(17)南都六宗(国家仏教)

日本に仏教が伝来したのは、文献の上では538年説と552年説がありますが、538年説が有力視されています。しかし、仏教は大陸の進んだ文化として朝鮮半島からの渡来人を介して、すでに6世紀前半には日本に伝わっていたのではないかと考えられています。

この頃、仏教の受容を巡る激しい対立が起こりました。受容を主張する蘇我氏と否定的な物部氏が対立しましたが、蘇我氏が勝利して、仏教が最初に芽吹いた飛鳥文化が開花しました。
645年の大化の改新に始まる律令制度のもとで中央集権国家が完成し、大宝律令が制定されて、7世紀後半~8世紀初頭の藤原京に白鳳文化が生まれました。

奈良の平城京で花開いた天平文化の中で仏教が隆盛しました。
聖武天皇の時代、全国に国分寺、国分尼寺建立の詔が発せられ、仏教は国家の手厚い庇護を受けました。
南都六宗が成立したのは、東大寺大仏殿の建立が始まった747年(天平19)頃から大仏開眼供養の前年751年(勝宝3)の間と考えられますが、各宗を統括する宗務所が置かれ、国家の手厚い保護のもとに国家仏教としての国家の管理を受ける体制が整えられました。

仏教の初めは、鎮護国家を祈る国家仏教として成立しましたが、官立寺院であり、仏教の学術研究をする場所でした。当初の各寺院は、学派として自由に研究する場所であり、独立の宗派を形成していませんでした。諸学の兼学が推奨され、学派の対立はありませんでした。この頃の宗は学門上の区分の学派を意味するもので、平安末期にはじまる宗派とは異なるものでした。

754年、国家の要請により、中国から「鑑真」(律宗と天台宗の大家)を平城京に招請して国立戒壇院(①東大寺戒壇院、②大宰府・観世音寺戒壇院、③下野・薬師寺戒壇院)を設置し、国家公務員の身分を持つ公式な僧侶の受戒制度を整えました。国立戒壇の受戒は「年分度者」と呼称され、南都六宗から選ばれた優秀な人物が推薦を受けましたが、毎年10数名の狭き門でした。官僧以外は僧侶として国家から公認されていない存在でした。彼らは「私度僧」といわれ、山林修行によって霊的な力を身に付ける修行を試みる者でした。私度僧は国家から禁止されながらも淘汰されることはありませんでしたが、僧の大部分はこの私度僧であったと考えられます。

南都六宗は①三論宗、②法相宗、③華厳宗、④倶舎宗、⑤成実宗、⑥律宗の順に成立していますが、 南都六宗は現在の宗派とは異なり学派的な存在であり、特定の宗派を標榜することはありませんでした。学派の垣根は低く、多数の学派に同時に所属することも可能でした。概要は次の通りです。

①「三論宗」の教学を大成したのは嘉祥大師・吉蔵(549-623)です。天台宗の智顗、地論宗の慧遠、三論宗の吉蔵が隋の三大法師と称されました。吉蔵の著作は26部112巻ともいわれ、『大品般若経』『金剛般若経』『仁王般若経』『維摩経』『華厳経』『法華経』『涅槃経』『勝鬘経』などの大乗経典の注釈が19部、『三論玄義』『中論疏』『百論疏』『十二門論疏』『法華論疏』『二諦章』『大乗玄論』などの注釈書があるので、三論宗は大乗仏教全般を広く学んでいたことが分かります。

三論宗は吉蔵の弟子、高句麗の僧・慧灌によって、625年(推古33)に南都六宗の中でもっとも古く最初に日本に伝来してきた宗です。日本では『三論玄義』が入門書として読まれましたが、教学内容は般若経の「諸法は皆な空なり」に基づくものです。三論とは、鳩摩羅什の訳出した竜樹(150-250頃)の中論、十二門論と、弟子の提婆(170-270頃)の百論の三つの論をいいます。三論宗は中国で成立しましたがその思想の中心はインド伝来の般若・中観の空の大乗思想です。

「破邪顕正」、「真俗二諦」、「八不中道」の三科を理論の中心としますが、人間や事物の一切のものに固定的な実体を考えることを否定する「一切皆空」を説くところから「空宗」ともよばれた中観派の宗です。元興寺・大安寺を本拠地としました。中道仏性(如来蔵・仏性思想)を説き空と仏性の相即を主張することにおいてインドの中間派とは相違点を持っています。

中論では諸法が因と縁によって生起することを有(存在)と説くのが俗諦、一切を空と説くのが真諦です。 有と空を止揚し非有非空の中道に導くことが破邪顕正です。
八不(不生・不滅・不去・不来・不一・不異・不断・不常の八迷)とは、正しい道理を悟る八重の否定ですが、これによって究極の真理である中道が現れ、破邪が顕れる、という考えです。八不は、『般若心経』の不生不滅、不垢不浄、不増不減の六不とは言葉が異なるものの、表現する内容が同じと考えられるところから、六不=八不の表現と見られています。

②「法相宗」は、中国唐代の玄奘(『大唐西域記』の著者)を始祖とします。日本には白鳳時代の653年に唐に留学した道昭が玄奘から直接に教えを受けてその概要をもたらしましたが、法相宗の理論的な体系は、唯識系の経論、特に、『成唯識論』に基づいて玄奘の高弟慈恩大師によって広められ、日本には玄昉によって伝えられました。

法相宗の教理は「阿頼耶識縁起」といわれる唯心論的な理論です。
阿頼耶識は六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)、七識の未那識の最深層に位置する八識とされる概念です。万物というすべての存在は識によるものであり、一切の存在は自分の心から生まれ、自分の心を離れて存在するものは何もない、一切の万物は自分の心(認識)そのものであるという考えです。認識は六識(目・耳・鼻・舌・身と意)とその奥にある二識(末那識・阿頼耶識)で行われるが、修行によってこれらを「空」にすることによって悟りを得ようとするものです。
インドでは如来蔵と同一視する考え方があり、玄奘以前の中国ではこの識が「真識」か「妄識」かを巡る論争がありました。

この説は、自己の心身と世界のすべてが、自己の最深層にある阿頼耶識の中に蓄積された過去の経験の潜在余力(習気、種子)から生ずるとする学説に立つものです。
この深層心理学ともいうべき精緻な心理分析の理論を仏教界に提供したことは法相宗の教学の大きな貢献でした。
しかし、悟り(成仏)の可能性について、各人の先天的な資質の差別を(五性格別、三乗説)を認めたことが中国仏教界に大きな衝撃を与え、すべての人に成仏の可能性を認める一乗説(天台宗)との間で激しい論争(三一権実論争)を引き起こしました。

法相宗は中国仏教界の主流を占めることなく衰退しましたが、法相教学の概念の多くが華厳宗の教学に組み込まれました。

法相宗は、日本では南都六宗の中で最も有力な宗派として栄えましたが、中国の三一権実論争を引き継ぐ形で、徳一と天台宗の最澄の間で同じ論争が引き起こされました。
法相宗の本拠地は、元興寺、興福寺、薬師寺です。

鎌倉以降、法相宗の勢力は衰退に向かいましたが、教学は仏教の基礎学として各宗の学僧によって学ばれ今日に至っています。
尚、法隆寺は1980年に独立して「聖徳宗」に、清水寺は1965年に独立して「北法相宗」という新たな宗派を形成しました。

③「華厳宗」は、1300年以上の歴史を持ち、中国・唐の初期に華厳経を最高・究極の経典として、その思想を研究した学派です。中国唐代の高僧・杜順が大成し、唐に留学して法蔵から華厳を学んだ審祥(不詳、新羅僧という説と新羅に留学した日本人僧とする説がある)が良弁の要請に応じて奈良の金鐘寺(現在の東大寺二月堂)で華厳を3年間にわたり講説したことで日本の華厳宗が生まれました。後年には、聖武天皇によって、反体制派と見做され藤原氏から危険視されていた僧・行基が大僧正に登用されたことで、難事業の東大寺・大仏(奈良の大仏=毘盧遮那仏)の建立が促進されて完成を見ました。

華厳経には毘盧遮那仏(密教では大日如来となる)という時間と空間を超越した仏が説かれ、「一の中に他の一切を包含する、同時にその一は他の一切の中に入る」という思想をもちますが、華厳宗の教えは仏教のあらゆる教えを包含する最高の経典であるとしています。
『華厳経』は、地理的には東アジア全域に広まり、日本では東大寺系の学派を確立しました。密教に影響を与え、禅者や念仏者にも影響を与えるなど宗派を超えた影響力があります。

華厳教学は時代的にも、地域的にもかなり大きな変容があり一概にまとめることは難しいもいのがあります。
華厳経は、もっとも古い『十地経』が紀元前1世紀頃から2世紀ごろに編集され、華厳経の全体が編集されたのは四世紀頃と推定されています。
華厳とは、美しく飾るという意味で、色とりどりの華によって厳(飾)られたものを意味します。すなわち蓮華蔵の世界ということになります。華厳経は真実教、一乗教、円教と評価されています。

仏教の考え方の基礎を形成した空の思想では、あらゆるものに固定的な実体は無く、縁起という関係性よって現象すると考えました。華厳の唯識思想は、この世のすべてのものは無限に関係(無尽縁起)しあって存在していると考え、 空の思想を補完して、その現象は人が認識しているだけであり心の外に事物的存在は無いと考えます。

外界の形ある存在は心が作り出している幻想に過ぎず、あるのはただ(唯)意識だけであり、意識が外界の存在を作り出していると考えることが唯識の思考の特徴です。
心の作用は仮に存在するものとしてその心の在り方を瑜伽行(ヨーガの実践)でコントロールし、悟りを得ようとしました。いわるる瑜伽行唯識派の思想です。

唯識系の論書を理解するためには、この瑜伽行という深い瞑想の中で真実を見つめる行法の体験が必要です。
華厳経には現実の実践(菩薩行)を強調する特徴があります。真空から妙有への展開が見られます。

華厳経の根本的な特徴は、「事事無碍」(事物・事象が互いに何の障礙もなく交流・融合する「一即一切、一切即一」)の縁起を明らかにする点に見出されます。

華厳経の『入法界品』には、善財童子(求道の菩薩)が文殊菩薩の指導に発心して観音・弥勒菩薩など53人の善知識を歴訪して教えを受け、最後に普賢菩薩から大願の法門を聴聞して普賢の行位を具足し、正覚・自在力・転法輪・方便力などを得て法界に証入するという菩薩の修道の階梯が示されています。東海道五十三次はこれに由来するものです。

『十地品』(十地経)には、菩薩が修習の深まりによって到達する十地の階梯が説かれています。これは実践の体系を組織化した論書でもあります。

日本には、740年、良弁が新羅に留学して帰国した審祥に金鐘寺(東大寺三月堂)で華厳経60巻を講義させたことを最初とします。審祥が学んだ華厳は元暁と法蔵の影響が強い華厳学でした。これが東大寺の学派となりました。
元興寺や薬師寺など法相宗の大寺院でも講義され、西大寺(創建時は西の総国分寺、後、真言律宗の本山)でも兼学されるなど、南都(奈良)で重要な位置を占めました。
華厳宗は東大寺を拠点として「華厳思想」を専門に研究する学派です。

④「倶舎宗」は、インドの世親(ヴァスバンドウ)が著した教理を中心とする綱要書『阿毘達磨倶舎論』(倶舎論)を研究する宗派です。
この論は上座部仏教の最大の部派「説一切有部」の論書として知られる『大毘婆沙論』の教理を批判して著した論書です。有部に対抗する軽量部の立場から著したもので、大乗仏教に大きな影響を与えました。
ちなみに、大乗仏教も「空の理論」を展開して有部の『大毘婆沙論』を批判して対抗しました。

倶舎論は、唯識三年、倶舎八年といわれ、頭がクシャクシャになる難解な論として定評がありました。専門の南都の学僧でさえ研究に長期間かかったといわれています。

倶舎論は、法相宗の道昭が請来し東大寺などで仏教の教理の基礎学として研究されました。倶舎宗は、独立の宗派ではなく、法相宗の付属の宗として毎年1名の僧の得度が公認されていました。現在もその重要性は仏教研究者から認識されています。

⑤「成実宗」は、成実論の研究をする宗派です。成実論は訶梨跋摩(ハリヴァルマン)の著した、主として(上座部)部派仏教の「軽量部」の立場から「説一切有部」の思想を批判し、大乗仏教の教理を取り入れています。鳩摩羅什の漢訳(411-412)が現存しますが、書名の「真実を完成する論」の真実が四諦の教えを指すもので小乗論書との批判を受け衰退します。
日本には、三論宗とともに中国から伝来し、三論宗の寓宗として研究されるにとどまりました。

⑥「律宗」は、中国の道宣の説に基づき、『四分律』を重視し、菩薩戒として三聚浄戒の受持を主張する。教理的には唯識の影響を強く受けています。日本には、朝廷の招請により、道宣の孫弟子「鑑真」によって伝来されました。

754年、中国・唐より「鑑真」が招かれて東大寺に戒壇院が置かれ、761年には下野に薬師寺が、筑紫に観世音寺が置かれて僧の授戒制度が確立しました。
正式な授戒を許可された僧の身分は、今日でいう国家公務員の資格を与えられ、これに相応しい俸禄が朝廷より支給され厚遇されました。しかしこの人数は少なく(年10人程度)、大部分は「私度僧」となって山林に交わって修行をしましたが、山岳宗教の修験道との混交が一般的でした。

律宗は、平安初期頃まで栄え、その後次第に衰え、平安中期頃には衰退しました。授戒の儀式は興福寺や東大寺の堂衆という僧に継承されています。
本拠地は唐招提寺(本尊は毘慮遮那仏)です。律宗は、僧や在家信者が護るべき生活規範(律)を通して仏教を研究し実践しようとする教団です。戒律は身(行動)、口(表現)、意(精神)の全てについて守るべき規範を示し、守ることによって仏に至る道を示そうとするものです。類似の教団には、真言律宗の西大寺があります。
南都六宗は仏教研究の道場です。今日の寺院と異なり「檀家なし」「葬式はしない」という共通性があります。

南都六宗は学問の道場としての色彩が強く、一人の僧が2宗以上の兼学をし、複数の宗派を兼ねるのはごく普通のことでした。宗派間の垣根は低く、向学心の高い僧はどの宗派の学問でも修めることができました。当然、宗派間で学問上の争いを起こす必然性がありませんでした。

しかし、8世紀頃には、権勢を競い合う風潮があらわれ、学僧の囲い込みが始まり、次第に学僧の奪い合いや確執が表面化するようになりました。
学問研究の自由な姿勢が失われ、排他的となって、他の寺院に出向いて教えを乞う美風が次第に失われて行きました。

僧院(寺院)は、当時、最高の学府を形成するインテリ集団でした。王法の下に管理される仏法でしたが、権勢を競うが如く、自己顕示欲を示して次第に政治の乱れに意見具申をする形で政治に介入するようになりました。

8世紀末、桓武天皇は政権内部で暗闘が収まらず、怨霊の跋扈(当時の貴族の独特の感覚)と仏教界の腐敗(王法から見た独特の視点)を避けるため奈良の都・平城京から京都(平安京)に遷都しました。
桓武天皇は新たな都には新たな護国仏教を待望しました。これに応えたのがスーパスター空海と天才最澄でした。最澄と空海の登場により仏教は学派から宗派に衣替えすることになります。

南都六宗と天台宗はほとんど中国仏教の直輸入です。日本的な工夫は儀式などの通過儀礼しか見られません。
教義の体系は、中国でほぼ完成されており、ただこれを学ぶことが日本の仏教のありようでした。日本人の創意工夫は空海の出現まで待たなければなりません。

空海は、十住心論(『大日経』住心品、『大日経疏』、『菩提心論』等による教相判釈)の教判論で、十玄・六相の教理を持つ華厳宗を第九住心(極無自性心)に位置づけ、三融円諦の教理を持つ天台宗を第八住心(如実一道心)として、華厳宗を天台宗の上に置きました。八不を説く三論宗を第七住心(覚心不生心)に、法相宗(唯識)を第六住心(他縁大乗心)に、縁覚乗(独覚)を第五住心(抜業因種心)に、声聞乗(二乗)を第四住心(唯蘊無我心)に、位置づけています。

空海は『秘蔵宝鑰』巻下に、「九種の住心は自性なし、転深転妙にしてみなこれ因なり。真言密教は法身の説、秘密金剛は最勝の真なり」といっています。この二句は「前の所説の九種の心はみな至極の仏果にあらず」ということです。

仏教哲学を実相論と縁起論の二大系統に分ければ、三論と天台は実相論に、法相と華厳は縁起論に分けられ、真言は実相と縁起の双方を止揚したものと考えられます。

鎌倉新仏教は(布教のために)庶民感覚を取り入れ実践論を単純化し特化した特徴をもつ祖師仏教で教理的な発展は特にありません。教理論としては四家大乗(天台・華厳・法相・真言)の教理で尽きていると考えられます。

後世に、鎌倉新仏教(祖師仏教)の立場から、あからさまな南都六宗の批判がされるようになりました。その要旨は「南都六宗」は、自分一身の解脱を目的とする自利の傾向が強く、あらゆる衆生を救済する大乗の化他行の精神が乏しい」とするものです。しかし、この批判は本質的な批判とは言えず、一方的、盲目的な批判ではないかと考えられます。大乗の化他行の修行を世の中に身を持って実証した僧が、祖師仏教の系譜の中に一体何人いるでしょうか。

仏教の普遍性を基準にすれば、祖師仏教には釈迦仏教の正統性や正当性があるとは考えられません。仏教の本質を逸脱する思い込みの強いドグマを初心(うぶ)な民衆に刷り込み、一方的なプロパガンダをしてきた鎌倉新仏教(祖師仏教)が、真実の大乗の菩薩の在り方であったと本当に信じているのでしょうか。自らの立ち位置に疑いを持つことが許されない盲信の輩に、仏教の本質を語る資格があるとは考えられません。南都六宗の研鑽がなければ、鎌倉新仏教(祖師仏教)が芽吹く土壌が醸成される可能性もなかったのではないかと考えられます。

平城京の奈良の都で開花した南都の大乗仏教が、宗派の垣根にこだわることなく、インドや中国で発生した仏教の諸学派の流れに棹ささずに差別せず、一括して仏教の教理論受け入れてを学んだ姿勢は評価に値する研鑽方法であったと考えられます。上座部で研鑽された教理論(たとえば「倶舎論」)であれ、大衆部(大乗仏教)で研鑽された教理論(たとえば「瑜伽行唯識論」)であれ、支持のないものは廃れ、支持されるものが残っていくことは自然の流れであると考えられるからです。

まず、受け入れて研鑽し、普遍性の低い教理論から順次に淘汰されていく自然の流れに委ねることは賢明な態度であったと考えられます。支持されて生き残り、普遍性と存在感をアピールできる教理論が体系化されていくプロセスこそが必要であったと考えられるからです。そもそも釈迦仏教の正統性や正当性は、道理にこそあれ、学派理論を基準とするものではないと考えられます。

南都六宗の日本仏教に与えた影響と功績は絶大であり、計り知れない感謝の念を持つべきだと考えられます。例えば、上座部仏教(テラワーダ仏教)で研鑽された「阿毘達磨倶舎論」(「倶舎論」)は、南都諸大寺の学僧によって研鑽されてきましたが、これが大乗仏教の深耕に多大な貢献をしてきたことはまぎれもない事実であると考えられます。

南都六宗の存在なしに、今日の日本仏教の存在はありえません。南都六宗の仏教の研鑽があればこそ、これを土壌とするたくさんの日本仏教が花開くことができたのではないかと考えられます。体系的な大乗仏教の研鑽を怠ってきた祖師仏教の系譜に連なる者が、上から目線の立場で、南都六宗を批判する姿は見るに堪えないという批判があるのは当然だと考えられます。空海は、南都諸宗と友諠を結んで信頼関係を醸成して共存の道をつくりました。しかし、最澄は、南都諸勢力との共存を否定して抗争を繰り返しました。抗争の決着がつかないままに、最澄の対決姿勢が比叡山に根付いて継承されたことで、今日の日蓮系や念仏系の鎌倉新仏教の信徒の中に根強く刷り込まれ、歴史教科書の記述に無残な痕跡をとどめていると考えられます。