(18)天台宗

「天台宗」は、南岳慧思から法華経の意義を伝授された智顗が中国・浙江省の東部に位置する天台山の国清寺で思索し、理論と実践の両面から仏教思想を再編し仏教の整理統合を図る目的で考えた独自の五時八教説によって開宗した宗派(中国の天台宗)です。
これを伝承して天台智顗を高祖と仰ぎ、比叡山を開創した最澄を宗祖とする宗派が日本の天台宗です。

智顗の法華経解釈の講義内容を門人の章安が筆録整理したものが「天台三大部」です。章安は583年、23歳頃に弟子となり、27歳頃から34歳頃までの聴講を校訂し、69歳で『法華文句』の添削が終わったと述べています。
長い年月の間に章安が推敲した解釈論も混在しているものと考えられます。
章安は智顗没後、師の著作を整理しながら涅槃経の注釈を完成しています。

「天台三大部」とは、①法華経の奥深い意義を総論する『法華玄義』、②法華経の経文を天台独自の教義で解釈した『法華文句』、③法華経の精神に基づき独自の眼で当時の仏教を俯瞰し、その禅観を止観という名称で体系化した『摩訶止観』をいいます。

これとは別に天台宗には智顗の撰といわれる「五小部」があります。①『金光明経玄義』2巻、②『金光明経文句』6巻、③『観音玄義』2巻、④『観音義疏』2巻、⑤『観無量寿経疏』1巻です。観音経や阿弥陀の論書があることに興味が湧きます。

天台智顗が独自の眼で著した教相判釈を「五時八教論」といいます。これは、あらゆる経典は釈迦の教えであるとする前提で、釈迦の教説の説法期間を5分割し、教えの内容を8種類に区分したものです。五時とは①華厳時、②阿含時、③方等・般若、④法華時、⑤涅槃時をいいます。衆生の機根(レベル)と教えの内容を評価することによって順位付けするものです。

八教とは、経典の内容を「化法の四教」①蔵教、②通教、③別教、④円教と衆生の教化の方法・仕方を区分する「化儀の四教」⑤頓教、⑥漸教、⑦秘密教、⑧不定教に区分したものです。化法と化儀の関係性は、病気治療の際の、薬の調合と治療法の関係に譬えられます。

この教判は智顗が意欲を持って仏教経典の整合性と統合を目指した創意工夫は認められますが、仏教全般を統合できる教相判釈論とはいえません。(後述参照)
天台教学の流れを汲む人が、この教判を振りかざし法華経は最高経典であるとして、南都六宗を見下して様々な法論を仕掛けた事実は多くの問題を含むものであったと考えられます。

天台宗によって、法華経だけが釈迦の真説でその他の経典は仮の教えであるという五時八教説の主張が広く蔓延する流れが発生しました。
この流れの中に、この教判を便利に利用する日蓮が現われ、法華経の教主(本仏)は日蓮という驚愕する主張まで出てきました。いわゆる日蓮本仏論(下種仏法)です。特に、日蓮正宗(興門派または富士派)と元信徒団体であった新興宗教団体の創価学会がこの急先鋒です。

天台の教理は、空・仮・中の三諦円融論を綱格として、一念三千論(下記)、十乗観法、性具説を説くものです。天台の性具説は、凡夫(衆生)が修行によって次第に仏性に救い取られて目覚めさせられて行く(仏性は修行によって自覚される)と考えます。これに対し、華厳宗の「性起説」では、衆生は生来的に仏性が備わっている(如来蔵思想)が、それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだ、という違いがあります。この人間観察の違いは、天台宗と華厳宗の立ち位置の違いから現れる相違点の一つであろうと考えられます。

十乗観法は、観察の対象を十境に分類し、観察方法を十乗に分類する方法です。その組み合わせの全体は100種類の観察を行う観法です。その十境とは、①「不可思議境の観察」、②「慈悲の心を発する」、③「巧みに止観に安んじる」、④「法を遍く破る」、⑤「通と塞とを知る」、⑥「道品を修行する」、⑦「対治して門を開くことを助ける」、⑧「順序だった位を知る」、⑨「忍耐できるようにする」、⑩「法に対する愛着をなくす」の10種類とされています。最初の不可思議の法の観察法が特に重要で、その一つが一念三千の観察といわれています。

摩訶止観の正行である「正修止観」でも観察の対象を10境に分類しますが、対象となるものは止観を遮る10種の境です。その境は、①「陰入境界」、②「煩悩境」、③「疾患境」、④「業相境」、⑤「魔事境」、⑥「禅定境」、⑦「諸見境」、⑧「増上慢境」、⑨「二乗境」、⑩「菩提境」です。最初の陰入境界の観想では、「五蘊」、「六境」、「六根」、「六識」という凡夫が持つ清浄ではない一般的な名色を観想します。これは「天台小止観」の「正修の行」に説かれた対象と同じものです。

一念三千論は、天台教学の眼目とされています。この論は龍樹の中論の「因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中道義」からヒントを得た慧文禅師が南岳慧思禅師に伝え、天台智顗が『法華経』の「方便品」に書かれてる十如是にヒントを得て工夫した論です。一念とは凡夫の一瞬の心を示します。三千は心の様相の極大化を示します。実践的には自己の瞬間の心(諸法の実相)を観想する統一的な宇宙観を示すものです。
しかし、これは言葉や文章で表現できない悟りの世界を仮説的に、補足的に、法数によって仮に表現したものであると考えられます。その実体は、実在するものではなく「空」であり、仮象でしかありません。一念三千を実体と捉える論理性は否定されなければなりません。

一念三千は、『法華経』の「方便品」にある諸法実相といわれる「如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是果。如是報。如是本末究竟等」という十如是(十如実相)と十界論と『大智度論』が説く三世間(五蘊世間、衆生世間、国土世間)から導かれたものですが、十如是は鳩摩羅什・訳の法華経にしか書かれていないところから、鳩摩羅什の意訳であろうと考えられているものです。

人の心の様相を十界(①地獄界、②餓鬼界、③畜生界、④修羅界、⑤人界、⑥天界、⑦声聞乗、⑧縁覚乗、⑨菩薩界、⑩仏界)とみて、十界の境界はそれぞれが相互にまた十界を持つ(十界互具)から百界となり、三種世間(衆生世間、国土世間、五蘊世間)に配すると、その法数は10如是×10界互具(百界)×3世間=3000となります。これは、凡夫の一念には三千のこころの様相(仮象)がみえるという観法です。

一念三千論は、一念という極小から三千という極大(中国には「白髪三千丈」のように三千を極大とみる考え方がある)に変化する統一的な宇宙観の一つと考えられます。自分自身の心の中に仏界という悟りの世界が具足していることを観想するものであり、皆成仏道の理論的な根拠として使われてきました。しかし、この論は理論的な可能性を法数に仮象して語っているだけであり、法華経には十界での各別の具体的な修行方法(実践)が明らかにされていない、という批判があります。なお、十界論は法華経に説かれた論ではなく、その出所は、天台宗の正当性を主張する立場から1269年に南宋の志磐が撰した『仏祖統記』巻50にあります。

「一念三千論」と「一心三観」、『摩訶止観』は、天台宗の禅定(瞑想)内容を構成する論理性の柱といわれるものです。『摩訶止観』は、空・仮・中の三観を順にではなく一挙に瞑想する円頓止観の解説書です。「止」は四種三昧を、「観」は十境十乗観法や一念三千を観想する天台宗独特の瞑想の修行体系を示すものですが、禅定の実践法をどのように整合性をとって完成させたのでしょうか。

摩訶止観の最初に「六即」と「四種三昧」が語られます。六即の出所は摩訶止観にあります。六即は、六段階の階梯を示しますが、理においては衆生と仏が不二であることを示すものです。①「理即」(まだ正法を聞かず徳が無い段階)、②「名字即」(初めて仏法を聞いた段階)、③「観行即」(修行によって心に仏性を感じる段階)、④「相似即」(見思惑・塵沙惑を断じて六根を清浄にした段階)、⑤「分真即」(42段階の無明惑の最後の元品の無明が残った段階)、⑥「究竟即」(元本の無明を断じて究竟の悟りを得る段階)とされています。また、四種三昧とは、「常行三昧」(歩きながら般舟三昧経に基づく瞑想を行う)、「常座三昧」(座禅しての瞑想)、「半行半座三昧」(常行と常座の三昧を順に交互に行う)、「非行非座三昧」(特定の時間・形にとらわれず、日常の中で行う瞑想)をいいます。

一つの論が完成形を示すものであっても、複数の論理を集合させて融合を図り、これらを再構成しようとすれば、現実の実践(禅定・瞑想)では必ずしも完成形を容易に獲得できるものではないと考えられます。特に、摩訶止観は第七章の「正修止観」の第7境までの記述しかないので、部分的な実践にとどまる可能性があると考えられます。この瞑想法は、超時間的・空間的、かつ超合理的な論理に基づいて行われる観法と考えられますが、瞑想すべき内容の風景が目まぐるしく急速回転する(?)ことから、集中力を保ちにくい相当に煩雑な観法と考えられます。よほどの訓練を積み重ねた僧か、極めて高い集中力に恵まれたごく少数の練達の僧でなければ満行できないのではないかと考えられるのです。

天台の瞑想観法は「天台小止観」が行われていますが、洗練された空海の曼荼羅思想に基ずく真言密教の瞑想法とは全く違うものであり、台密には密教瞑想法が導入されていないと考えられます。台密と東密は、共に中期密教(純密)思想に準拠する思想を持っています。中期密教は、宇宙の本源を法身の大日如来とみる思想によって成り立っています。ゆえに、大日如来の法界は宇宙そのものであり、すべての世界観を包摂する多様性と包容性をもつ曼荼羅(密教の法界)思想を形成しています。密教にはこの思想に基ずく独特の瞑想法(月輪観、阿字観、五相成身観など)がありますが、何故に、円仁と円珍は密教の瞑想法を比叡山に着床させることができなかったのでしょうか。それとも、不滅の釈迦如来(法華経の教主)=大日如来とする円密一致説のプライドが比叡山を「摩訶止観」で覆い尽くすことを望んだのであろうか。密教の宇宙観をあらわす瞑想法が比叡山に着床できなかった理由は、円密の相克にあったのではないかと考えられるのです。

天台の観法は、中国式観法の特徴を随所にもつ複雑な瞑想(禅定)法ですが、完成された観法と考えられているのでしょうか。天台の観法の完成形は、如何なる境地の獲得を目指すものでしょうか。最澄が中国・天台山から比叡山・延暦寺に移植した天台観法は、後世の法灯を継ぐ弟子の智慧をもってしても絶対に換えられないまでに神聖視され、手が付けられないまでの完成形を示し、特別に美化された観法なのでしょうか。不思議です。

「方便品」が示した諸法の実相とは、諸法を十如是によって仮象したものと考えられますが、なぜ変化の諸相を十の段階に区分したのかは不明です。十如是の観念は、鳩摩羅什が訳出した法華経以外にはないものであるところから、この十如是は鳩摩羅什が創出した意訳であろうと考えられます。

諸法実相は、実在論として捉えるのではなく、一心三観(一切の実体には存在が無い「空」、それらは「仮」に現象しているだけで、この二つは本来一つのもの「中観」である)という中観論として捉えるべきものだと考えられます。「一念三千論」は、人の心の様相(一念)が縁起によって千差万別の様相に変化することを法数で仮象したものですが、縁起によってさまざまな変化と様相を示す心は空であり実相ではありません。

これを日蓮が『諸法実相抄』に「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」、「されば釈迦・多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にて御座し候え。」、「本仏といふは凡夫なり、迹仏というは仏なり」「実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。」と書いたことを受けて、諸法実相を「諸法の実相」と捉え、これを空観ではなく実在論であると捉える宗派がありますが、大乗仏教の教理では、諸法の実相は仮象でしかなくこれを「空」と考えています。

心の本質は空性と見ることが大乗仏教の中観論、唯識論の論理性であるところから、一念三千を法数で説明する心の実相(?)は縁起によって変化する空性と考えられます。空の本質をこのような法数を使ってわざわざ説明する意図は一体なんであったのでしょうか。『法華経』には語られていない即身成仏の根拠の出所にしたかったのではないかと考えられるのです。

ちなみに、十界互具の考え方は、地獄界の心にも仏界があり、仏界にも地獄の心があるとする「性悪思想」を内包するものですが、仏は性悪を断じていないが、悪というものを理解して自在であるので悪に染まることはない、衆生を化導していくための根拠として性悪を説明しているのである、としています。

この一念三千論は、人の心だけでなく、あらゆるもの(瓦礫に至るまでのすべてのものに)に仏性を認める根拠とする中国・天台宗の論拠として使われてきました。『摩訶止観』巻五上には、(一念三千の法数の考え方を説明した後に)「この三千は一念の心にあり。若し心無くんば已みなん。介爾も心有れば即ち三千を具す」とあり、一念には三千の諸法が具備(この用語には実在論が感じられる)されていると述べていることから、一念に仏性あり、とみる哲学的な見解を主張したかったのであろうと考えられます。

智顗は、この一念三千を摩訶止観巻五で1回言及しただけであり、この論を智顗が積極的に宣揚し展開した教理であったとは考えられませんが、中国・天台宗第6祖の湛然(妙楽大師)は、『摩訶止観輔行弘決』巻五で、これを究極の極説と解釈して、指南とするように力説し、宣揚したことから、一念に大きな哲学的意味が与えられることになります。

天台の一念三千論は、日蓮が『開目抄』に「一念三千の極理を法華経の本門寿量品文に秘し沈めたり」と述べたことから、日蓮を末法の本仏とする「文底下種の法門」が日蓮門下の宗派に発生しました。一念三千の教理は、天台宗よりも日蓮門下の宗派で多用され、日蓮本仏論が芽吹いています。特に創価学会がこれを仏教の極理として会員を洗脳し、インターネット情報を使って大量に書き込んでいますが、伝統の学僧の指導を受けない特異な教義解釈によって、我田引水のプロパガンダに利用していると考えられます。天台宗は、この教理を日蓮宗徒に好き勝手に使われていると考えられます。祖師仏教の母山の自覚をもって、何らかの適切な措置が必要ではないかと考えられます。

中国では、天台教学は華厳教学と共に中国二大思想として展開しました。
天台教学は一時廃れますが、六祖の湛然が天台三大部の注釈を完成し、瓦礫にまで仏性を認める非情仏性説を認めて、華厳宗や法相宗に対抗しました。

806年、天台宗は止観業(法華経)と遮那業(密教)各1名、二人の年分度者(公認僧)を勅許されました。比叡山は止観業と遮那業を学僧の教育制度としました。

円仁は密教の外に、中国五台山の念仏を比叡山に伝えましたが、これは源信などの手によって比叡山の浄土思想として学ばれました。
源信は、『往生要集』を著して比叡山に念仏の大きな流れを形成しましたが、この流れの延長線上に、後年の法然(浄土宗)や親鸞(浄土真宗)が花開きその立宗に大きな影響力を与えました。

比叡山には、最澄以来、法華、密教、禅、浄土思想の兼学の流れがありました。
僧の興味によってどの方向を専門にするのか違っていましたが、自分の流れがもっとも正しい方向だと考えることは自然の流れです。

このような比叡山の兼学の精神は、やがて栄西(臨済禅)、道元(曹洞禅)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮(法華宗⇒日蓮宗)などの鎌倉新仏教の祖師を生むことになります。
栄西や道元は比叡山の僧の間で頭角を現した存在でしたが、日蓮はそうではなく比叡山での知名度は低く、立宗宣言後の鎌倉方面での先鋭的、且つ独善的な国家諌暁の活動や数度の流罪などにより知られる存在になりました。
比叡山では日蓮の評価は高くありませんでしたが、明治以降の日蓮系の熱心な日蓮信者や新興宗教団体の布教活動によって、その業績を鎌倉時代にまで遡り顕彰される存在となった特徴があります。

比叡山から出たこれらの新興宗教が、比叡山から自立して独り歩きをすることになりますが、これによって伝統的な仏教思想と学問の整合性や統一性が著しく損なわれることになります。
比叡山から発生した新興宗教は、思想的にも学問的にも統一性に欠け整合性を失っていました。比叡山の風評によって育てられた末法思想に悩みぬいた祖師たちが、それぞれに拠り所とする思想を求めながら独自の教団を形成していったのです。

天台宗の中興の祖といわれる18世座主良源(元三大師)没後、円仁(第三代座主)派と円珍(第五代座主・天台寺門宗宗祖、空海の妹又は姪の子といわれる)派は密教の考え方の相違により対立抗争を繰り返していましたが、993年、円仁派の僧徒が円珍派の房舎を襲撃して打ち壊す事件が発生したことにより両者の対立は決定的となります。

円珍系は比叡山を下山して園城寺(三井寺)に入り寺門派(現在の天台寺門宗、本尊:弥勒菩薩)を形成しました。この分裂により比叡山は山門派(現在の天台宗、本尊:薬師如来)といわれました。

この他にも比叡山には室町時代に分派した現在の「天台真盛宗」(総本山:西教寺、本尊:阿弥陀如来)があります。延暦寺や園城寺が密教色が濃いのに対し、西教寺は浄土教的色彩が濃い天台念仏と戒律の道場として特徴があります。

しかし、天台念仏という名称は天台が法華経の道場に冠せられた象徴的存在と見る立場の人には違和感を感じさせる名称だと考えられています。
天台という名称自体が法華経という意味内容を持っていると考える立場では、法華思想が中心でなければ天台とはいえないことは自明の理だからです。
智顗や最澄がこだわった天台の名称を念仏を修飾する冠として使うことは妥当なことではなく、天台をブランド名のごとく抱え込み、比叡山の中で生まれた念仏だからといって天台を冠するのはいかがなものかと考えられます。智顗や最澄の意思に反することは明白です。
浄土宗や浄土真宗、日蓮宗のように独自性(実際には天台を名乗れなかった)を主張する方がすっきりすると考えられます。

西教寺が浄土色を濃くしたのは1486年に入寺した中興の祖・真盛の思想の影響です。
この宗風を「戒称二門」(戒律と称名念仏)、「円戒念仏」(完全に速く成仏する念仏)と称しています
これは、法然の専修念仏や親鸞の悪人正機説とは全く異なる念仏と云われていますが、一体何が異なるのでしょうか。
天台念仏が浄土宗や浄土真宗の他力本願を否定し、自力の菩提心の上に称名念仏立てるものであれば、全く異なる教理だと認められます。

1571年、織田信長の全山焼き打ちによって、延暦寺、園城寺、西教寺とこれらの守護社「日吉大社」の歴史と伝統のある伽藍や数々の仏教遺産のほとんどが完全に破壊され焼失しました。
しかし、それぞれが豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康などの武将によって再建を許され、復興を果たしています。

信長が比叡山を全山焼き打ちに処断したのは、次のような理由と考えられています。
①多数の僧兵を抱え込み戦国大名に匹敵する政治的な武力集団であったこと。
僧兵が粗暴な振る舞いや騒擾などで朝廷や社会の人々に多大な迷惑をかけて来たこと。など
②政治的中立の立場を取らず、露骨に信長の敵対勢力に味方したこと
浅井・朝倉の軍勢を比叡山に匿い、武田信玄、一向宗と組み、信長の包囲網を形成したこと。など
③比叡山の堕落が著しく許容範囲を逸脱したと見られたこと。
法灯を世の為人の為に役立てず、財を蓄え、妻妾を蓄えたこと。
しかも、これらを神聖な修行道場であるべき比叡山に住まわせたこと。
比叡山に赤子の泣き声や子供の嬌声が響き渡り、僧の戒律がなくなったと見られたこと。など

天海は徳川家の為に、中世天台の伝統的神道を再編して山王一実神道を作り上げ、家康を東照大権現に祭り上げて東照宮祭祀を興し、徳川家の絶大な信頼を得ました。

徳川将軍家の肝いりで比叡山の復興に指揮を取った天海の指導のもとで1625年、総本山の地位を上野の東叡山寛永寺・日光輪王寺(宮門跡寺院)に譲り、徳川政権に奉仕する存在となりました。
明治政府の寺領没収により勢力を失いましたが、1870年、比叡山が総本山の地位を再び手に入れました。
戦後20ほどの認証団体に分離しましたが、東京・浅草の浅草寺も「聖観音宗」の総本山として独立しています。

比叡山の特徴は、開創以来、権門勢家の庇護によって教勢を維持してきた教団であるため、歴史的に信徒の獲得の熱意が弱く、教団を経済的に支える信徒組織が驚くほど弱体なことです。