(20)-1空海と最澄-その履歴-

平安仏教、もとい、日本仏教を語る場合には、仏教の巨星、泰斗でもある秀才「最澄」と天才「空海」を語らなければなりません。絵に描いたような秀才肌で実直、真面目な学者型の最澄と天才肌で現実的、外交型の空海、この二人が同時期あらわれたことで、日本の大乗仏教に大きな質的変化を請来させました。この両人が結果的に、競いあう運命を持ってしまったことは、いったい如何なる因縁生起によるものでしょうか。それとも、両人の際立った性格の相違によるものだったのでしょうか。

両人は渡来系氏族の家系にある人物です。しかし、弥生時代の渡来人は中国系であろうと朝鮮半島経由であろうと、中央アジア系や西アジア系であろうと、直接に船で渡来しようと渡来人と認識されます。縄文人と弥生人の人口構成を比較すれば渡来系が圧倒的に多数を構成して支配層を形成してしていたと通説では考えられています。こういう意味では、日本の平安時代まで上層部のほとんどはもれなく渡来系です。

日本人(特に、中部以西の地域)の祖型の65%相当は渡来系の末裔と考えられていますが、そのほとんどの家系の由緒が不明になっていることは、それぞれの家系が支配者層を形成したか(氏姓制度)どうかの違いです。家系を守るに値する由緒やステータスがあったかどうかで決まります。苗字のない家系の由緒は長くは伝えられません。目印が消失するからです。
ちなみに、江戸時代までは、日本人のほとんどが古代より先祖伝来の地方でほぼ固定的に生活してきました。主な生活の基盤は農林水産業でした。江戸時代は士農工商の身分制度が人々を拘束しました。庶民が苗字帯刀することは許されませんでした。

明治維新によって、苗字(姓)が禁止されていた農工商身分の人々は国民の90%を占める平民となり、1875年(明治8年)の太政官布告「平民苗字必称義務令」によって平民も苗字(姓)を持つことが許されました。国民は職業の自由と居住の自由が制度として保障され、律令制度の始まり以来、初めて各個人が生まれ在所から自由に移動できるようになりました。国民が豊かになると、先祖を脚色して家紋を持つ人々が増加しましたが、実は江戸時代まで国民の90%は苗字(姓)も家紋も持てなかったのです。

最澄は、後漢の考献帝の子孫を祖先とする弥生時代の帰化人の7代目にあたると伝承されています。三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として比叡山麓の古市郷(大津市坂本本町)に生誕しましたが幼名を「広野」といいます。一般的には、渡来系の氏族には、先祖を古い家系や有力氏族に繋げる家系の創作が多く見られますが、最澄の家系が考献帝の子孫かどうかの事実関係は藪の中にあり、誰にもわかりません。大陸の皇族や王族を先祖にする氏族の家系は証拠による検証方法しかありません。なかには、最澄の家系は、中国系ではなく新羅系ではないかという説もあります。

780年(宝亀11年)、最澄は12才のとき大安寺の行表を師として出家しました。785年、19才のとき東大寺の戒壇院で具足戒を受け国家公認の僧となりましたが、22才の時、南都仏教に見切りをつけ、比叡山に草庵を結んで多くの経綸を学び天台教学の基礎を構想したと考えられています。
このときの最澄の心境を作家の永井路子は「仏教とはすなわち人間の魂の問題にかかわるものだと思い定めて、純粋な思惟の世界への旅立ちを決意した」また「いまだ理を照らす心を得ざるより以還、才芸あらじ」と誓い法華経を中心とする天台の教えを学び、一切を顧みませんでした」と表現しています。

最澄は比叡山を拠点として、天台の典籍を求めて学び、仏道修行を成就するための五つの願文をたてましたが、これが「十二年籠山」として僧の修行規則定めたものとして制度化されています。この願文は、最澄が「南都は論ばかりあって実なし(自分たちの栄達を考えるばかりで庶民の救済行為がない)」と考え、南都仏教に失望して見切りをつけ、比叡山に入山して一乗止観院を作り、理想の修行道場を目指した最澄の立場を明確にした立誓文と考えられます。

この願文を読んだ寿興禅師(桓武天皇の内供奉・十禅師の一人)が、最澄の純粋無垢な精神に感動して最澄を訪ねて親交を結びました。桓武は側近の和気清麿らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見出し、登用を決意したと考えられています。最澄は797年に内供奉となり、朝廷の内道場に仕えて天皇の安泰を祈り、進言する役職につきました。内供奉は定員が10名であり、十禅師と呼ばれました。

最澄は、802年に和気清麻呂の長男・広世に招かれて(桓武天皇の肝いりで)京都高尾山寺(神護寺)で法華三大部(『摩訶止観』、『法華玄義』、『法華文句』)を南都六宗の高僧を集めて講義していますが、朝廷が思うように制御できない南都六宗の牽制に利用されたと考えられます。

和気広世は、和気清麻呂の長男です。桓武天皇の宗教政策の補佐役を務めた人物です。父は和気清麻呂です。清麻呂は、宇佐八幡神託事件(道鏡事件)の時、称徳女帝の意向に沿わなかったため忌避されて左遷されましたが、光仁天皇の即位時に従5位に復権し、桓武天皇の即位時に従4位下、長岡京遷都の手柄で従4位上に昇進し、民部省長官を歴任、死後に正3位を贈られています。桓武は和気兄弟(長男広世、三男の真綱は、参議、左近衛中将)を信任し重用しました。和気氏は土地開発設計施工のノウハウを持つ専門家でもあり長岡遷都、平安遷都の設計施工の責任者(遷都造営大夫)を務めました。長岡と京都は秦氏から提供された土地であり、秦氏の援助を受けるなど深い友好関係を築いています。

最澄の入唐求法は、和気広世と和気真綱兄弟が桓武天皇に勧めたことで実現したとする説があります。1年の短期間とはいえ、リスクのある渡海を許すこと、内供奉の最澄を手放すことについて桓武は慎重に判断したものと考えられます。最澄の留学のパトロンは桓武の第一皇子・安殿親王(平城天皇)だと考えられています。最澄は延暦21(802)年9月、入唐求法の上表分を差出し、勅許を得ています。『叡山大師伝』によれば、「多年天台教学を研究したが請来されている典籍には誤りが多く真意がつかみにくい。師伝によって直接伝授を受ける必要があるので留学生と環学生を各1名任命を受けたい(要旨)」とする入唐の上表文を提出して、天台法華宗は留学生として円基、妙澄の2名、還学生(請益僧)として最澄1名が勅許を得ました。最澄は、弟子義真を訳語僧(通訳)として帯同する許可を得ていることから中国語に堪能でなかったと考えられています。最澄は渡航費用として東宮(後の平城天皇)から金銀数百両を下賜されています。

翌22年4月14日に難波から遣唐使船に乗り込み出帆しましたが、途中の瀬戸内海で暴風雨に遭い船が大破したことで、最澄は10月23日より九州の大宰府にある竈山寺に留まって越年し、翌年の遣唐使船を待ちました。

最澄の比叡山も秦氏の聖地を譲られたものでした。平安遷都の794年、最澄を施主とする王都鎮護の法要が営まれましたが、ここに秦氏を出自とする勤操と護命の二人の僧が招かれています。秦氏、和気氏、最澄は互いに相手を必要とする関係性がありました。勤操は空海と最澄の両人と友好関係があったのです。

最澄はこの縁で入唐求法の短期留学の還学生(期間1年)に選ばれ、弟子の義真を連れて遣唐副使の第二船に乗船しました。このとき空海は遣唐使の第一船に乗船していることから、なぜ空海が遣唐大使の第一船に乗船が許されたのか疑問が残りますが、二人は別行動で互いに顔を合わせる機会がありませんでした。
最澄の入唐求法について、作家・司馬遼太郎は「教の根本は法華経であるべきと確信し、唐の天台法華体系を輸入しようとする明確な目的をもって入唐した」と表現しています。

最澄は台州刺史の陸淳に面会し、たまたま龍興寺に『摩訶止観』の講義に来ていた天台宗の最も優れた高僧であった道邃和尚を紹介して貰い面会することができました。この不思議な縁で、最澄は道邃から大乗菩薩戒を受けることができました。
天台山の国清寺で惟象から供養法(密教)を受け、行満和尚に八十余巻の仏典と妙楽大師湛然の遺品を授けられました。

最澄は8か月の入唐期間のうち6か月を台州・臨海の龍興寺に戻り過ごしましたが、帰国途上の越州・紹興で帰路の船を待つ1か月の間に、越州・竜興寺の順暁から大日系の密教を授けられました。しかしこれは本格的・体系的な密教といえるものではない不徹底なものであったことは最澄自身がよく理解していました。最澄の目的は、主として写経103部253巻の招来、後に比叡山の大乗円頓戒の独立の根拠とした円教菩薩戒の受戒が主なものであることが分かります。

この最澄の帰国を待っていたのが怨霊に苦しみ病床にあった桓武天皇でした。桓武は最澄の法華経に興味を示さず、密教のことばかり最澄に尋ねました。桓武は密教が最新仏教であることを知り、その高い効能で癒されることを強く期待していたのです。最澄は困惑し、途方にくれました。真面目な最澄は何とか桓武の負託に応えようと懸命な努力をしたものと考えられます。最澄の底の浅い密教ではどうにもならないことでしたが、知力を尽くして祈祷せざるを得ませんでした。このような最澄の前に、空海の『請来目録』が提出されたことで、最澄は空海の存在を知り、空海が請来した体系的な正統密教の秘奥の世界を垣間見たと考えられます。最澄は自筆で空海の『請来目録』の写しを残しているところから、空海に接近してこれを学ぶ心つもりであったことが分かります。

空海は、日本に無い経典を461巻も請来しています。この事実から、空海は事前に、諸大寺の経蔵を巡り、日本にある経典類の調査を終えていたと考えられます。日本に無い仏典(主として密教経典類)を請来したこと、この経典類を整理・分類して理論体系を把握できたことが空海の真言密教の体系化に大きく貢献したと考えられます。

空海に謙虚に教えを乞う最澄の書簡は26通ありますが、空海から最澄に宛てた書簡は5~6通であったところから、両者の交友は、最澄が積極的に辞を低くして教えを乞う(弟子になる)という形で始まったものでした。最澄は空海に伝法の資格「伝法潅頂」(阿闍梨位の取得)の伝授を求め、伝法灌頂までどのくらいかかるか聞いています。空海は、最澄の能力をもってしても三年必要と考えこれを最澄に伝えましたが、最澄は3ケ月位の期間を予定していたと考えられています。最澄には密教独特の修行の理解が及ばず、法華経と同様に、空海から書物を借りて読むことで密教を理解できると考えていたことなどから、両者はすれ違いを修復できないまま自然に分かれていくことになりました。

ちなみに、伝法潅頂の伝授を受けるためには、「得度」「受戒」と「四度加行」の満行が必須の前提条件です。当時の必修期間は個人の能力にもよりますが密教の基礎教育期間1~2年を除き、伝法潅頂に要する期間は1~2年程度と考えられます。後年になると300~100日に徐々に期間短縮されるようになりますが、教則本、修道の次第本が漢文の手書きで行われた時代はとても時間がかかったと考えられます。今日では便利な筆記用具が揃い、各種の教則本や四度加行の各種「次第本」が大量印刷できるようになったことで学習の効率化が大幅に進み、修道システムが完成したと考えられます。また師と弟子の面授の効率改善が工夫され、伝授の在り方が大幅に改善されたことで期間短縮が可能になったものと考えられます。しかし、この伝法灌頂は密教僧として許可(こか)を受ける灌頂です。今日的には、ここをスタートラインとして、必要となる各種行法を「伝燈大阿闍梨」から授法して研鑽し、本格的な密教僧となるべく修行の道に入ることになります。

最澄は、延暦25年(806年)、国家から独立宗派・天台宗を公認されました。809年、最澄は弟子の経珍を空海の元に遣わして、空海が唐から持ち帰った密教経典12部の借覧を願い出ていますが、この頃から最澄と空海の二人の間で書簡の往復が始まりました。仏法の深奥を極めた空海に進んで膝を屈するさわやかな最澄の姿がここにあります。この頃、最澄は空海から真言、悉曇(梵字)、華厳経の典籍を借りて密教を研究していました。

812年、最澄は、高弟の泰範、円澄、光定を連れて京都・高尾山寺(神護寺/現・高野山真言宗)に登り、空海から金剛界と胎蔵界の結縁灌頂(初歩の灌頂)を受け、翌813年1月、泰範、円澄、光定を空海のもとに派遣して空海から密教を学ばせることを願い出て3月まで3名を高尾山寺で学ばせました。高尾山寺は和気氏が創建した氏寺です。

最澄が空海に宛てた弘仁3年8月の書簡でに、最澄は「真言と天台はめざす境地も同じであり、法華一乗の教えは真言の教えと異なるものではない」と書いていますが、これが最澄と空海の理解の限界でした。空海の認識と最澄の考えは明らかに異なるものでした。831年(天長8)9月の「円澄和尚求法啓状」の中で、弘仁3年の冬、最澄は大唐で真言を学ばなかったので今高尾山寺の空海大阿闍梨に真言の秘宝を受けたい」ということで、空海に胎蔵界、金剛界の両部の伝法灌頂を受けたい旨を伝え、それには幾月ほどの修行が必要か尋ねていますが、空海は(顕教の基礎知識の支持者なので)3年程で資格が取れるでしょうと答えたと記しています。そこで、最澄は、813年(弘仁4)比叡山座主としてそのような時間がないことから、弟子の円澄や泰範を空海に預けて比叡山に帰ったことが分かります。。

813年11月、最澄は空海に密教の秘伝書「理趣釈経」の借覧を申し入れましたが、空海はこれを拒否しています。最澄の学び方が読書による理解(法華経と同じ学び方)しかできていないこと、本格的な密教の修道システムを実践していないこと、面授による伝授を受けていないことなどから、秘教を正しく理解する基礎ができていない最澄が読めば誤解が生じるというリスクを回避したものと考えられます。空海が最澄の依頼を拒否したのはこのような理由であったと考えられます。また、この頃から二人の宗教観の違いが徐々に増幅していたことで相容れないものとなっていたのではないかと考えられます。これを境に最澄と空海の関係は疎遠になっていきました。 ところが一番弟子の泰範は最澄が再三再四にわたる比叡山への帰山勧告に応じることなく、空海の下にとどまり空海から弟子入りを認められました

空海と最澄のもう一つの違いは、空海は20歳前から山林修行を体験して、自然の中で言霊の神秘を体得して霊力(法身との交感能力)を身に付ける修行体験を積んでいたことです。言霊とは、「ある言葉を口にすると、その言葉の持つ霊力が刺激されて言葉どおりのことが実現する」という考え方です。空海は「一切所聞の音はみな是陀羅尼なり、即ち是れ諸仏説法の音なり(秘蔵記)」と言っていますが、森羅万象の自然現象の音や響きは陀羅尼(真言)であり仏の説法であるという発想は山林修行の中で培われた鋭敏な感覚であろうと考えられます。密教修業は密教経典や儀軌書(修行方法を具体的に定めた書)の通りに実践し密教的な追体験をすることが不可欠であり、書物を読んで智慧を得ることだけではその境地に到達できません。山林修行は、肉体を酷使する人間の能力の極限を突き詰めることで呪力を得ようとしたことから、野たれ死にする危険性があります。しかし、僧の能力に高い呪力が期待されたこと、また、僧もこれを望んで能力の極限を覗こうとしたのではないと考えられます。空海の山林修行の体験は、密教の神秘的な呪力を育成する効果な方法であったと考えられます。

空海が二十代の頃行った山林修行は、密教の感性を養う基礎的な修行体系をなしていたと考えられます。 若き日の空海(十八~十九才頃)は好んで関西・紀伊半島の険しく深い山河の地を山林修行の場としていましたが、この頃に高野山に入山したことが考えられます。二十四才頃『聾瞽指帰』を執筆して仏教に惹かれてゆく空海自身の心境を明かしていますが、二十才前に中央の唯一の大学を中退し、すべてを抛ち、私度僧となり山林修行に身を投じています。二十五~二十六才頃、ある沙門から「虚空蔵求聞持法」を伝授され、山林修行の内容にはこの求聞持法の修行に傾注する質的な転換があったと考えられます。この求聞持法の体験を目的とする修行の中で、大自然との関わり方が森羅万象の実相を探求する質的な転換を遂げ、直観的に森羅万象のことごとくに宇宙観(コスモロジー)を体感する機縁を掴んだものと考えられるのです。空海は『性霊集』の中で、自らを「蒼嶺白雲観念の人」と述べていますが、自然の中に身を置くとき「心、仏界に遊んで筆に遊ばず」の心境である、と述べています。この山林修行の神秘体験があったからこそ、森羅万象のさまざまな現象(ゆらぎや波動、風の音、木々のざわめき、水の音、地の響き、動物や鳥の鳴き声など)の中に超自然的な霊性を感じ取り、法身の「ことば」(声字)として聞くことが出来たのではないかと考えられるのです。自然のさまざまな現象から宗教的な意味を取り出せる霊性の感覚は山林修行者の自然と一体になる修行によるものと考えられます。空海の求聞持法の成就は、『御遺告』には「心に観ずるとき、明星、口に入り、虚空蔵の光明照らし来たって菩薩の威を顕し、仏法の無二を現す。」と表現しているのです。空海は、この山林修行の神秘体験などによって、宇宙の森羅万象のありのままの姿をみ、ことばを捉える体験を重ねたことから、法身の実在性を直感的に理解しうる宗教的素質を身に付けていたことが考えられるのです。

このとき、空海は、(抽象的ではあるが)直感的に法身の存在を意識する体験を得たことが考えられ、それが何かを探求する強い向上心が入唐留学を実現させるエネルギーになったのではないかと考えられるのです。空海の入唐の目的は、この神秘体験の意味を具体的に究明するものであったと考えられ、密教の大家・恵果阿闍梨との出会いに恵まれて付法の第七祖となり、密教の教理と実践を普遍的・統合的に再構築できるまでの多彩な能力を身に付けることができたと考えられるのです。「虚しく往(ゆ)いて実(みち)て帰る(『性霊集』二・恵果碑の追悼文)」と書いた空海の「還元の思い」とは、若き日の空海の山林修行の神秘体験を解明すべく入唐留学を成し遂げ、恵果阿闍梨に出合う燭光を得て、密教によって具体的に解明しえた満足感の表明であったと考えられるのです。

入唐後、縁をもって密教の大家・恵果阿闍梨の付法を継承した空海が、「両部の大経」と『菩提心論』『釈摩訶衍論』を参照して独自の真言密教を再構築し、大日如来の法身説法という仏身観を形成し得たのは、森羅万象の「ことば」を密教が説く法身の「ことば」として捉え、その「ことば」の意味を解釈することが出来る能力を身に付けた「智」と「実践」の体験があったからこそ可能だったのではないかと考えられるのです。後年、空海が深山幽谷の理想の地・高野山を修禅の根本道場と定めたことは、このことを如実に表すものであったと考えられるのです。後年、最澄の弟子たちが比叡山に「千日回峰行」(資格要件が厳しく、特別な許可を受けた弟子のみが許される修行法。満行者は阿闍梨位を取得するが、極めて少数である)を定めたことは、最澄が経典によって密教を理解しようとした姿勢を取り続けたことの反省点として評価することができるのです。

最澄は、815年、大安寺で南都の学僧と論争。その後東国に旅立ち、鑑真ゆかりの寺である上野(群馬県)の浄法寺や下野(栃木県)の小野寺を拠点にして法華経の伝道を展開しました。そこで法相宗の学僧、会津の徳一といわゆる三一権実論争を引き起こしました。詳細は(20)-2、(20)-3宗派の抗争、論争の通りです。

818年、自ら具足戒を破棄して『山家学生式』を定めました。以後、天台宗の年分度者は比叡山で大乗戒を受け、12年間の山中修業を義務付けられました。これは最澄が定めた天台宗の修行の在り方です。天台宗は南都(奈良)仏教との間で仏教の正当性を争う不毛の抗争に明け暮れましたが、最澄の弟子が勝手に独善的な判断に基づく勝利宣言をしています。
法華経を最高経典とする仏教観が最澄がこだわった思想世界です。最澄の価値観と認識が天台宗の宗論に他宗攻撃の縛りを植えつけることとなり、天台宗徒は他宗を攻撃し続けましたが、最澄の思いは遂げられることはありませんでした。

中国での法華経の全盛期は隋のときでした。隋の終わり頃には次第に衰微の一途をたどりましたが、最澄が入唐した頃は衰退期にあったと考えられています。
インドには法華経が流布された形跡が全く発見されていないことから、インドで編纂され、中央アジアで何度も再編集された法華経が中国に伝えられて隋代の天台山に花開いたと考えられ、法華経もいわゆる中国仏教の性格と特徴を濃厚に持ていると考えられます。ちなみに、中国に最終的に生き残った残った仏教宗派は禅宗と浄土宗です。

最澄は、中国・天台宗の教義を日本に移植しましたが、比叡山の仏教は未完のままでした。これが比叡山の教義と宗旨の完成を妨げることになりました。最澄の後継者たちは最澄の未完を補填すべく努力を続けました。最澄亡き後、円仁、円珍が困難を乗り越えて渡唐し、最澄が悔いを残した体系的な密教を持ち帰り、台密(天台密教)を体系化しました。鎌倉時代、天台宗は中核を体系化できないままに禅や念仏の兼学を許したことから「選別の仏教化」に換骨堕胎する傾向に陥り、ついに鎌倉新仏教が誕生しました。最澄が「止観業」と「遮那業」の二本立ての修学方法を採用したこと、その後も禅、念仏等の兼学を奨励したことで、ついに密教の統一的な仏身観(その中核は法身・大日如来)が完成することがありませんでした。

鎌倉期の天台宗からは、禅、念仏、法華などを立宗する新興仏教の祖師(優秀な後継者と呼べるのでしょうか?)たちが排出されました。鎌倉仏教の祖師は一途で、教条的、排他的、非協調的でした。この中から包括的態度を取る人物が遂に出ることがありませんでした。最澄が終生、奈良仏教(大乗仏教の濫觴、功労者)と対立したことで最澄の後継者も最澄の立場を踏襲せざるを得ませんでした。これが、法華経の流布の妨げとなっていったと考えられます。

最澄は学者タイプの僧、空海は実践家タイプの僧という比較があります。大乗仏教の精神がが利他・慈悲にあるならば、僧侶は学識もさりながら、まず実践者として衆生済度の実践者として生きるべきだという視点からの比較であったと考えられます。最澄が「籠山12年」の戒律明けに実行したことは、比叡山に中央図書館を整備するために、当時日本に輸入されていた全経典を目録に従って写経して経蔵にそろえることでした。最澄の文献蒐集癖は性格的なものであろうと考えられますが、空海は治水灌漑工事、寺院や学校の創設、また鉱山開発(水銀鉱脈)などの済世利民を実践活動をしているという違いがあります。

空海は奈良仏教を包摂して友好関係を保ちました。空海の偉業は、密教を大陸から請来したことではなく、実は三国伝来の密教を日本において完成させたことにあります。空海が密教を完成させたことで、真言宗からは、ついに、空海を超える人物が出てくることがありませんでした。このゆえに、真言宗には新興宗教が芽吹いて跋扈する余地がなくなりましたが、これが真言宗の長所でもあり、同時に短所となったものと考えられます。

空海の讃岐・佐伯直氏は、5~6世紀の頃から肥沃な土地と港を支配して海の交易に進出して財を成した氏族と考えられます。讃岐に阿刀氏の在住がなく、父・佐伯善通(田公)は、母・阿刀玉依姫と知り合ったのはどこかという憶測があります。佐伯氏は伝統的な書芸の家系と考えらますが、肥沃な土地と良港を支配する氏族であったことから、船を所有して讃岐と難波を往来する交易活動を行い財を築いたと考えらえます。佐伯氏の一族に地方では見られない位階の高い人物が多数いたことから献物叙位(財物等を朝廷に献物し、その見返りに位階を入手すること)の方法を取っていたと考えられています。佐伯氏の交易の拠点となる倉庫が住吉津にあったと考えられること、当時の結婚形態が妻訪婚であり、母と子は母の一族と生活を10年くらいは共にしていたのではないかと考えられることなどから、空海の出生地は讃岐ではなく、阿刀氏の本拠地である畿内と考える説があります。(武内孝善『空海素描』高野山大学、より要旨を援用)

788(延暦7)年、15歳の佐伯真央(空海)は、伯父の阿刀大足(桓武天皇の3男・伊予親王の侍講、従5位下)を訪ねて讃岐国から上京しました。この後、空海は佐伯今毛人(さえきの・いまえみし)の氏寺・佐伯院に寄宿していることから平城京であったと考えられます。佐伯氏は有力氏族・大伴氏の末裔とする説があります。

都の佐伯氏の中で最も高位に上ったのは佐伯今毛人で正3位参議、民部卿、太宰帥(長官)、大和守、皇后太夫など多数の役職を歴任しましたが、造東大寺長官、造西大寺長官、造長岡京使(長官)など建築・土木の技術系の専門家であったと考えられています。

空海は、『文鏡秘府論』によれば、幼少の頃から阿刀大足について学問を学んでいたとあるので、阿刀氏は平城京近辺に居住していた人物であるところから、空海は幼少の頃は母の実家(近畿地方)にいた可能性があると考えられます。『空海僧都伝』には、「15歳で外舅二千石阿刀大足に随って、論語・孝経及び史伝等を受け、兼ねて文章を学びき」とあります。大学寮では、同郷の「直講・味酒浄成(うまざけのきよなり)に就いて毛詩・尚書を読み、左氏春秋を岡田博士に問ふ。博く経史を覧て殊に仏経を好む」とあります。『御遺告』には、「外戚の舅曰く、たとひ仏弟子になるとも、如かず大学に出でて文書を習って身を立てしめんにはと。」この教言に任せて俗典の少書等及び史伝を受け、兼ねて文章を学ぶ。然して後、生十五に及んで入京し、初めて石淵の贈僧正大師に逢って大虚空蔵等丼びに能満虚空蔵の法呂を受け、心を入れて念持す。とあります。

792(延暦11)年、空海は18歳の時、平城京にただ一つの置かれた中央の「大学寮」の明教科(儒学を研究)に入ります。この大学寮は唐の「国士監制度」を模倣した中央官吏養成所ですが地方には「国学」が置かれていました。入学対象者は13~16歳までの従5位以上の貴族の子弟ですが、制度の見直しが何度かあり、例外も許されたようです。大学には明経道(明経生400名+明経得業生4名)・紀伝道(文章生20名+文章得業生2名)・明法道(明法生10名+明法得業生2名)・算道科(算生20名+算生得業生2名)・書道(2名)・音韻道(2名)の6科があり全体の学生数は500名弱でした。得業生はすべての学内試験を合格して研究のために在籍を許された者です。今日の大学院生のようなものです。卒業できる者は国家試験を合格した任官者だけでした。卒業か退学しかない制度です。

今日の学制とは大きく異なり、自動的に進級できる制度ではなく、歳試で上・上と上・中以上の成績が取れなければ進級できず、31歳までに国家試験(明経・明法・秀才・進士)に合格できなければ退学処分となります。国家試験に合格すれば官吏に登用されますが、合格=任官であったことから採用枠との関係があり、合格率が低く抑えられたことで、ほとんどの学生は卒業できなかったと考えられます。空海の大学での様子は「蛍雪を猶怠れるに拉ぎ、縄錐の勤めざるに怒る」とあり、刻苦勉励、言語に絶する姿勢が見えます。空海は、中途で仏道修行の道に転向して退学していますが、これは空海の能力の問題ではなく、進路の違いによる自主退学でした。空海は官吏登用を望まなかったということです。

空海の父「佐伯善通」は、讃岐直田公(さぬきのあたいたぎみ)という郡司または国造に任命された家系です。母は「玉依姫」といい阿刀大足の妹です。この阿刀氏からは多数の宗教家を輩出し、特に法相宗に多くの高僧を輩出して興隆に大きく貢献しています。
南都六宗の中心的存在であった法相宗を隆盛に導いた義淵(姓阿刀氏:東大寺要録に記載)、玄昉(姓阿刀)、善珠(法師俗称安都宿禰)は師弟関係にありますが阿刀氏の出身です。阿刀氏は、法相宗の法脈の頂点を極めた存在でした。

阿刀氏の祖神は、平安遷都の際に、河内国渋川郡(東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られています。新撰姓氏録には、阿刀宿禰は、石上朝臣と同じき祖、饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記載があります。石上氏は天武天皇13年(684)に物部の系譜の氏族に賜った氏姓であるところから、阿刀氏は物部の支族と考えられます。饒速日命は神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の祖父・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄です。兄の饒速日命は物部氏族の祖となりますが、宗教儀式を司る氏族の血筋を伝えています。弟の・瓊瓊杵尊は皇族を輩出する一族を形成して、兄弟は別系統の血筋を伝えたと考えられます。しかし、これらの事実関係は藪の中です。客観的に検証できる証拠資料はありません。
京都府編纂の神社明細帳には阿刀宿禰の祖・味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されています。

奈良仏教いわゆる南都六宗と激しく対立した最澄とは異なり、空海は南都六宗と良好な友好関係を築いてこれたのは密教の理念であった包摂性という特性だけでなく、奈良仏教に多くの高僧を輩出した阿刀氏の影響や後押しがあったものと考えられます。

奈良・大安寺は南都七大寺の一つであり、南都六宗の「三論宗」の大寺でした。空海と最澄はこの大安寺と関係していました。大安寺のホームページには、最澄は12歳で近江国分寺で得度しているが、このときの剃髪の戒師は大安寺の行表であったこと、空海は19歳の時、大安寺の勤操(その実父は秦氏)により得度を受けたという説があります。若き空海は、勤操に伴われて和泉の槇尾山に赴き勤操の剃髪を受けて出家し得度したともいわれています。一説には勤操と空海には直接の師弟関係を疑問視する見方もありますが、二人の間には長い親交があったことは否めません。勤操が秦氏の出自であったことは偶然でしょうか。

後に空海は、大安寺の別当に補せられていますが、『御遺告』第八に、勤操を「わが大師」と呼んでいますが、実は空海の師僧が誰であったかは特定できていません。勤操とは非常に親しい関係であったことは事実ですが、空海自身が師僧が誰であったのかを明確に述べていないことから、これを示す資料が出てくれば新発見です。空海は、特に慈しんだ身内の直弟子(實恵、真然、智泉)を大安寺に預け修行させていますが、自身の修行の追体験をさせる目的があったものと考えられます。

大安寺は、奈良の最古の寺・元興寺とともに三論宗の本山でした。竜樹の「中論」「十二門論」と竜樹の弟子提婆の「百論」などインド中観派の論を受け継ぎ、空の概念を研究しました。竜樹の「大智度論」を学び、中期以降は唯識中観派、瑜伽行唯識派の学説が現れました。その論が難解なところから、華厳、法相に押されて衰退していきましたが、天台宗には「三諦(空・仮・中)」「円融三諦」「一心三観」の理論に大きな影響を与え、真言宗にも同様に影響を与えています。

大安寺その古代の前身は「大官大寺」です。「大官大寺」の前身は、「百済大寺」、「高市大寺」と改称していますが、天武天皇が、全僧尼を統制する僧綱所として「大官大寺」に改めて創建した官寺です。飛鳥時代には、「川原寺」「飛鳥寺」「大官大寺」が三大官寺として置かれましたが、「大官大寺」が筆頭でした。大安寺が空海と最澄に共通性を持つていたことに驚きました。現在の大安寺は、高野山真言宗に属しています。

空海と最澄が、一緒に最後の遣唐使となった第16次遣唐使(20数年ぶりに再開)に随行することになったのは果たして偶然の出来事だったのでしょうか。唐への留学について二人を後押しする人物がいたのではないかという疑いが消えません。その後の遣唐使は、19~20次は取り止め、894年には唐の内戦を理由として菅原道真が廃止決定しています。次の遣唐使船に乗船できる千載一遇のチャンスでした。二人の得度の戒師が大安寺の僧でした。僧にとって得度の戒師や師僧は特別な存在です。その関係は生涯消えない関係性を持つことになります。