序章2:台密(天台宗)と東密(真言宗)の違いを考える

2019.01.29  この文章は誤記を訂正し、語句の補足をしました。

鎌倉新仏教(祖師仏教)は、比叡山の諸宗兼修の向上心の中から芽吹きました。天台教学は、『中論』、『大智度論』による一心三観(一切の実体には存在が無い「空観」、それらは仮に現象しいる「仮観」だけで、本来は一つである「中観」)という止観道を宗旨とする『摩訶止観』の影響下にあります。止観は「止」と「観」という如実知見の瞑想法ですが、精神の集中によって心を安定させ、真実をありのままに観る知恵を獲得する瞑想法です。

天台の教理は、天台宗が極理とする「一念三千論」と「一心三観」、『摩訶止観』の「止」と「観」は矛盾のない論理的な整合性があると考えられています。「一念三千論」は心に極小から極大の相即した統一的宇宙観を諸法の実相として観想する天台の極理とされているものです。天台が極理とする一念三千論の出所は、『法華経』の「方便品」の十如是(「所謂諸法・如是相・如是性・如是體・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」)にあります。しかし、この十如是は鳩摩羅什・訳の『妙法蓮華経』にしか書かれていないことから、鳩摩羅什が訳出した法華経の原典がどのようなプロセスをたどって編纂された経典であったかが問題になるのですが、サンスクリット原典が存在しないことから確認できません。現存する他の法華経の内容と比較すれば、鳩摩羅什が翻訳した法華経は何度も再編集された経典ではなかったかという疑いがあり、結果論からいえば鳩摩羅什の意訳によるものであろうと考えられるのです。

法華経の漢訳は部分訳・異本を含め16種が伝わっていますが、サンスクリット原典の漢訳は「六訳三存三欠」といわれ、①『正法華経』10巻27品・竺法護・訳(286年)、②『妙法蓮華経』8巻28品・鳩摩羅什・訳(406年)、③『添品妙法蓮華経』7巻27品・闍那崛多と達磨笈多・共訳(601年)の3種が現存しています。鳩摩羅什・訳が人気を集めたのは流麗な文書で名訳であったからですが、中国天台宗が鳩摩羅什・訳を採用したこと最澄の比叡山にそのまま移植され根付いたことによって、日本仏教に多大な影響を及ぼしてきたのではないかと考えられます。

法華経はアジア各地に伝播しましたが、法華経を立宗の根本経典としたのは中国天台宗とそのコピーである日本の天台宗(比叡山)及び日蓮宗系のみです。アジア地域では法華経が思想として学ばれたのだと考えられます。なお、法華経の開経に『無量寿経』を、結経に『観普賢菩薩行法経』を位置付けて「法華三部経」とすることが天台宗と日蓮宗系の法華経観ですが、『無量寿経』と『観普賢菩薩行法経』は法華経を讃嘆するために中国で作られた偽経と考えられます。詳細は「(33)-1日蓮仏教の研究①(法華経を知る)」を参照願います。

「一心三観」は空・仮・中の三諦を観ずることで十界互具を導き出す観想です。『摩訶止観』は、三種止観(円頓・漸次・不定)と四種三昧(常行・常座・半行・非行)の円頓止観の解説書といわれるものです。これらの瞑想の仕方は天台宗の儀軌に基づく伝授がなければできないことですが、これらを同時に観想する瞑想法が円満に決定できる場合に得られる境地(智慧・悟り)はどのようなものであろうか?。瞑想内容が豊富すぎて瞑想の集中が散漫にならないのであろうか?という疑問が感じられます。瞑想は時間と空間を超越するので無用な心配であろうとも考えられますが、台密と東密の瞑想法があまりに違い過ぎることから、比叡山の瞑想法は摩訶止観のみで、密教の瞑想法が伝わらなかったのか?などという疑問が残ります。詳細は(18)の「天台宗の章」を参照して下さい。

最澄の立宗開創の基本的な立場は、円・密・戒・禅の兼修にあったと考えられています。この諸宗兼修には、長所と短所が同時に含まれています。実は、最澄には密教と天台法華との関係性について論理的に記述した著作が全くないのです。最澄の弟子たちは天台法華と密教との論理的な整合性を作り上げることに相当な努力をしなければならなかったと考えられます。どの経典を中核として諸教論を統括させるのかという中核の専門性を見失えば、統御できない百花繚乱のお花畑(雑多な説が芽吹き教理の統一性を失うこと)になってしまう危険性が潜在していると考えられるのです。

法華経は論理的に記述された経典ではありませんが、自意識の強い個性的な特色をもっています(序章5参照)。この上に、四宗(円・密・戒・禅)兼修をするのですから各人が各様に興味を持ったさまざまな教理を持ち出して衆論を形成する無秩序の場が形成される危険性を制御することは困難です(序章3参照)。また、密教については最澄の論理的な意思が見えないことから、最澄の意思を忖度するほかなく、各人が考える異論反論を制御できない無秩序な修道システムが形成されてしまう危険性が考えられるのです。事実、不満を持った鎌倉新仏教の祖師となる僧たちが本山から勝手に下山して、厳格であるべき宗論と異なる(各人の胸に芽生えた)異説を布教したのは比叡山で学んだ僧だけでした(序章5参照)。

比叡山に、円仁が中国・五台山竹林寺から持ち帰った念仏は、天台・摩訶止観の四種三昧に説かれた常行三昧の「観想念仏行」(念仏禅)という瞑想法でした。円仁は比叡山に常行三昧堂を造り修行道場としたのですが、しかし、源信⇒法然⇒親鸞の流れの中で、善導、道綽の念仏観が移植されて法然の専修念仏、親鸞の称名念仏が生まれて育て上げられる流れが発生したのです。

専修念仏と称名念仏の萌芽は、比叡山で突然変異を起こして生まれたものでした。 専修念仏と称名念仏は、比叡山の中から最澄・円仁の四種三昧を感得するための常行三昧の修行を否定して出てきた突然変異の新種の易行念仏であり、これは明らかに最澄が定めた比叡山の本旨とは考えられません。

比叡山の四宗(円・密・戒・禅)兼修の修道システムは、最澄の理想を見失ってお花畑に変貌していたと考えられます。どうみても、自由な学風?とは考えられず、比叡山は仏教の総合アカデミー、諸宗の母山といえるものではなく、当時の比叡山に最澄の法灯を護る秩序が保たれていたとは考えられないのです。

念仏の声は高野山にも響き渡りました。高野山を慕って周辺の谷間に住み着いた人々や、高野山の衣の下に庇護を求めて住ついた人々が持ち込んだのです。この人々の中には高野山の下役を務めたり、勧進聖(高野聖)となって全国を行脚して浄財を募った人々が出ましたが、高野山の作務や庶務ばかりでなく財務まで貢献したことから一大勢力を形成したのです。

平安末期の高野山には、學侶、行人、聖の三階級が発生しました。學侶とは学問・法会を主体とする僧侶です。行人とは諸堂の建立、寺領・荘園の管理をする僧をいいます。聖(高野聖)は行人から派生した人や他宗の寺院、霊場から高野山を慕って集まってきた人たちで構成されていましたが、念仏と勧進を行い、高野山への納骨を勧め、高野山の経済を底辺で支えた人たちです。行人、聖たちは厳しい山岳修行を行い、雑密(密教の断片、呪法)を行う(また、法華経と禅、陰陽道を取り入れ)修験道を行っていました。高野聖集団は11世紀初頭に成立したと考えられます。その活動範囲は一般庶民にとどまらず、貴族や皇族にまで及び全国的に知らしめる存在でした。全国で呪術や宗教的なパフオーマンスを行い、募財を募り高野山に納めましたがその一部を自らの収入としていました。

行人の原型は、空海が高野山を真言宗の根本道場に定めた以前から高野山周辺に住んでいた「山人」、狩人と呼ばれた原始修験者たちでした。空海は彼らが祭っていた祖先の「狩場明神」をそのまま融和と共生のシンボルとして高野山に祀りました。彼らは、高野山の堂塔伽藍の建立を率先して手助けした人々でした。修験道の立場からみれば、密教を違和感なく理解できたことから快く受け入れることができたと考えられます。高野山の神仏混交の祭司形態のあり方を歓迎して受け入れたのです。ちなみに、明治以前は神仏混淆の祭司形態は、日本人が違和感をもたない日本独特の祭司のあり方でした。このあり方は、鎌倉新仏教とりわけ日蓮宗系の宗派を除く伝統的な宗派が日本民族が持つ独特な宗教観に寄り添い千年以上にわたり営んできた祭司形態の影響と考えられます。

弘法大師の入定留身説は、968年(空海滅後133年目)に『金剛峯寺建立修行縁起』が著され「弘法大師は今も生きていて我々を救ってくださっている(この文言を考えた人は覚鑁上人)」という信仰によって流布されましたが、念仏別所の高野聖たちが勧進の材料として全国に広めたと考えられます。しかし、彼らは高野山の山内に別所という庵を多数作り真言密教と異なる浄土信仰、念仏信仰をしていたことから學侶方から疎まれる存在となっていくのです。聖は妻帯し半僧半俗で呪法を行い高野山の台所を支える階級であったことから蔑まされました。江戸時代には、家康が先代(時宗の聖)の縁から高野山蓮花院の念仏別所の勧進に応じ、蓮花院に大徳院という院号を与え壇縁関係を結んだことから時宗系が勢力を増したのです。高野聖たちの念仏は1274年に時宗の一遍が高野山に来山したことを契機としてすべて時宗化していました。しかし、その信仰のあり方が山内の怒りをかい、真言宗の行人方に転派をさせられたことから、高野聖は結束力が弱まっていきます。徳川時代になると、身分制度が固められ、遊芸者や勧進僧など廻国者の取り締まりが厳しくなり、全国を廻っていた聖たちは、その土地の村落にあった小堂や小庵に定着していき、今日の真言宗の地方寺院が誕生して、初めて地方で先祖供養や祈祷ができるようになったのです。

明治維新政府は、仏教が政治に深く関与した弊害を改め、また天皇の権威を高める国家神道の育成を意図して神仏分離令を施行しましたが、一部に廃仏毀釈が起こり仏教界は大打撃を受けました。このとき、古来の山岳信仰と仏教、陰陽道を習合していた修験道も禁止処分になりました。地方の修験道の拠点は、真言宗の地方寺院へ看板の付け替えをしたものと考えられます。1868年(明治元年)には學侶、行人、聖の三派は廃止されました。高野山は自治制を失い寺領は国に返還されました。女人禁制が政府の命令で徐々に解かれましたが、高野山に存在を失った高野聖たちは地方寺院に入り込み、看板の付け替えをして活路を開いていったと考えられます。

「行人方」は、諸堂の建造と管理、所領・荘園の管理を通じて徐々に既得権益を握り、宗務に介入する力を持って学侶方の領域を徐々に侵食し数百年間も勢力を維持し続けたたことから、高野山の重大な悩ましい問題になったのです。高野山がこの問題を解決できたのは、室町時代の高野山教学の大成者である宝性院宥快(1345-1416・宝門派/藤原冬嗣の子孫)と無量寿院長覚(1340-1416・寿門派)の「応永大成」といわれる最盛期を待たねばなりませんでした。密教教学の確立によって、高野山の主導権を學侶方が名実ともに掌握する機運が醸成されていったのです。

密教と古来の修験道とは相互に関係性が見えます。平安末頃には羽黒山や九州の英彦山、富士山、白山など各地の霊山が修行道場として知られるようになっていましたが、とりわけ抜きんでいた存在が熊野です。吉野、大峯、熊野に至る大峯山が修験の根本道場として仰がれていました。比叡山・天台宗の修験道本山派(現・園城寺派)と真言宗系の修験道当山派(醍醐寺派)の二派が大峯山での修験組織を構成していました。高野山金剛峯寺が1326年に大峯先達に加わり、高野山麓の天野社(丹生津姫神社)から葛城山中に入り、吉野、大峯、熊野の山々を巡り、葛城の峯々にある四十九院を巡礼し修行する「入峯(にゅうぶ)」を行っていました。しかし、1336年を最後に金剛峯寺の僧侶(學侶)の入峯は行われなくなり、行人たちが独自に続けていました。比叡山には千日回峰行(修験)が現在まで伝承されています。

天台密教は、密教の教理解釈の相違が埋まらず武力衝突を繰り返し、山門派(比叡山ー円仁系)と寺門派(園城寺ー円珍系)に分裂しました。真言密教(東密)は教義の解釈の相違により高野山から覚鑁(1095-1143)ー頼瑜(1226-1304)の系譜が根来を根拠地とする「新義派」として独立しました。

根来派の離脱の原因は、鳥羽院の庇護を受けた覚鑁が1132年に高野山に大伝法院と密厳院を落成させ、院宣により金剛峯寺の座主についたことから、金剛峯寺、東寺、醍醐寺の反発を招くことになります。覚鑁は座主を引退するまでに追い込まれたのですが収まらず、1140年に金剛峯寺方が武力を行使して襲撃し、大伝法院方の80余坊を破壊、600余僧を追放する事件が発生しました。覚鑁は根来(葛城修験系の地)に難を避けその地に大伝法院方を移したのですが、覚鑁の滅後、高野山と和議が成立し大伝法院方が高野山に戻りました。しかし金剛峯寺方と大伝法院方の対立と騒擾が頻発して終息せず融和が不可能なことから、1288年に学頭の頼瑜が大伝法院方を再び根来に移転させたことにより根来に分派が固定化しました。ここに根来寺・大伝法院を本拠とする新義派の基盤が成立したのです。空海滅後450年前後のことでした。根来寺は、南北朝以降に醍醐寺の末寺となり、独自の発展を遂げる契機にしましたが、15~16世紀には高野山に対抗できる巨大な勢力に拡大・発展したのです。

根来寺は、戦国時代末期に豊臣秀吉の命令に従わず1585年に焼き討ちを受けて壊滅する悲運にあいました。一時は高野山に難を逃れていましたが、居心地は良くなかったと思います。努力の甲斐があって、大和大納言・豊臣秀長(秀吉の実弟)の庇護を受けて豊山派(奈良・総本山長谷寺、派祖は専誉)が成立し、また、徳川家康の庇護を受けた智山派(京都・総本山智積院、派祖は根来の元大伝法院学頭であった玄宥)が成立しました。なお、根来寺は慶長年間に浅野氏によって同所(現・和歌山県岩出市)に新義真言宗総本山根来寺として再興されています。

1646年の調査では、高野山の全僧坊数は1865ですが、内訳は學侶方210、行人方1440、聖方120です。行人方の坊が圧倒的に多いです。しかし、1692年の「元禄の聖断」と呼ばれる裁判により、幕命に従わない行人627人が流刑となり、280の行人方の坊は寺院法度により學侶方に組み込まれていきました。

平安末期から有力武士が武力を背景に台頭し、天皇・朝廷・大貴族・大寺社など既得権益を享受してきた既存勢力が衰退期に入りました。鎌倉幕府が成立し武家政権が誕生すると、旧勢力の繁栄や財政を支えてきた各地の荘園が武士に簒奪され、経済的な窮乏に陥ったのです。比叡山、高野山をはじめ有力寺院も次々に荘園を簒奪されたことで財政基盤を喪失して衰退期を迎えました。朝廷の秩序維持の機能が喪失して、権威のある後ろ盾が期待できない状態に置かれたのです。比叡山は衰退期にあり、この中から末法思想が噴出して各地に蔓延する時代の背景と活躍舞台とが出揃ったと考えられます。

衰退期の比叡山が仏教アカデミーや各宗の母山である要素は考えられません。新興宗教の祖師達の登場は、比叡山が衰退期にあった証拠と考えられます。禅宗は、新たに勃興した鎌倉幕府・守護・地頭の有力武士層の支持を受けて繁栄を享受する僥倖に恵まれました。視点を変えれば、禅宗は中国文化を背景にする独特な宗教観をタイムリーに提供できる千載一遇のチャンスに恵まれたと考えられます。禅宗は、武士の胸裏に鬱積をしていたであろう武力による政権転覆の負い目を解放する新たな精神文化を提供する幸運を掴むことができたのです。律令体制が崩壊し、斜陽を迎えた京都の貴族文化に対抗できる禅文化を新たな権力者・武士に受け入れさせる幸運を掴んだのです。顕密仏教(奈良・平安仏教)の衰退と禅宗の勃興は、権力構造の変化に伴う表裏一体の出来事であったと考えられます。

最澄の仏教観は、法華円教と密教を同等に評価する立場でした。しかし、最澄の弱点は、大乗仏教の到達点に体系的な思想をもって現れた密教の修行経験がないこと、その本質を体系的に学んでいなかったことから、空海に弟子入りして師事せざるを得なかったことにありました。最澄の入唐修学の目的は天台山に於いて天台智顗の法統を受法することでした。しかし、帰朝後の最澄に天皇、藤原氏、朝廷が求めたのは最新の密教でした。桓武天皇は皇位を簒奪するために陥れて死に追いやった早良親王の怨霊を恐れて聖体不余(ノイローゼ)に陥っていたのです。桓武は怨霊が跋扈する都を打ち捨てて逃れる遷都を繰り返しましたが、その効果が得られず怨霊に悩まされ続けたことで切実な怨霊退散を願っていたのです。最澄はこの要望に応えることができないジレンマに陥ったと考えられます。(20-3空海の「入唐求法」とは、を参照)

最澄は、空海が密教の最新性や重要性に気付いて密教を求めて入唐修学を志した真意を知らなかったのです。 最澄は入唐以前に西大寺の得清が請来した『大日経疏』(あるいは『義釈』か)を書写して閲覧していた形跡が伝わっていることから、最澄は入唐以前に密教に多大の関心を寄せていたことが考えらえます。しかし、最澄の重大関心事は天台智顗の法華三大部(『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』)の請来であり、密教の奥義を求めて入唐したわけではありませんでした。最澄が帰国途中に越州・竜興寺の順曉から一行系の密教を受法したことを奇貨として、天台密教の決定的な機縁にしたのではないかと考えられるのです。

最澄の密教形成の決定的な機縁は、帰国間際に順暁がから学んだ一行の『大日経義釈』による円密一致思想の影響であると考えられます。 しかも、最澄が密教の最新性と重要性に気付いたのは、天台山を出発して帰国途上の紹興で帰路の遣唐使節団の船を待っている1ヶ月の間でした。越州・竜興寺に順暁が存在していることを知り、順暁から密教を受法することを思いついて懇請し運よく胎蔵系の密教の受法を許されたのですが、最澄は密教受法の為の基本的な密教修行を身に付けないままに受法したと考えられます。遣唐使に随行した最澄の国家派遣の環学生としてのステータスが認められて特別に許可されたのではないかと考えられます。

しかし、最澄が受法した密教は体系的な密教ではありませんでした。最澄の受法は、帰国船の待ち時間が長いからついでに密教も持ち帰ろう、このような動機であったと考えられます。最澄は帰国直後に、怨霊に悩まされ続けた桓武天皇から最新の仏教である密教の加持祈祷(護摩)を期待され、朝廷の期待と要望を聞かされて密教の最新性と重要性に気付いたのではないかと考えられるのです。最澄は困惑し、期待に応えられないジレンマに陥ったと考えられます。

そこで最澄は空海に書簡を送って密教の経倫儀軌を借覧して密教の学修に取り組む決意した結果、プライドを捨てて空海に弟子入りしたのではないかと考えられるのです。詳細は「20-1空海と最澄ーその履歴」を参照して下さい。

最澄は、比叡山の僧の修行を遮那(密教)と止観(法華)の二業と定めたのですが、最澄亡き後の比叡山では東密に対する劣等感から異常な関心が高まったと考えられます。台密の後継者たちが胸中に抱いた本来的な「あるべき論」は、東密(空海密教)に見劣りしている台密の有り様を本質的に変革することであり、その最大の懸案は中国密教を請来して東密に対抗できる勢力を育成すること、東密に対する劣等感を払拭することにあったと考えられます。

ゆえに、台密の再構築によって東密と比肩できる天台宗教団の再生をすることが急務の課題になったものと考えられ、この流れの中に傑出した人材となる円仁、円珍、安然などが輩出されたと考えられます。なお、台密は最澄が創始した密教ではなく、事実上の台密の創始者は円仁です。円仁・円珍が台密を順次に比叡山に移植して育成し、空海の東密に対抗心を燃やしたのです。

最澄が求めることができなかった体系的な密教が、数々の艱難辛苦を乗り越えて、密教授法の留学に旅たった向上心のある僧によって、ついに比叡山にもたらされました。最澄の意思を受け継いだ第3代座主円仁(慈覚大師)、第5代座主円珍(智証大師)が比叡山に請来したのです。

天台密教(台密)の教理論は、空海の相弟子であった青龍寺の義操の弟子及びその系譜につながる人物から授法されたものでした。 円仁は、元政から金剛界を、義真から胎蔵界と蘇悉地を、法全から胎蔵界を授法しました。円仁の教学上の特色は、密教経典の解釈を天台の教理との調和を図りながら新たな顕密対弁思想を展開したことにあります。

円珍は、法全から金剛界、胎蔵界、蘇悉地(雑密に分類された儀軌書)の三部を伝授され、大日如来(毘慮遮那仏)と釈迦の関係性が本来一仏であり二体あることはないという伝授(事実関係は不明、この説は台密の説のみにある)を受けています。円珍は、空海の十住心思想を天台の評価を変えたいとする動機によって批判したと考えられますが、『大日経』の三摩地門は法華も及ばない最秘甚深の教えであるとして理劣事勝の思想に至っています。

安然は、円仁の教学を基盤として密教の天台化を徹底しましたが、法華経の本仏である釈迦如来と密教の本仏である大日如来(華厳経の毘盧遮那仏と同体)の一致を立てて円密一致説を受け継ぎながら、密教を理密教と事理倶密教に区分して真言宗の優越性を認める立場であったと考えられます。

空海の真言密教(東密)と比叡山の台密の法流は、胎蔵界と金剛界の密教思想を継承した中国・青竜寺の密教の大家・恵果阿闍梨(付法の第7世)から発生したという共通の淵源を持っていますが、伝法の阿闍梨の法流は異なります。空海は恵果から師弟の深い因縁を特に見込まれて両部の伝法灌頂を授与されて付法の第8世となり、真言密教の宗租となりましたが、台密の付法は、恵果の弟子・義操の法流にあります。

円仁が義真から胎蔵界と蘇悉地の両法を授法し、円仁と円珍が法全から胎蔵界、金剛界の両部の大法を授法しています。しかし、密教の相伝は厳粛なものと考えられます。付法の第6世不空三蔵が数万の弟子を持ちながら恵果を見込んで密教の法の伝授(寫瓶)を許したように、恵果阿闍梨が空海の真摯な求道姿勢やたぐいまれな素質と能力を見込んで付法を即決した眼力にはいささかも誤りはないと考えられます。密教の付法の正嫡・弘法大師空海に及ぶ伝法者の存在は考えられないのです。詳細は「(20)-1空海と最澄ーその履歴ー」「(20)-3空海の入唐求法とは」を参照して下さい。

弘法大師空海は、密教は大乗仏教の到達点に現れた最終形と考えていますが、大日如来(法身)と釈迦(応身)は同一ではありえないとして、真言密教は大日如来の法身説法であるとすることを本旨としています。大日如来の法身説法(その内容)が釈迦を悟りに導いた教説であると考えれば、その関係性が理解できるのではないかと考えられます。

最澄は自ら密教の著作をしなかったことから、最澄の没後の弟子たちは空海から密教を学ばざるをえませんでしたが、最澄の円密一致観が弟子たちの法華経観と密教観を縛りつ続けたと考えられます。

最澄の『依憑天台集』(813年)には、一行の思想が天台の思想に基ずくものであるという理解を示しています。最澄の密教の不完全性が比叡山の密教観の捉え方に大きな相違点をもたらしたものと考えられます。大乗仏教の到達点に開花した先進思想を持つ密教を天台教学の枠内(法華経との一致説)に位置付けて理解しなければならない立場を取り続けなければならなかったことが台密の教理的な限界であると考えられます。詳細は、「(30)顕教と密教は何が違うか」を参照願います。

東密から台密に対して、7つの根本的な相違点が指摘されています。「法身(大日如来と釈迦の異同)の問題」「顕教と密教の規定の問題」「純密と雑密の区別」などがこれです。 空海の真言密教と比叡山の台密の相違点は、密教授法者の資質と導入プロセスの違いにあると考えられます。

南都六宗や天台宗の宗学や教学は、すでに中国において体系的に成立し、それぞれに権威のある宗論書が存在していたので、留学僧はこれを学び日本にそのまま忠実に移植することが本命でした。ところが、密教はこのような事情とは異なっていました。密教は中国においても胎蔵界系と金剛界系は別々の系統にあり、渾然一体となって融合した密教の完成形である統一的な仏身観(金剛界・胎蔵界の両部不二思想=法身・大日如来を根本の中尊とする諸仏・諸菩薩・明王・諸尊等の役割を階層的に位置付ける両界マンダラ思想)を示すレベルには達していませんでした。

真言密教の統一的仏身観は、両系統を正統な伝法灌頂によって授法した空海の独自の思索による「智」と「実践」によって普遍性のある思想と教義体系として、日本において再構築されたものでした。空海の真言密教の理論構成は、中国密教を導入したからといって簡単に到達できるレベルではないと考えられるのです。詳細は「(30)顕教と密教は何が違うか」を参照して下さい。

真言密教は、空海の叡智と大乗仏教の精神が見事に包摂された独創性がある密教であり、台密とは成立過程の事情が大きく異なるものです。いうなれば、東密と台密は青竜寺の恵果阿闍梨の系譜にありますが、密教の考え方、思想の選び方や育て方が異なるのです。それぞれが独自性を主張する宗派を形成して仏教界に存在感を示し、偉大な学僧の下で研究を重ねてきていることから、両密教の性格や考え方の随所に違いがでることは当然のことと考えられます。これらは密教が持つ思想の多様性の一つの表れともいえるものです。

金剛界と胎蔵界の正当な継承者である恵果阿闍梨から直接に金胎両部の伝法灌頂を授法した弟子は恵応・恵操・惟尚・恵日・空海・義満・義明・義照・義操・義愍などであり、金剛界は義政・義一・呉殷・義智・義円など、また胎蔵界は悟真・義澄・法潤・などがいます。

このなかでも空海と義操が恵果の法流の正嫡であり、空海は恵果の教導を受けて帰国して真言宗の開祖となり、中国人の義操は青龍寺の法統を嗣ぎました。 密教の阿闍梨は、菩提心を発して智慧と慈悲を体現し、般若波羅蜜の行に勝れ、様々な才能に恵まれて真言の真実義に達している密教の師です。その弟子には、伝法と血縁の二種の弟子があり、伝法の弟子とは密教の法を継承できる素質と器を持ち合せた人物かどうかを師の阿闍梨から見極められた弟子をいいます。血縁の弟子は師弟関係にありますが伝法の弟子のような特別な資格要件が必要とされていない弟子をいいます。正嫡の伝法の弟子とは、師の阿闍梨の法統を正当に継承する正統性を持つ血脈相承者と考えられます。詳細は「(20)-3空海の入唐求法とは」を参照願います。

天台の密教の系譜も青龍寺から派生したものでしたが、台密は円密戒禅の四宗兼学の天台教学の影響を強く受けて成立したものであり、その本質は円密一致の天台教学の枠内での密教理解と考えられます。台密の円仁・円珍などに金剛界・胎蔵界・蘇悉地法を伝授した上記の義真・法潤・法全・元政などは義操の結縁の弟子の系譜に連なる人物でした。

東密と台密の相承を図示すれば下記のようになります。

<東密の相承>八祖相承

「付法の八祖」①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥不空⑦恵果⑧空海

「伝持の八祖」①龍猛②龍智③金剛智④不空⑤善無畏⑥一行⑦恵果⑧空海

<台密の相承>円仁の台密三部相承説

       (最澄に相承なし、台密の事実上の相承の初代は円仁)

「胎蔵界」 ①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥善無畏⑦不空⑧一行、 

      ⑨恵果⑩恵則⑪義操⑫義真⑬法全⑭円仁

「金剛界」 ①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥不空⑦善無畏⑧一行

      ⑨恵朗⑩恵果⑪恵則⑫義操⑬義真⑭全雅⑮円仁

「蘇悉地」 ①大日如来②金剛薩埵③龍猛④龍智⑤金剛智⑥善無畏⑦一行⑧恵果

      ⑨恵則⑩義操⑪義真⑫円仁

なお、台密には、円仁説と異なる説もありますが。ここでは触れません。

真言密教は、中国で完成された単なる輸入仏教ではなく、恵果阿闍梨の正当な密教の継承者である空海が「智」と「実践」によって、密教思想を再構築して完成させた密教でした。台密の成立過程とは生まれも育ちも異なるものです。台密は唐代の天台教学の影響下で成立した密教ですが次のような経緯を持っていると考えられています。

善無畏(637-735)に師事した一行禅師(683-727、禅・律・天台・密教・天文学・暦学・道教の大家・玄宗皇帝の国師)が師の口述を筆記して『大日経疏』20巻に撰しましたが不完全の思いが残り、その内容の見直しと推敲を一行と共に善無畏に師事した智儼(602-668、訳経僧・中国華厳宗の第二祖・華厳教学の創始者)に託しましたが、善無畏が入寂したことで果たせませんでした。

しかし、この改定は同じく善無畏の弟子であった温古(生没不詳)と智儼(生没不詳)に引き継がれ天台教学の教理に準拠する校訂が行われた『大日経義釈』14巻にまとめられて完成したという経緯がありました。台密は、これに寄り添う密教であり、台密の性格はこの中で決定されたものと考えられます。なお、善無畏は真言宗の伝持の第5祖、一行は伝持の第6祖とされていますが、付法の祖の系譜からは除外されています。両名が血脈の付法の祖とされない理由はこのような経緯にあると考えられます。

善無畏(637-735)について若干の補足をします。善無畏はインド人の仏教僧です。中国(唐)に密教を伝える為に渡唐してきた高名な密教僧です。胎蔵マンダラの構成と作図などで密教界に多大な影響を与えました。胎蔵曼荼羅には、『大日経』の「住心品」の「三句思想」の解釈の相違によって①善無畏系の曼荼羅と②非善無畏系(ブッダグフヤ系。8世紀後半に活躍したインド密教僧)の二種の曼荼羅が存在します。東密は空海がブッダグフヤ系(修行して悟りに向かう因位の立場=『大日経』の「具縁品」の記述に忠実にしたがって描かれた曼荼羅)の「原図曼荼羅」を請来したのですが、台密は円珍が善無畏系(悟りを得て衆生の救済に向かう果位の立場)の「山図曼荼羅」を請来したという違いがあり、この二種の曼荼羅の各区画の配置に相違点があるのです。

善無畏は、長安の西明寺に滞在してインド密教の翻訳を行いましたが、若き頃の空海がある僧?から伝授を受けた求聞持法(正式名称は『虚空蔵菩薩能満所願最勝心陀羅尼求聞持法』であり奈良古密教に分類されている)は、善無畏の訳出であったと考えられています。当時、善無畏が滞在していた西明寺には遣唐使節に同行した留学僧・道慈(生年不詳-744、三論宗・大安寺の僧・額田氏)がいましたが、善無畏の求聞持法の訳出が道慈の718年(養老2)の帰朝の前年であったことから、求聞持法は道慈によって請来されたと考える説があります。

道慈は留学僧として唐の僧侶の受戒制度を目の当たりにし、日本の仏教界には僧侶の受戒(僧の資格)の制度が未整備であることを痛感して批判し、早期に唐から戒師を招来して僧の受戒制度(その結果が鑑真の招来)を整えることを上訴した僧です。求聞持法は、山林や海浜を修行の場とする行法を説き、山林修行僧の中で次第に重要な役割を果すことになったのです。

最澄の門下は、空海の法流に対抗心を持って遣唐使廃止後の閉ざされた中国への渡海を命を懸けて決行し中国密教を持ち帰りました。台密は、過酷な条件下で入唐を果たした円仁、円珍の努力によって比叡山にもたらされ、五大院安然(841-915)の研鑽によって完成されたと考えられています。

しかし、両名の入唐時期は唐代の後期にあたり中国密教の凋落期にありました。東密は唐代後期の密教を踏襲せず、台密は唐代後期の胎蔵系の密教学をそのまま持ち帰ったという根本的な相違点があると考えられます。これをもって空海の真言密教に対抗したことで、比叡山は密教と法華経の相克に苦悩することになります。

この東密と台蜜の教理の違いによる優劣争いほか、比叡山には密教の評価のあり方の違いが表面化していたことから、三門派(円仁系=理同事別説)の延暦寺と寺門派(円珍系=理同事勝説)の園城寺(通称名は三井寺)の分裂が武力抗争にまで発展しました。園城寺は密教色(密教>法華経)を強め密教寺院の立場としての旗幟を鮮明に、延暦寺は最澄の円密一致観に寄り添いこれと異なる評価を避けたのです。教理の優劣判断ではなく、宗祖に寄り添う政治判断に縛られたと思うのです。円珍は、事相(実践論)は真言が優れているという結論を示したのですが、円仁は最澄の評価を乗り越えられなかったのだと考えられます。

最澄の円密観は、胎蔵系の泰斗である一行禅師が法華経の影響を受けて書いた『大日経義釈』の影響を強く受けたものでした。 円珍系の園城寺の「理同事勝説」は「勝」の字を入れて密教は事相(実践行)が優れているという客観的な分り易さがありますが、円仁系の延暦寺の「理同事別説」は意図的に「別」の字を入れることで、曖昧の領域を残そうとしているのではないかとも考えられます。

ここには、開祖・最澄と比叡山の面子を護らなければならないとする最澄の仏教観の縛りが強く感じられます。門下の在り方としては、これはこれとして理解できないことではありませんが、この「理同」にも疑問があります。「理」を法華経と認識しているのであろうかという疑問です。安然が法華経は一乗教だから(華厳経と同じく)密教に含めるとする論を展開したように、天台は理同の内容を「法華経+密教(台密)」としているのではないかという疑いです。もしそうであれば、そもそもの比較の対象が曖昧になるので、「理」は最澄の円密一致説の「円」(法華経)が対象になっているという前提を動かしてはならないと考えられます。

東密と台密の相違点をまとめれば、東密は『金剛頂経』『大日経』を両部の大教とし理智不二の所依の根本経典とする。台密は両部経典に『蘇悉地経』を加えて三部とする。

蘇悉地経は、玄昉(?-746、法相宗の入唐僧、阿刀氏)、最澄、空海が請来し、円仁、円珍が善無畏の解釈を持ち帰っています。空海は恵果の下で学び雑密の儀軌書という理解をしていたと考えられますが、両部の大経を統合させる位置づけを与えるという認識は空海が在唐時には中国・青龍寺にはなかったものであったと考えられます。東密では雑密の儀軌書という位置づけであり、空海はこれを三学録の律部に入れています。決定的ことは、蘇悉地経と大日経、金剛頂経の成立時期が、それぞれ100年前後もちがっていることにあります。台密説には経典の成立過程(それは密教教理の進化の歴史)の認識が欠落しているという決定的な欠点があります。しかし、大乗経典(密教経典を含む)の成立の歴史は近年の研究成果であることから無理もありません。

台密は、この『蘇悉地経』を両部の大教を総括する両部不二の秘教としていますが、6世紀以前に編纂された初期密教(雑密)に分類されている『蘇悉地経』に中期の主要経典を総括させることには違和感があります。7~8世紀に密教の叡智を結集して編纂されて成立した中期密教(密教独自の理論化が進んだ組織的・体系的な密教=純密)の主要経典である両部の大経(『大日経』と『金剛頂経』)を統括できる教理が、100~200年も前に編纂された初期密教(雑密)の『蘇悉地経』に書かれていたなどということは考えられません。なぜなら、蘇悉地経の統括説は、教理の進化や形成が、思索を重ねた思想の深化と発展の積み重ねによって達成されてきた歴史事実を無視するものだからです。

開元14(726年)に善無畏(637-735)が漢訳したとされる『蘇悉地経』三巻の主意は、「他の真言法を修して成就しないときに、この経の根本真言を兼ねて誦持せば、まさに速やかに成就すべし」という不思議な文言にあります。これらの文言は大日経や金剛頂経の存在を知り、理解し、その主意を知悉していなければ書けない文言であり、阿闍梨の特相、持誦法、供養法、灌頂法、三種護摩などの密教儀礼に詳しく、両部大経の内容に言及する摩訶不思議な文言が随所に見られます。これについては、開元13年(725年)に善無畏が漢訳したとされる大日経や、不空(705-774)が漢訳した金剛頂経(別名は『真実摂経』)の両部大経に詳しい善無畏若しくはその後継者が、蘇悉地経に両部大経を統括させる意図をもって加上し再編集した疑いが濃厚です。

なを、金剛頂経の正確な成立時期や場所は諸説あり未確定ですが7世紀後半の680-690頃に成立し、その完成本は8世紀末迄に出来上がったと考えられています。①サンスクリット原典、②チベット訳、③漢訳の三種があり、①と②が完成本です。ここで取り上げているのは漢訳本です。

『蘇悉地経』が加上と再編纂された背景は、6世紀後半~7世紀前半頃(初期密教の後半から中期密教が台頭する形成期)に三部経典(仏部、蓮華部、金剛部の三部に仕分けされた経典群)が仏(上)・蓮(中)・金(下)の上下関係と見做された状況を払拭し、仏部経典、蓮華部経典の効果には限界があるのではないか、金剛部経典の効果の見直しを図るべきではないか、などの疑問が発生したことが考えられます。修法の成就・不成就、行法の有効・無効の評価、行者の罪障の払拭などを問題視する新たな展開が発生したことが考えられるのです。この中に、金剛部の執金剛菩薩=金剛手菩薩などの威神力は、仏部、蓮華部の力に勝る効験があるとみる蘇悉地経の書き換えが行われたことが考えられます。

「此の『蘇悉地経』は、若し余の真言法を持誦して成就せざること有らば、正に此の経の根本真言を兼ね持せしむべし、当に速やかに成就すべし、三部の中に於いて此の経をば王と為す)」。「此の経は深妙成ること天中の天の如く、上中の上と言うこと有るは、若し此の経に依らば、一切の諸事、成就せざること無ければなり、この経は金剛の下部に属すと雖も、仏の教を奉ぜんが爲に、亦、能く上の二部の法を成就す」(新国訳大蔵経・密教部2)という文言が台密の研究者に台密三部説の根拠として継承されていると考えられますが、上記の如く、『蘇悉地経』の成立時にそのような情報を得ることは不可能です。蘇悉地経は、『大日経』、『金剛頂経』の存在を知ることができ、その詳細な情報を知悉し、理解できる者の手によって加上され書き換えられた経典であることは明白と考えられます。あたかも、法華経が般若経典群を超えたいとの強い動機によって再編纂された如く、大日経・金剛頂経の論理性が理解できた人物の手によって、両部大経を統括させる強い意図をもって蘇悉地経の加上編纂が行われたことが考えられるのです。

上記の「三部の中に於いて此の経をば王と為す」という文言が加上説を自白しています。蘇悉地経の編纂の頃、自明の理ながら『大日経』、『金剛頂経』は未だ存在せず、これを認識する「三部」の概念があったなど常識的にありえません。また、「三部を仏(仏部=上)・蓮(蓮華部=中)・金(金剛部=下)の概念も、蘇悉地経が編纂された頃には無かった概念と考えられます。ありない文言が書き込まれている蘇悉地経には、加上と書き換えが明らかに見えることから、加上説の妥当性は自明の理と考えます。

密教が形成され始めた時期は5~6世紀頃と考えられていますが、6世紀前半の梁の時代(502-557)に『牟梨曼荼羅呪経』が漢訳され、印契(ムドラー)が説かれ、真言(マントラ)と組み合わされて三尊形式(中尊と左右の脇士)から発展したマンダラの原初形態が現れたと考えられています。この形成期から発展途上に大日経が成立したと考えられています。大日経の成立地、年代の定説は所説あり確定に至っていませんが、7世紀中頃の成立とみる説が有力です。この大日経の出現によって、密教が大乗仏教の一翼を担う段階に達し、インド仏教史において独立した体系を確立したと考えられています。

紀元前後に興起した大乗仏教は、民衆教化の手段として古代インドより民間に継承されてきた呪術的要素を取り込む傾向性があり、初期密教経典には真言、陀羅尼の読誦による現世利益が説かれました。『陀羅尼集経』『一字仏頂輪王経』『蘇悉地経』などが大日経が成立する上での先駆経典に位置付けられている経典です。

ちなみに、大日経を解釈するために善無畏が著した注釈書が『大毘盧遮那成仏経疏』です。善無畏の講義録を一行が編集したものが『大日経疏』であり、真言密教(東密)が用いています。また、一行の編集を智儼と温古が(法華経に寄り添う解釈を施して)校訂した特徴をもつ『大日経義釈』が比叡山(台密)に移植されたことから、東密と台密の解釈の仕方が異なり、大日経の本文解釈にこの違いが決定的に現れるのです。

6世紀以前に編纂された蘇悉地経に、100~200年後の大乗仏教の到達点に花開いた中期密教の両部大経を統括できる文言と内容が書き込まれていたなどということは論理的にあり得ません。これでは、中期密教思想が200年以前に完成されていたことになり、両部大経は100年、200年前に編纂された蘇悉地経の焼き直し、二番煎じという摩訶不思議な現象を引き起こすことになります。三部の中でも最も早く編纂された蘇悉地経がもっとも優れているという摩訶不思議なものいいを真実とみることは不可能です。

インド仏教の最終形を表すインド密教をそのまま継承したチベット後期密教の『チベット大蔵経』の分類では、蘇悉地経は所作タントラ(初期密教=雑密)の総括経典に位置付けられ、100~200年後に編纂された中期密教(純密)の両部大経を統括できる経典ではあり得ません。蘇悉地経には加上を施された疑いが濃厚にあると見做される原因の一つです。

比叡山天台宗の中国密教導入の努力が順調に報われたものであったとは考えられません。845年の唐・武宗が断行した「会昌の法難(毀仏寺勒僧尼還俗制)」によって、寺院4,600所が廃止され、26万余の僧尼が還俗されたという中国仏教史に大問題が発生していたのです。中国思想を重要視した武宗が外来の宗教が中国に根ずくことを嫌った政策でしたが、特に長安と洛陽の寺院が壊滅的な損害を被ったのです。

中国密教の典籍は壊滅的な損害を被って失われ、膨大な不空の翻訳書籍(その主要なものは空海の請来目録に多数の記載がある)を除いては僅かに儀軌類が残された程度だったといわれています。これにより、思想的な内容を吟味できるに足る資料が乏しくなったことで、文献的な検証がほとんど不可能な状態になったと考えられます。

円仁はこの法難に身を以って遭遇したことで行動の制限等を受けていますが、中国の密教教理の検証と解明に大きな妨げになった事実は見逃せません。 インド仏教の最終形を示すインド密教がダイレクトに伝わったチベット後期密教(11世紀以降に成立したチベット密教)の分類では、『蘇悉地経』は6世紀以前に成立した前期密教の雑密に分類される第一段階の所作タントラに位置付けられています。

円仁の入唐時期の中国密教は統一的な密教体系が未完成であった時期に当たるところから、『蘇悉地経』が仏部・蓮華部・金剛部の三部を説き悉地(成就)の内容を整理していることを重要視したものと考えられますが、『蘇悉地経』の本分は儀軌書であり、密教体系を示す教義書(論書)ではありません。『大日経』に近い内容をもっていることから『大日経』の一つの特殊形ほどの意味しかないと考えられます。

なにゆえか、恵果の滅後の弟子以降に生まれた『蘇悉地経』の評価を円仁が持ち帰ったのであろうと考えられます。これについて、東密から不必要とする台密批判がありますが、所作タントラに分類される儀軌書の『蘇悉地経』(雑密)に、「両部の大経」を総括させることは如何なものであろうかと考えられます。台密の理解は、大乗経典の編纂と編集の歴史や経典翻訳の実情の研究がなく、全ての経典は釈迦が説いたとする説が闊歩していた時代背景の中で生まれた理解だと考えられます。

東密は釈迦の所説(報身と応身の説法)を顕教、大日如来(法身説法)の所説を密教としますが、台密は顕密二教ともに釈迦の所説(この説は大乗経典成立の認識が欠落している)と主張しています。台密は二教の相違は教主の相違ではなく、教理の浅深によるものだとしています。東密は顕劣勝密の立場で『法華経』は両部大経に劣るとし、台密は法華経と両部大経は同値とみるのですが、教理は同じ(円密一致説)であるが事相(実践)に違いがあると主張しています。

東密と台密は、それぞれに教理と教相判釈の系統を異にしていますが相互に交渉し関連した事実が少なくありませんでした。それは事相いわゆる護摩行法を含む加持祈祷の分野です。東密の僧が授者となり、台密の受者に特定の行法を伝授し、また台密の僧が授者となり、東密の受者に特定の行法を伝授するという事実が数十例もあります。自宗に欠けていた行法を補うこの宗派を超えた伝授は、受者の真摯な申し出と懇請を受けた授者が、受者の資質を認めて伝授の決意をしたものですが宗派の垣根を越える出来事でした。この関係を築いた僧たちは、いわゆる高名な密教僧でした。密教には、資質を認めれば、垣根を越えた伝授を許すという伝統があります。

東密と台密の相互の伝授は次のとおりです。宗叡(809-884・第5代東寺長者)から峯斅(843-908)に伝わった行法が増命(843-927・比叡山座主)に伝授され、増命はこれを御室仁和寺の開創・寬平法王(第59代宇多天皇・上皇)に伝え、その付法の寬空が皇慶(977-1049・比叡山・谷流の祖)に伝授しています。増命は観賢(834-925・東寺15代座主、高野山座主、石山寺座主、仁和寺別当、法務職=日本仏教界を束ねる僧綱行政のトップ)にも伝授しています。また、醍醐寺を創建した聖宝(832-909・理源大師、東密の小野流の祖、修験道当山派の祖)から観賢に、観賢から淳祐(895-953・石山寺座主)に伝わった行法が良源(911-985・元三大師、第18代天台座主)に伝授されています。覚猷(1053-1140・鳥羽僧正、天台座主、園城寺長吏)は覚鑁(1095-1143・興教大師、鳥羽上皇の院宣による東寺・高野山座主、大伝法院の再建と密厳院の創建、真言宗新義派の祖)に行法を伝授したことが知られています。

日本密教は純粋密教(純密)を本旨とすることから、後期密教(チベット密教)の無上瑜伽タントラ系を排除してきました。無上瑜伽タントラは密教の最終形として現れた教えですが、その中に性的儀礼が含まれることからこれを左道密教と位置付けて意図的に排除してきたものと考えられます。

鎌倉時代に無上瑜伽タントラの影響を受けた東密系の「立川流真言宗」、立川流に刺激を受け比叡山で発生した台密の「玄旨帰命壇」が発生し、皇族貴族から武士、庶民を含む人々の帰依を受けて江戸時代まで続いていましたが、いずれも焚書と弾劾を受けて江戸時代に断絶しました。日本に後期密教が根付かなかった理由です。後期密教に表われる性的儀礼は、無上瑜伽タントラ系の父母タントラに説かれる密教の観想上の通過儀礼の一種であり、本来は瞑想の中で諸仏諸菩薩を生む過程をリアルに観想する手法です。この目的は、日常の固定観念や様々に彩られた現実の価値観を粉砕(凡常の慢を退治する)して視点を転換させる意識革命にあるといわれています。密教経典は教理と実践方法の教えを具体的に示すことからタントラといい、顕教経典は教え(教理)を示すものであることからスートラといいます。詳細は「(28)後期密教の成立(チベット密教)」を参照願います。

宇宙の本体観(本尊観)は台密と東密とでは異なります。台密は「阿字体大説」であり、東密は「六大体大説」です。天台宗(台密)では、三諦円融の妙理、一念三千の至極を阿字体大説によって説明します。『大日経疏』には、「阿字は一切語言の根本にして衆字の母なり。一切法教の本源なり」「阿字本不生の理を悟るは如実知自心の義にして、一切智々なり」とありますが、阿字本不生とは諸法の本来不生不滅、本有常住の義をいいます。

密教では阿字は一切の言説・音声の根本であるばかりでなく一切の法教の根本であるとみます。台密が依書とする『大日経義釈』には、「阿字に空・有・不生の三義あり」と説かれ、この三義は一空一切空、一仮一切仮、一中一切中の円融三諦であるとして阿字体大を説き、空の義を釈して阿字不変の理、有の義を釈して阿字隨縁の相、不生の義を釈して阿字隨縁一体不二とする教理を立てます。

台密では、この三義三諦は宇宙の実体・実相であり、その妙体は胎蔵曼荼羅の理法身・大日如来であるとし、これを悟った智は金剛界曼荼羅の智法身・大日如来、この理智二法身が互いに円融無碍した法身が両部不二の大日如来であるとする仏身観を立てるのです。

阿字は十界三千の諸法の本体であり、阿字の体は大であるとすることが台密の阿字体大説の所論です。 空海は、字母表に「凡そ最初に口を開く音、皆阿の字あり、若し阿の字を離んぬれば則ち一切の言説なし。故に衆声の母となす。また衆字の根本となす」として「阿字は是れ一切法教の本なり。乃至内外の諸経皆この字より出生す」と説いています。阿字は宗教的に人格化された大日如来の象徴となり、大日如来の種字に比定されたのです。

東密の根本思想は阿字本不生です。本不生とは、本来的には不生不滅であり、宇宙の本源は消滅・断常・一異・去来を絶した常住寂然であり、この妙境を本不生・本不生際といいます。従来より諸説の解釈論がこの妙境は不可得としてきたことから阿字本不生不可得といわれています。

空海は、この阿字本不生不可得を『即身成仏義』において具体的に説明し宇宙の本源を明かしていますが、六大は宇宙森羅万象の本体・実相であるとみるのです。これを「六大体大説」(六大縁起説)といいます。 空海は、宇宙の本体は阿字であるといいます。空海は、六大(地水火風空と識)は単に現象的な元素でも因縁事象の要素でもなく、阿字本体の内在性である見るのです。六大と阿字は開合の不同でしかなく、開けば六大、合すれば阿字であり、六大は阿字の当体であり宇宙の本体であると見るのです。

空海は、大日如来は覚れる六大所成の人格であり、六大は色心二法であり理智の二徳であり両部の曼荼羅であるとしています。一塵一法・凡夫・仏・草木国土は全て六大所成であり阿字の当体であるから仏陀も阿字の当体であると見るのです。仏陀は覚れる六大所成であり、凡夫は迷える六大所成であるから、迷悟の差はなんであろうか。「迷悟は我に在り、信修すれば即ち至る」と空海は説きます。覚れば即ち大日の当体(即身成仏)なのです。

『大日経』の「住心品」には「如実知自心」が成仏の秘訣であることを示し衆生の心の実相を開示しています。「具縁品」には、如実知自心の実践修行が説かれています。真言密教(東密)では、三密瑜伽の双修を必修とし観法の実践なくして密教的世界はあり得ないとしています。

真言密教では、宗教の対象である本尊(教主)も阿字、教理の哲学的側面も阿字、その悟りの妙境も阿字本不生際、妙境に達する方法も阿字観とされます。真言密教では、阿字は事相(実践)上でも教相(理論)上でも重要なのです。 立宗の名目が広く知られている天台宗は、開祖・最澄が中国の天台智顗の天台宗の教理を比叡山に移植して立宗の旗幟を鮮明したという宗名の由来があることから、法華経と密教を同等とする最澄の一致説は、最澄滅後に宗内に数々の混乱を引き起こすものであったと考えられます。

一致説は、密教支持者と法華支持者の対立を円満に納得させる説であったとは考えられません。両勢力はしばしば密教法門の論争と宗内勢力の対立抗争を繰り返していることから、宗内では必ずしも円満に受け入れられた概念であったとは考えられないのです。なぜなら、法華経と密教の修行内容には明らかな違いがあり、特に三密加持や護摩祈祷、声明などの在り方に典型的にその違いが表れます。比叡山根本中堂の諸儀礼は密教儀礼が中心に行われていると考えられます。一致説は、観念的な旗幟ではなかろうかと考えられるのです。開祖最澄の権威で波風を抑え、意図的にバランスを取らなければ維持できなかったのではないかという疑いが消えないのです。決定的なことは、歴代の天台座主は密教に精通している人物が選任されてきた事実です。これは重要と考えられます。

天台宗は、本拠地の比叡山が京都の鬼門に位置することから都の守護を期待され、朝廷の近隣に蟠踞して既得権益を維持していたことから、朝廷や大貴族・権門勢力とのネゴシエーションが比較的に取りやすいポジションにありました。特に、五大院・安然の台密の完成によって東密に対する劣等感を払拭して自信を回復した朝廷外交には目を見張るものがありました。天台宗は、台密の効験によって朝廷・貴族などの顕紳から信頼を得て、多数の荘園を寄進されるなど多くの既得権益を享受して天下に足場を固め、東密の勢力(東寺・高野山)と競合する一時代を築きましたが、これらは密教(台密)の効験を朝廷、諸権門の大貴族などに期待されもてはやされたからであったと考えられます。

天台宗は、あらゆる大乗仏教を包摂できる密教の叡智を持ちながら、開祖・最澄の縛りを受け入れて密教と法華経の一致説を継承したことで、密教と法華経の相克関係を抱え込み、教義上の歪(ひずみ)を解決できませんでした。

台密は東密と異なり、円密戒禅の四宗兼学の天台教学を前提に成立した縛りを解き放つことができませんでした。法華経よりも格段に優れた経典である両部の大経を相手に、天台の根本経典は法華経である、法華経を以って一代の諸経を判ずる、という姿勢を取り続けなければならなかったジレンマは悲しすぎます。この中で諸宗兼修の精神が独り歩きしたのですから、異論、反論の調整が簡単にできるわけがありません。百花繚乱の矯正不能な新興宗教の温床が形成されたものと考えられます。不満を抱えて忍耐力を失った者がつぎつぎに比叡山と決別して下山し、巷間の民衆に自説を布教したものが鎌倉新仏教(祖師仏教)の祖師たちの実態と考えられます。

祖師たちの自説は、いずれも比叡山の伝統教学とは異質の教義内容を鮮明にした祖師仏教でした。祖師たちは比叡山の系譜から断絶した自説を布教したのだと考えられます。