序章2:台密(天台宗)と東密(真言宗)の違いを考える

鎌倉新仏教(祖師仏教)は、比叡山の諸宗兼修の向上心の中から芽吹きました。天台教学は、『中論』、『大智度論』による一心三観(一切の実体には存在が無い「空観」、それらは仮に現象しいる「仮観」だけで、本来は一つである「中観」)という止観道を宗旨とする『摩訶止観』の影響下にあります。止観は「止」と「観」という如実知見の瞑想法ですが、精神の集中によって心を安定させ、真実をありのままに観る知恵を獲得する瞑想法です。

天台の教理は、天台宗が極理とする「一念三千論」と「一心三観」、『摩訶止観』の「止」と「観」は矛盾のない論理的な整合性があると考えられています。「一念三千論」は心に極小から極大の相即した統一的宇宙観を諸法の実相として観想する天台の極理とされているものです。天台が極理とする一念三千論の出所は、『法華経』の「方便品」の十如是(「所謂諸法・如是相・如是性・如是體・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」)にありますが、この十如是は鳩摩羅什・訳の『妙法蓮華経』にしか書かれていないことから、鳩摩羅什が訳出した法華経の原典がどのようなプロセスをたどって編纂された経典であったかが問題になりますが、サンスクリット原典が存在しないことから確認できません。現存する他の法華経の内容と比較すれば、鳩摩羅什が翻訳した法華経は何度も再編集された経典ではなかったかという疑いがあり、結果論からいえば鳩摩羅什の意訳によるものであろうと考えられるのです。

法華経の漢訳は部分訳・異本を含め16種が伝わっていますが、サンスクリット原典の漢訳は「六訳三存三欠」といわれ、①『正法華経』10巻27品・竺法護・訳(286年)、②『妙法蓮華経』8巻28品・鳩摩羅什・訳(406年)、③『添品妙法蓮華経』7巻27品・闍那崛多と達磨笈多・共訳(601年)の3種が現存しています。鳩摩羅什・訳が人気を集めたのは流麗な文書で名訳であったからですが、中国天台宗が鳩摩羅什・訳を採用したことも影響しているものと考えられます。

法華経はアジア各地に伝播しましたが、法華経を立宗の根本経典としたのは中国天台宗とそのコピーである日本の天台宗(比叡山)及び日蓮宗系のみです。アジア地域では法華経が思想として学ばれたのだと考えられます。なお、法華経の開経に『無量寿経』を、結経に『観普賢菩薩行法経』を位置付けて「法華三部経」とすることが天台宗と日蓮宗系の法華経観ですが、『無量寿経』と『観普賢菩薩行法経』は法華経を讃嘆するために中国で作られた偽経と考えられます。詳細は「(33)-1日蓮仏教の研究①(法華経を知る)」を参照願います。

「一心三観」は空・仮・中の三諦を観ずることで十界互具を導き出す観想です。『摩訶止観』は、三種止観(円頓・漸次・不定)と四種三昧(常行・常座・半行・非行)の円頓止観の解説書といわれるものです。これらの瞑想の仕方は天台宗の儀軌に基づく伝授がなければできないことですが、これらを同時に観想する瞑想法が円満に決定できる場合に得られる境地(智慧・悟り)はどのようなものであろうか?。瞑想内容が豊富すぎて瞑想の集中が散漫にならないのであろうか?という疑問が感じられます。瞑想は時間と空間を超越するので無用な心配であろうとも考えられますが、台密と東密の瞑想法があまりに違い過ぎることから、比叡山の瞑想法は摩訶止観のみで、密教の瞑想法が伝わらなかったのか?などという疑問が残ります。詳細は(18)の「天台宗の章」を参照して下さい。

最澄の立宗開創の基本的な立場は、円・密・戒・禅の兼修にあったと考えられています。この諸宗兼修には、長所と短所が同時に含まれています。実は、最澄には密教と天台法華との関係性について論理的に記述した著作が全くないのです。最澄の弟子たちは天台法華と密教との論理的な整合性を作り上げることに相当な努力をしなければならなかったと考えられます。どの経典を中核として諸教論を統括させるのかという中核の専門性を見失えば、統御できない百花繚乱のお花畑(雑多な説が芽吹き教理の統一性を失うこと)になってしまう危険性が潜在していると考えられるのです。

法華経は論理的に記述された経典ではありませんが、自意識の強い個性的な特色をもっています。各人が各様に興味を持ったさまざまな教理を持ち出して衆論を形成する無秩序の場が形成される危険性があるのです。最澄の論理的な意思がないことから、最澄の意思を忖度するほかなく、各人が考える異論反論を制御できない無秩序な修道システムが形成されてしまう危険性が考えられるのです。事実、不満を持った鎌倉新仏教の祖師となる僧たちが本山から勝手に下山して、厳格であるべき宗論と異なる(各人の胸に芽生えた)異説を布教したのは比叡山で学んだ僧だけでした。

比叡山に、円仁が中国・五台山竹林寺から持ち帰った念仏は、天台・摩訶止観の四種三昧に説かれた常行三昧の「観想念仏行」(念仏禅)という瞑想法でした。円仁は比叡山に常行三昧堂を造り修行道場としたのですが、しかし、源信⇒法然⇒親鸞の流れの中で、善導、道綽の念仏観が移植されて法然の専修念仏、親鸞の称名念仏が生まれて育て上げられる流れが発生したのです。

専修念仏と称名念仏の萌芽は、比叡山で突然変異を起こして生まれたものでした。 専修念仏と称名念仏は、比叡山の中から最澄・円仁の四種三昧を感得するための常行三昧の修行を否定して出てきた突然変異の新種の易行念仏であり、これは明らかに最澄が定めた比叡山の本旨とは考えられません。

比叡山の四宗(円・密・戒・禅)兼修の修道システムは、最澄の理想を見失ってお花畑に変貌していたと考えられます。どうみても、自由な学風?とは考えられず、比叡山は仏教の総合アカデミー、諸宗の母山といえるものではなく、当時の比叡山に最澄の法灯を護る秩序が保たれていたとは考えられないのです。

念仏の声は高野山にも響き渡りました。高野山を慕って周辺の谷間に住み着いた人々や、高野山の衣の下に庇護を求めて住ついた人々が持ち込んだのです。この人々の中には高野山の下役を務めたり、勧進聖(高野聖)となって全国を行脚して浄財を募った人々が出ましたが、高野山の作務や庶務ばかりでなく財務まで貢献したことから一大勢力を形成したのです。この人々は「行人方」と呼ばれましたが徐々に既得権益を握り、宗務に介入する力を持って僧侶(「学侶方」)の領域を徐々に侵食し数百年間も勢力を維持し続けたたことから、高野山の重大な悩ましい問題になったのです。高野山がこの問題を解決できたのは、室町時代の高野山教学の大成者である宝性院宥快(1345-1416・宝門派/藤原冬嗣の子孫)と無量寿院長覚(1340-1416・寿門派)の「応永大成の義学」といわれる最盛期を待たねばなりませんでした。

平安末期から有力武士が武力を背景に台頭し、天皇・朝廷・大貴族・大寺社など既得権益を享受してきた既存勢力が衰退期に入りました。鎌倉幕府が成立し武家政権が誕生すると、旧勢力の繁栄や財政を支えてきた各地の荘園が武士に簒奪され、経済的な窮乏に陥ったのです。比叡山、高野山をはじめ有力寺院も次々に荘園を簒奪されたことで財政基盤を喪失して衰退期を迎えました。朝廷の秩序維持の機能が喪失して、権威のある後ろ盾が期待できない状態に置かれたのです。比叡山は衰退期にあり、この中から末法思想が噴出して各地に蔓延する時代の背景と活躍舞台とが出揃ったと考えられます。

衰退期の比叡山が仏教アカデミーや各宗の母山である要素は考えられません。新興宗教の祖師達の登場は、比叡山が衰退期にあった証拠と考えられます。例外は禅宗だけであり、禅宗は鎌倉幕府・守護・地頭の有力武士層の支持を受けて繁栄を享受することができたのです。顕密仏教の衰退と禅宗の勃興は、権力構造の変化に伴う表裏一体の出来事であったと考えられます。

最澄の仏教観は、法華円教と密教を同等に評価する立場でした。しかし、最澄の弱点は、大乗仏教の到達点に体系的な思想をもって現れた密教の修行経験がないこと、その本質を体系的に学んでいなかったことから、空海に弟子入りして師事せざるを得なかったことにありました。最澄の入唐修学の目的は天台山に於いて天台智顗の法統を受法することでした。しかし、帰朝後の最澄に天皇、藤原氏、朝廷が求めたのは最新の密教でした。桓武天皇は皇位を簒奪するために陥れて死に追いやった早良親王の怨霊を恐れて聖体不余(ノイローゼ)に陥っていたのです。桓武は怨霊が跋扈する都を打ち捨てて逃れる遷都を繰り返しましたが、その効果が得られず怨霊に悩まされ続けたことで切実な怨霊退散を願っていたのです。最澄はこの要望に応えることができないジレンマに陥ったと考えられます。

最澄は、空海が密教の最新性や重要性に気付いて密教を求めて入唐修学を志した真意を知らなかったのです。 最澄は入唐以前に西大寺の得清が請来した『大日経義釈』(あるいは『義記』か)を書写して閲覧していた形跡が伝わっていることから、最澄は入唐以前に密教に多大の関心を寄せていたことが考えらえます。しかし、最澄の重大関心事は天台智顗の法華三大部(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』)の請来であり、密教の奥義を求めて入唐したわけではありませんでした。

最澄の密教形成の決定的な機縁は、帰国間際に順暁がから学んだ一行の『大日経疏』による円密一致思想の影響であると考えられます。 しかも、最澄が密教の最新性と重要性に気付いたのは、天台山を出発して帰国途上の紹興で帰路の遣唐使節団の船を待っている1ヶ月の間でした。越州・竜興寺に順暁が存在していることを知り、順暁から密教を受法することを思いついて懇請し運よく胎蔵系の密教の受法を許されたのですが、最澄は密教受法の為の基本的な密教修行を身に付けないままに受法したと考えられます。遣唐使に随行した最澄の国家派遣の環学生としてのステータスが認められて特別に許可されたのではないかと考えられます。

しかし、最澄が受法した密教は体系的な密教ではありませんでした。最澄の受法は、帰国船の待ち時間が長いからついでに密教も持ち帰ろう、このような動機であったと考えられます。最澄は帰国直後に、怨霊に悩まされ続けた桓武天皇から最新の仏教である密教の加持祈祷(護摩)を期待され、朝廷の期待と要望を聞かされて密教の最新性と重要性に気付いたのではないかと考えられるのです。最澄は困惑し、期待に応えられないジレンマに陥ったと考えられます。

そこで最澄は空海に書簡を送って密教の経倫儀軌を借覧して密教の学修に取り組む決意した結果、プライドを捨てて空海に弟子入りしたのではないかと考えられるのです。詳細は「20-1空海と最澄ーその履歴」を参照して下さい。

最澄は、比叡山の僧の修行を遮那(密教)と止観(法華)の二業と定めたのですが、最澄亡き後の比叡山では東密に対する劣等感から異常な関心が高まったと考えられます。台密の後継者たちが胸中に抱いた本来的な「あるべき論」は、東密(空海密教)に見劣りしている台密の有り様を本質的に変革することであり、その最大の懸案は最新の中国密教を請来して東密に対抗できる勢力を育成すること、東密に対する劣等感を払拭することにあったと考えられます。

ゆえに、台密の再構築によって東密と比肩できる天台宗教団の再生をすることが急務の課題になったものと考えられ、この流れの中に傑出した人材となる円仁、円珍、安然などが輩出されたと考えられます。なお、台密は最澄が創始した密教ではなく、事実上の台密の創始者は円仁です。円仁・円珍が台密を順次に比叡山に移植して育成し、空海の東密に対抗心を燃やしたのです。

最澄が求めることができなかった体系的な密教が、数々の艱難辛苦を乗り越えて、密教授法の留学に旅たった向上心のある僧によって、ついに比叡山にもたらされました。最澄の意思を受け継いだ第3代座主円仁(慈覚大師)、第5代座主円珍(智証大師)が比叡山に請来したのです。

天台密教(台密)の教理論は、空海の相弟子であった青龍寺の義操の弟子及びその系譜につながる人物から授法されたものでした。 円仁は、元政から金剛界を、義真から胎蔵界と蘇悉地を、法全から胎蔵界を授法しました。円仁の教学上の特色は、密教経典の解釈を天台の教理との調和を図りながら新たな顕密対弁思想を展開したことにあります。

円珍は、法全から金剛界、胎蔵界、蘇悉地(雑密に分類された儀軌書)の三部を伝授され、大日如来(毘慮遮那仏)と釈迦の関係性が本来一仏であり二体あることはないという伝授(事実関係は不明、この説は台密の説のみにある)を受けています。円珍は、空海の十住心思想を天台の評価を変えたいとする動機によって批判したと考えられますが、『大日経』の三摩地門は法華も及ばない最秘甚深の教えであるとして理劣事勝の思想に至っています。

安然は、円仁の教学を基盤として密教の天台化を徹底しましたが、法華経の本仏である釈迦如来と密教の本仏である大日如来(華厳経の毘盧遮那仏と同体)の一致を立てて円密一致説を受け継ぎながら、密教を理密教と事理倶密教に区分して真言宗の優越性を認める立場でであったと考えられます。

空海の真言密教(東密)と比叡山の台密の法流は、胎蔵界と金剛界の密教思想を継承した中国・青竜寺の密教の大家・恵果阿闍梨(付法の第7世)から発生したという共通の淵源を持っていますが、伝法の阿闍梨の法流は異なります。空海は恵果から師弟の深い因縁を特に見込まれて両部の伝法灌頂を授与されて付法の第8世となり、真言密教の宗租となりましたが、台密の付法は、恵果の弟子・義操の法流にあります。

円仁が義真から胎蔵界と蘇悉地の両法を授法し、円仁と円珍が法全から胎蔵界、金剛界の両部の大法を授法しています。しかし、密教の相伝は厳粛なものと考えられます。付法の第6世不空三蔵が数万の弟子を持ちながら恵果を見込んで密教の法の伝授(寫瓶)を許したように、恵果阿闍梨が空海の真摯な求道姿勢やたぐいまれな素質と能力を見込んで付法を即決した眼力にはいささかも誤りはないと考えられます。密教の付法の正嫡・弘法大師空海に及ぶ伝法者の存在は考えられないのです。詳細は「(20)-1空海と最澄ーその履歴ー」「(20)-3空海の入唐求法とは」を参照して下さい。

弘法大師空海は、密教は大乗仏教の到達点に現れた最終形と考えていますが、大日如来(法身)と釈迦(応身)は同一ではありえないとして、真言密教は大日如来の法身説法であるとすることを本旨としています。大日如来の法身説法(その内容)が釈迦を悟りに導いた教説であると考えれば、その関係性が理解できるのではないかと考えられます。

最澄は自ら密教の著作をしなかったことから、最澄の没後の弟子たちは空海から密教を学ばざるをえませんでしたが、最澄の円密一致観が弟子たちの法華経観と密教観を縛りつ続けたと考えられます。

最澄は入唐以前に西大寺の得清が請来した『大日経釈義』(または『儀記』か)を書写して閲覧していたことが伝わっていることから、最澄は入唐以前に密教に多大の関心を持っていたと考えられますが、入唐の本命は天台三大部の請来でした。帰国途中に越州・竜興寺の順曉から一行系の密教を受法したことから、最澄は天台密教の決定的な機縁にしたものと考えられます。

最澄の『依憑天台集』(813年)には、一行の思想が天台の思想に基ずくものであるという理解を示しています。最澄の密教の不完全性が比叡山の密教観の捉え方に大きな相違点をもたらしたものと考えられます。大乗仏教の到達点に開花した先進思想を持つ密教を天台教学の枠内に位置付けて理解しなければならない立場を取り続けなければならなかったことが台密の教理的な限界であると考えられます。詳細は、「(30)顕教と密教は何が違うか」を参照願います。

東密から台密に対して、7つの根本的な相違点が指摘されています。「法身(大日如来と釈迦の異同)の問題」「顕教と密教の規定の問題」「純密と雑密の区別」などがこれです。 空海の真言密教と比叡山の台密の相違点は、密教授法者の資質と導入プロセスの違いにあると考えられます。

南都六宗や天台宗の宗学や教学は、すでに中国において体系的に成立し、それぞれに権威のある宗論書が存在していたので、留学僧はこれを学び日本にそのまま忠実に移植することが本命でした。ところが、密教はこのような事情とは異なっていました。密教は中国においても胎蔵界系と金剛界系は別々の系統にあり、渾然一体となって融合した密教の完成形である統一的な仏身観(金剛界・胎蔵界の両部不二思想=法身・大日如来を根本の中尊とする諸仏・諸菩薩・明王・諸尊等の役割を階層的に位置付ける両界マンダラ思想)を示すレベルには達していませんでした。

真言密教の統一的仏身観は、両系統を正統な伝法灌頂によって授法した空海の独自の思索による「智」と「実践」によって普遍性のある思想と教義体系として、日本において再構築されたものでした。空海の真言密教の理論構成は、中国の最新密教を導入したからといって簡単に到達できるレベルではないと考えられるのです。詳細は「(30)顕教と密教は何が違うか」を参照して下さい。

真言密教は、空海の叡智と大乗仏教の精神が見事に包摂された独創性がある密教であり、台密とは成立過程の事情が大きく異なるものです。いうなれば、東密と台密は青竜寺の恵果阿闍梨の系譜にありますが、密教の考え方、思想の選び方や育て方が異なるのです。それぞれが独自性を主張する宗派を形成して仏教界に存在感を示し、偉大な学僧の下で研究を重ねてきていることから、両密教の性格や考え方の随所に違いがでることは当然のことと考えられます。これらは密教が持つ思想の多様性の一つの表れともいえるものです。

金剛界と胎蔵界の正当な継承者である恵果阿闍梨から直接に金胎両部の伝法灌頂を授法した弟子は恵応・恵操・惟尚・恵日・空海・義満・義明・義照・義操・義愍などであり、金剛界は義政・義一・呉殷・義智・義円など、また胎蔵界は悟真・義澄・法潤・などがいます。

このなかでも空海と義操が恵果の法流の正嫡であり、空海は恵果の教導を受けて帰国して真言宗の開祖となり、中国人の義操は青龍寺の法統を嗣ぎました。 密教の阿闍梨は、菩提心を発して智慧と慈悲を体現し、般若波羅蜜の行に勝れ、様々な才能に恵まれて真言の真実義に達している密教の師です。その弟子には、伝法と血縁の二種の弟子があり、伝法の弟子とは密教の法を継承できる素質と器を持ち合せた人物かどうかを師の阿闍梨から見極められた弟子をいいます。血縁の弟子は師弟関係にありますが伝法の弟子のような特別な資格要件が必要とされていない弟子をいいます。正嫡の伝法の弟子とは、師の阿闍梨の法統を正当に継承する正統性を持つ血脈相承者と考えられます。詳細は「(20)-3空海の入唐求法とは」を参照願います。

天台の密教の系譜も青龍寺から派生したものでしたが、台密は円密戒禅の四宗兼学の天台教学の影響を強く受けて成立したものであり、その本質は円密一致の天台教学の枠内での密教理解と考えられます。台密の円仁・円珍などに金剛界・胎蔵界・蘇悉地法を伝授した上記の義真・法潤・法全・元政などは義操の結縁の弟子の系譜に連なる人物でした。

東密と台密の相承を図示すれば下記のようになります。

<東密の相承>八祖相承

「付法の八祖」①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥不空⑦恵果⑧空海

「伝持の八祖」①龍猛②龍智③金剛智④不空⑤善無畏⑥一行⑦恵果⑧空海

<台密の相承>最澄に相承なし、台密の事実上の相承の初代は円仁

「胎蔵界」 ①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥善無畏⑦不空⑧一行、 ⑨恵果⑩恵則

        ⑪義操⑫義真⑬法全⑭円仁

「金剛界」 ①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥不空⑦善無畏⑧一行

       ⑨恵朗⑩恵果⑪恵則⑫義操⑬義真⑭全雅⑮円仁

「蘇悉地」 ①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥善無畏⑦一行⑧恵果

       ⑨恵則⑩義操⑪義真⑫円仁

真言密教は、中国で完成された単なる輸入仏教ではなく、恵果阿闍梨の正当な密教の継承者である空海が「智」と「実践」によって、密教思想を再構築して完成させた密教でした。台密の成立過程とは生まれも育ちも異なるものです。台密は唐代の天台教学の影響下で成立した密教ですが次のような経緯を持っていると考えられています。

善無畏(637-735)に師事した一行禅師(683-727、禅・律・天台・密教・天文学・暦学・道教の大家・玄宗皇帝の国師)が師の口述を筆記して『大日経疏』20巻に撰しましたが不完全の思いが残り、その内容の見直しと推敲を一行と共に善無畏に師事した智儼(602-668、訳経僧・中国華厳宗の第二祖・華厳教学の創始者)に託しましたが、善無畏が入寂したことで果たせませんでした。

しかし、この改定は同じく善無畏の弟子であった温古(生没不詳)と智儼(生没不詳)に引き継がれ天台教学の教理に準拠する校訂が行われた『大日経義釈』14巻にまとめられて完成したという経緯がありました。台密は、これに寄り添う密教であり、台密の性格はこの中で決定されたものと考えられます。なお、善無畏は真言宗の伝持の第5祖、一行は伝持の第6祖とされていますが、付法の祖の系譜からは除外されています。両名が血脈の付法の祖とされない理由はこのような経緯にあると考えられます。

善無畏(637-735)について若干の補足をします。善無畏はインド人の仏教僧です。中国(唐)に密教を伝える為に渡唐してきた高名な密教僧です。胎蔵マンダラの構成と作図などで密教界に多大な影響を与えました。胎蔵曼荼羅には、『大日経』の「住心品」の「三句思想」の解釈の相違によって①善無畏系の曼荼羅と②非善無畏系(ブッダフグヤ系)の二種の曼荼羅が存在します。東密は空海がブッダフグヤ系(修行して悟りに向かう因位の立場=『大日経』の「具縁品」の記述に忠実にしたがって描かれた曼荼羅)の「原図曼荼羅」を請来したのですが、台密は円珍が善無畏系(悟りを得て衆生の救済に向かう果位の立場)の「山図曼荼羅」を請来したという違いがあり、この二種の曼荼羅の各区画の配置に相違点があるのです。

善無畏は、長安の西明寺に滞在してインド密教の翻訳を行いましたが、若き頃の空海がある僧?から伝授を受けた求聞持法(正式名称は『虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法』であり奈良古密教に分類されている)は、善無畏の訳出であったと考えられています。当時、善無畏が滞在していた西明寺には遣唐使節に同行した留学僧・道慈(生年不詳-744/三論宗の僧・大安寺/出自は額田氏)がいましたが、善無畏の求聞持法の訳出が道慈の718年(養老2)の帰朝の前年であったことから、求聞持法は道慈によって請来されたと考える説があります。

道慈は留学僧として唐の僧侶の受戒制度を目の当たりにし、日本の仏教界には僧侶の受戒(僧の資格)の制度が未整備であることを痛感して批判し、早期に唐から戒師を招来して僧の受戒制度(その結果が鑑真の招来)を整えることを上訴した僧です。求聞持法は、山林や海浜を修行の場とする行法を説き、山林修行僧の中で次第に重要な役割を果すことになったのです。

最澄の門下は、空海の法流に対抗心を持って遣唐使廃止後の閉ざされた中国への渡海を命を懸けて決行し中国密教を持ち帰りました。台密は、過酷な条件下で入唐を果たした円仁、円珍の努力によって比叡山にもたらされ、五大院安然(841-915)の研鑽によって完成されたと考えられています。

しかし、両名の入唐時期は唐代の後期にあたり中国密教の凋落期にありました。東密は唐代後期の密教を踏襲せず、台密は唐代後期の胎蔵系の密教学をそのまま持ち帰ったという根本的な相違点があると考えられます。これをもって空海の真言密教に対抗したことで、比叡山は密教と法華経の相克に苦悩することになります。

この争乱の延長戦上に、三門派(円仁系=理同事別説)の延暦寺と寺門派(円珍系=理同事勝説)の園城寺(通称名は三井寺)の分裂があり、園城寺は密教色を強め密教寺院を選択したのです。両派とも教相(理論)は同じであるが事相(実践論)は真言が優れているという結論を示していまが、最澄の円密一致観の縛りが乗り越えられないのだと考えられます。

これは、胎蔵系の泰斗である一行禅師が法華経の影響を受けていたという一点を根拠にしたものであろうと考えられます。 円珍系の園城寺の「理同事勝説」は「勝」の字を入れて密教は事相(実践行)が優れているという客観的な分り易さがありますが、円仁系の延暦寺の「理同事別説」は意図的に「別」の字を入れることで、曖昧の領域を残そうとしているのではないかとも考えられます。

ここには、開祖・最澄と比叡山の面子を護らなければならないとする最澄の仏教観の縛りが強く感じられます。門下の在り方としては、これはこれとして理解できないことではありませんが、この「理同」にも疑問があります。「理」を法華経と認識しているのであろうかという疑問です。安然が法華経は一乗教だから(華厳経と同じく)密教に含めるとする論を展開したように、天台は理同の内容を「法華経+密教(台密)」としているのではないかという疑いです。もしそうであれば、そもそもの比較の対象が曖昧になるので、「理」は最澄の円密一致説の「円」(法華経)が対象になっているという前提を動かしてはならないと考えられます。

東密と台密の相違点をまとめれば、東密は『金剛頂経』『大日経』を両部の大教とし理智不二の所依の根本経典とする。台密は両部経典に『蘇悉地経』を加えて三部とする。蘇悉地経は、玄昉、最澄、空海が請来し、円仁、円珍が善無為の解釈を持ち帰っていますが、東密では雑密の儀軌書という位置づけであり、空海はこれを三学録の律部に入れています。

『蘇悉地経』は空海も恵果の下で学び雑密の儀軌書という理解をしていたと考えられますが、両部の大経を統合させる位置づけを与えるという認識は空海が在唐時には中国・青龍寺にはなかったものであったと考えられます。

天台の中国密教導入の努力が順調に報われたものであったとは考えられません。845年の唐・武宗が断行した「会昌の法難(毀仏寺勒僧尼還俗制)」によって、寺院4,600所が廃止され、26万余の僧尼が還俗されたという中国仏教史に大問題が発生していたのです。中国思想を重要視した武宗が外来の宗教が中国に根ずくことを嫌った政策でしたが、特に長安と洛陽の寺院が壊滅的な損害を被ったのです。

中国密教の典籍は壊滅的な損害を被って失われ、膨大な不空の翻訳書籍(その主要なものは空海の請来目録に多数の記載がある)を除いては僅かに儀軌類が残された程度だったといわれています。これにより、思想的な内容を吟味できるに足る資料が乏しくなったことで、文献的な検証がほとんど不可能な状態になったと考えられます。

円仁はこの法難に身を以って遭遇したことで行動の制限等を受けていますが、中国の密教教理の検証と解明に大きな妨げになった事実は見逃せません。 インド・チベット後期密教(8世紀以降に成立したチベット密教)の分類では、『蘇悉地経』は6世紀以前に成立した前期密教の雑密に分類される第一段階の所作タントラに位置付けられています。

台密は、この『蘇悉地経』を両部の大教を総括する両部不二の秘教としますが、7世紀に成立した中期密教(密教独自の理論化が進んだ組織的・体系的な密教=純密)の主要経典である『大日経』は第二段階の行タントラ、『金剛頂経』は第三段階の瑜伽タントラに位置付けられています。密教の主要経典である両部の大経を初期密教(雑密)の『蘇悉地経』に総括させることに必然性があるとも考えられず違和感があります。

円仁の入唐時期の中国密教は統一的な密教体系が未完成であった時期に当たるところから、『蘇悉地経』が仏部・蓮華部・金剛部の三部を説き悉地(成就)の内容を整理していることを重要視したものと考えられますが、『蘇悉地経』の本分は儀軌書であり、密教体系を示す教義書(論書)ではありません。『大日経』に近い内容をもっていることから『大日経』の一つの特殊形ほどの意味しかないと考えられます。

なにゆえか、恵果の滅後の弟子以降に生まれた『蘇悉地経』の評価を円仁が持ち帰ったのであろうと考えられます。これについて、東密から不必要とする台密批判がありますが、所作タントラの密教儀礼書である『蘇悉地経』に、「両部の大経」を総括させることは如何なものであろうかと考えられます。

東密は釈迦の所説(報身と応身の説法)を顕教、大日如来(法身説法)の所説を密教としますが、台密は顕密二教ともに釈迦の所説とします。台密は二教の相違は教主の相違ではなく、教理の浅深によるものだとしています。東密は顕劣勝密の立場で『法華経』は両部大経に劣るとし、台密は法華経と両部大経は同値とみるのですが、教理は同じ(円密一致説)であるが事相(実践)に違いがあると前述のように認めています。

なお、日本密教は純粋密教(純密)を本旨とすることから、後期密教(チベット密教)の無上瑜伽タントラ系を排除してきました。無上瑜伽タントラは密教の最終形として現れた教えですが、その中に性的儀礼が含まれることからこれを左道密教と位置付けて意図的に排除してきたものと考えられます。

鎌倉時代に無上瑜伽タントラの影響を受けた東密系の「立川流真言宗」、立川流に刺激を受け比叡山で発生した台密の「玄旨帰命壇」が発生し、皇族貴族から武士、庶民を含む人々の帰依を受けて江戸時代まで続いていましたが、いずれも焚書と弾劾を受けて江戸時代に断絶しました。日本に後期密教が根付かなかった理由です。

なお、後期密教に表われる性的儀礼は、無上瑜伽タントラ系の父母タントラに説かれる密教の観想上の通過儀礼の一種であり、本来は瞑想の中で諸仏諸菩薩を生む過程をリアルに観想する手法です。密教経典は教理と実践方法の教えを具体的に示すことからタントラといい、顕教経典は教え(教理)を示すものであることからスートラといいます。詳細は「(28)後期密教の成立(チベット密教)」を参照願います。

宇宙の本体観(本尊観)は台密と東密とでは異なります。台密は「阿字体大説」であり、東密は「六大体大説」です。天台宗(台密)では、三諦円融の妙理、一念三千の至極を阿字体大説によって説明します。『大日経疏』には、「阿字は一切語言の根本にして衆字の母なり。一切法教の本源なり」「阿字本不生の理を悟るは如実知自心の義にして、一切智々なり」とありますが、阿字本不生とは諸法の本来不生不滅、本有常住の義をいいます。

密教では阿字は一切の言説・音声の根本であるばかりでなく一切の法教の根本であるとみます。台密が依書とする『大日経義釈』には、「阿字に空・有・不生の三義あり」と説かれ、この三義は一空一切空、一仮一切仮、一中一切中の円融三諦であるとして阿字体大を説き、空の義を釈して阿字不変の理、有の義を釈して阿字隨縁の相、不生の義を釈して阿字隨縁一体不二とする教理を立てます。

台密では、この三義三諦は宇宙の実体・実相であり、その妙体は胎蔵曼荼羅の理法身・大日如来であるとし、これを悟った智は金剛界曼荼羅の智法身・大日如来、この理智二法身が互いに円融無碍した法身が両部不二の大日如来であるとする仏身観を立てるのです。

阿字は十界三千の諸法の本体であり、阿字の体は大であるとすることが台密の阿字体大説の所論です。 空海は、字母表に「凡そ最初に口を開く音、皆阿の字あり、若し阿の字を離んぬれば則ち一切の言説なし。故に衆声の母となす。また衆字の根本となす」として「阿字は是れ一切法教の本なり。乃至内外の諸経皆この字より出生す」と説いています。阿字は宗教的に人格化された大日如来の象徴となり、大日如来の種字に比定されたのです。

東密の根本思想は阿字本不生です。本不生とは、本来的には不生不滅であり、宇宙の本源は消滅・断常・一異・去来を絶した常住寂然であり、この妙境を本不生・本不生際といいます。従来より諸説の解釈論がこの妙境は不可得としてきたことから阿字本不生不可得といわれています。

空海は、この阿字本不生不可得を『即身成仏義』において具体的に説明し宇宙の本源を明かしていますが、六大は宇宙森羅万象の本体・実相であるとみるのです。これを「六大体大説」(六大縁起説)といいます。 空海は、宇宙の本体は阿字であるといいます。空海は、六大(地水火風空と識)は単に現象的な元素でも因縁事象の要素でもなく、阿字本体の内在性である見るのです。六大と阿字は開合の不同でしかなく、開けば六大、合すれば阿字であり、六大は阿字の当体であり宇宙の本体であると見るのです。

空海は、大日如来は覚れる六大所成の人格であり、六大は色心二法であり理智の二徳であり両部の曼荼羅であるとしています。一塵一法・凡夫・仏・草木国土は全て六大所成であり阿字の当体であるから仏陀も阿字の当体であると見るのです。仏陀は覚れる六大所成であり、凡夫は迷える六大所成であるから、迷悟の差はなんであろうか。「迷悟は我に在り、信修すれば即ち至る」と空海は説きます。覚れば即ち大日の当体(即身成仏)なのです。

『大日経』の「住心品」には「如実知自心」が成仏の秘訣であることを示し衆生の心の実相を開示しています。「具縁品」には、如実知自心の実践修行が説かれています。真言密教(東密)では、三密瑜伽の双修を必修とし観法の実践なくして密教的世界はあり得ないとしています。

真言密教では、宗教の対象である本尊(教主)も阿字、教理の哲学的側面も阿字、その悟りの妙境も阿字本不生際、妙境に達する方法も阿字観とされます。真言密教では、阿字は事相(実践)上でも教相(理論)上でも重要なのです。 立宗の名目が広く知られている天台宗は、開祖・最澄が中国の天台智顗の天台宗の教理を比叡山に移植して立宗の旗幟を鮮明したという宗名の由来があることから、法華経と密教を同等とする最澄の一致説は、最澄滅後に宗内に数々の混乱を引き起こすものであったと考えられます。

一致説は、密教支持者と法華支持者の対立を円満に納得させる説であったとは考えられません。両勢力はしばしば密教法門の論争と宗内勢力の対立抗争を繰り返していることから、宗内では必ずしも円満に受け入れられた概念であったとは考えられないのです。なぜなら、法華経と密教の修行内容には明らかな違いがあり、特に三密加持や護摩祈祷、声明などの在り方に典型的にその違いが表れます。比叡山根本中堂の諸儀礼は密教儀礼が中心に行われていると考えられます。一致説は、観念的な旗幟ではなかろうかと考えられるのです。開祖最澄の権威で波風を抑え、意図的にバランスを取らなければ維持できなかったのではないかという疑いが消えないのです。決定的なことは、歴代の天台座主は密教に精通している人物が選任されてきた事実です。これは重要と考えられます。

天台宗は、本拠地の比叡山が京都の鬼門に位置することから都の守護を期待され、朝廷の近隣に蟠踞して既得権益を維持していたことから、朝廷や大貴族・権門勢力とのネゴシエーションが比較的に取りやすいポジションにありました。特に、五大院・安然の台密の完成によって東密に対する劣等感を払拭して自信を回復した朝廷外交には目を見張るものがありました。天台宗は、台密の効験によって朝廷・貴族などの顕紳から信頼を得て、多数の荘園を寄進されるなど多くの既得権益を享受して天下に足場を固め、東密の勢力(東寺・高野山)と競合する一時代を築きましたが、これらは密教(台密)の効験を朝廷、諸権門の大貴族などに期待されもてはやされたからであったと考えられます。

天台宗は、あらゆる大乗仏教を包摂できる密教の叡智を持ちながら、開祖・最澄の縛りを受け入れて密教と法華経の一致説を継承したことで、密教と法華経の相克関係を抱え込み、教義上の歪(ひずみ)を解決できませんでした。

台密は東密と異なり、円密戒禅の四宗兼学の天台教学を前提に成立した縛りを解き放つことができませんでした。法華経よりも格段に優れた経典である両部の大経を相手に、天台の根本経典は法華経である、法華経を以って一代の諸経を判ずる、という姿勢を取り続けなければならなかったジレンマは悲しすぎます。この中で諸宗兼修の精神が独り歩きしたのですから、異論、反論の調整が簡単にできるわけがありません。百花繚乱の矯正不能な新興宗教の温床が形成されたものと考えられます。不満を抱えて忍耐力を失った者がつぎつぎに比叡山と決別して下山し、巷間の民衆に自説を布教したものが鎌倉新仏教(祖師仏教)の祖師たちの実態と考えられます。

祖師たちの自説は、いずれも比叡山の伝統教学とは異質の教義内容を鮮明にした祖師仏教でした。祖師たちは比叡山の系譜から断絶した自説を布教したのだと考えられます。