(20)-4A「初期開拓者」の背景を考える(仮説)

『古事記』は、天皇家の支配の正当性を神話の形式で説いています。これによると、原初の三神とされる「天之御中主(アメノミナカヌシノカミ)」(日本書紀では「国常立神(クニノトコタチノカミ)」)、「高御産巣日(タカミムスビノカミ)」(日本書記では「高皇産霊尊」という)、「神産巣日(カミムスビノカミ)」(日本書記では「神皇産霊尊」)という造化三神(万物の創造主)からイザナギ(男神)とイザナミ(女神)の二神が誕生します。二神は日本列島を作り、火の神を生んだイザナミが火傷を負って黄泉の国に旅立ち、これを追ったイザナギが変わり果てた妻の姿を見て逃げ帰り、その穢れを清めた禊によってアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子(この三人は三つのグループが国造りを継承したということを隠しているのではないか)が生まれたといっています。

ここから物語の舞台が高天原という天上界に移り、スサノオは乱暴狼藉者の汚名を着せられて地上に追放されます。しかし、スサノオは八岐大蛇を退治(出雲地方の揖斐川の氾濫、という水害の治水に成功したと考えられる)するなどの活躍を国神らから認められ、地上の支配者として迎えられて出雲国を建国したとされています。また、もう一つの説は、古代出雲がたたら製鉄(日本刀の玉鋼を作る高度な製鉄法)の発祥の地とみる立場から、スサノオの出自を朝鮮半島(新羅・伽耶諸国)か中国大陸、さらに、ユーラシア西部に由来する産鉄部族を統率した人物であることを示唆するものであるとも考えられます。これらが古事記の記述から読み取れることから、スサノオの不思議な存在感が際立っています。古事記は三分の一の記述をスサノオ関連に割いていますが、これは何を語ろうとするものでしょうか?

『出雲国風土記』の「出雲郷の条」には、赤衾伊努意保須美飛比古佐倭気能命(アカフスマ イヌノ オオスミヒコサワケ ノ ミコト)は意美豆努(オミツヌ)の子とあり、別名は八束水臣津野(ヤツカミズ オミツヌ)といいます。『古事記』では、淤美豆怒(オミツヌ)神と書かれ、スサノオの5世孫であり、大国主神の祖父とされています。「出雲の国引き神話」は、八束水臣津野命(意美豆努命)が志羅(新羅)から四部族を率いて出雲に上陸し、出雲国を大国にしたとするものですが、『新撰姓氏録』の皇別に記載されている「新良貴(シラキ)」は瀲武鵜葦草葦不合尊の男稲飯命の子孫であるとし、稲飯命を新羅国王の祖(第二期の新羅国王とされている瓢公か?)としています。記紀によれば、鵜葦草葦不合尊(ウガヤフキアエズ)は神武天皇の父、稲飯命は神武天皇の兄としていることから、神武は新羅王族とは親族であるといっていることになります。これらの記述をどのように読み解くべきでしょうか?

スサノオには、初期開拓者の代表者ともいえるイメージがとても強く感じられます。スサノオとアマテラス(しかも、女神説には捏造説の疑いが強く感じられる)は兄(姉)弟ではありえない、と考えられるのです。アマテラス(女神)を皇祖とする建国神話は、8世紀(712年)に完成した『古事記』や、これを先行文献として参照せざるを得なかった『日本書紀』(720年)が語る日本独特の神話です。世界の太陽神はすべて男性神です。中国の陰陽五行説では女性の太陽神は絶対にありえず、太陽神を女性とする神話は世界のどこにもありません。天照大神が女性であったとする『日本書紀』の主張には説得力が欠落していると考えられます。

『日本書記』の作成に大きな影響力を持っていた人物は藤原不比等です。藤原不比等は、7世紀の「大化の改新(乙已の変)」で突然に勃興した中臣(藤原性に改正)鎌足の長男です。中臣鎌足には百済帰化人説があります。7世紀の大和朝廷の卜占の職にあった中臣家(鹿島神宮の祭祀家)に婿養子に入り、鎌足の出世によって中臣氏族は多くの恩恵を受けたという伝承がありますが、朝廷に勢力を扶植した鎌足が藤原家の創設を勅許されたことで、中臣氏族の利用価値が希薄になり、次第に疎遠になったと考えられています。藤原家は、壬申の乱で政権を掌握した天武天皇から疎外され没落しましたがその理由は不明です。外交的には新羅系の天武天皇と百済系の天智天皇の軋轢関係が持ち込まれた疑いがあり、天智を支えた藤原家が危機状態になったものと考えられます。この落ち目の藤原家のパトロンになって大出世させてくれた恩人が持統天皇(天武天皇の后、天智天皇の長女、天武朝の皇位を奪い、天智朝を復活させたという疑いを持たれている)でした。これに強い恩義を感じた藤原不比等は、持統帝の皇位にまつわる政治的な立場や皇位の継承にまつわる血統の正当化を図るために、新たに編纂される『日本書紀』の国家事業の利用価値を意図的に用いたものと考えられます。

蘇我宗本家が滅んだ(蘇我氏全体の滅亡ではない)「乙已の変」は、日本と朝鮮半島との外交関係の在り方が反映されたものだと考えられます。親百済派の蘇我氏は、百済経由で行った隋との外交関係を許容していたが、新羅経由での唐との交渉には否定的であったと考えられています。乙已の変は、蘇我氏の外交姿勢を否定して路線転換を望んだ勢力によって実行されたと考えられます。大化の改新から直後の外交は、新羅や唐との交渉に軸足を移していますが、再び百済に回帰しています。このことは、新政権の内部には外交方針の対立が解消できていないことを示唆するものです。王族には新羅系と百済系が共存していて、朝廷内にも親百済勢力と親新羅勢力が鎬を削っていたのではないかと考えられるのです。

藤原不比等の『日本書紀』は、女性の持統帝の立場を天照大神に反映させ、持統帝の政治的な立ち位置と関係性を皇祖の事跡に強引につなげて、これらを重ね合せて塗り替える意図をもった捏造神話を随所に埋め込んだものであろうと考えられるのです。日本史を研究する歴史家の多くが、記紀が語る歴史には、歴史事実がありのままに反映されたものとは考えていません。記紀には意図的にパターン化された神話が多すぎると感じられますが、これには、中国、朝鮮の神話を参照して作ったのではないかという疑いを指摘する多くの歴史学者がいるのです。また、記紀によって日本史を研究する外国人学者が、記紀の神話伝説にしばしば奇異の念を持つことは致し方ないことであるとも考えられます。

スサノオ(素戔嗚)は、出雲に現れる前に朝鮮半島の新羅に出現しています。スサノオは子の五十猛を率いて新羅国のソシモリ(曾尸茂梨=王都を意味する「ソホル」と同語)に降り立ちましたが、その地をきらい船で出雲に降り立ったと古事記は記述しています。スサノオには、朝鮮半島、または、朝鮮半島を経由地としてきた氏族(民族)との関係性があるといっていることになります。スサノオの後継者が大国主(この名称は代々の国主に継承されていたという説がある)です。アマテラスは地上の国を取り戻す(?)強い意思を持って、大国主に出雲の国譲りを強迫して大国主の主権国家を簒奪しました。『古事記』は、アマテラスが地上の支配権を孫のニニギノミコトに掌握させるために高千穂の峰に天孫降臨させた、という記述をしています。

話を少し戻します。『古事記』は、アマテラスとスサノオの誓約(うけい=占い)によって、五皇子(順に、天忍穂耳命、天穂火命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命)と宗像三女神(順に、多紀理毘命、市木島比売命、多岐津比売命)が生まれたとし、長男が天忍穂耳命(アメノオシホミノミコト)、次男が天穂日(アメノホヒ)としています。アマテラスは地上の葦原中国が繁栄していることを羨み、自分の子に支配させようとして天忍穂耳命に葦原中国に下るように命じましたが、天忍穂耳命は騒がしい面倒なところにはいきたくないと忌避したことから、その子のニニギノミコトに行かせることになったと古事記は述べています。

出雲国に監視役として派遣した天忍穂耳命の長男・天稚彦(天若日子:アメノワカヒコ=ニギハヤヒ)は、大国主の娘と結婚して出雲王となることを目論み出雲に同化して帰ってこなかったことから、二番手の監視役として天穂日を派遣したのです。ところが、天穂日も大国主に寄り添って役目が果たせないでいることから、これを不満とするアマテラスは、軍使タケミカズチを派遣して強引な出雲の国譲りの強談判をさせて出雲国を簒奪しました。大国主は、立派な宮殿(出雲大社)を建てることを条件として国譲りを承諾し、ヤマトの三輪山に移りました。アマテラスには出雲を簒奪する正統性はありませんが、『日本書記』は、アマテラスが8世紀の大和朝廷の皇祖に祀られことに正統性を求め、日本中は全てアマテラスの所有物とみる価値観で書いたと考えられます。歴史(神話)の遡及効を認めたのです。天穂日は、大国主の出雲の祭祀権(王権)を奪って、出雲大社を祭祀する宮司家(出雲国造家=律令制の下では国司、現在の千家・北島家)の祖となった実在の人物と考えられています。

アマテラスは、孫のニニギノミコトに葦原中国を支配させるために日向の高千穂峰に天孫降臨させました。ここから物語は地上界に移りますが、ニニギノミコトから曾孫の海幸彦(兄:火照命)と山幸彦(弟:彦火火出見命)が生まれます。山幸彦の子がウガヤフキアエズですが、その子に初代「神武天皇」が誕生して万世一系の天皇家の歴史が始まります。『古事記』は、神武天皇を日向の高千穂の峰からヤマトに東征させる物語を書くことで、天皇家の万世一系の血統と歴史が始まったという建国の物語を仕上げました。しかし、神話や証拠のない伝説によって、実在性が証明できない神の系譜を具体的な人間の系譜や事跡に繋げることは不可能です。『古事記』が登場させたこの神話の世界の神々が、実際にはどのような履歴を持つ人々の行跡であったのか、その人物の実在性と事跡がつながれば、古事記や日本書記の受け取り方が異なったものになることは否めません。記紀は、8世紀に書かれた皇室の神聖を高めるプロパガンダとして書かれた性格を濃厚に持っています。

原初三神は、三つの渡来系(天津神)勢力のシンボリックな象徴と考えられます。三つのグループが皇祖を支援して国造りをしたことを隠しているのではないかと考えられます。『古事記』は、意図的に歴史的な事実関係を伏せて、皇祖が発生した過程を神話に託す手法をとることで、人々に皇祖の神聖性を語り支配の正統性と正当性を認めさせる作為の記述をしたと考えられます。いわば、神話の物語は単なる荒唐無稽の作り話ばかりともいえない何らかの元ネタを脚色して皇祖の神聖性を強調したのであろうと考えられるのです。これらは、皇祖が大陸から日本列島に渡来(天孫降臨)したとき、中国の勢力、朝鮮半島の勢力、中央アジアから移住してきた勢力など、諸集団との連携や共闘関係(北部九州には激しい戦闘を示す環濠集落の遺跡=吉野ヶ里遺跡などが発見されている)を表しているのではないかと考えられます。

この原初三神に何が投影されているのかを読み解ければ、神話の世界を読み解く可能性が考えられ、天孫族は三つのグループの同盟関係を踏み台にして地縁・血縁関係を形成し、諸氏族が入り乱れた建国の競合関係の中から抜け出して頭角を現した勢力であろうと考えられます。『古事記』は、これらの神話には長い時間的な経過があったとする前提に立って書いていますが、実際は、いくつかの事跡はほとんど同時代に同時進行していた勢力の興亡の事実関係を隠して脚色して神話化したものであろうと考えられるのです。これらは、ほぼ2~3百年の出来事を古く見せるレトリックであろうと考えられます。

日本列島の支配権を確立した勢力は、大陸から日本列島に移動する強力な船団が必要でした。航海の経験を積んだ船団を持つ海神族の協力がなければ、兵員、軍事物資、生活物資や氏族集団を支える職能集団を海上輸送することができません。古代日本列島の道路は未整備で無きに等しい状態であったと考えられます。各地への集団移動には陸上よりも海上輸送が安全で効果的であったと考えられます。中国大陸や朝鮮半島の沿岸地帯を自由に航海していた海神族の協力が必要不可欠であったと考えられる理由です。また、始皇帝の影響力から離れて渡来した徐福集団には、日本列島に王国を建国できる実力が十分にあったと考えられます。海をテリトリーとする海神族や船団を持つ集団は建国に重要な役割を果たしていたと考えられます。天照大神がどの渡来勢力を出自とするのか古事記は沈黙しています。天照大神の孫ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)の子とする海幸彦と山幸彦の兄弟の相克は天孫族を支えた山(狩猟系民族)と海(海神系民族)の主導権の奪い合いとも考えられ、山(狩猟系)が海(海神系)に競り勝って主導権を握ったことを物語っているのではないかと考えられるのです。

日本は「豊葦原の瑞穂の国」であると『古事記』はいいます。稲の定住農耕によって狩猟採取の不安定な生活から解放され、食料の備蓄による豊かな定住生活が叶えられたことで、飛躍的に人口が増加し、集団の勢力が拡大しました。蓄財がすすみ、これによって、支配者と被支配者との関係性が身分秩序によって階層化されたと考えられます。古代の農耕の収穫は天候に大きく依存していました。ゆえに五穀豊穣が叶えられる自然(神)の条件に恵まれることを神に祈る祭祀王としての天皇の役割には宗教的な権威と畏敬が施され、集団の期待を一身に集めることができたと考えられます。

今日に伝わる皇室の最も重要な年祭祀である「新嘗祭」の神秘的な天皇の儀式には、「五穀豊穣の祈り」の歴史性が凝縮されていると考えられています。新嘗祭のルーツは天孫降臨に遡る古いものだという説があります。天照大神がニニギノミコト(瓊瓊杵尊)に高天原の稲穂を与えて大切に育てるように指示したという伝承がこれですが、『日本書紀』に記録されたもっとも古い新嘗祭は、皇極天皇元年(642年)11月16日の記述です。天皇の祭祀に関する役割が誇張されて伝承されてきた原因には、『古事記』や『日本書紀』が神聖視する皇祖神の神話が人々の思考を拘束し、日本民族に大きな影響力を与えてきたとも考えられます。歴史学的には、実在した最初の天皇は第10代の数神天皇だといわれています。そうであれば、崇神の事跡が神武の事跡に書き換えられたことになります。意図的に天皇の名に神が付けられている三名(初代神武・10代崇神・15代応神)の事跡は特に要注意と考えられます。

稲の遺伝子の研究の成果から、ジャポニカ種の稲の遺伝子は朝鮮半島にはない品種であり、しかも朝鮮半島に伝わった稲より古い品種でした。実は、日本の稲作の歴史は縄文時代前期の6000年前に始った可能性があるのです。それは縄文遺跡から次々と稲に含まれるガラス質の細胞成分(プラントオパール)が岡山の彦崎貝塚から大量に発見されたことからわかったのです。5~6千年前の縄文中期の土器から稲の圧痕が発見され、稲作は縄文中期には開始されていたと考えられたのです。日本列島の稲作が、朝鮮半島の稲作より古かったという結果は、渡来系氏族が日本列島に稲作を伝播させたとする史観に大きな影響力を与えることになります。

現在の日本の稲は温帯ジャポニカ種ですが、古い熱帯ジャポニカ種(焼畑や湿地での稲作)が中国・揚子江流域から琉球諸島を経由して日本列島に伝わったものであることが中国、朝鮮、日本の稲の遺伝子の分析によって証明されました。日本の稲の遺伝子には、朝鮮で発見されていない古い遺伝子を持つ稲があり、中国・揚子江流域の稲の遺伝子と同種であることが分かったのです。日本の稲は朝鮮半島から伝播されたものとはいえなくなったのです。稲の伝播は日本列島に渡来してきた人々によって、さまざまなケースからランダムに持ち込まれたものと考えらえます。陸上交通が不便で人の往来の範囲が狭い時代のことでした。稲の種子は富の象徴と考えられたであろうことから、その土地の有力者に抱え込まれて門外不出にされ、いつでも自由に手に入る状態にあったとは考えられないのです。稲作の方法は、「水田耕作」の普及によって収穫が飛躍的に進化を遂げました。「水田耕作」とその改良には、渡来人の経験と知識が生かされて伝播されたものであったことが考えられます。

日本列島で水田耕作による組織的な定置農耕がいつ頃どこから大規模に始まり、また、いつ頃どこに国家の概念を持つ国の建国が行われたのか解明できれば、集団の集合離散の状況と小国家の建設過程が見えてきますが、日本列島の中で自然発生的に国家という概念が育ったとは考えられません。やはり、日本という国家の概念は、大陸から持ち込まれた国家観の経験則をもつ集団によって急速に形成された(その建国の過程が「天孫降臨」の神話で誇張され、特別な貴種が行った偉大な建国物語として認識された)のではないかと考えられるのです。

弥生時代の先進地域は、中国大陸や朝鮮半島と交流関係を持つことができた北部九州です。九州地域と朝鮮半島南部地域(後年に百済、伽耶諸国、新羅の三国を建国していく地域)が倭国連合を形成したと考えられます。この地域は鉄の産地の奪い合いで密接な利害関係をもっていた地域です。各氏族が生き残りをかけて勢力争いを繰り広げた古代の中心的な地域でした。倭国は紀元前2世紀頃から4世紀中頃(?)の国です。倭国の期間は、①57年に倭奴国が漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を授与され(『後漢書』東夷伝)、②107年には倭国王・師升が後漢に生口(奴隷)160人を献上、③倭国大乱(王位継承問題に起因、各国の利害調整ができなかった期間)が漢の恒帝と霊帝の間(140-189年頃)にあったこと、④これを収束した卑弥呼が、239年に魏に遣使し親魏倭王を認証されるなど、⑤248年に邪馬台国と狗奴国の紛争で魏の張政が激励にきていること、など中国史書の記述から推定可能です。

ヤマトの建国(4世紀)は、倭国の終焉をもたらすものであったとは考えられません。倭国(九州北部)とヤマト(飛鳥)とは6~7世紀頃までは並び立っていた関係性にあったと考えられます。しかし、その勢力は相互に必然性を持って並び立つ競合性を否定して相手を吸収しなければならない関係性になっていく立場であったと考えられます。もし、倭国の領域が九州から近畿に及ぶ広範囲のものであれば、ヤマト建国にまつわる天孫族の東征や日本建国の神話の歴史を作る必然性はありません。卑弥呼の倭国の掌握が統一国家「大和朝廷」を実現してしまうことになるからです。この意味では、邪馬台国近畿説は、記紀の神武東征や崇神と応神天皇の東征を否定することになります。

箸墓古墳の卑弥呼説は記紀神話の天孫の東征説を否定しなければ成り立ちません。そもそも、3世紀以前にヤマトは存在せず、ヤマトが日本列島の外交権を中国王朝から認められていたとする事実は考えられません。ゆえに、中国からみれば、正当な外交権は倭国(九州)にしかなく、近畿のヤマトは倭国名を継承しなければならない必然性があったと考えられます。記紀の伝承内容も倭国王朝とヤマト王朝の出来事を再整理できれば、古代史に整合性を持たせることができるのではないかと考えられます。

中国から冊封された倭国王は九州説に妥当性があると考えられます。3-4世紀のヤマトの成立によってヤマトが強勢となって倭国の外交権を奪い国家としての同一性を主張したのではないかと考えられます。対外的には、5世紀の外交でも、ヤマト五王ではなく、「倭の五王」であった疑いが濃厚です。朝鮮半島では、新羅が唐と連合して、百済を滅亡(660年)させ、高句麗を滅亡(668年)させたことに驚愕した倭国は新羅・唐の連合軍に攻め込まれる恐怖心から倭国(九州)と日本(近畿ヤマト)の両王朝を統一することによって新羅と唐の連合軍に対峙しなければならない状況に置かれたと考えられます。ヤマトは防人の制を採用して東国の兵士を九州・筑紫に派遣して防御を固めました。倭国単独では不安で対応できないと判断したものと考えられます。

事実、唐は先発軍団を大宰府に派遣して倭国を牽制していましたが、676年に新羅が唐の勢力を朝鮮半島から排除して朝鮮半島の統一したことによって、唐の軍団は帰国しています。このような一連の流れがあって、統一国家である「日本国」の改名に関する辻褄合わせが中国に黙認されたのだと考えられます。日本の外交使節が中国皇帝にした説明では「倭国の名前は雅やかでないので日本国に改めた」という理由でしたが、中国の『旧唐書』(648年)には、「小国の日本(ヤマト)が大国の倭国を併合した」、「日本は倭国の別種なり」と書いていることから、日本という国が倭国を併合したことを知らせて来たという認識であり、唐は日本の政権交代を黙認するほかなかったのだと考えられます。しかし、『新唐書』(1060年)日本伝には、「日本は古の倭奴なり。」「日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒す」「使者には情実がない故にこれを疑う」と書いていることから、疑いを持ったが黙認したという態度が見て取れます。

また、『新唐書』日本伝には、「隋の開皇末に天皇家の“目多利思比狐”が初めて中国と通じた」「日本の王の姓は“阿毎”であり、筑紫城にいた神武が大和を統治して天皇となった」という記述があり、日本の皇位継承順の天皇名が記載されています。日本書記と同様の説明が中国にされたものと考えられますが、この中に、応神天皇の前に開化曾孫とする神功(女)を置き王と為すと書いていることから、日本が派遣した外交使節の口述内容をそのまま筆記したものと考えられます。天皇が姓をもっていたこと、天皇名は中国式の名称の外に日本名を持っていたことが分かります。

朝鮮半島の既得権や縁故を失っていく過程や急変の事情の中で、倭国と日本の合従連衡による両王朝の合併が促進されたと考えられます。両王統の合併によって、皇位継承の争いが激化する原因をつくったのではないかと考えられるのです。中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の尋常ではない関係性はこの中の争いであったと考えられます。天智は唐と新羅の連合軍を敵にして百済に入れ込み、天武は新羅との外交関係の修復に努めていることは、対照的な外交関係であったと考えられます。この外交の利害関係が両人の政治的な立場を反映する者であったと考えられます。天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺には天智系の天皇の位牌が安置されていますが、天武系は疎外され祭祀に対象外として扱われています。この異常な祭祀形態は一体何を物語るものでしょうか?皇族の系統(ヤマト系か、倭国系か)のの違いから敗者の系統が排除されたのではないかと考えられるのです。特に、藤原京以降の頻繁な遷都は、出自を異にする皇族の皇位継承の奪い合いから敗者が悲惨な死を遂げたことにあるのではないかと考えられます。敗者の怨霊が跋扈する都に怯えた天皇が居たたまれず都を打ち捨てて逃げ出す遷都が繰り返されたのではないかと考えられるのです。

倭国は中国・朝鮮半島との外交権を持ち、朝鮮南部の弁韓(伽耶諸国)の鉄の交易権によって繁栄した九州北部地域(初期渡来者の建国)と考えられます。倭国は、中国大陸や朝鮮半島からの渡来人の一大集積地でもあったと考えられます。邪馬台国の女王卑弥呼は倭国(29ケ国連合)の一部の勢力でしたが、倭国王に共立されて使節団を派遣し、親魏倭王を認められました。卑弥呼は、ヤマト建国には無関係だったと考えられます。但し、倭国の枠や括りは時代によって少しづつ変化したと考えられます。ほぼ同じ頃、日本海に出雲国、日本海の北陸に越が、瀬戸内海に吉備王国が成立し、3世紀頃の纏向遺跡の周辺にヤマト連合が形成されていったと考えられます。それぞれの成立時期を特定することは困難です。

ヤマトは、北部九州の一人勝ちを憂慮する勢力が集まって九州勢力に対抗する目的で形成された合議制の祭祀連合体と考えられます。ヤマトの立地条件は、瀬戸内海を監視できること、葛城山系と生駒山系を防御ラインとすれば西からの攻撃に強い天然の要害であり、東は逃走経路に適していることでした。鉄の交易の瀬戸内海ルートに圧力を加えてくる北部九州勢力を牽制することができる戦略上の要地でした。鉄器保有量で他を圧する勢力を持つ北部九州に危機感を持ち、対抗心を燃やした吉備(物部)、出雲、近江(諸豪族、のち息長氏)、東海(尾張)などが3世紀にヤマトに集結して、ゆるやかな祭祀連合を形成しました。祭祀の指導的な役割は主として吉備(物部)と出雲が任じられたと考えられます。

ヤマトの祭祀の中心は三輪山でした。出雲神(大物主の神)が鎮座して、吉備から祭祀に用いる特殊器台形土器などが持ち込まれていることから、吉備と出雲が重要な役割を果たしていたことが推定できるのです。ここでは墳丘上で首長霊を継承する儀式が執り行われたと考えられます。物部氏の祖・ニギハヤヒが神道の信仰形態(三輪祭祀=出雲祭祀)を持ち込み、ヤマトの中心にいたと考えられます。その後に、ヤマト入りした天孫に祭祀王を禅譲し、諸王に共立させて天皇家を誕生させ、祭祀形態を継承させたと考えられます。後に祭祀王の地位を確立することができた天孫族が独自性を主張して興した祭祀がアマテラス祭祀だと考えられるのです。

ヤマト連合が徐々に力をつけて瀬戸内海の鉄器交易ルートを確保して、独自の交易ルート(日本海ルート)を持つ出雲に国譲りさせ、次に北部九州勢力(倭国)を解体しました。九州から中部地方まで傘下に収める大和(やまと)王権が誕生したと考えられます。伊勢を譲り受け、各地に四道将軍を派遣して統一国家を形成したとするのが記紀伝説の立場です。事実かどうかはわかりません。東北地方を平定して日本国が誕生しました。この中でヤマトタケルの遠征神話が作られたのです。やがて、朝廷内の権力争いで、建国の功労者が相次いで謀略によって滅びました。葛城氏が滅び、物部氏が力を失い、蘇我氏が滅亡し、大伴氏が失脚して、日本建国に貢献した古代の大豪族(諸王家)が滅び、権謀術数を駆使した藤原氏が一人勝ちして天皇家の外戚を独占する天皇体制(藤原体制)が確立されたと考えられています。

日本建国に影響を与えた初期の開拓者の有力グループには、四つのグループが考えられています。結論をいえば、皇室の先祖は誰か、ということになりますが、記紀の記述は神話の世界の物語を天皇家(アマテラス、天孫)に繋いでいるけれども、その出自を意図的に隠していると考えられ、信頼できる歴史事実とはいえません。国家の初期建設が隠されている先進国は、日本だけだという悩ましい歴史観の中に置かれています。歴代の政権が皇室の淵源を明らかにできなかった事情とは一体何故でしょうか。はっきりしている事実は、「明らかにしたくない」という強い意思が働いていることです。明治期から、宮内庁が近畿各地の古墳を天皇陵に比定して囲い込んで隔離し、天皇の神聖性を根拠として徹底的に保護する施策を取り続けています。しかし、天皇の陵墓に指定された古墳が本当にその天皇の墓といえるかどうかの検証をすることは不可能と考えられています。そうであれば、陵墓を指定して抱え込まかまなければならない理由はなんでしょうか。誰かがこれらを発掘して皇室の出自が明らかになれば、天皇の尊厳や尊崇の念が失われるとでも考えているのでしょうか。

四つのグループとは①先住民(縄文人)が弥生人や渡来人を吸収して国家を築いたとする説、②中国大陸からの渡来系氏族が日本列島を征服して国家を建設したとする説、③朝鮮半島の氏族が渡来して国家を形成したとする説、この説には複数説があります。④西アジアのシュメールやユダヤ(原始キリスト教、景教などを含む)の渡来説などです。四つのグループに共通する史観は、船で日本列島に渡来して、九州・出雲に地歩を築き、祭祀王として権威を確立し、抗争に勝利して生き残り、瀬戸内海を制して、ヤマト王権を形成し、九州、中国、北陸、中部の諸勢力を傘下に収めて統一国家「大和王権」を樹立し「日本国」を建国したとする見解です。

もう一つ気になる国造り神話があります。イザナギとイザナギの建国神話です。最初に淡路島を作り、二番目に四国を、三番目に九州を、四番目に本州を作ったという「オノコロ島神話」は何を語っているのでしょうか。この順番は、船で来た氏族が着岸して探検・調査し定着した順番を述べているのではないかと考えられます。では、この氏族を示す痕跡(遺跡や伝承など)や文献があるのでしょうか。文字が残る時代ではありません。合理的な仮説を働かせる必要があると考えられます、もし、意味のない神話であれば記紀がわざわざ日本の始まり神話として取り上げる必然性はないと考えられます。私見では④につながるものではないかと考えられます。淡路島や四国に到達した氏族と九州・日向の天孫降臨族(アマテラス)と吉備(ニギハヤヒ)、出雲(スサノオ)は近似性の高い神話の世界に覆われていると考えられるからです。

九州での勢力争いでは、グループ間の戦争と衝突によって勢力圏が形成されたと考えられますが、近畿での王権の樹立では支配者に宗教的な権威付けが行われ、原始宗教から祭祀形態が整備された神道形態を示していることから、日本列島の初期開拓者と見做され、特別な血統を認められた宗教的権威者に支配の正当性を委ねられた大王(祭祀王)が共立されたと考えられます。各地で異なる祭祀を持つ有力氏族がヤマトの纏向遺跡に集まり、共通の祭祀形態で統一(前方後円墳)されたヤマト王権を形成したものと考えられています。大王は天皇制に移行しましたが、一つの統一王朝が一つの血統によって維持されてきたかどうかについては争いがあります。(A)血統が変わったとする説(三王朝交代説)と(B)同一の血統が継承されてきた(記紀の立場)という両説があります。

①先住民(縄文人)説は、国家の概念が形成された根拠が証明できず、国家の形成に関わった有力勢力が九州に地盤を形成した天孫族(記紀の立場)であったことの証明ができません。BC1世紀(縄文末期)頃、ハプロタイプのY遺伝子D系統を持つ民族(イスラエルの失われた10支族のエフライム族)が西アジアから渡来してきて縄文人と混血したとする説がありますが、この説では、崇神天皇(ハツクニシメススメラミコト・実質的な初代王)の出自を仮説しています。なお、崇神天皇(ハツクニシメススメラミコト)は8世紀の日本書紀によって名づけられた名称と考えます。D系統の遺伝子を持つ人々は、中国・韓国にもその他の地域にもいません。わずかに、日本とチベットにいるだけです。D系統は中東・アフリカの一部にいるE系統とは同系列ですが、分岐した系統(ヨセフの子・マナセとエフライム)と考えられています。このD系統の遺伝子を持つ日本国民の割合は40%ですが、その渡来の第一集団が崇神の出自となる集団、4~5世紀に渡来した秦氏の集団が第二集団だと考えられています。

②説の代表説は、朝鮮半島南部地域の馬韓、弁韓(伽耶諸国)、辰韓(秦韓)の倭人、特に辰韓(または経由か?)から渡来した考えられるスサノオ族(古代出雲神族)が出雲と北九州を拠点として国造りを行ったと考えられます。中九州と南九州は北九州に遅れて開発された地域です。日向に降臨したとするアマテラス族が天孫を名乗りましたが、これは宗教的祭祀王の権威付けに利用するものであったと考えられます。天孫を主張することによって、支配の正統性を受け入れさせるプロパガンダに利用したのであろうと考えられるのです。では、アマテラスは何処から来たのでしょうか。記紀の神話からこれを読み解くことは困難ですが、面白い卓見を関裕二氏が述べているので紹介します。