(21)-2大乗仏教②(宗派の特徴と抗争)

仏教の特徴は、同時に多くの大乗経典の存在を容認し、さまざまな「教理」や諸仏・諸菩薩の存在を受け入れたことです。仏教にたくさんの宗派や教団が存在する理由はここにあります。
インドから中国に仏教が伝来し数多くの経典が翻訳されるようになると、経典の内容や理論的な整合性が問題にされるようになり、内容に食い違いのあるすべての仏典を体系的に理解しようと努める機運がでてきました。

まず文献学の考察を無視した立場から、全ての経典は釈迦の一代聖教であるとの前提で経典の成立順序に関係なく体系化しようとする教理解釈の方法論が考えられました。
この説は、各教典の教説を「教えの浅いもの、深いもの」と「能力や理解力の優劣によって説かれたもの」を区分し、悟りから涅槃に至るまでのブッダの生涯にどのように位置づけるかと考えたのですが、これが中国における教理解釈の基本となり、中国で仏教が変質しました。
これが中国で始まった「真実の教えさがし」です。これから法華経が最高とか、浄土教が一番とか主張するグループや教団が名乗りを上げるようになります。
この頃、中国に密教は伝えられていないので密教が登場する機会はありませんでした。

この中で中国天台山に「智顗」が現れ、すべての仏典を釈迦の一代聖教として位置付け、これを五時八経に分類して法華経を最高とする独善的な説を立てました。この説から中国天台宗が成立し、日本では最澄によって比叡山に天台宗が開宗されました。最澄は渡来系の氏族の出身で幼少期より英才で知られ、将来を嘱望された人物です。

天台智顗がとったこの方法は、「あるべき論」からいえば賞味期限切れの教判論と考えられます。
混沌とした時代に、一定の整合性や統合性を目的として大鉈を振るう教判論が出てくるのは時代の要請であったと考えられます。
しかし、各経典を根拠とする教判論は8世紀以降には出尽くした観があります。
時限的に有効であった教理論でも安定期を迎えれば評価基準が変わるのは当然です。
文献的な考察や経典の思想の価値の比較検討、経典の真偽(埋蔵教や偽書)を学術的に研究する方向に転換していくのは本来のあるべき姿です。
有効期間の過ぎた教理論をいつまでも振り回すのは明らかに間違いです。

もし、釈迦の在世に法華経や華厳経などの大乗経典の内容が確立していて、この精神が釈迦の金口から直接に説法されていたのであれば、上座部(小乗)と大衆部(大乗)の分裂もなかったであろうし、20余の部派仏教の分裂や大乗仏教の多数の経典や分裂など、様々な乱立の歴史はなかった、と考えられます。上座部から大乗非仏説が出てくるなど考えられない、といえるのです。

最澄と南都六宗の間で様々な論争がおきました。最澄から仕掛けたものです。
802年に、高尾・神護寺で、最澄は朝廷の斡旋を受けて南都六宗の七大寺の高僧を集め、天台の三大部を講じて法華一乗の思想を宣揚しました。
このとき、南都六宗側は最澄の講説に特に反駁することなく、最澄を讃嘆する旨の書状を天皇に提出した事実がありました。天台宗ではこれが南都六宗の敗北であり、以後、天台宗の風下に立つことを認めたと宣伝することになりました。

しかし、この天台宗の態度はいかがなものかと考えます。南都六宗は中国の天台宗の教理を知悉していたのは当然です。中国で華厳宗や法相宗との間で様々な法論があり結論が出ていないことを知っています。反駁しなかったことも、書状を差し出したことも天皇や朝廷の意向に敬意を払っただけだと考えるべきでした。
南都六宗の七大寺の高僧が天皇の面前で反駁したり激論したり出来るはずもありません。不快な気持をぐっと飲み込んだ、ものと考えられます。

密教を空海から学ぶことをあきらめた最澄は、本来のテーマである奈良仏教の攻撃に軌道修正しました。法華第一の説に立って、これを認めない南都六宗(法相宗の「徳一」)に法華経の解釈をめぐる「三一権実論争」(法華権実論争)を仕掛けました。

この理論闘争は、5ケ年にわたる長いものでした。発端は関東布教を決意した最澄が、会津の磐梯恵日寺(寺僧300人、僧兵3000人、堂塔伽藍100以上、子院3800坊の大寺院)を天台宗の傘下に入れようとして法論を挑んだことで勃発したと考える説があります。徳一は藤原仲麻呂(恵美押勝)の子であり藤原不比等の孫という説がありますが、『東国高僧伝』のように「釈徳一。何許のひとなるか詳らかならず」とする説もあり、必ずしも出自が一定していません。徳一は、藤原氏の氏寺・興福寺で法相宗を学んだ比類のない逸材といわれた唯識の大家であり学僧です。一時、道鏡のために不遇を極めましたが、道鏡が失脚して復活しました。後に、東大寺の役僧になっていることから、空海とは東大寺の縁がある人物です。徳一が東国に移住した理由は定かではありませんが、最澄は徳一は二十歳頃に東国に向かったと『守護国界章』の中で理解しています。徳一は、陸奥の国会津の恵日寺を拠点として多くの寺院を建立し多数の門弟を擁していましたが、『本朝高僧伝』によれば、朝廷の意向に逆らったがために左遷されて常陸国・筑波山の中禅寺を建立して開山となっています。左遷の理由には、最澄に対する批判をあげる説があります。

最澄と徳一の論争のそもそもの発端は、徳一が東国の化主として人々から賞賛されていた「道忠教団」を批判したことに始りまるという説がありますが、これによれば、最澄が割って入り「道忠教団」に肩入れしたことから最澄が「三一権実論争」(法華権実論争)の当事者になったということになります。道忠(生没年不詳)は、日本に天台宗の教義をまとめてもたらした南都の唐招提寺の開祖・鑑真和上の持戒第一の弟子といわれた人物であり、その弟子の教興、円澄(第二代天台座主)、広智(その門下の円仁が第三代天台座主、安慧が第四代天台座主となる)などが、最澄の一切経書写の援助をした関係性があり、彼らがこの縁故で比叡山に上って最澄の弟子になったのです。「道忠教団」は、初期の比叡山延暦寺の重要な人材を輩出した(天台教義を持つ)教団でした。

徳一と最澄の論争における争点は、平安初期の日本仏教界の思想の在り方を知る上での重要な手がかりになるものであったと考えられます。その争点は①経論の価値、及びその撰述にかかわる問題、②実在と現象との問題、③仏性論の問題、④仏身論に関する問題、⑤実践修行に関する問題など五種類に分類されています。しかし、これらを多岐にわたって記述すれば、仏教思想全般に及ぶ広範囲なものとなり煩雑になりますので、ここでは、「三一権実論争」(法華権実論争)のそもそもの問題点について考えたいと思います。

この論争は、三乗(声聞乗、独覚乗または縁覚乗の二乗と菩薩乗)と一乗(仏乗)のどちらが真実の教えか、仮の教えかを論じるものです。鳩摩羅什の漢訳になる『妙法蓮華経』方便品の一節にある「無二亦無三」の解釈についての対立から始まるものでした。この一節の前後は「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。仏の方便の説をば除く。」(植木雅俊・訳)というものですが、この一節の解釈の相違から大論争に発展したものでした。
なお、この該当部分のサンスクリット原典では「乗り物はただ一つであり、第二の者は存在しない。実に第三のものも世間には〔いついかなる時にも〕決して存在しない。乗り物が種々に異なっていることを説くという人間の中の最高の人〔であるブッダ〕たちの方便を除いては。」(植木雅俊・訳)と訳されています。

光宅寺法雲や天台智顗は「一仏乗のみがあって、二乗(声聞・独覚=縁覚)もなく、また三乗(二乗と菩薩乗)もないとする解釈を示しました。
これに対し、法相宗の慈恩大師は鳩摩羅什が「二」「三」と訳した箇所は原文では「第二」「第三」であるとして「一乗(仏乗)のみがあって、第二の独覚乗も第三の声聞乗もない」と解釈したのです。(植木雅俊・著「仏教本当の教え」中公新書)
智顗等は声聞乗と独覚乗、菩薩乗と仏乗の四つの乗り物があると考えたので「四車家」の説といわれます。これに対して、慈恩は声聞乗と独覚乗、仏乗の三つの乗り物を前提にしたので「三車家」と言われました。

この争いは、鳩摩羅什の漢訳を基にするものでしたが、サンスクリット原文によれば、前半分は真実の乗り物(一仏乗)が唯一で、それ以外に第二、第三のものはないと強調するレトリックであり、二乗(声聞と独覚=縁覚)と三乗(二乗と菩薩)は方便としては存在するという内容でした。漢訳を基にした双方の解釈は誤りでした。

四車家と三車家の考え方の違いは、小乗仏教(上座部)の説一切有部の三乗説と法華経の三乗説の違いを反映したものでした。
両説の見解の相違点は「菩薩」をどのように観るかという立場の違いからくるものです。四車家の見解は法華経が説く三乗説の立場からの見解であり、三車家の見解は説一切有部の三乗説の影響を受けた立場からの見解でした。

実は小乗仏教では菩薩は「覚り(bodhi)を得ることが確定した人(sattva)」と考え、それは釈迦以外には存在しないと考える特徴があります。この立場では、声聞乗によって到達できるのは「阿羅漢果」、独覚乗によって到達できるのは「独覚果」であり、いずれもブッダ(仏)以外には到達できないと考えるのです。
ゆえに、菩薩=釈迦であり、それは仏と同一の存在であると考えます。菩薩のための乗り物も、仏のための乗り物も釈迦(ブッダまたは釈尊)に限定された乗り物と考えるので、仏乗は出家修行者の手が届かないもの、すなわち、一仏乗は権(仮)の教えでしかないと考えるのです。実は、上座部(小乗教)と大衆部(大乗教)の大きな見解の相違の一つがここにあります。

これに対して、大乗仏教では、菩薩とは「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」であると宣言して「覚りを求める人は誰でも菩薩である」と見做し、釈迦が菩薩として修業した内容を自らも追体験する意思を持った幾多の大乗の菩薩が誕生して様々な経典を編纂したのです。

説一切有部が主張したのは、人は誰でも能力や素質などの諸要素に影響されるもので、仏道修行も当然に皆平等ではありえない、ということにあります。この影響を受けた中国法相宗では「五性格別」という説をたてました。
その内容は、①仏果を得ることが決まっている人、②阿羅漢果を得ることが決まっている人、③独覚果を得ることが決まっている人、という(決定性)の人々、④いずれにも決まっていない人(不定性)、⑤覚りとは全く縁のない人(無種性)に仕分け、人の能力や素質、努力などの差別観を容認したのです。仏道修行といえども個人の問題であり、そこには能力差、努力や素質の影響があることは当然と受け止めたのです。

しかし、中国天台宗を興起した智顗らは、「全ての人ば誰でも成仏できる」と主張して、その論理性を維持する必然性から、人のように意思のない草木や瓦礫にまで仏性を認め、単なる成仏の可能性の次元を飛び越える「成仏の不差別」を主張して激しく対抗したのです。

この「瓦礫にまで仏性を認める」智顗の主張は上座部仏教の伝統的な仏教概念と激しく対立する異説といえるものですが、瓦礫等であっても人の意思や情念を受けた因縁生起(縁起)によって仏の尊像という成仏の姿にさえ成ることができる、という見解をベースにするものであると考えられるものです。

「衆生の心の深奥部にはブッダとなる種子を持っている」とする如来蔵思想は、意思(悟りに向かう菩提心)を持つ人間を前提にする概念であり可能性の問題でした。本来的には姿も形もない仏の姿を金・銀・銅の鉱物や、木や紙(絵)に尊像を仮象して仏の造立が行われたことで、縁起があれば、非情世界の石や金属また木や紙(絵)も成仏が可能であるとする論理性にこだわったものと考えられます。
しかし、論理的な可能性は何もしない不作為の状態にあるにもかかわらず「成仏の不差別」を保障するものでないことは当然です。

基本概念として認識しなければならないのは、悟りに向かう原動力は人の意思であるということです。意思のない非情世界の瓦石にまで仏性を認める見解はインドの釈迦仏教の論理性と矛盾する見解と考えられますが、この天台の法華経の考え方は最澄に引き継がれ比叡山天台宗が高い評価を受ける大きな要素となりました。
しかし、法華経は、法華経の受持によって諸菩薩の救済が受けられることを説くだけで、成仏に至る修業の方法やプロセスなどの具体的な内容は何も語っていません。

戦後、法華経を依経とする新興宗教団体が乱立して、様々に法華経を賛嘆して布教活動ができたのは法華経の曖昧さにあるのではないかと考えられる一面性が在ります。この中には様々な創作を随所に混入させる新興宗教団体が現れて会員数を力にする特異性のある布教活動を行っています。