(40)-4日本の国家の形成過程を考える-②(日本人の祖形と有力氏族)

日本人の祖形となった人々がどのように考えられているのか、まず、その代表的な諸説を概観してみたいと考えます。

日本列島で、狩猟採取、原始的農耕、定住をベースにする縄文時代が始まったのは、およそ1万6,000年前頃のことであると考えられています。しかし、気候の寒冷化の時期に人口の減少化があり衰退しましたが、縄文時代末期頃に並行して弥生時代が始まり、水稲耕作や金属器をはじめとする先進文化が中国大陸からもたらされて融合し、独特の文化が生まれました。紀元前3世紀頃から大陸からの移住者が激増して本格的な農耕社会に移行し、食料の安定供給のもとで急速に人口の増大が発生して、各地で大小の集団が形成され、特定の権力者に率いられた氏族、国を形成していったと考えられます。

日本人の祖形の基本形となる縄文人にはおおよそ三説あります。①南方の海から海流に乗って日本列島に到達した人々。②中国北東部から狩猟採取の縄文人が南下して日本列島に到達した人々。③シベリアのバイカル湖付近から南下したブリヤート人が北海道から日本列島を南下して縄文人の集団を形成した人々。これらが日本列島に定着した最初の人々だと考えられています。

次に、渡来人ともいわれる農耕民族を形成した弥生人は、①中国揚子江流域の呉、越、楚の人々が亡国の民となって脱出し、集団的で朝鮮半島を経由して、または船で直接に北部九州に到達したとする説。

②朝鮮半島の戦争(民族闘争や領土と資源の奪い合い)を契機として、南下してきた北方系狩猟民族(騎馬民族)の強い圧迫に対抗する力のない集団(敗者)が日本列島に新天地を求めて移住したとする説。

その他には、③西アジアのユダヤ民族が亡国の民となって(約束の地)東海の島々に導かれて日本列島に移住したとする「日ユ同祖論」説。

④「日本人シュメール起源説」は、メソポタミア最南部に4000年前に突如としてその姿を消した人類最古の文明を持つシュメール人が日本人の祖形であるとする説。この説は日本文化とシュメール文化の類似性から導くものですが、シュメール古代文字(ペトログラフ)が刻まれた石が下関の彦島、九州北部、山口県西部から相次いで発見されたことから海外では高い関心がもたれています。

これに近い説として⑤ヒッタイト人=日本人説があります。鉄を発明し、シュメールを継承した古代バビロニアを滅ぼし、エジプトを破ったヒッタイト民族(シュメールの紀元前13世紀末突如消息不明となる)が日本に移り住んだとする説です。古代イスラエル王国のヘテ人=ヒッタイト人とする説がありますが、オックスフォード大学の考古学の権威セイヌ博士は、ヘテ人は日本人であると発表しました。ちなみに古ユダヤ人、シュメール人、ヒッタイト人はアジア系の黄色人種です。

⑥南海から潮の流れに沿って日本列島に到達した人々。この説はいわゆる海人説ですが、南洋諸島から出発した海人は集団力、軍事力などが貧弱と考えられ建国に関わる能力を持つ集団とは認めがたいので省略します。考えられる海人は、中国江地方の呉、越、楚からきた海人の集団とユダヤ、シュメール、ヒッタイトの集団です。これらの人々は外洋航海に耐えうる堅牢な造船技術と優れた航海術とを併せ持つ人々であったと考えられるところから、海からの渡来者(海人)と認識されたものです。

⑦「徐福伝説」が熊野、佐賀、伊豆、富士山麓など日本列島の各地に語り継がれています。徐福は、史記によれば斉国の琅邪(ろうや)に実在した人物で、紀元前259~210年頃、秦の始皇帝に仕えた方士であり呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者でした。始皇帝に不老不死の仙薬を探すことを進言して、始皇帝をその気にさせ、紀元前210年、童男童女3000人、百工(各種の技術者)、警護の兵士など総勢4000人と五穀の種子、絹、を85艘の大船に満載して、3回に分散させて日本列島に移住したと伝承されています。時に、童男童女3000人を一団に加えた目的は、新天地でのコロニー建設だけでなく、定住して人口増加の礎とすることによって継続的な国家建設に関わらせる意図があったものと考えられています。

徐福は、船出にあたり、残された親族が始皇帝の譴責や迫害を逃れられるために「徐」姓を名乗らないように言い置いたという伝承があるとことから、徐福自身は仙薬を探して帰国する意思がなかったのではないかと考えられています。

司馬遷の『史記』には、徐福は「平原広沢」(領土)を得て王となったと記述されていますが、日本列島の各地に徐福伝説が伝承されていることから、荒唐無稽な伝承として放置するには侮れない信憑性があると考えられます。特に、熊野(皇室が尊崇する神社)や佐賀(倭国本拠地に比定された場所)は歴史上の重要ポイントと考えられるところから別途に取り上げます。

徐福の最初の上陸地は筑後川河口の杵島の竜王崎(佐賀県佐賀市白石町)と伝承されていますが、南方の熊本平野には先住渡来者の呉の後裔が狗奴国(球磨国)を形成していたこと、玄界灘周辺は渡来人が多く先住者との対立を避ける行動をしなければならないところから、係争地を避けて佐賀平野を目指したものと考えられます。この視点から見れば最大の環濠集落の規模を持ち、中国江南地方と同一の甕棺の墓制を持つ吉野ヶ里遺跡をその集積地として仮定する説があります。吉野ヶ里遺跡は紀元前3世紀頃に巨大化した環濠集落ですが、戦闘機能を重視した柵の構造物で囲い込み、巨大な物見櫓、高床式倉庫群を備えた特徴的な防御機能を持つ一大拠点を形成していますが、建国にかかわる神話伝承とのつながりがありません。吉野ヶ里遺跡は、徐福が残した一団の手で作られた拠点と考えられています。

江南人の人骨と吉野ヶ里の人骨の類似性や出土発見された絹の同一性などから徐福伝説との関係性が考えられます。当時、江南地方の四眠蚕の絹、養蚕法や蚕桑は国外への持ち出しは禁止されていたものあったことから、信憑性があるものと考えられます。徐福は安住の地を求めて各地に移動し、同行の一団を各地に残して拠点を築かせたのではないかと考えられていますが、富士山麓の河口湖北岸の地で止まり農地開拓して養蚕、機織り(甲斐絹はこの地の名産品となる)、農業技術を広め、紀元前208年頃、富士吉田市の鶴塚に埋葬されたと伝承されています。各地に残された徐福一行の子孫が生き延びていれば、その遺伝子を受け継ぐ現在に残された子孫の数は数千万人に達するものと考えられます。

海からの渡来者として高い可能性が考えられるのは、軍事力を持ち氏族単位で行動できる有力な王族、貴族層です。上陸後、ただちにコロニーを形成し建国の行動がとれる集団です。わずかな人々が日本列島に上陸して、時間をかけて人口を増やし、武器の製造技術をマスターして弱小集団を吸収しながら巨大な軍事集団を徐々に形成したなどという気の長い建国物語は信じられません。この意味で縄文人の主導による日本建国はあり得ず、村社会に生きた平和的な縄文人が国家や統治の概念を発明して、武力侵略や、祭祀形態を広めて建国の主役となることなどは適性がなく、全く考えられません。

日本人の祖形はこれらの諸説がありますが、日本人は縄文系の人々と弥生人となった人々が交流して混血した多民族国家であり単一民族国家説は明かな間違いと考えられています。また、渡来人とは、歴史的には4~7世紀に中国大陸および朝鮮半島(経由を含む)から日本に移住した人、という区分けがありますので、これに従います。

出雲地方は、縄文人と弥生人が出会い共存した一大集積地であったと考えられます。出雲地域は、大陸経由の弥生人が入植する前は、寒冷化によって東北から南下してきた縄文人がたくさん居住する地域でした。出雲の地は、縄文人が生業とする漁猟採取の適地であり、安住の地であったと考えられます。

弥生人が出雲地方に入植してきたのは紀元前5世紀頃のことと考えられます。楚人との興亡に敗れた越人が朝鮮半島の三韓(特に弁韓=加羅)と日本列島に分かれて入り込んだと考えられますが、北九州(倭国)に先着した呉人の集団が広く集落を形成して既得権益を持っていたことから、これを避けて出雲を拠点として日本海沿いに新潟地方にまで達し、越の国を形成して出雲の国作りの基盤を整備していったものと考えます。

また、弥生人は中国江南地方の呉と越ばかりではなく、中国沿海州周辺や朝鮮半島に到達していたさまざまな民族や海から船で渡来した人々(古ユダヤ、シュメール、ヒッタイト、東夷の諸民族など)も含まれていたと考えることが自然の流れのように考えられます。弥生人には数量は不明ですが様々な民族が合流した集団であったと考えられ、一様に新天地に希望を託して日本列島を目指したものと考えられます。民族が違っても、人々の出会いは様々な因縁を生起します。新天地に向かって、同一行動をとるメリットがあれば共に行動し、命運を託す気持ちが生じることもあると考えます。行動を主導する中心の氏族があれば、その傘下に入ってつき従い、あるいは協賛して互いに助け合う人々が集まることは自然の流れです。

日本の古代社会は、いくつかの複数の渡来系氏族によって作られた小国家が有力氏族と合合従連合して勢力を拡大し、最終的には九州勢力とヤマト勢力が一方を制覇するという形で統一国家・大和王権を誕生させたと考えられます。ヤマトは複雑な諸王権が混在した地域でしたが、高天原から九州に天孫降臨してヤマトに東征したという神話を持つ氏族(天皇家の祖)によって統合されたと考えられます。

出雲、吉備、ヤマトの王権が、古代有力氏族の葛城氏、息長氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏、藤原(中臣)氏、尾張氏、賀茂氏、秦氏、海部氏、平群氏、阿部氏、坂上氏などの諸氏族との関わりにる権力の動向と浮き沈みを検討することによって、ヤマト勢力が統一国家・大和王権を形成してきた足跡と概要を知ることが可能と考えます。

もっとも古い渡来系氏族は出雲に現れたスサノオの出雲であると考えられます。出雲王権は次のようなプロセスをたどって形成されましたが、最後には天孫族を自称するヤマト勢力に「国譲り」させられ、記紀には忘れられた存在(不記載)として扱われています。

出雲は銅の一大産地でしたが、弥生時代前期頃には北九州と並び、中国や朝鮮半島などとの交易の一大拠点でした。北九州の勢力は朝鮮半島の伽耶地方の滅亡と共に衰亡を迎えますが、出雲は吉備と共にヤマトの祭祀連合(纏向遺跡群)の中心的な役割を担う存在であったと考えられています。

 

 

 

 

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