(20)-7空海と神宝「歴史に現れた神宝とは」

粋密教の請来のための中国留学から帰国した空海は、嵯峨天皇の勅命を得て伊勢神宮の内宮に参籠し十種神宝図を転写しています。これを『十種宝高野山本』として高野山に伝え「天照大神十種神寶 奉於伊勢寶殿寫之耳」と記しています。ところが、この事実を伊勢神宮に取材したところ、伊勢神宮には十種神宝があるという話も噂も伝わっていないということであった。(「寺社仏閣に隠された 日本史の謎と闇」 中見利男-編著 宝島社 別冊宝島2069)

しかし、上記本は空海が偽りを書き残すことは考えられないことから、「十種神宝には実物と神璽(デザイン)の2種類が存在しているため、空海が伊勢神宮で転写したのは神璽の方かもしれない」という整理をしています。妥当な判断であろうと考えられます。

実は、十種神宝の宝探しは「天下をも動かす霊力を持つ秘宝」という位置付けにされたことで権力者が隠れた争奪戦を繰り返してきた歴史でした。空海が桓武天皇の命に従って、この秘宝の探索に奔走した特別ミッションを受けたのではないかと疑う状況が考えられます。権力闘争の犠牲者となり、罪なくして死んだ人々の怨霊が都を跋扈して祟っていると受け止めた桓武天皇のどうにもならない恐れ慄きを受け止めて、これを解決しなければならない政治状況が緊急課題として存在していたと考えられます。桓武は、怨霊を強力に封じ、遷都した都を守護して安寧と発展をもたらす神秘の霊力を心から望んでいたと考えられます。平城京から、いまだ未完成の長岡京に逃れるように遷都した桓武でしたが、精神の平穏はなかったと考えられます。400年続いた平安時代は、2度(長岡京・平安京)の遷都によって始りましたが、その理由は、桓武天皇の「出自に対する負い目と怨霊に対する恐れにあった」と考えられます。

天武天皇は、皇位継承の宝器、皇室のシンボルとして「三種の神器(八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉)」 を制定しました。これは、中国・長江の良渚文化の象徴であった玉琮(祭祀)、玉銊(軍事)、玉壁(経済)と同じような意味合いを持つものと考えられますが、「鏡は祭祀」を、「剣は軍事」を、「玉は経済」を象徴する意味を持つものであったと考えられます。鏡、剣、玉が揃うことで祭政一致の王権の象徴にしたものと考えられます。

皇室の三種の神器は、八咫鏡は伊勢神宮の内宮に、草薙剣は熱田神宮に納められていますが、八尺瓊勾玉は宮中三殿の賢所に納められています。それぞれのレプリカが吹上御所の剣璽の間に納められているとのことです。八咫鏡の裏面の文字が写し取られて秘かに巷間に出ていますが、その文字と内容、鏡を入れた箱が船の形であることから、ユダヤ由来のものではないかと考えられています。

鏡の入れ物の箱は「御船代」といわれ、大きさは外径2尺、内径1尺6分3寸で船で遠くから運ばれてきたという意味合いだと考えられています。鏡の大きさは、周囲147cm、直径46.8cmですが、裏面の中央部に大きな輪が描かれ、輪の中に7文字、輪の外周の上に12文字、下に18文字が刻まれています。書き留めた者の書き方によるものか若干の変形が見られますが古代へブル語と見做されています。輪の中の7文字は、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」と解読され「我は在りて有る者なり」と解釈されています。また、神聖文字と見る立場では「光なるヤハウェ」と読むことができると考え、この語源の聖書の神は天照大神を彷彿とさせる日の神、光の神であり、“まことに神なる主は太陽です”(聖書の詩編84.11)にあるという。八咫鏡の伝承にどのような物語があったのでしょうか。なを「神鏡ヘブル語説」は明治の文部大臣森有礼が、伊勢神宮で見たということから始まった説です。

十種神宝は、三種の神器の象徴的な意味合いとは異なり、それ自体が超越した霊力を持つとされている秘宝です。日本書紀には「天神に派遣されたニギハヤヒノミコト(饒速日命)が天神の祖より十種神宝(天璽の瑞宝十種)を授けられてこの国を統治した」とあり、物部系の伝書「先代旧事本紀」には「ニギハヤヒの子・宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)は神武天皇が大和に入ったあと天物部を率いて各地を平定したので天皇の寵愛を受けた」と伝えています。

ここで、出雲神族(クナト大神に率いられて出雲に最初に定着して出雲王国を作った「大国主命」の直系を自認する富當雄(とみまさお)元サンケイ新聞編集局次長当時67歳が一子相伝によって代々引き継がれてきた伝承内容と比較してみたい。
富氏の証言によれば、大国主は固有名詞ではなく代々承継された出雲王権の主宰者の敬称名であり、たくさんの大国主が存在したといいます。スサノオ(素戔嗚尊)は侵略者であり、大国主と敵対する関係であったが、記紀の作者が出雲神族と結びつけるためにスサノオを大国主の父、祖神と偽る捏造を行ったといいます。記紀がスサノオをアマテラス(天照大神)の弟とする姉弟関係を作ってアマテラスの権威づけに利用しているが、実際のスサノオは『出雲風土記』にもあるように、海から石見地方の須佐に上陸してその地の首長になった者に過ぎず、記紀が出雲国造りの「オオナムチ(大国主)」の舅の位置に据えた(婚姻関係で)演出の役割を持たされたものだといいます。石見地方で「韓」または「辛」がつく地名を持つ地に必ずスサノオ神話が伝承されていることからその出自が考えられます。 
なお、富氏の伝承にはアマテラスの存在は無い。富氏の伝承によれば、天孫族の本拠地は九州にあり、アメノホヒ(天穂日)は九州から対馬海流にのって出雲入りした。天孫族はアメノホヒノ一族を先遣隊として送るが、ホヒはオオクニヌシ(大国主命)にへつらい3年たっても帰らなかった。続いてアメノワカヒコが派遣されてきたが、オオクニヌシの娘シテタルヒメを娶り、葦原中国を自分のものにしようと8年も居ついた。(天孫族の)タカギノ神(高木神=『古事記』では高座御産巣日神=『日本書記』では高皇産霊尊)は怒り、ワカヒコを殺してしまった(これは『古事記』神話伝説とほぼ同じ内容です)。出雲風土記は、アメノホヒノ後裔の出雲臣広嶋が作成した。ホヒは出雲の祭祀権を握り(政権を奪ったことになる)、子孫は国造家に取り立てられた。国造家の「出雲文書」ではホヒは隠中(スパイ)であった。ホヒは出雲神族と婚姻関係を結んでオオクニヌシに国を譲るように画策する一方で、後続部隊を出雲に引き入れる手引きをした。アメノホヒノの子孫の国造家は北島、千家である。神魂神社宮司の秋上家と婚姻関係を結び形の上では同族になったが、秋上氏の口から千家に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識を持っている。といっています。

饒速日命は、スサノオ(素戔嗚尊)の三男・大歳命の改名であり、高皇産霊神(徐福の子孫)の協力を受けてヤマトに天孫降臨し日本(ヒノモト)を建国したとしていますが、「神武の国譲り」の経緯は神話によって隠されたままです。なお、国譲りは天孫族の圧迫に耐えきれなくなったヤマトの諸王権が支配権(祭祀権)を差し出したものと考えられます。考古学的にみても数千もしくは数万の軍団が氏族の存亡をかけて勝敗を争った形跡がなく、小さな戦闘や小競り合いがあったとしても、大勢は生き残りをかける徹底した戦争の勝敗による軍事的な支配権の確立によって国が形成されたのではなく、祭祀権の移譲という形で決着したのではないかと考えられます。なお、富氏の証言では、出雲の国譲りの際に、祭祀権を天孫族から命を受けた物部氏に召し上げられたといっていることから、このとき、出雲の十種神宝が物部氏に移動したと考えられます。

大陸の生き残りをかけた王権の興亡史と比較すれば大きく異なる日本の特殊事情によって解決が図られたのではないかと考えられます。祭祀権の上下関係の秩序の形成によって支配権の正当化が図られたこと、そのような宗教的価値観が日本の統一王権の形成過程にあったと考えられます。皇室が世界最古の王族として類例がない数千年の命脈を保てた理由の一つは、その権威が軍事力による支配権の確立によるものではなく、宗教的な権威、並ぶもののない祭祀権の確立を図ったことが民族(国民大衆)の中に深く広く定着させた結果ではなかったかと考えられます。皇室が数々の激動の歴史を乗り越えて生き残った奇跡の淵源はこのような宗教観の中にあったと考えられます。

その出自を隠し続けている、世界に類を見ない姓を持たない天皇家の存在をどのように考えるべきでしょうか。世界中をみても、王位に就いて王家の家系を形成した者の中には姓を持たず出自を隠した家系はありません。中国系や満州系、モンゴル系や北東アジア系、朝鮮半島系の王族はすべて姓を持ち、出自を隠した(抹消した)王族は全くありません。むしろその出自を飾りたてて名誉欲を満足させようとする傾向性さえあります。天皇家がその出自を隠した理由は、今日の日本語では理解できない名前が多すぎるところにあるのではないかと考えられます。名前の音を無理やり漢字表記にし当て字を入れているだけではないのかという疑いが消えません。いわゆる「尊」、「命」をミコトと読ませたり、名づけたりすることは中国系にも朝鮮系、北東アジア系にも全くありません。天孫族を騙った王家は、西アジア系の祭祀氏族(ユダヤ)ではないかと考える説があります。

崇神天皇7年に勅命を受けた物部氏の祖・伊香色雄命(イカガシコオノミコト)がこの十種神宝を石上布留高庭に奉祀したのが「石上神宮」の始まりです。石上神宮は物部氏の総氏神であり、日本最古の神社となりますが、代々の物部氏が祭祀を司ってきた特別の神社です。

記紀が神宮と格付けした石上神宮の周辺は、ミタマフリ(御霊振り)という鎮魂の儀式を司る伝統を保有し、現在でも毎年11月に「鎮魂祭」が厳粛に執行されています。鎮魂の古い読み方には、「オホムタマフリ・ミタマフリ」と「オホムタマシヅメ・ミタマシヅメ」の二通りがあります。833年(天長10)年に成立した「養老令」の注釈書『了義解』には、鎮魂を「離遊の運魂を招ぎ、身体の中府に鎮む」とありますが、『梁塵秘抄口伝集』には、「是はたましひを振りをこす、ゆらゆらゆらゆらとをこすなりとかたりきかせしなり」とあり、鎮魂の儀式には「魂鎮め」と「魂振り」の二通りがあったことが分かります。

石上神社の鎮魂の秘儀や呪法とは、どのようなものだったのでしょうか。石上神宮の鎮魂祭の模様が『私の日本古代史(上) 天皇とは何者かー縄文から倭の五王まで 上田正昭著、新潮選書』に詳しく書かれていますので抜粋して紹介します。

儀式の秘儀は「柳筥(やなぎばこ)と鈴のついた榊(鈴榊)」を用いるものであり、柳筥には三つの土器が収められ、右の土器には洗米と玉緒、中央の土器には十代物袋、左の土器には切麻が収められている。鈴榊は約1mで鈴4個が赤絹糸で枝の各枝に結び付けられている。まず、宮司が十代物袋を鈴榊に結び付け、これを右手に捧げ、玉緒の土器を左手に捧げて「神勅の事由」を黙祷する。次に、鈴榊を禰宜に渡す。宮司「布留(ふる)の言(こと)の本(もと)」を唱えて玉緒を結ぶこと1回、禰宜「和歌の本」を唱え、鈴榊を右より左へ振り動かす。次に、「和歌の末」を唱えて左より右へ振りつつ返す。宮司・禰宜交互に繰り返すこと10回。その後に宮司が十代物袋と玉緒と洗米とを奉書に包んで神殿内に奉納する。

十代物袋とは、大きな奉書を縦二つ折りにしたものを四角形に切り、さらにこれを五角形にして両面を貼り合わせ、中に十種の神宝の図形神を納め、上方に穴をあけてこよりを通したもので、十代物袋の表には「振御玉神」と書かれている。

「神勅の事由」とは、「瀛都鏡(おきつががみ)、辺都(へつ)鏡、八握剣、生(いく)玉、足(たる)玉、死返(まかるがえし)玉、道返(みちがえし)玉、蛇比礼(へびのひれ)、蜂比礼、品物(くさぐさのもの)比礼」という十種です。比礼は呪布です「布留の言の本」とは、「一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)五(い)六(む)七(な)八(や)九十(ここのたり)ハライタマヘキヨメタマヘ」という祝詞です。これをすれば「死人も返りていきむ」という天神の御祖の教えによって行うものです。「和歌の本」とは、布留部(ふるべ)由良止(ゆらと)、「和歌の末」とは、由良止(ゆらと)布留部(ふるべ)」と唱える祝詞です。この十代物袋、「神勅の事由」「布留の言の本」、「和歌の本・末」は、『先代旧事本記』に記載された祝詞とほとんど変わりがなく、瑞宝十種も同一のものであることが見て取れますが、十種神宝の本物が使われず、十代物袋という図形紙(コピー)を使っているところから、本物がなかったことが考えられます。

『先代旧事本記』は、延喜年間の904~906年頃に物部系の人物によって編纂されたものと考えられますが、宮廷の鎮魂祭に瑞宝十種とその鎮魂呪法が取り入れられていたのかどうかが問題となります。「大宝令」や「養老令」の解説書でる「令集解」(貞観年間の859~877年頃)の職員令・神祇官鎮魂の条に記された細注には前記の石上神社の儀式と同様の記述があることから、宮廷の鎮魂祭にも物部系の鎮魂呪法が貞観年間以前に取り入れられていたことの傍証になりうると考えられます。平安時代の法制書『政事要略』巻26の中寅鎮魂祭の条に「集解に云はく」として引用していることなどからも明らかであると考えられます。

瑞宝十種の伝承内容は検討する必要性があります。瑞宝は、『古事記』には「天津瑞」(具体的な内容の記述がない)といい、『日本書紀』は、「天表」として「天羽羽矢(あまのはばや)一隻」と「歩靫(かちゆぎ)」を挙げています。天表とは弓箭(弓と矢、転じて武器のこと)のことですが、日本の長弓は世界に類がなく日本独特の形状です。世界の短弓に比べて扱い難く 使い難いとされていますが、古代には弓箭に対して異常な崇拝観念があり、神聖視されてきたことから今日まで長弓が継承されています。ここに民族性が隠されている可能性が考えられます。『古語拾遺』によれば、天は美称のこと、羽羽は大蛇・蛇のこと、大蛇をこれ羽羽と謂ふ、あるので、この天表(長弓)が大蛇の象徴として神聖視された意味(民族の象徴=蛇トーテム?)にあるのではないかと考えられます。

『先代旧事本紀』では、鏡2、剣1、玉4、比礼3であり、それぞれの内容は異なっていますが、記紀には、これに類する物として新羅の皇子と伝承された天之日矛(天日槍)が持参した物が記述されています。古事記には「玉津宝(珠二貫)、浪切る比礼(呪布)、風切る比礼、奥津鏡、辺津鏡」と記述され、日本書紀には「羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石玉、出石の刀子、出石の桙(ほこ)、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)、胆狭浅太(いささのたち)」と記述されています。日本書紀の垂仁天皇88年7月の条には天日槍の曾孫という清彦が神宝を献じ、隠匿していた出石の小刀も「皆、神府に蔵む」とあります。この神府は石上神宮の神府であることは『釈日本紀』に天日槍の献上について同様の記述があることから認められます。

日本書紀に天武天皇3年(674)8月3日の条に、「元来、諸家の神府に貯め宝物、今皆その子孫に還せ」という命令が出されています。これは、石上神社の宝物を諸家に還元するものでしたが、これによって石上神府は刀剣類の「兵杖多く収る故に」兵庫化していく状況が現れるようになっていきました。『延喜式』巻第三には、石上神宮に伴(大伴)・佐伯の二殿があり、その鑰(かぎ)は「庫に納めてたやすく開くを得ざれ」という規定があります。伴・佐伯の両殿と称された建物の存在も兵庫との関連を意味づけるものだと考えられます。

石上神宮には夥しい数の秘宝が奉納されていますが、スサノオがヤマタノオロチを退治した十握剣という霊剣(熱田神宮に奉納された皇室の神宝・草薙の剣とは異なる)やアメノヒボコが新羅から携えてきた御神宝なども奉納されています。十握剣は吉備の神部にある石上布都魂神社に奉納されていた宝剣ですが、石上布都魂神社の宮司は代々物部氏が継承してきたところから吉備王国とニギハヤヒ(饒速日命)の密接な関連性、また、吉備の物部氏とヤマトの物部氏との間には同族関係が認められ、吉備王国はニギハヤヒの拠点だったのではないかと考えられます。

日本書記には初代王の宮が纏向遺跡にあったと記述されていること、隣接する箸墓古墳から弥生時代後半に吉備で作られ始めた特殊器台や特殊土器が発掘されていること、綾杉紋や鋸歯紋の装飾と赤朱で塗装した巨大な筒型土器は部族ごとの首長埋葬の祭祀用の土器であること、しかもこれらは吉備の楯築遺跡などから発見されている土器と同じものであること、土器には産地に多様性が見られることから、纏向の祭祀は諸国の王権が参加する共同体祭祀の形態をとっていたと考えられ、なかでも吉備や出雲が祭祀の中心にいたのではないかと考えられます。

ニギハヤヒは、天孫族の神話「神武東征」以前にヤマトに入り、神武に先行する王権を建国していましたが、何故か、後から、到達した神武に不思議な「国譲り」をしたばかりか、その配下となって神武の建国に貢献する存在になっています。『日本書紀』によれば、神武は猿田彦が指揮するニギハヤヒ軍(生駒山と葛城山の急所に布陣)に敗れ兄を失って撤退していますが、めげることなく今度は熊野から遠回りして、八咫烏などの助けを受けながら再度の戦いを挑みました。このとき、敵将の猿田彦の問いに答えて天孫族の印(しるし)「天の羽羽矢(あまのはばや)」を見せたことで、ニギハヤヒは神武の正当性を受け入れ、ヤマトの祭祀王を神武に譲ったと考えられます(記紀に記述がある)。

神武(本当は崇神?)が示した矢が、ニギハヤヒが所持するものと同じものであったことから、ニギハヤヒは「天孫と人は違う」といって王権(祭祀王)を譲る決意をしていますが、戦術的に優位な位置に布陣しているニギハヤヒ軍が神武に降伏しなければならない理由とは、見せられた矢が身分の上下関係や正統性を示すものであったと考えられます。降伏を認めない義兄の猿田彦(妹がニギハヤヒの妻)を切り殺してまで(祭祀権)を禅譲しなければならない十分な理由が一本の矢の装飾にあったと考えられます。

印が矢であることから、その出自が狩猟民族系の系譜にある民族であろうと解釈できますが、一本の矢だけで身分の上下関係が分かり、しかもその秩序を守らなければならない精神性を持つ民族とは、宗教的な権威と秩序が守られていた西アジア系の民族(ユダヤ系?)ではないかという疑いが消えません。仮に朝鮮半島や中国の諸民族の系譜であれば、戦の勝者のみが支配権を持つことが一般的です。この矢は日本書紀が「天表」としている神宝でした。

考古学の立場から纏向集団は政治的、軍事的に統一された統一王国ではなく、諸王国が参集した祭祀共同体であったことがほぼ明かされていることから、纏向は近畿諸国と吉備王国、出雲王国(祭祀の中心地・三輪山に大国主が祭祀さた)などが作った祭祀共同体ではなかったかという説に現実性があると考えられます。

ところが吉備王国も物部氏もまた、出雲王国と同様に、藤原不比等の作為的な記紀の編纂によって日本正史より意図的に抹消されています。記紀は最後の統一王朝を手にした勢力が権力奪取のために次々と有力豪族を抹消した手口と事実を隠すためのプロパガンダ史書して編集したものであると考えられます。記紀を正史と位置付けた藤原氏の意図が手に取るように透けて見えます。

日本の古代史は、記紀の記述に頼っていては真実の歴史が分からなくなると考えられます。記紀が意図的に消し去った、出雲王国、吉備王国、九州北部(倭国)と南部(日向勢力)の関係性を読み解かなければ事実は藪の中です。何も見えてはきません。そこで、記紀が消し去った先行王権を語る伝承の諸資料(敗者の史書)を参考にして、注意深く検討しながらこれらの主張を取り入れることで、古代史を見直す必要があると考えます。

日本建国の源流となった大陸からの渡来人の出自は本当に中国南部(揚子江流域)や朝鮮南部(三韓地域)であったのか、これらの地域は単なる通過点であって、本当は西アジアの出自(ユダヤ教徒、原始キリスト教徒、シュメール、ヒッタイトなどの諸説がある)ではないのか、などの疑問が残ります。 皇室は何故にその出自を隠しつ続けなければならないのか疑問が残るのは当然です。あろうことか、8世紀の大和朝廷が記紀の編纂事業の妨げになると見做して忌避し、各有力豪族に提出させた氏族史(墓史=家史)を焼却した行為には正当性がないと考えられます。

古代ヤマトの祭祀の中心は三輪山を聖地とし大物主を祭神とする形態でした。前記富氏の伝承では、大和(奈良県)と紀伊(和歌山県)は出雲王国の分国であり、出雲人が耕作をしてきた場所であったということです。圧迫を受けて出雲王国を「国譲り」させられた後に、出雲王族は大和に移され三輪山の麓に住むことになり、三輪氏の租となったという伝承です。

最後に統一王朝を形成した勢力が皇室の権威を高めるために行った宗教改革が伊勢神宮の創建であったと考えます。統一王朝の最高祭祀権を皇室の始祖に格付けした女神・アマテラスに付与し、アマテラスを神々の最古参格・最高位に位置付ける捏造(最古参の男神・スサノオと姉弟とし、天岩戸騒動を神話化する)を完成させる目的で創建した皇室神社が伊勢神宮と考えられます。ゆえに記紀は平安時代に創建した事実を隠し紀元前に創建したと捏造する必然性があったのです。

神武と応神は共に「ハツクニシラススメラミコト」の名前を持つところから、記紀が同一人の事跡を古く見せるためのに分割するレトリック手法であると考えられ、神武の存在感は否定され、初代神武から欠史8代を含む10人の天皇は存在しないと考える有力な史観(通説)があります。

高皇産霊神(徐福の子孫)は、神皇産霊神(素戔嗚尊、饒速日命)と協力関係をつくり、相助け合ってヤマトに降臨し統一国家・日本を建国したという伝承を持ち、高皇産霊神と神皇産霊神は皇室の最高神の格式を持つと考えられ、宮中三殿の祭祀は、第一殿に神皇産霊神を、第二殿には高皇産霊神を主祭神として行われてきました。

秦氏は饒速日命を祭祀する氏族です。松尾大社の祭神は「大山咋命」ですが、これは大歳命(饒速日命)の子「猿田彦命」のことです。伏見稲荷大社の祭神は宇迦之御魂大神(饒速日命)であり、愛宕神社の祭神は建御雷神(饒速日命)、白山神社の祭神も饒速日命と考えられます。神社の祭神名が異なるように見えますが、祭神の実体には同一性があると考えられます。秦氏は神社の祭祀形態を導入して神社祭祀を確立した功労者と考えられています。

伊勢神宮の莫大な建造費用は秦氏の財力が大きく貢献しています。ユダヤ系の秦氏は日本中に多くの寺社仏閣を創建した大旦那・大施主でした。伊勢はユダヤ系渡来人が集団で入植した所縁の土地です。秦氏が伊勢神宮にこだわりを持って、自らが創建した多くの寺社仏閣と同様にユダヤまたは原始キリスト教の痕跡を封印したのではないかと考えられます。秦氏の理念が伊勢神宮に反映されたと考えることは不思議なことではありません。秦一族は平安京の遷都の設計と施工のプロデュサーだけでなく、遷都の企画立案の影のフィクサーとして莫大な建造費用を負担した実力者でした。

平安京になった土地は秦氏が手塩にかけて心魂傾けて開発した土地でした。これを無償で提供した秦氏の胸中はどのようなものであったでしょうか。秦氏は平安京をユダヤの王都になぞらえた理想郷に設計したと見られています。秦氏については、前節の「(13)-1神道とは何か(日本の精神文化の背景①)」を参照願います。

ところで、伊勢神宮の最高神という宗教的権威が定まった後、女帝の持統天皇を除く歴代の天皇が伊勢神宮に行幸したという事実は全くありません。行幸した唯一の天皇は明治維新の政変によって絶大な権力を与えられた明治天皇だけでした。明治天皇には伊勢神宮の宗教的権威を神だのみにしなければならない王政復古という政治的な必然性があったと考えられます。

伊勢神宮の内宮の祭神は女神の天照大神です。実は本来的な天照大神は男神です。記紀は女帝の持統天皇の事跡を正当化するために天照大神を女神にすり替えたという疑惑があります。また、外宮に祭祀された豊受大神も男神と考えられます。豊受大神は、秦の高度技術を持って渡来し各地に伝播した徐福集団を祀る神ですが、伊勢神宮の外宮の本殿千木が外削されていることで男神(内削であれば女神)であることが分かります。記紀の数々の天照大神に係わる捏造や創作は、持統天皇=女性太陽神=天照大神という位置付けを意図するものと考えられますが、世界には女性の太陽神は存在しません。陰陽五行説では、太陽神の本質は陽でありこれを陰に置き換える陰陽の逆転はありえないものです。伊勢神宮の創建は記紀の捏造の最終的な総仕上げの完成を目的にした太陽神の女性化を強引に行ったものであったと考えられます。

伊勢に行幸しようとしない天皇家の中で唯一の行幸をした者が持統天皇でした。しかし、この行幸は当時の中納言・三輪朝臣高市麿が官位を投げ打ってまで反対したのを振り払うように挙行されたものでした。式年遷宮が持統天皇の頃より始まったことから、祭祀の正当な聖地が三輪山から伊勢神宮に変わったと宣言する狙いがあったのではないかと考えられていますが、次代以降の天皇の行幸が行われた事実はありません。アマテラスが捏造された女神であることから信頼性がなかったのではないかと考えられます。ちなみに、伊勢神宮詣では富士山信仰と同様に江戸時代の庶民に中で爆発的な広がりを見せたという事実があります。

ここで十種神宝の話に戻します。十種神宝が探し求められたのは、その霊力の強さが権力者を魅了して惹きつけ、その霊力で支配体制を完成させようとしたからだと考えられます。ではその内容、実体はどのようなものであったのでしょうか。これを見て驚いたことは、これぞまさに中国、朝鮮、日本のいずれの文化でもないと直感させる物でした。これは、おそらく西アジア発生の品々であろうと考えられる性質のある品々です。

十種神宝の内容は、①死反玉(死者をよみがえらせる力を持つという蘇生法)、②道反玉(邪気を払う、悪霊退散、悪霊封じ)、③沖津鏡(人生の道しるべとなる鏡、裏面に掟が彫られた鏡、太陽の分霊)、④蜂比礼(魔除け、身を隠す、悪霊や不浄なものを封しる)・⑤蛇比礼(邪気邪霊から身を守る)、⑥辺津鏡(顔を写し生気・邪気を判断する、己を常に輝く存在にする鏡、秦の鏡ともいう)、⑦足玉(すべての願いを叶える叶える玉)、⑧八握剣(国家の安泰を願う神剣、悪霊を払う)、⑨品々物比礼(死者や病人を蘇生させるために寝かせる敷物、死反玉で蘇生させる、魔物から身や重要なものを隠す、物部の比礼ともいう)、⑩生玉(神と人をつなぐ神人合一の光の玉)ですが、その姿・形色彩等はここに掲載できませんので、興味のある方はネットで「十種神宝」を検索してください。

この十種神宝には秘伝の操作法は、鎮魂法「布留の言(ふるのこと)」にあります。この呪文は、神主が唱える祝詞(のりと)のように調子を整えて唱えますが、布留(フル)とは饒速日命のことです。

「布留の言(ふるのこと)」 『一(ひ)二(ふ)三(み)四(よ)五(い)六(む)七(な)八(や)九十(ここのたり)布留部(ふるべ)由良由良止(ゆらゆらと)布留部(ふるべ)』これを調子を整えて何回も唱えるということです。この呪文は「ゆらゆらと身体を震わせながら使用」したのではないかと考えられますが、これには「十種神宝(とくさのかんだから)祓詞」という「いわれ」が述べられていますので興味のある方はネット情報の参照をお勧め致します。

古代の王権は、諸王権が入り乱れた支配権の奪い合い、また、身内の権力の奪い合いで多数の死者や犠牲者を作りました。敗者は恨みをもち、この世に深い怨念を残したと考えられたことで、勝者は敗者の怨霊や祟りをことのほか忌み嫌い恐れました。祟りや怨霊から逃れるために遷都をした例がしばしばあったことは事実です。為政者は身も心も安心できる強い神仏の加護を真剣に求めました。神道(修験道を含む)や仏教の興隆もこのような為政者の求めに応じて発展してきた歴史を持っていますが、為政者の強いニーズに応えられる人物には、為政者の手厚い保護と望みに任せた立身出世を保証する特別な加護がもたらされたと考えられます。十種神宝は、特に優れたその霊力が語り継がれてきたところから、為政者の願望には格別に強い要求があったものと考えられます。

神宝の探索には、優れた探索能力、これを継続できる強靭な体力や真贋を見極める特殊な能力、また、秘密が完全黙秘できる忍耐力が求められます。誰にでもできることではありません。為政者の立場では、誰にこの任を与えれば安全確実に任務を遂行してくれるか、その人選には信頼できる配下の協力が欠かせません。阿刀氏が身内の空海に白羽の矢を立てるのは、空海を為政者に認めさせるチャンスでもあり、自らの忠誠心を示すまたとない絶好の機会と考えたことは容易に理解できる出来事であったと考えられます。