(1)医学と宗教

医学と宗教は全く関係ないという人がいます。この見解は明らかに歴史の事実関係の認識が欠如しています。根拠のない無責任な他人の意見を素直に受け入れたものと思われます。

医療には民族の持つ思想が色濃く投影されてきました。
宗教は精神文化に深い関わりを持ち人々の生活様式や文化活動に重要な影響を与えてきました。
医療といえども、その思想の深層で宗教の影響を受けてきた事実を無視することはできません。
宗教の理解なくして、ヨーロッパと日本の本当の歴史事実と医療制度の意味内容を理解したことにはなりません。

キリスト教、イスラム教、仏教の精神文化の土壌の違いは医療の考え方に大きな影響を与えた思想が背景にあることは事実です。
19世紀以降、医療(科学)と宗教(思想)の分離が進んで医学が進歩を遂げたという観念だけでは本当の医療は理解できないかもしれません。
医療を施す者も医療の受け手も様々な思想、価値観を持つ「人間」なのです。

キリスト教やイスラム教、また、仏教でも僧侶が医学に重要な関心を示し、自らが医療行為を研究し実行しました。僧侶には、人々の生死に無関心でいられない職業倫理を持つ共通性があります。
職業医師が持つであろう倫理性とは異なる人間の尊厳性にことのほか関心を向ける宗教性に特徴があります。

初期キリスト教の布教活動では「病気治療」が重要な布教の要素でした。医療行為は特に効果的な布教活動とされ、病気治療の効果はキリストの奇跡として語り継がれました。
キリストの神聖は、「無償の医療行為=特別な人だからできる難病治療=神の行為(奇跡)」という図式で人々に語り継がれたことにより成立した側面があります。
神の行為をするキリストが語る神の教えは、人々を癒し救う言葉となって次第に受け入れられいきました。医療は布教活動に実に効果的な役割をもたらしたのです。

19世紀のアメリカにエディ夫人を創始者とする「キリスト教科学(クリスチャン・サイエンス)」が、原始キリスト教会の在り方に戻ろうとする運動を展開し、「信仰による病気の癒し」を提唱しました。治療行為を禁止する州が出ましたが、全州で認められ、世界74カ国に2200の支教会が存在します。

医学を体系的に研究してきた中世までの功労者は僧侶でした。僧のように体系的な学問を積まなければ医学を体系的に理解する能力がありません。自然に身に付けた治療行為を体系的に経験的に把握し学問にまで発展させるためには「教育」と「研究」が必要です。
教育機関が未発達な中世まで、学問の中心にいたのは僧侶です。別の云い方をすれば、僧が医療に関わらなければならない必然的な時代背景があったのです。

洋の東西を問わず、戦争と医療は切っても切れない関係にあります。軍の兵士を集める条件として、従軍医師がいるのといないのとでは、雲泥の差があります。
まず、負傷の手当てを期待できない軍が兵士を集めることができるかどうかです。
医療システムが無く、医師も看護師もいない軍に、いくら強制とはいえ兵士が集まるわけがありません。仮になんとか集めても、皆が負傷を忌避するのは確実で積極的に戦闘行為に参加する人は少ないと考えられます。

医療システムの有無は、兵士のモチベーションに直接的に影響を及ぼします。古来より、まともな軍は常に医師を従軍させて来たのはこのためです。外科は従軍医師の経験の積み重ねで外科手術のテクニックが急速に進歩を遂げた歴史を持っています。

僧が従軍医とし参加させられたことのメリットは、戦場という異常な世界での医療行為と精神の安定化が期待されたという真面目な理由があります。万一、死亡した場合でも手厚い葬送ができるので、本人も遺族も納得させられるいうメリットがありました。

ルネッサンス以後、科学の発達とともに医学を職業とする医師が徐々に育ちました。医師が医学を担う実力を身につけるようになると、僧の手から徐々に医療行為を吸収し、医学を独立の学問とする機運を整えながら職業医師の道を歩むようになりました。
この時から、職業医師は僧の行った医療行為は非科学的な内容を含むものであったと批判するようになりました。新勢力の立場は旧勢力の駆逐を続けることによって確立されます。この理論的な背景に「科学性」という新しい概念を展開したのは周知の事実です。

医師が今日の社会的な地位の向上を勝ち取ったのは、人の生命にかかわる職業の特別性と専門知識の独占にあるといわれていますが、日本では19世紀の明治維新を迎える迄、医師の社会的身分や地位は厳しい個人の能力評価の結果次第でした。今日のような社会的な職業身分(階層)は確立していませんでした。

まだ、医療技術が未発達の頃、僧はどのような気持ちで疾病に立ち向かったのでしょうか。人々を救いたい一心の為せる業だと信じたい思いです。
今日のように科学的な細菌学や病理学、生理学などが成立していない時代でした。医療は未熟で人々を救う力がありませんでした。病気の原因は不明のままさまざまに語られ、医療に信頼が無かった時代です。人々は宗教にすがる思いで病気と対峙するほかなかったのです。
このような中で、仏力、法力を期待された僧の存在があったことも事実です。いつの時代でも病気と心の問題は同時進行の分離できない存在でした。

長年の研究の成果が共有化され、病理知識と治療法が科学的に普遍化されてきたことで、現代医学の恩恵が受けられるようになった私たちの医学常識を根拠としてイージーな批判を簡単に語るべきではありません。現代医学には、たかだか100年の歴史しかないのです。今日の医師に、旧時代の僧の医療行為をあからさまに批判する者がいます。今日の医学知識と職業倫理に立って、高所から批判しているのでしょう。このような発言を見聞きするたびに悲しくなるのは何故でしょうか。

かつて、職業医師が僧の医療行為を批判した一つに、僧の医療行為が慈悲の行為(無償の社会福祉事業の一環)として行われたことにありました。
いうまでもなく職業医師の医療行為は有償です。世の中には治療代が支払えず医師の診察が受けられない貧しい人々が大勢いました。高い治療代を請求される医療は貧しい人々には高嶺の花でした。

僧の医療行為は仏教者として当然の帰結であったといわなければなりません。しかし、職業医師から見れば、営業妨害に見えたケースもあったのではないかと考えられます。

医療行為は様々な疾病の後追いにならざるを得ない性質のものです。あらゆる疾病に悉く対応できる医療というのは存在するはずもありません。人々に期待される医療行為は経験の積み重ねから生まれるものです。

現代医学の今日の医療水準でさえ、100年後、200年後の後世の人々からどの様な評価が受けられるか定かではないのです。
その時代の医療技能が現代医学の今日の水準からみて問題があっても、その時代の中ではその医療行為は真面目な医療行為なのです。見識のない批判は慎みたいものだと考えます。

医学とは「生体の構造・機能及び疾病を研究し、疾病の診断、治療、予防の方法を研究する」学問です。これに対し、宗教学とは、「宗教現象を比較研究し、宗教の本質を客観的・普遍的に把握しようとする学問」です。形式的には医学と宗教学は異なります。
しかし、醫(医)の意味は、酒つぼに薬草を漬け込み薬酒を醸すことでした。医者は「巫」と同じ仕事を意味するものです。歴史的にも、漢以後、医は針灸の針灸療法と草根木皮の成分を利用する本草療法に別れました。

医学の対象とするカテゴリーと宗教が対象とするカテゴリーの中身を並べて比較してみれば、たくさんの共通点が見えてきます。

医学  疾病の治療と予防(健康管理と病気予防のための社会環境・保険衛生の整備)
人の身体だけでなく心のケアも対象となる。
人の生死に係わる職業の必然性から、生と死の考察から無関心ではいられない。
疾病の原因の考察。病気の苦痛を緩和、除去し、安心を与える。
人の生死に関わる職業。

宗教  人の心(精神)や向上心の育成。人間らしく生きるための智慧を磨く。
苦悩の原因とその対策を探る。
抜苦与楽、現世安穏、後生善処を説く。
人の生死に関わることを期待される職業。

このように、職業が持つ特有の概念を挙げていけば、医学と宗教は実に近い関係にある事が理解できます。それは、精神的に肉体的に「人間の苦悩を取り除く行為」を目的とするものです。人間の生命の尊厳や人の生き方に関わるものです。

日本では、仏教は戦国時代を境に医療を職業医師に委ねましたが、キリスト教やイスラム教は今日でも近代的な病院を所持して医療行為に関わり続けています。医療行為は医師資格を持つ者が行うので何らの問題もありませんが、宗教と医療が連帯して社会奉仕の一環として行う医療行為を批判できる医師はいないと思います。

世界宗教(キリスト経、イスラム経、仏教)や1000年の伝統を持つ既成宗教は、何世代もの人々とともに社会への適応を達成してきた事実があります。
社会に役立つ機能を果たし、社会に支持される長い歴史の積み重ねが「認知」と「定着」 につながりました。

社会から認知され定着した宗教は、「発生」から「教義の成立」「教団の統一」「社会への適合」「経済的基盤の確立」「社会の認知・定着」まで継続した長い特色のある歴史を持っています。

近代科学が発達する以前も以後も、人間の苦しみは原因不明や治療不能の病気への恐れであり、死への恐怖にあることは変わりのない「受け入れ難い事実」です。
宗教が人々に期待されている事由の一つにこれらからの解放があります。だから、キリスト教やイスラム教、仏教も「難病への対処」が付きまとい、難病治癒の奇跡譚が語り継がれたり、永遠の生命や輪廻・解脱の思想を語り、人々を死の恐怖から開放する使命を背負うことになりました。
この使命感の違いから、あまたの宗教が様々な奇跡譚を語り、多くの妄説を生みました。

特筆すべきことは千年の歴史を持つ宗教に病を癒すことを目的とする教団はないという事実です。
宗教は病気を治すものではありません。しかし、さまざまな病気の原因が不明のまま健康を回復させる治療行為が求められた時代のことです。人々が宗教の不思議な力を期待した様々なニーズがあったことも事実でしょう。
また、医術を身に付けた僧が医療行為を期待される歴史的背景があったことは事実です。

宗教には信仰から得られるエネルギーが病気に負けない精神力を支える大きなメンタルの役割が期待されるケースもあることでしょう。
医学の限界を超える末期がん患者や終末医療では「ホスピスと援助論」のスピリチュアルケアの領域で宗教の役割が期待され機能しているケースが増加しています。
人生の終末をあるがままに納得して迎えられる心構えや穏やかな精神状態を徐々に形成する効果が宗教の持つ機能に期待されています。これは医学にできない精神作用であり、これが妥当な棲み分けといえます。

病気の治療にあたる者は第一次的には医師(primary care adoviser)の役割です。特に、医師の中には誤解の故か宗教の関与を極端に嫌う者がいます。下記は一般的にオカルト宗教の常套手段といわれているものです。人々が常に監視の目を向ける必要があります。

・回答不能な人間の悩みに付け込むこと
・科学的な根拠が無いのに人の不安を煽ること
・人を洗脳して正常な判断力を奪い、教義を刷り込むこと
・むやみに寄付金を集めること
・世間の非難、迫害を喜びに転化させる教義があること
・脱退が困難なまでに人的関係を縛り組織防衛を強化する教団
・社会に対し攻撃的になること