(21)-1大乗仏教(その特徴と成立過程を考える)

大乗仏教の基本的な経典には、「般若思想」「華厳思想」「法華思想」「浄土思想」や「禅の思想」があります。各宗派の教理論は、このような思想の下に展開されてきたものです。これらの経典が語る特徴的な大乗思想は「菩提心思想」「本覚思想」「如来蔵思想」「自性清浄心思想」など成仏に関わる思想(その究極は「即身成仏」)です。これらは「仏身論」(仏身観)という本仏(中心仏・根本仏・中尊などの表現がある)思想に収斂されるものですが、釈迦滅後の仏教徒の究極的な研究課題は、この「仏身論」に帰結するものであると考えられます。なお、大乗仏教の諸経典は釈迦滅後500年後の紀元前後頃から以降に成立したものです。

釈尊滅後、次第にサンガ集団が膨張して、メンバーの多様化や集団構成の複雑化が進み、集団の規則となる律が制定されました。

しかし、教団が肥大化するにつれ、集団内部に想定外の諸々の事態や問題が発生しました。これを解決し、教団の秩序を維持するためには、新たな規律の追加が必要となりますが、諸規律が整備されてゆく中で、出家者の日々の生活からその行事や作法まで細かく定められるようになりました。

あらゆる事態を想定して規律を定めることは不可能であることから、新たな条文の追加が必要となることは避けられません。やがて、規律の条文解釈やその実行を厳格に守るか、緩やかにするかで対立が表面化し、ついには和解できない混乱の中で教団は分裂しました。

規律を厳格に忠実に守るべきだとする保守派の長老たちのグループは「上座部」、これに反対し戒律を緩めるべきだと主張する進歩派のグループは「大衆部」に分裂(根本分裂)しました。

また、地域の特性や思想の違いなどからさらに細かい分裂(枝末分裂)を繰り返しました。これを「部派仏教」といい、各部派が自らの正当性を主張して別々の道を歩むことになります。

「大衆部」からは大乗仏教が興起しました。大乗仏教の特長は、多くの諸仏や諸菩薩が登場し、民衆に利益と安楽をもたらす「利他行」の要素が顕在化することです。

大乗の菩薩とは、釈尊の菩提樹下の悟りの体験を自ら追体験しようと修行する者たちの名称でした。菩薩であることを自覚して修行に励む者は、厳しく自己を律し利他行を実践することでブッダとなる誓願をたてました。
上座部仏教(小乗)の修行者が個人の悟り(自利行)を目指して阿羅漢を目標とする修行をしましたが、菩薩はこれを批判して衆生の中に入り利他の実践をしました。

釈迦の初期仏教の実践論は「四諦と八正道」にありましたが、大乗仏教では自利的な要素と対人関係の要素がセットになった「六波羅密行」に移行していきました。
大乗仏教は出家ぜずとも誰もが平等に救われるという教えですが、さすがに何もしなくともよいわけではなく、六つの基本的な修行が必要とされました。

六波羅密行とは、①布施(人々の為に尽くす)、②持戒(殺人や窃盗をしない)、③忍辱(耐え忍ぶことを身に付ける)、④精進(努力・精進する)、⑤禅定(精神を集中させる)、⑥般若(事実や真実をありのままに見る智慧を身に付ける)という六種の波羅蜜行をいいます。

①~④は「行」に関するもので、戒・定・慧の三学でいえば、「戒学」にあたる部分です。布施・持戒・忍辱・精進は修行の基礎部分にあたります。この基礎が一通りできることを前提として、⑤禅定という「定学」に進みますが、禅定とは、仏と同じ境地になること、仏を信じる心、菩提心を持つことを言います。最後に⑥の智慧という「慧学」に至り、悟りの内容(その概念は「自性清浄心」、「本覚思想」、「如来蔵思想」、「三摩耶心」などで表現される)を知ることで六種供養が完成しますが、これは、「戒学」⇒「定学」⇒「慧学」という修道の階梯を示すものであると考えられます。
この説の特徴は、煩悩と苦悩に覆われたこの世(此岸)で修行して生きる智慧を身につけることにより、人が悟りの世界(彼岸)に渡れる(悟る)とするものです。

大乗の利他行は「人々の救済」という具体的な方法をとることになりますが、救いを求める者には「社会生活での不安や苦悩を取り除く行為(社会事業)」と「死後の世界への不安を取り除き、意義のある生き方を導こうとする行為」が求められるようになりました。
これが菩薩に求められた救済方法です。菩薩の修行は「上求菩提」「下化衆生」と表現されてきました。上(仏)には菩提を求め、下(声聞・縁覚・六道の衆生)には教化し救済を行う修行です。

インドから中国に伝わって根付き花開いた仏教の初めは、「訳経僧」と呼ばれる西域の僧たちによってもたらされた経典から始まりました。
彼らはインドや中国の出身者ではありませんが、仏教の教えを評価し、インドの言葉を習得して中国に大乗経典をもたらしたのです。

経典が漢語に翻訳される過程で、仏教が受け入れやすくするために意味の拡張や加筆が少なからず行われたことは周知の事実です。
特に、インド人の価値観や世界観がそのまま中国人に受け入れられない要素を持つ言葉や儒教や道教の思想と合わない内容は書き改められたものと考えられます。

また、仏教が受容されやすくする狙いから、いかにも本物の経典のように装う偽経が多数作られました。今日に伝承された様々な経典にも真偽が明らかでない要素を持つ経典が多数あると考えられます。

訳経は、語学に堪能な数人の訳僧が役割分担する共同の作業で行われました。
①担当者が原典を一節づつ言語で読み上げる。
②これを聴いた翻訳者が中国語に直訳する。
③更に別の担当者が漢文に筆写する。
④言葉の意味内容を分かり易く整え、適切な漢文に推敲する。
⑤文章の格調(語韻など)を整える。
ただし、翻訳の各段階で、解釈者の思想や価値観が混入され、原文が書きかえられることがあったと考えられています。

知られている著名な訳経僧は、そのほとんどが西域出身の王族や上流階級に属した者たちです。彼らは恵まれた身分を返上して自らの意思で出家した者たちです。

安息国の太子であった安世高は王位を弟に譲って出家し、148年に中国・後漢の都城・洛陽に入り部派仏教の論書アビダルマを中国に伝えました。また、安は呼吸を整えて精神を集中し解脱に至る瞑想法を伝えました。

月氏出身の支婁迦讖(支讖)は、168~189年頃の霊帝の頃、洛陽に入り、般若経典の中で最も古いとされる『道行般若経』等の大乗経典を翻訳しています。

祖父の代に月氏国から中国に帰化した支謙は、『大明度無極経』(支讖が翻訳した『道行般若経』の同本異訳)を翻訳して「空の思想」をもたらし、初期の中国仏教界に多大な影響を与えました。

先祖を月氏国出身にもつ竺法護は敦煌に居住していましたが、266年~308年の間に『般若経』『法華経』『維摩経』『無量寿経』等数多くの大乗経典を訳して、中国に大乗仏教を定着させた功績があります。

4世紀後半~5世紀には法顕(詳細不詳)と西域の亀茲国出身でインド貴族の鳩摩炎を父とする鳩摩羅什(344-413)の翻訳がありました。中央アジアのシルクロードに地理的に立地する西域諸国には紀元前の早期にインド仏教が伝播して布教されていました。

鳩摩羅什は原始仏教や上座部仏教の主流を形成したアビダルマ仏教に精通していましたが大乗仏教に転向し、主に中観派の論書を研究しました。384年に中国・後涼の捕虜となりますが、401年に後秦に迎えられ長安に移転しました。
中国で漢語を17年間学び、『法華経』『阿弥陀教』『中論』『大智度論』『成実論』などを漢訳して多大な貢献をするとともに中国の三論宗と成実宗の基礎を開きました。奈良仏教の三論宗と成実宗は中国から直輸入された宗派です。
鳩摩羅什、玄奘三蔵、真諦、不空の四人を四大訳経家と言います。

玄奘三蔵(602-664)は中国唐代の訳経僧です。生家の陳氏は後漢以来の士大夫の家系でしたが、王朝の興廃により複数の王朝に仕えています。
仏典の研究は原典に拠るべきであると考えた玄奘は、唐朝の許可を得ることなく密出国でインドの仏教思想を直接に求める旅に出ました。西遊記は玄奘の旅行記『大唐西域記』をタネ本にして書かれた劇作です。
645年に、16年間の艱難辛苦を克服して経典657部や仏像を唐にもたらしたことでその業績を太宗から高く評価されて膨大な経典の翻訳に従事しました。西安の大慈恩寺には玄奘の持ち帰った経典や仏像を保存するために大雁塔が建造されました。
玄奘三蔵は法相宗の開祖となりましたが、1942年に南京市の中華門外にある雨台の石棺内に頭骨と複数の副葬品が旧日本軍に発見されたことから、その一部がさいたま市の慈恩寺に分骨され、さらに、その一部が奈良の薬師寺に再分骨されています。

真諦(499-569)は西インド出身のインド僧でしたが、中国・涼の武帝に招かれて経典の翻訳に貢献しました。
主な翻訳は『摂大乗論』『倶舎論』などがあり『大乗起信論』は中国や日本の仏教徒に多大な影響を与えました。
真諦は、大乗仏教の中でも瑜伽行唯識派の思想を伝えた功績があります。

不空(705-774)は、インドから中国に渡来した僧です。720年に唐に渡り、師僧の金剛智を助けて訳経に従事しましたが、金剛智の入寂後の741年インドに戻り龍智から密教の秘法を伝授され胎蔵・金剛両部の伝法灌頂(五部灌頂)を受けました。746年に中国に帰り、以後中国で死ぬまで訳経と布教に従事しています。
玄宗・粛宗・代宗の三代の帝師となり『金剛頂経』など密教経典110部143巻を翻訳し中国密教の基礎を築きました。
不空の弟子には六哲と称された含光・慧超・恵果・慧朗・元皎・覚超がいますが、特に、恵果は空海に密教を伝法灌頂したことで真言宗の「付法の八祖」の第六祖、「伝持の八祖」の第四祖に位置づけられました。

仏教の伝播には、二つの大きなルートがあります。その一つは「北伝仏教」(サンスクリット語の原典)といい、いわゆる大乗仏教のルートです。もう一つは「南伝仏教」(パーリ語の原典)といい、いわゆる上座部仏教(小乗経)のルートです。
北伝仏教は、紀元前2世紀にインドのマガダ国から中央アジアの大月氏国に伝えられました。この仏教は上座部(部派仏教・小乗経)の経典や部派仏教の論書アビダルマです。この時代には大乗仏教がまだ成立していません。

紀元前後に成立した大乗仏教は、シルクロードの起点となる西域に伝わり仏教文化が定着して仏教美術が花開きました。紀元前2-紀元4世紀頃には断続的に西域から様々な経典が中国に伝えられ、中国で中国文化(道教・儒教)と融合し中国独特の仏教文化が生まれました。

中国から、384年に百済、372年高句麗に、528年新羅に、538-552年頃日本に伝播されました。7世紀にチベットに、8世紀にはモンゴルに伝播されました。8世紀には中期密教が成立しますが、後期密教の成立は11世紀で、この時代にはまだ成立していません。

東アジア地域に広まった大乗仏教は中国文化の影響を受けた中国系仏教の色彩が色濃く反映されたものです。

仏教は西域地方に早くから伝えられたと考えられています。紀元1世紀に北インドに大帝国を築いたクシャーナ王朝は西域の月氏族がインドにやってきた征服王朝です。
仏教は、紀元前3世紀頃のアショカ王の時代にインド中央部から西北インドに広がり、中央アジアにまで及んでいたものと考えられています。

南伝仏教は、紀元前3世紀頃、アショカ王がセイロン(現スリランカ)に王子を派遣したことから上座部(部派仏教)の大蔵経(パーリ語の聖典)が伝播されました。
5世紀頃にビルマ(現ミャンマ-)に伝えられ、7世紀にジャワ、ピィリッピンに、8世紀にはカンボジアに、13世紀にはタイ、ラオスに伝播されました。

釈迦の在世に成立した仏教経典はありません。ブッダが語った言葉そのものが書かれた経典もありません。
ブッダが使ったと思われる「古代マガダ語」で書かれた経典はありません。仏教が伝わった西インドではパ-リ語が使われていました。
最初の経典は、紀元前1世紀にスリランカで作成されたパ-リ語の経典「ニカーヤ」です。これが現存する最古の経典ですが、ブッダの言葉に一番近い経典といわれています。

パーリ語による南伝大蔵経「ニカーヤ」は原始仏教経典と呼ばれます。
サンスクリット語から漢訳された北伝大蔵経「アーガマ」を大乗仏教経典と呼ぶところから、これと区別するために「原始仏教経典」と呼ばれています。
ニカーヤ教典とほぼ同一内容のアーガマ教典があることが知られています。
大蔵経とは経・律・論の三蔵の全体を云います。

インドから中国に伝播された仏教は、百済を経由して日本に受け入れられました。しかし、韓国=百済ではなく、韓国=高句麗でもなく、韓国=新羅でもありません。百済・高句麗・新羅の三国は風俗習慣や言語を異にする異民族国家であり、相互に存亡をかけて領土・資源の奪い合いを繰り返しましたが、順次に敗者が滅亡し、最後には三国とも滅亡しました。現在の韓民族はこの三国と同一の遺伝子をもつ民族とは考えられません。(韓国の歴史教育は捏造と考えられます。)三国の歴史は朝鮮半島の中にありましたが、現在の韓国民族の歴史とは認められません。

朝鮮半島の民族国家の興亡の歴史的な特徴は、敗者の王族は徹底的に殲滅され、その民は奴婢になる略奪の歴史の繰り返しでした。互いが異民族であることから、共存共栄の意識がなく、相互に憐憫の情が欠落していました。敗者が復活すれは復讐を受ける恐れがあることから、相手を徹底的に殲滅し、すべてを奪い尽くす略奪が行われました。敗者は最後まで抵抗して死を選ぶか、すべてを捨てて半島から避難するしかなかったのです。奴婢となって生き延びた女性の女系遺伝子が伝わっている可能性はありますが、男系遺伝子は生き延びることができない過酷な世界でした。このような社会状況の中で、(多数説では)三国の王族の一部や多くの避難民が弥生人として日本に渡来して来たと考えられています。

現在の韓民族の祖形は、南下してきた北方系狩猟民族を主流とする諸民族の混血によって形成された人々であろうと考えられています。高麗、李氏朝鮮を形成した民族の遺伝子を受け継ぐ民族と現在の韓国(朝鮮)民族との同質性は認められます。ゆえに、韓国が日本に仏教など様々な文化を伝えた兄の国(日本は弟)とする捏造説は、朝鮮民族に特有のファビョン史観の中にしか生まれない妄想と考えられるのです。朝鮮半島の歴史は多数民族によって様々な歴史事実が彩られたのであり、現在の朝鮮民族の歴史とはいえないのです。また、現在の朝鮮民族が韓民族(古代中国より朝鮮半島に逃れてきた中国系民族)と名乗っていることにも大きな違和感があります。民族的な同質性があるとは全く考えられないのです。第二次世界大戦終結後に棚ぼたの恩恵によって日本から独立させてもい1945年以降の大韓民国成立後にその民族性を捏造したファビョン史観と考えられます。

朝鮮半島を経由して日本に伝わった仏教は、日本古来の古神道や山岳宗教の要素が取り入れられて結合しました。しかし、朝鮮半島経由の仏教は、今日の日本仏教の主流となった仏教ではありません。数点の文化的な価値を持つ仏像が伝わっているだけです。今日の日本仏教は、インド仏教の精神をベースにしながらも中国仏教の独自性のある精神をも受け継ぎ、日本仏教として、奈良、平安時代に成立し、鎌倉時代に新仏教が生まれました。 仏教を学ぶには、この歴史的な変遷を十分に理解しながら、それぞれの思想がどこから生まれたものであるかを吟味する必要があるのではないかと考えられます。