。
単一の教団から何故このような異なる思想の教団が乱立したのか不思議です。

比叡山の厳格な修行の中から簡略な新宗教がでてくるのは、あたかも、救い難い末法思想の蔓延という特別な時代背景を反映した舞台装置の上の狂喜乱舞を見ているようです。
当初、比叡山ではこれらの新宗教の登場に驚愕して弾圧という方法を何度も取りました。

しかし、これらの教団が民衆の支持を得て教勢を拡大し世間の認知と定着を勝ち取ると一転して教祖の評価を変えました。
800年の長きにわたり異端視してきた鎌倉新仏教の祖師の評価を掌を返すように変え、比叡山に祖師たちの業績を顕彰する看板や遺影を掲げ始めたのは昭和40年代のことでした。
比叡山の閑静な佇まいが急速に俗塵に染まり始めたのです。
これらの教祖は比叡山で学んだ偉人であるという形を作り上げ、比叡山が総合アカデミーであることを強調して積極的に宣伝に利用するようになりました。

空海は奈良仏教の華厳宗や法相宗などの教理のうち是認できる部分は包摂し、不適切なものは純化する手法を用いたので、奈良の諸大寺とは協調的な関係を築き友好関係にありました。
空海は東大寺の別当、大安寺の別当となり、興福寺で藤原冬嗣のために一族の繁栄を祈願する儀礼を行っています。
密教は一切のものと対立せずに包み込む基本的な性格があります。空海は、南都の諸大寺の高僧と親睦関係を生涯続けました。