序章3:最澄系と空海系の仏教観の違いを考える

天台宗の論理的な釈尊観は、①「最澄が法華経と密教は同等の内容を持っていると考えたこと」、②「円仁、円珍が密教の教主・法身の大日如来と釈尊が同一とする教義を中国から持ち帰ったこと」にあります。しかし、②は最澄の意思に寄り添う考え方を探してきたものであろうと考えられるのです。天台宗は、これによって法華経と密教の一致観を宗論とする再確認をしたという通過儀礼を行う必然性があったものと考えられます。中国の天台・智顗の法華経観に憑依されて比叡山に移植した開祖・最澄の仏教観を変えることは誰にもできるはずがないのです。中国天台の法華経観を中心とする教理論や最澄の密教観に従順に添い遂げようとする比叡山の密教の理論化には、少なからず要所に疑問点を抱え込んでいると考えられるのです。

密教が大乗仏教の到達点を示すものであると考える真言密教(空海密教)の立場は、大日如来(法身)と釈尊(応身)は同一ではないとする仏身観です。台密と東密は密教のライバル関係に位置付けられた歴史的な存在感を持っていますが、仏身観は異なります。その原因は最澄と空海の密教観の違いにあると考えられます。最澄は法華経と密教は同等の思想(円密一致説)をもっていると考えましたが、空海は法華経を華厳経の下位に位置付けました。今日的な仏教史観からいえば、経典の成立時期が700年前後も違い、大乗仏教の真髄を包摂して論理的・哲学的に書かれた両部の大教(『大日経』と『金剛頂経』)と論理的に書かれてない『法華経』を比較して同一視することは一般的には無理であろうと考えられます。

台密には、最澄の法華経に対する特別な仏教観の影響を受け入れざるを得ない歴史的な価値観の縛りの事情があったのであろうと考えられます。『法華経』は、すでに中国から鑑真によってもたらされ南都諸宗で研鑽されていましたが、最澄はこれに満足することなく、直接に、中国・天台山の智顗の『法華経』(特に、その解説書の『法華文句』・『摩訶止観』・『法華玄義』)を比叡山に請来する夢と使命感をもって、嵯峨天皇の許可を得て国家公認の請益僧(還学生)となり、生死をかけて遣唐使船に乗船した人物だったのです。詳細は「(20)-1空海と最澄ーその履歴ー」を参照願います。

この問題は、それぞれの経典が内包もしくは包摂する哲学性や論理性を徹底的に比較し、それぞれが持つ思想の普遍性を見極めることが出来れば、自ずから解消される性質のものであると考えられます。法華経の成立からほぼ7~800年後に編纂された中期密教経典の『大日経』『金剛頂経』は、大乗仏教の思想を包摂してその最終形としてあらわれた思想です。密教は法華経の思想を包摂することが可能ですが、法華経には密教の思想、哲学・論理性を包摂する容量が不足していると考えられます。法華経が諸経の王であるとする根拠のない致命的な自意識過剰の過失を内包する法華経の立場(「序章4:祖師仏教の特徴を考える」を参照願います)からでは、密教の先進思想の構造が十分に理解できないと考えられます。

空海の天台宗の評価は、『秘密曼荼羅十住心論』や『秘蔵宝鑰』という教相判釈において、衆生の菩提心が開かれていく心の様相が示していますが、その思想的な根拠は『大日経』住心品にあります。空海は、「今此の経によって真言行者の住心の次第を顕す。顕密二教の差別また此の中に在り。住心無量なりと雖も。且らく十綱を挙げて之に衆毛を摂す」と告白していますが、これは、宗教的に次第に深まりゆく菩提心の心の様相とその過程を評価して位置づけるものです。空海は、この十住心論において、各宗派の教理と密教を比較し、あらゆる教えの最高位に密教を位置付けましたが、第一住心から第十住心までは、衆生の菩提心が開かれていく様相を示す竪の教判を示すものです。十住心思想の特徴は、すべての住心は密教の機根となるものであるという横の平等思想をも合わせて持っていることにあります。

第一の「異生羝羊心」は、「一向行悪行」という本能に支配されている凡夫の心の様相です。第二の「愚童持斎心」は、「人乗」(倫理・道徳観が芽生える境地)です。第三の「嬰童無畏心」は「天乗」(宗教的生活観がでてくる境地)です。第四の「唯蘊無我心」は色・受・想・行・識の五蘊の仮和合を自覚できる「声聞乗」です。第五の「抜業因種心」は十二因縁を観じて無明と業に因子を抜除できる「縁覚乗」です。第六の「他縁大乗心」は「法相宗」です。衆生救済の利他行の慈悲心を起こすが五性格別をたてる過失があります。第七の「覚心不生心」は「三論宗」です。一切諸法は不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来の八不中道とする空観をたてるが否定面に終始しています。

第八の「如実一道心」が天台宗です。「一如本浄にして境智倶に融ず、此の心性を知るを号して遮那という」これが空海の評です。一仏乗によってすべての人々に仏性を認め、一念三千、空・仮・中の三諦円融の深趣を体得するが未だ縁起因分の境界にあることを意味します。第九の「極無自性心」は華厳宗です。「水は自性なし、風に遇ふて即ち波立つ、法界は極に非ず警を蒙って惣に進む」と空海は評しました。これは事々無碍・万有の当相に無限の理趣を観じる顕教の極意の境界ですが、因分・遮情に止まる段階にあり密教の入門に当たると位置付けられています。なお、事々無碍とは、華厳宗の教義である四種法界「①自法界=事象の領域(アビダルマ哲学、小乗)、②理法界=真理の領域(頓教)、③理事無碍=真理と事象が互いに相手に中に入り込みあっていて妨げがない領域(如来蔵思想の大乗)、④事々無碍=事象と事象が互いに相手の領域に入り込みあっていて妨げがない領域=実際の諸現象は互いに融合していて密接に関連しあっている。」という説で、『華厳経』のみに説かれているとする説です。

第六住心から第九住心までは密教の立場から見れば、順次に弥勒菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩(『理趣経』の金剛薩埵の内証に当たる)の三昧とされ、密教の統一的な仏身観では普門総徳の大日如来(本仏)の部分的(別徳のある分身)な顕現とされています。第十が「秘密荘厳心」とする「真言宗」です。空海は「顕薬は塵を払い真言は庫を開く、秘宝忽ちに陳じて萬徳即ち証す」と形容して顕教と密教の効能・機能には大きな違いがあると述べています。密教の特徴は、仏の身口意の三密をもって仏の自証の極意“悟り”を荘厳する心(如実知自心)に位置付けるものですが、『大日経』に説かれた如実知自心は、実の如く自心を知ることを証悟した心の段階をいいます。

空海の天台宗に対する評価は、華厳宗の下、三論宗の上、ということです。この教判は空海の『秘蔵宝鑰』と『秘密曼荼羅十住心論』に克明に記述されています。空海は、華天両一乗(天台宗と華厳宗)を顕教の究極の位と評価しましたが、天台を真如門に比定して密教に入るための初門に位置付け、華厳を生滅門に比定して密教の初心に位置付けています。加藤精一著『密教の仏身観』によれば、『秘蔵宝鑰』は、他宗と比較して真言密教の優位性を主張することに主眼が置かれ、『十住心論』は、主として密教体系を網羅するために書かれた教判論であると考えられます。『十住心論』は天長7年(830)に淳和天皇の勅により真言宗の宗論書として提出されたのですが、分量が多すぎて大部の書であったことから、改めて勅を受けて再提出した宗書が、『秘蔵宝鑰』であるとみる説がありますが、この事実関係を決定的に証明できる証拠は提出されてないと考えられます。両書には、下記の視点の違いがあるのです。

『秘蔵宝鑰』と『十住心論』は、数限りないすべての人間の生き方を10種の住心で代表させたものです。空海が『大日経』『金剛頂経』の両部の大経と『大日経義釈』・『釈摩訶衍論』『菩提心論』などを依所として、空海の智慧と実践に於いて創意工夫した論書であると考えられています。『十住心論』の序文に、空海自身が「今此の教(『大日経』の住心品)に依って真言行者の住心の次第を顕す。顕密二教の差別亦此の中に在り。住心無量なりと雖も。且らく十綱を挙げて之に衆毛を摂す」と述べています。顕密二教の浅深差別を「横と竪の十住心」として説いたものである(加藤精一著『密教の仏身観』)と考えられます。

『秘蔵宝鑰』は竪の浅深を主眼とし、前の九住心を顕教、後の一住心を密教とする「九顕一密論」の差別思想の論調がみられ、『十住心論』は横に平等の九顕十密の論調に主眼が置かれていると考えられますが、十住心思想の主張する主眼によって現れた違いであろうと考えられます。両書は、空海在世に、朝廷の命により正式に六宗から提出された各宗の宗論、いわゆる天長年間(824-833)に淳和天皇の詔勅によって各宗が撰述して提出した宗論書、いわゆる「六本宗書」に真言宗の宗論書として提出された論書です。

「六本宗書」とは、真言宗・空海の『秘蔵宝鑰』3巻・『秘密曼荼羅十住心論』10巻、華厳宗・釈晋機撰の『華厳宗一乗開心論』6巻、天台宗・義真の『天台法華宗義集』1巻、三論宗・玄叡集の『大乗三論大義鈔』4巻、法相宗・護命撰の『大乗法相研神章』5巻、律宗・豊安撰の『戒律伝来記』3巻、という六宗の宗論書です。

十住心の教判は、空海が『大日経』住心品、『大日経疏』『菩提心論』等によって導いた真言密教の教判ですが、その序に「天の恩詔を奉りて秘義を述ぶ」とあり、『秘蔵宝鑰』巻下には「九種住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」という空海の印象深い述懐があります。

この空海の十住心論と宝鑰に対して、天台教学を確立した五大院安然(生滅不明、841~915説がある)が、一切の仏法を円密一致の円仁・円珍の天台宗の教判論を受け継ぎ、一切の仏教を①蔵・②通・③別・④円の四教の上に⑤密を立て、相伝の教理の中に在る台密の位置付け明確にし、台密は天台円教(法華経)より優れている、とする『真言宗教時義』(『教時問答』ともいう)を著し、空海が天台宗を華厳宗の格下に位置付けたことを不服として空海の十住心論を批判しています。安然は最澄の血族であり慈覚大師円仁の弟子となって顕密仏教を学びました。また、花山僧正遍昭の弟子となって胎蔵法を授法し、『教時問答』『菩提心義』『悉曇蔵』『大悉曇章』等の諸著作があります。元慶8年(884年)元慶寺伝法阿闍梨に任ぜられましたが、天台宗の重職を務めたことがなく、弟子も少なかったことから詳細な伝記が伝わっていない人物です。五大院の由来は、安然が比叡山東塔の権現谷の上の辺に移住して五大院を構えたことに由来すると考えられますが、安然の著作は109部222巻にもなるといわれ、50代末頃から60代の前半頃に没したと考えられています。

天台宗と真言宗の宗論の論争の詳細な内容についてはさまざまな支障が考えられ、ここで深く立ち入ることはできませんが、簡単に紹介します。安然が天台密教(台密)という名称を使用せず、真言宗という名称を用いていますが、真言宗という名称は空海が名付けたもので中国にはこの名称はありません。真言宗とは空海の密教を特定する名称であり、台密=天台宗の密教と区別する場合に使う名称が東密(空海の京都の本拠地・東寺の密教)という意味なのです。安然は、真言(サンスクリット語=梵字・悉曇=真実の言葉)を用いる密教という意味で使用したのでしょうか。安然は、五時五教説で密教を円教(法華経)の上位概念と捉えながら、最澄以来の伝統的な天台説である円密一致説に縛られましたが、あるいは、密教=真言宗という理解をしたのでしょうか。

天台の学匠として著名な福田堯穎大僧正の『天台学概論』から引用すれば、「天台密教は最澄と円仁・円珍、五台院安然によって完成した」「その根本原理は阿字本不生であり、法華経の諸法実相、一念三千論と三諦円融と全く同一の理体とする円密一致である」「但し、四人には教相上の見解に相違がある」「最澄は三密を悟入の手段方法として行法を修するのであり、絶対無相の理を円教(法華経)では中道実相と説き、密教では阿字本不生と説くのである。という見解をとっていたようである」「伝教大師(最澄)の密教は、伝法に於いて未だ十分なものとはいえない面があり、弘法大師(空海)に礼を盡して密教の書籍を借用し、更に弟子を派遣して研究せしめると共に、自ら灌頂(初歩の結縁灌頂)を受けておられる。併し乍ら、弘法大師と袂を分かったのは教理上の見解の相異に基づくものである」「円珍・円仁は、三密(瑜伽行)は本来阿字門の徳用であり大日如来が説いたものであるから大日如来の内証界の行法であり無上真実の法門であるという見解をとっている」「密教は華厳経・法華経などの諸経が説いていない有相三密の事業を説く無上真実の法門であり、密教は円教に優れているとする(円仁・円珍が説いた)理同事勝説の台頭を見るのである」「円仁・円珍の理同事勝説は東密の学説の影響を受けたものではない」「五大院安然は、東密の所説に論破を加えると同時に、逆に東密の学説の影響を受けたことが見受けられる」「天台の学者は皆な(五大院安然の)此書を指南に仰いでいる」という天台密教の在り方の概要が分かります。円仁・円珍の両人が空海の東密学説の影響を受けていないとわざわざいっているのは、両人は直接に中国に留学して(本場の?)密教を学んだことを強調しているのですが、空海は正当な密教の正嫡であり、付法の第8祖であり、真言密教の完成者なのです。ちなみに、中国密教は既に消滅して存在感が全くありませんが、今日に微かにみられる中国の密教復興の運動は高野山真言宗の協力と指導・育成によるものであると考えられます。

安然の『真言宗教時義』(『教時問答』)が、後世の東密批判をする台密学僧に援用され続けたことから、安然の空海批判に対して、東密側には200年間も具体的な反論をしてこなかったという反省が生まれ、これを契機として、東密側から安然と円珍の二人に批判が集中するようになりました。台密の学僧は、安然の「仏身論」(「四身互具四身説」)が空海亡き後に停滞していた東密の教理論に刺激を与えて東密の学僧(観賢・仁海・定深・信証・実範)などに影響を与えたとする論を主張しています。安然の仏身論は、自性身=理、受用身=智、変化身=用、等流身=事とし、四種身に徳性を認め、四身が相互に関連する構造になっています。これに対して、東密の教理の中興の祖とされる覚鑁の遺志を根来寺に継承した頼瑜(元高野山の学頭・1226-1304)は、安然・信証・実範の仏身論の説は空海の『秘蔵宝鑰』を継承したものであると見做しています。安然の理論構成の基幹部分には、空海の智と実践の真言密教の教理論を導入しなければ再構成することができない要素を持っていると考えられます。しかし、東密と台密の学僧は密教に軸足を置く立ち位置が異なります。自宗の宗論を信じて受け入れ、他宗の宗論を批判の目で見る気風を押さえることが難しいのだと考えられます。

台密の主張を受け入れた研究者の中には、「覚鑁の曼荼羅思想を見る限りでは、空海教学の徹底化を想定したものとは考えにくく、寧ろ密教教理の中に法華一乗や天台教学をも包摂した台密説の意義付けにその中心があったと考えられる」という説、また、「空海が追善供養に『法華経』を多用したとして、空海は『法華経』の一乗思想を滅罪と抜苦に抜群の効果がある経と位置付けた」とする説がありますが、驚きを禁じえません。この論者は、空海の真言密教と台密の円密一致説との根本的な相違の区別が理解できないのだと考えられるのです。この研究者の主張は、節度のない我田引水の説だと考えられます。決定的なことは、東密と台密の教理には法華経の重要度の認識がまったく異なるという根本的な相違点があることです。古代、聖武天皇の「国分寺建立の詔」により、全国に国分寺(僧20人)と国分尼寺(尼僧10人)が置かれましたが、国分寺は『金光明最勝王経』・『法華経』・『仁王教』の護国三部経により鎮護国家の役割を期待され、国分尼寺は『法華経』による「法華滅罪の寺」としての役割を国家の為政者から期待されていたのです。東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺でした。ゆえに、空海は、当時の人々に密教を知らしめる方便として『法華経』の語(ことば)を援用し、これを解釈することによって深遠な密教に導入しようとしたのだと考えられるのです。

空海は承和元年(834)東大寺真言院で『法華経』を経釈し、天長6年(829)平城京西寺会で『法華経開題』を講説しましたが、この中での主題は『法華経』(顕教)を賞賛することではなく、人々を密教に導入する方便として、人々が認識していた法華経観を導入部として用いていると考えられるのです。具体的にいえば、空海が天長年間に集中して著した『開題』は、法会の場での講演内容の原稿と考えられ、各経典の題名に関して経典を構成している語を解析し、その語の密教的な意味を解釈して解説しているものです。教典全体を解釈して解説するものではありません。この『開題』類の特徴は、空海の密教観である三部・三密・三大や五部・五大・五智、顕密の浅深、四種法身や四種曼荼羅というキーワードに訳して経典・経文の解釈を行う方法論と考えられます。主題は顕教と密教の違いについて言及することにあると考えられます。空海は、三眛耶の意味を顕密に分け、法華経と密教の三昧耶(誓願)の解釈の違いについて、密教は三眛耶を身口意の三密平等を明かすことばであると捉え、如来と衆生が相互に渉入し摂持しあうという三密平等を原理とする加持概念を示し、三眛耶と入我我入(三昧)が無碍渉入する「ことば」とする解釈をしているのです。空海の真言密教の教理の構築においては、空海は『華厳経』を密教への導入・入門編として関心を示しましたが、『法華経』にはその必然性が全く認められないところから関心を示していない、といっても過言ではないのです。この説の論者は台密の円密一致説の影響を受け過ぎて縛られていると考えられます。

高野山の実範が『大経要義鈔』を著し、根来寺の頼瑜が『大日経疏指針鈔』を著し、東寺の杲宝が『我慢鈔』『杲宝私抄』等を著し、同じく高野山の宥快・印融などはこぞって安然と円珍を批判しています。特に、実範は『大経要義鈔』に安然の批判に解説を加えながら各個に反証を加え、安然が空海を批判する根拠とした諸経典や諸論書の考え方や解釈の仕方が失当であるとする反論を詳細に論述しています。

円珍(814-891)が東密の批判の対象になったのは、教理面ばかりではなく、比叡山の座主・台密の権威であったこと、天台の名僧の評価が高く、清和天皇や藤原義房など殿上の貴紳に灌頂を授け皇太后・明子の護持僧となった人物であったことの影響が考えられます。特に、円珍が空海の『十住心論』を批判して、空海密教に多大な影響を与えた『華厳経』を『法華経』の格下とする天台特有のバイアス教理論を主張したことにあると考えられます。日本天台の人師であった円珍が、中国仏教界が認めた華厳教学を大乗仏教の頂点(円教)とする定説を無視し、密教と結合される『華厳経』を円教から除外し、法華経を真言密教の両部大経と同格とする牽強付会の説を比叡山に蔓延させたことにあると考えられます。

密教と円教を同質とする説は、中国・遼の時代に澄観(738-839)が『大日経疏』の思想的解釈を華厳によって行い、華厳に密教の行法を積極的に取り入れたことを端緒とするものでした。澄観は華厳宗だけでなく、天台宗、三論宗、律宗、禅宗を兼学した人物であり、清涼国師に任ぜられ、中国華厳宗第4祖(五台山清凉寺が本拠)となった碩学です。澄観の「四法界説」が密教に影響を与えていますが、澄観は円教に「円教としての密教」と「顕教としての円教」の二種を認め、円教に密教を包摂し、顕密の教理的同質性を主張しました。しかし、実践においては密教の優位性を認め、密教を最高とする華厳と密教の近似性を認めたのです。ところが、中国では円教を自認する華厳宗と天台宗は相互に否定しあうライバル関係にあり、相手方を否定する対立姿勢があったのです。この意識は日本の華厳宗と天台宗に引き継がれ、特に、法華の側から『法華経』と『涅槃経』は密教と同質性があるとして、意図的に華厳を貶めて格下にしようとするバイアス教理が主張されてきたことには注意が必要です。この主張は、天台の五時八教説に組み込まれ、比叡山の独善的な教理論となっていることは周知の事実です。

円珍(智証大師)は、空海の姪の子であり、空海と血縁関係にあり幼少から経典に触れる環境に育ちましたが、空海に弟子入りせず、叔父の天台僧・仁徳(和気氏、最澄の弟子)に従って上京し比叡山の義真に師事して12年籠山を行いました。役行者の後を慕い大峯山・葛城山・熊野三山の回峰修行を行って天台寺門派・三井修験道(円・密・禅・戒+修験の兼修)の起源とされています。幼年期から周囲の人々に聞かされてきたであろう若き日の空海が山林修行の中で培った密教的センスの形成過程の追体験を意識したのかもしれません。延暦寺の学頭を務めた後、すでに遣唐使は廃止されていましたが、入唐を決意して新羅商人の船で渡海し唐商人の船で帰国しましたが艱難辛苦の厳しい留学でした。密教を受法し入唐八家(空海・常曉・円行・恵運・宗叡の五人は真言宗、最澄・円仁・円珍の三人が天台宗)の一人となり、第5代天台座主となり、園城寺(三井寺)を賜った人物でした。ところが、円珍の法流は、密教と法華経の優劣の解釈において円仁の法流と対立して妥協せず、密教優位説(密教>法華経)を曲げなかったことから円仁の法流から武力によって比叡山から排斥されましたが、園城寺を本拠地として独自路線を堅持しています。

安然は『教時問答』に、空海の十住心思想には5種の視点の過失があるとする主張を展開しています。①『大日経』及び『毘慮遮那成仏神変加持義釈』に違う過失、②『金剛頂経』に違う過失、③『守護国界主陀羅尼経』に違う過失、④『菩提心論』に違う過失、⑤衆師(諸師)に違う過失です。安然が主張した空海の教判に対する批判の動機は、天台宗を華厳宗の格下とする空海の評価を不満として、真言宗、華厳宗、天台宗の序列を変えたいとする論調に見られます。安然の意図は、空海の九顕一密説による天台宗の評価付けを変えさせたい、とする批判姿勢に読み取れるのです。

安然説に対し、高野山の学僧・実範(生年不詳~1144)は、安然の批判は『大日経』等の教説を捻じ曲げる説であると否定し、東寺の学僧・杲法(ゴウホウ・1306-1362)は、「顕教と密教の区別の問題(真実の一乗の教えを説くことができるのは密教なのか、顕教=法華経なのか)(顕教と密教とが到り着く究極の悟りが同じものか、違うのか)」「(仏身論の)教主論の問題(『法華経』の久遠実成の本門の仏が密教の本地身と同一といえるのか)」「密教相承の問題(空海以来の真言密教側に真実の密教の法の相承がなされている)」をあげて詳細に検討し、密教の法身・大日如来と『法華経の』教主(応化身=釈迦如来)の同一化を図ろうとする安然説を批判しています。円仁・円珍・安然の説は、『法華経』にこだわりを持ち続けたことから、まだ顕教の段階に留まるものであり、台密は顕教に位置付けられる法門に過ぎないという批判です。

円珍の『大毘慮遮那成仏経指帰』を援用した安然は、華厳宗とは極無自性心において同格であるが法華経は円教であり、華厳経は円融を説くが別教であるから天台が勝り、天台は久遠実成と二乗作仏を説くが華厳では説いていないと反論しています。これは、天台の教理である「五時八教説」に基づく格付けによる主張です。この説を再整理した安然の「五時五教説」では、密教を頂点とする法華経と涅槃経の格付けを再整理し、一切の仏教を密教を中心に統一する一元論を説き天台教学を大成したのでした。安然説は、天台の教理を止揚して修正する見解であると考えられます。詳細は「(27)中期密教の成立(東密と台密)」を参照して下さい。

また、一方で安然は、『法華経』と『涅槃経』は仏性一乗の趣旨を明かすので「如実知自心」の心の相を表すものであり、大日如来の内証を表す真言宗と天台宗とは同列であるという主張をしています。これに対し、実範は『毘慮遮那成仏神変加持経』に説かれる仏性一乗如来秘蔵には、浅略・深秘の二種があり、如実知自心の一句には竪に十重の浅深があり、浅略を第八住心、深秘を第十住心としたのである」という反論しています。実範は、安然の論難の見解を四種に大別してまとめ論証形式をとって安然の見解について個別に反論しています。その結論をまとめて紹介すれば、実範は、安然の批判こそが『大日経』の教説を捻じ曲げたものであり、安然の論難は却って安然の視点に矛盾を生じさせているものである、と批判しています。

安然は、円仁・円珍が請来した台密の教理である円密一致説を正面に立て、密教で説くところの一乗はあらゆる顕教が説く一乗を全て摂め含めるものであると説いて東密の教理に対抗したのですが、密教と法華経や涅槃経の教理を同一視する立場では、大乗仏教の教理を包摂して大乗仏教の到達点に成立した真言密教(東密)に対抗することは困難であったと考えられます。杲法は、安然の説は大日如来自内証の法門の中の一部分の説を説いたに過ぎないと批判しています。

教時問答にみられる安然の理解は、一教=一大円教=顕密を包摂する教え、とするものであり、一道=真言門と置き換えて解釈しているところから、用語の整理が必要だと考えられるのです。空海は一道無為住心を「深秘の義としての法門を観自在菩薩の三摩地門とし、本来清浄の理を一道無為と名づけ、さらに一道を一乗と名づけ仏乗とする」といっているのですが、安然は一教を一道と解釈し、一道を真言門と置き換えて解釈したと考えられます。この論点は、台密と東密の「仏身論」という難解な教理について比較検討しなければなりませんが、ここでは言及できません。空海の密教観の影響を受けた安然は、①密教の正嫡・空海に対する劣等感、②最澄の法華経観の束縛、という二つの心理的な影響を受けざるをえなかったのではないかと考えられるのです。

『教時問答』には、空海批判ばかりではなく安然の密教に対する真摯な思いが記述されています。その冒頭の第一問答には、「真言宗(安然が考えた密教)は幾ばくの教時をたて、三世十方の仏教を判摂するや」という問いに対して、「真言宗は一仏・一時・一処・一教を立て、三世十方の一切の仏教を判摂す」と四つの視点から絶対的な「一」を構築して「一即一切」という「四一教判」を示しています。天台の五時説(華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃)、『維摩経』の一音(一時)説、『般若経』・『法華経』・『涅槃経』に説かれる声聞・菩薩の二時説、『無量義経』の四時説、『涅槃経』が説く、乳・酪・生蘇・熟蘇・醍醐の五味(時)説は衆生の機根に従った説であり、如来常恒不変の説ではないとし、毘慮遮那如来(大日如来)の説法が応に一切時であると結論付けています。

また、即身成仏の義について『菩提心論』を援用して、「今真言行の菩薩は己に二乗の地を越え、亦十地の菩薩の境界を越え、乃至凡より仏位に入る者なり。即ち此の三摩地とは、又云く、唯真言法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地法を説く。余教の中に於いて闕して書せず(密教以外の諸経には書いてない)。又云く、若し人仏慧を求めて菩提心に通達すれば速やかに大覚の位を証す。」この文言を援用していることに、安然の密教に対する複雑な姿勢の揺れを感じます。比叡山には開祖・最澄の法華経観の縛りを受けて、法華経の優位性を信じる勢力が隠然と存在しており、『菩提心論』(竜樹著・不空訳と伝承、密教の即身成仏の優位性を説く。)や『釈摩訶衍論』(大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から要約している如来蔵思想系の『大乗起信論』の解説書。華厳教学を背景に成立したと考えられ、真言密教と一般大乗仏教を峻別する。)を否定する勢力があるのです。しかし、この姿勢は、台密の教理をも同時に否定する矛盾をはらむものであると考えられます。

安然の教判は、顕教=三乗、密教=一乗と考え、『華厳経』・『般若経』・『維摩経』・『法華経』・『涅槃経』を唯理秘密の一乗教に比定し、『大日経』・『金剛頂経』を事理倶密の一乗教として、華厳経と法華経は同等の密教であると位置付け、事理の違いがあるが天台は密教の範疇に入るとするものです。安然は、『大日経』の本地身(大日如来)を『法華経』所説の本門の仏(久遠実成)と同一の仏身であると考えています。この『大日経』は本地身(自性身)の説であり、『法華経』の久遠実成の本仏の深秘を明かすものであるという考え方は、法華経が抽象的にしか表現できなかった久遠仏を大日経が具体的に述べているという観点でみれば正鵠をえたものと考えられます。しかし、『法華経』の久遠実成の本仏は報身であり、『大日経』の大日如来は法身です。両者の仏身観には同一視できない相違点があるのです。安然説は、善無畏三蔵(637~735)の説を一行禅師(683~727)が『毘慮遮那成仏神変加持経義釈』に『大日経』は『妙法蓮華経』の最深秘密の処を明かすと記述し、これを継承する智儼・温古が『大毘慮遮那成仏経疏』に同旨を述べていること、円珍が『大毘慮遮那成仏経指帰』に同説を言及していることを援用したものと考えられます。これが最澄の円密一致説を補強するために、中国に留学した円仁・円珍が天台宗に請来した法華経と密教の一致説の背景にある諸論と考えられますが、東密の仏身論とは根本的に異なる見解です。

東密の仏身論は、空海の『辨顕密二教論』に顕教と密教の峻別として表わされています。「他受用身・応身(釈迦=法華経の教主)が衆生の機根に応じて説いた説法を顕教」とし、「自受用身・法性身の仏が自らの内証の境界を明かす教法を秘(密教)と名付ける」がこれです。この説は、『略述金剛頂瑜伽分別聖位修証法門』には、「如来の変化身は十地以前の菩薩と、声聞・縁覚・凡夫等のために声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗の教法を説き、他受用身は十地以上の菩薩のために顕教の一乗等を説くのである。これらはすべて顕教である。」と述べられ、他方、「自性身ならびに自受用身は自ら体得した法を享受するために自らの眷属とともに三密門の教法(如来内証の悟りの境界)を説くのである。これを密教という。」と述べられていますが、これらは同一の見解であると考えられます。

不思議なことに、安然の主張には空海を批判しながらも空海の真言密教を認め、更に深化しようとする姿勢が見えることから、東密側には手厳しく批判する敵対心が薄かったと考えられます。東密の立場は、『大日経』の翻訳者、『大日経疏』の著作者である善無畏(637-735)を疏家といい空海を宗家と呼称するなど、密教相承の正統性と正当性を自認していたのです。また、東密(真言密教)は、その教理の殆どを空海がすでに完成していたことから、活動の中心がニーズがあった事相(実践)の加持祈祷などを重視する傾向が続き、院政期から鎌倉期まで教相(教学)振興の学風がみられない風潮に染まった時代が続いていました。空海滅後の東密教学が平安期から院政期まで沈滞していた頃、一方の台密は安然に刺激を受けて教学の振興期を迎えましたが、この間、東密に対抗できるまでの影響力と存在感を示したのです。

しかし、台密の実導仁空(1307~1388)が『義釈捜決抄』の中に「爾より以来、二百余年、東寺の門人返破の人之無しか。彼の門人の後生の中に実範と云う者あり」と書いたことで、台密に対して初めて反論した者が中川実範であることが分かり東密の学匠を刺激しました。安然は、天台宗を真言宗の上位に位置付けようとはしませんでしたが、せめて同格に持ち込みたいとする強弁の解釈に終始しています。また、華厳経と法華経を同格とする説を展開しながら法華経の優位性を述べて華厳経の上位に位置づけようとしました。安然は、一心一心識の立場で現象世界をすべて隨縁真如として肯定することで衆生も国土も同一の法性(如来随順覚性)であること、地獄も天国も皆な浄土であることを示し、現象世界の絶対肯定を説く天台本覚思想に多大な影響を及ぼした人物でした。

実範の登場で東密と台密の批判の応酬が活発になり、双方から批判の論書が出ていますが、天台の宗論の在り方と真言宗の宗論の違いには、最澄と空海の密教の認識に根本的な相違点があることから始まるものであると考えられ、双方とも偉大な開祖の考え方に固執せざるを得ない立場にあったのであろうと考えられます。

空海は、最澄が純粋密教の本質を理解する基礎知識が十分でないことを知悉していた人物であり、円密一致説を完全に否定する立場を取っています。空海は、『大日経』の本地身を実仏とし、『法華経』の久遠実成の仏を権仏としています。空海の説は、仏身観の浅略・深秘を峻別するものであり、天台宗を浅略趣(諸経の中の長行と偈頌=病の原因・病理を説くだけで治癒の実効がない教え)とし、真言宗を秘密趣(諸経の中の陀羅尼=薬を病の原因に応じて調合して疾患を消除できる教え)とする教判です。円密一致説は空海の仏身観では考えられない説なのです。

生前の空海と最澄に対して教判論の疑問点について物申した論師は唯一人、法相教学の大家である徳一のみでしたが、徳一は最澄との間で終生の熾烈な教相上での争い「三一権実論争」などを続けた法相教学の大家として知られています。徳一は興福寺の修円(771-835)に師事して法相の唯識思想を学び、東大寺に住した才解俊逸の比肩する者がいないと評された法相教学の専門家でしたが、奈良仏教の範疇には無かった空海の密教思想に対する疑問点を11問にまとめた『真言宗未決分』を著して、空海に提示した人物でもあります。この各説問の内容は、空海の密教の本質を把握する上での重要な基準となるものであったと考えられますが詳細は省略します。この疑問には未決着のままになっているものがありますが、空海が徳一に宛てた書簡(『高野雑筆集』巻上に収録)に「秘蔵の法門・・・衆縁の力に乗じて弘揚せんと思欲う」として、「空海が陸州徳一菩薩<法前>謹空」と書いて、密教経軌の書写を徳一に依頼して協力を求めていること、徳一はこれを応諾していることから、空海と徳一の人間関係は円満であったと考えられます。空海は南都六宗の諸宗大寺とは良好な友好関係を保ち続けていたことから、徳一が人々から大師や菩薩と呼ばれて尊崇されていた事情を知っていたのです。一方の最澄は南都六宗と終生に渡り法門上の論争を続けましたが、結局、決着はついていません。これが空海と最澄の南都六宗との交友関係の在り方の大きな違いであった、と考えられます。詳細は(21)-2大乗仏教(宗派の特徴と抗争)、(21)-3大乗仏教(宗派の論争)を参照願います。

最澄と徳一の教義上の争点は①経論の価値及びその撰述に関する問題、②実在と現象の問題、③仏性論の問題、④仏身論に関する問題、⑤実践修行論に関する問題、であったと五種類に分類されています。両者の論争は法相と天台の単なる宗派の論争に止まるものではなく、当時の仏教思想の全般に及ぶ広範囲な論争であったと考えられています。最澄は最晩年に『法華秀句』を著して徳一批判を展開していることから、この論争は最澄の重大関心事であったことが分かります。晩年の徳一は、朝廷から左遷を受けるなど不遇な境遇を受け入れていますが、最澄の政治的な手腕によるものであろうと考える説があります。

この他には、空海に教判について正面切って挑んだ人師・論師はいませんでした。空海に対して、真言密教の教判を批判して対抗できる能力を持った僧はいなかったと考えられます。安然は比叡山の劣等感を払拭したい心意気から、せめて天台宗を華厳宗の上に位置付けようとする動機を持って、空海が援用した諸経典や諸論書の文言の解釈論に対して、文言解釈の多様性を駆使して牽強付会の論を展開せざるを得なかったのであろうと考えられます。安然の『教時問答』の著作は、空海の真言密教に対する比叡山の劣等感の払拭を試みた自尊心の現れであったと考えられるのです。

空海が認識した諸宗派は、法相、三論、天台、華厳の「四家大乗」と呼ばれる顕教ですが、空海は、仏教教理は華天(華厳宗と天台宗)両一乗と真言(密教)に尽きていると考えています。また、仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に属すると考えています。鎌倉時代に出現した禅、浄土、日蓮の諸宗は、空海が直接に認識した宗派ではないのですが、天台宗の諸宗兼修の中で芽吹いた新興宗教です。仏教哲学は華厳と天台の両一乗と密教に収斂されるところから、鎌倉新仏教の教理もこの範囲内に収まるものであると考えられます。