(20)-2空海と最澄-その書を読む-

空海は、平安時代の初期に嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆と讃えられました。この中でも、空海は第一の能書家として日本の王義之に比肩される不世出の代表格に挙げられています。

「書は人なり」「心正しければ筆正し」との伝承があります。また「言葉は人なり」ともいわれてきました。言葉は人の心であり、書は人の言葉と心を文字という形に表したもの、いうなれば、作者の感情や人間性を文字の形や、一つ一つの線や点で表現し、文字に芸術性を持たせたものと考えられます。
しかし、書が芸術であるためには、作者の美意識と個性、そして独創性が必要であり、書の一定の規範を踏まえた技法の鍛錬をしなければなりません。

空海は、797年に『三教指帰』(『聾瞽指帰』はその草稿本)を著して、その「序」で出家の動機を述べています。
「本論」では、三教の思想の特質をそれぞれの登場人物に対話討論の形式で戯曲風に語らせるという手法を用いて、仏教が儒教や道教とは比較にならないほど優れていることを結論付けています。
一人の沙門から虚空蔵聞持の法を聞き、仏典を学ぶうちに仏教への関心が高まっていったことを契機に、二十歳頃、大学を中退し、孔孟の思想書や仏教の経典を真剣に学び、また、私度僧として各地に修行を重ねた結果、仏教の奥義を極めたいとして衆生済度のために出家する動機を表明した書でです。

『三教指帰』は、24歳の空海のひたむきな気持ちを関係者に表明する出家宣言書です。四六駢儷体で書かれたこの練達の書は、空海が十代から漢文や書の研鑽を重ねて来たことを如実に示すもので、王義之の書風の影響が見えます。
墨痕鮮やかな力強い文字は、昂ぶる気持ちを抑えながらも、抑えきれない空海の若き日の精神の高ぶりが垣間見える書であると考えられます。

空海は入唐により、真言密教の正統な継承者になるとともに、さまざまな書体や書風、技巧を学び、中国皇帝から「五筆和尚」の敬称を送られました。
空海は、僅か2年の在唐中に中国人が驚愕する書や漢文の達人の域に達した努力家でもありました。

空海は能書ゆえに嵯峨天皇に近づくことができ、真言密教を確立するための一つの手段として書を用いましたが、これによって、空海の書の本質そのものが損なわれることはありませんでした。

空海は入唐によって恵果和尚から真言密教の伝授を受けたばかりでなく、書や文芸についても仏道修行の一環として熱心に研究していたことが『性霊集』十に「天皇への上表文」という形式で在唐中の学業や書に関する内容を述べた文章「勅賜の屏風を書き了って即ち献ずるの表、并(ならびに)に詩」(弘安5年、816年)によって知ることができます。

これによれば、「書は散なり」と述べ「書は心の解放」であると言っています。
「情のおもむくままに任せ、本性を自分の望むとおりに自由にさせ、心を自然界にゆったりと遊ばせ、手本となる法則を移りゆく四季に求め、文字の形態を森羅万象に具象化することが至妙である」と述べていいます。

また、「書にも書の病を除き、筆理にかなうために何をどうすればよいか考えないとすぐれた書とは評価されないこと。書は古人の書を学ぶ際、筆意、用筆、その書の精神を学ぶのはよいが、単に古人の字の形を真似ただけでは上手とはいえない。
昔からすぐれた能書家の書風がそれぞれ異なるのは、古人の書から精神を学び、書は自分の書を書いたからである」と古典を学ぶ要諦を述べていいます。

『風信帖』は、『灌頂歴名』と並び称される空海の書の最高傑作であり国宝ですが、『風信帖』(一通目)『忽披帖』(二通目)、『忽恵帖』(三通目)の三通をまとめたもので、一通目の書き出しの句に因んでこの名で呼ばれています。元は五通あったものですが、1通は盗まれ、1通は関白豊臣秀次の所望により天正20年(1592年)4月9日に献上したことが巻末の奥書に記されています。

『風信帖』は平安仏教界の双壁をなす空海と最澄の7年間の交流を示す往復書簡の一部であり、二人の関係が明白に伝わってくる歴史的な一級の資料として高い評価があります。三通とも日付けのみで年紀がありませんが、状況証拠などから、弘仁2年から4年(811~4年)と考えられています。

『風信帖』と『忽恵帖』は空海から最澄に宛てた書状であることが宛名によってわかります。
『忽披帖』には宛名がなく、最澄と藤原冬嗣の両説がありますが最澄宛てと考える説が妥当であると考えます。

当時、空海は嵯峨天皇の信頼を得ていたこと、空海の密教が本流であることが世間に広まったこと、などから、空海と最澄の立場が現世的にも逆転していく段階にあったことが分かります。
二人の関係は、密教の取り組み姿勢の違いから、やがて決定的な仲たがいをすることになります。
空海は、最澄から『理趣釈経』を借り受けたいとの申し入れを受け、これを拒絶しています。その理由は、密教は面授による伝授を基本とするところにあります。定められた各修行の段階を終了しなければ面授が受けられず、それはとりもなおさず、師匠が弟子の能力がまだそのレベルに達していない段階にあると認めていることであり、まだその時ではないことを理解させるために、最澄の密教の修行方法の基本姿勢の在り方を批判したものと考えられます。最澄は、法華経の学び方と密教の学び方が同じものと考えていたのです。

両人の書のやり取りを「久隔清音、馳恋無極」で始まる最澄の『久隔帖』の書と、「風信雲書、自天翔臨」で始まる空海の『風信帖』とを比較すれば、最澄の文字の筆法は均質で几帳面であり、神経の行き届いた筆跡であり、最澄の真面目で地味な性格が滲み出ています。

『久隔帖』は、最澄の最も有名な真蹟で、空海との親しい交わりを示すとともに最澄の真摯な人柄を表すものとして評価されています。
この書は、最澄が空海の下で密教修業していた最澄の一番弟子であった泰範に宛てた形式をとっていますが、実質は空海に宛てた親書であることが明らかです。

最澄の『久隔帖』の内容は、『弘法大師の書簡』(高木訷元・著)より引用し転載します。
「久しく音信が絶え、こよなく思い慕われます。おすこやかなる趣を伝え聞き、まずは安堵いたしました。空海大師が作った五言八句の中寿勧興詩の序の中に『一百二十礼仏』『方円図』および『注義』の名が見られます。今、和韻の詩を作って奏上しようとを存じますが、その「礼仏図」というものが分かりません。なにとぞ阿闍梨(空海)に言って新しく撰述された方円図や注義の拝借をさせていただき、あわせてその大意を知らせてくださるようにお願いします。その和韻の詩は早々には作り得ず、またひとたび筆を染めた詩文は後になって改作することもかないません。どうか、その詳しい内容をお示しくだされば、必ずや和韻の詩を作って大師の前に献上します。謹んで貞聡に託して手紙を差しあげます。恭敬いたします。弘安四年十一月二十五日小法弟の最澄 状上
高尾の範闍梨 法前
最近、『法華経』の梵本一巻入手しました。空海阿闍梨にご覧にいれるために、来月の九日十日に参上いたしたく存じます。もし、和上がお暇なら、必ず伺います。またもし、お暇がないようなら、後の機会を待ちます。ご都合のほどお知らせください。詳しいことは拝眉の上、申し上げます。謹んで深く恭敬いたします。」というものです。この手紙は、最澄が空海の弟子であることを最澄自身が述べているところに歴史的価値があります。

最澄の書は、若いころから、王羲之の『修字聖教序』を習ったことが『久隔帖』と『入唐蝶』などから分かりますが、気品の高さ、澄みきった境地、わき目もふらず自分の信念を貫く一徹さが現れています。この書風は生涯を通じてほとんど変化がない、という衆目の評価があります。
梅原猛は、「最澄の文書は明晰で論理的である。その背後には彼の身を切るような痛切な自己反省がある。そしてその書は女性的でどこかに深い悲しみを秘めている。この書を見ていると最澄は厳しさの反面、もろい孤独さを持った人ではないかと思う。」と述べています。

空海の文字は極めて詩的な美辞麗句があり、大小、線の肥痩、墨つぎ、運筆の緩急も変幻自在であり、この八文字の修辞に二人の個性の差異が歴然と表われています。

『風信帖』は弘仁3年(812年、推定)最澄が空海に『摩訶止観』を贈り、比叡山に登るように誘った書状に対する返信です。
『風信帖』の書風は王義之の書法に則したものですが、顔真卿の書法も加味され、豊潤で重厚、闊達自在な変化に富んだ多様な筆致がみられ、空海の抱く心情が鮮やかに映し出されています。強さが内面に潜り、筆毛の抑揚が自在になり、線には含蓄のある意味合いが増し、ゆとりや柔軟性、おおらかさがある中にも凛とした僧の品格が匂い表れています。

当時、世間の評価の高かった最澄に対し、謙譲の気持ちを示しながらも、「どうか労をいとわず、この院(乙訓寺と推定される)まで、降りてきてください」と書いたことは見事という他ありません。この書には、空海の僧としての内面の充実と自信が感じられ、空海の書は、豪胆、かつ、繊細な心と状況に即して自在に書風を変える特徴が見事です。

唐・留学前の20代頃の『聾瞽指帰』の筆致とは書風や書技とは異なる明らかな進歩がみられ、書の研究の成果が結実したものと高く評価されています。空海の書が日本の頂点を極める書であることは間違いのない事実と考えられます。

『忽披帖』は、書風が一転し、文字も大きく、肉厚で墨の量も多い。覇気に満ちた空海の力強さや、精気とともに情緒さえ感じられるものです。さらっと書いた、卒意の書であると評価されています。

『忽恵帖』は、流麗な草書体で書かれ、内熱した境地を示す書風で、柔らかく細い線で軽快な運筆によって書かれています。
最澄への細やかな心使いが感じられる書ですが、三通がそれぞれ異なる書風で書かれたことに、空海の最澄に対する書の披歴の意図が感じられます。
仏教僧としてばかりでなく、書家としてもライバル意識がその意識下に潜んでいたのではないかと考えられます。

『灌頂歴名』は、弘仁3、4年(812、3年)京都・高尾山寺で三回にわたり灌頂を授けた者の名前を列挙したもので、僧俗がランダムに併記されています。
空海の手控用のメモとして作成され、改めて装い直す必要のないもので、空海の真筆の中で最もその素顔が顕れた書として、『風信帖』以上に高い評価をする書家が多いものです。
この書の特徴は、書かれた月日や状況、また、空海自身の感情が異なったため、その書風が微妙に異なっていることです。

11月15日に、最澄以下4名が金剛界の灌頂を受けたことを示す記述があるところから、11月14日の歴名とともに、空海と最澄の関係を示す最も重要な書とされているものです。
メモ書きにしては丁寧な筆の運びで、線に深みと幅があり熟練の書技と風韻が感じられます。
灌頂を授ける空海の満足感と静寂の中にも凛とした気迫が込められている書です。

11月14日には、大悲胎蔵生の灌頂を授けた僧俗百45名の記述があり、僧では、最澄、賢栄、元は最澄の弟子であった泰範ら二十二名の記述があります。名前の下に小さく寺院名や得仏の尊名が書かれていますが、これは前もって書かれていたものと考えられています。
僧や沙弥の部には消去や加筆・訂正はないが、近子や童子の項には多くみられるところから、空海とあまり面識のない人が増減したことが想像できる書です。

3回目の3月6日の歴名には、金剛界の灌頂を授けた僧5名、沙弥12名の記述があります。
前2回の書と比較すれば、重厚さや気韻生動を欠いていることから、別人の書ではないかという説もありますが、得仏を示す小さな文字は名前にくらべ筆勢があること、熟練の味が見られることから真蹟であるとする説に賛同します。

なお、十二月十四日の歴名の書は、同時代に書かれた『風信帖』の書法とは少しことなることから、空海が入唐時に学び、会得したと考えられる顔真卿の書法の影響が自然にでているとみる説を支持します。
空海の書風は、中国・東晋の書の大家として高名な王義之の伝統的な書法に、唐代の書家・顔真卿の書法を加味しながら、空海独特の個性を醸し出し比類なき書の大家として高い評価が定着しています。数多くの歴代の書家が揃って空海の書を手本として臨書してきた事実がこれを物語っています。