序章6:現代の新興宗教を考える

現在、信者数、組織力、政治力に関わる最大の新興宗教団体は創価学会です。これは、万人の共通認識であろうと考えられます。戦国時代の一向宗(現・浄土真宗)と日蓮を祖師とする諸宗派、特に、現代の創価学会がいわゆる民衆の中からでき来た巨大な新興宗教と考えられています。

浄土真宗(旧一向宗)には、400年以上にわたる温厚な歩みがあります。東・西の本願寺体制が発足した以降の浄土真宗・門徒の安定した信心深さには定評があり、オカルト性を疑う布教活動をしてこなかったこと、社会に受け入れられる伝統的な信仰態度を取り続けていること、社会平和に資する態度を表明していることから、伝統教団として受け入れられていると考えられます。また、今日的な意義から見ても、祖師仏教の特徴的な教義をもつ宗教学的論理性の部分を除き(これも他人の信仰を批判して変えさせようとする独善性や危険性が無い)、今更あえて批判の対象とする必要性はないと考えられます。

ところが、創価学会は、戦後の不安定な社会の中で芽吹き、現在も日蓮の妄想を持ち続けて独善的な布教活動の折伏を行っている政治力を持つ新興宗教団体と考えられています。さまざまなオカルト性が問題視されてきたことなど、社会的にはいろいろと世間の注目を浴びる存在感があります。何よりも日蓮の思想に憑依された独善性を変えられない原理性が際立っていることから、教義問題だけでなく、布教活動の在り方や様々な諸問題が世間の批判の対象になっています。ゆえに創価学会には、批判に値する諸問題があると考えられます。

日蓮の魂が、ゆるい僧侶に替わって、信者の魂に憑依して立ち上がらせ、エネルギーを与えて戦闘的な新興宗教団体を結成させたのでしょうか?。僧侶の指導を受けない新興宗教団体は、独自性を主張して次々に普遍性を欠落した宗教ドグマを抱え込んでしまったものと考えられます。この新興宗教には、善良な人々を折伏する道理や正当性があるとは考えられません。特に、池田創価学会の体質には、韓国人のファビョン史観(独善的な歴史捏造)の体質とプロパガンダのありように同質の共通性が濃厚に認められると考えられています。

ファビョン史観は朝鮮民族が伝統的に持つ固有の「恨」文化の噴出によって自制心が制御不能の状態に現れる妄想と考えられていますが、これらは韓国政府のさまざまな反日政策や国民感情の世論操作に典型的に表れていると考えられています。2015.10.10付の朝鮮日報日本語版に医学専門記者・金哲中(キムチョルジュン)が書いた記事が掲載されましたが、「ちょっとしたことで怒り、それをこらえきれずに他人などを攻撃する症状は間欠性爆発性障害に分類され、行動障害の範疇に属する。そうした行動障害や人格障害と診断された患者の年齢を見ると、昨年は20代が全体の28%と最も多かった。次いで30代が18%、10代が17%の順だ。」という記述には韓国民の精神文化の一つの傍証が表われていると考えられます。しかし、これらの数値は低すぎて実態を反映したものとは考えられません。ファビョンは「恨」を刺激する言葉の種類によって反応に大きな変化があるものです。「恨」のキーワードが何であるかによって受ける刺激やショックの度合いが大きく異なるのではないかと考えられるのです。この意味ではファビョンは朝鮮民族が背負った過去の負の歴史遺産である「恨」の感情の強さに比例する民族疾患であると考えられます。文化結合症候群と認定されているファビョンの発症率は民族の70%とみられる高い数値であることから、この記事には相当な抑制がかかっていると考えられるのです。

韓国人の民族性について少し脱線します。韓国人(北朝鮮も同様)の歴史認識には、際立った歴史観の捏造が指摘されています。それは、「日本文化は韓国人が教えてやったものだ」という朝鮮半島の歴史改竄に典型的に表れています。日本に百済文化が伝わったこと(天皇家を百済系とみる説もでている)、新羅、高句麗からも特に亡国時にはまとまった集団が帰化して日本文化に影響を与えたことをいっているのだと考えられます。しかし、この三国は次々に滅亡しています。これら三国の民族と現在の韓国民の祖形となった北方系狩猟民族には同一性が認められません。朝鮮半島は、多数の異民族が入れ替わり立ち代わり流入して建国と滅亡を繰り返してきた特徴的な土地柄でした。戦争に負けた国家の王族・貴族は徹底的に壊滅させられ、その遺民は奴婢(奴隷)にされて徹底的に酷使され、特に男系の子孫は残せませんでした。敗者に対するこのような徹底した仕打ちは、自ら生産せず他人から奪うことしかできない狩猟系民族の伝統的な習性です。朝鮮半島は、北方系狩猟民族が次々に南下して軍事力によって勝利を収めることができた土地柄でした。朝鮮半島では、国家の滅亡はその民の滅亡をも意味する過酷な宿命に覆われていたのです。支配者層の王侯貴族の交代だけにとどまらず、敗者の民衆は徹底的に収奪の対象となったのです。その原因は、狩猟民族は敗者の全てを奪い尽くす習性を持ち、他民族への憐憫の感情が薄く、亡国の民は共存することが許されませんでした。敗者の民は、勝者が連れてきた異民族と強制的に入れ替えられ、奴婢となる運命を受け入れなければならなかったのです。

現代の韓国人の先祖を形成した諸民族は、そのほとんどが誇れる文化、固有の文字を持たない北方系の狩猟民族であり、農耕民族から収奪する目的をもって次々に南下し、高麗王朝や朝鮮王朝を建国したのです。しかし、隣国は地続きの巨大な中国大陸です。朝鮮半島は、常に中国大陸の文化と軍事力の影響下に置かれていたのです。朝鮮半島の覇者となった狩猟民族は、誇れる独自文化を持たないゆえに中国大陸から文化的な差別を受け続けたことによって中国文化に同化しようとして中華思想を真似て小中華思想を育てましたが、漢字は中国文化であり、独自の文字を持っていませんでした。1446年に李朝の世宗が創作したハングル文字は音節文字であり、言葉の意味内容を表す日本語のような表意文字でないため、言葉の意味内容や創造性・思想性・哲学性に対応できず、学術用語の翻訳には十分な対応ができませんでした。朝鮮王朝は、誇れる独自文化を形成することができませんでした。韓国人の歴史認識は、この事実を直視できず捏造の歴史ファンタジーを創作することによって朝鮮半島の悲惨な歴史事実を改竄していると考えられます。出自の大半が北方系狩猟民族にあるにもかかわらず、何故に韓国(中国からの移民が形成した古代の民族国家に比定)という国名にしたのか疑問があるのです。韓国人は、朝鮮半島で滅んだ伽耶諸国・百済・新羅・高句麗に独自文化があったことから、これらの文化が現代の韓国人の民族の文化であるとする捏造によって、韓国の歴史の中に組み込む歴史改竄を行ったことは明白です。高麗(王氏の王朝)・朝鮮(李氏の王朝)のDNAを受け継ぐ現代の韓国人には、滅んだ国家(伽耶諸国、百済、新羅、高句麗など)の諸民族のDNAを継承する同質性があるとは考えられないのです。

本論に戻ります。若干34歳の池田が創価学会第三代会長に就任できたのは、第二代会長・戸田城聖の後継者指名があったという池田の主張によるものであるといわれています。これには、戸田の後継指名は池田ではなく、戸田は側近の有能な某幹部を指名していたという有力な反対説があり、池田の後継指名説(エレベータの中で、戸田が池田を指名したという説)は常識的にありえないシチュエーションであると考えられることから池田説は捏造だという有力説がありました。この真相は藪の中ですが、池田が執行部の多数から擁立されたという形式をとったことから、池田のパーソナリティに執行部の期待が集まったのであろうと考えられています。

池田の個性的な統率力が発揮された創価学会は、短期間に飛躍的な組織の増大を成し遂げて自信に満ち溢れましたが、同時に、これが池田の独裁体制を許す結果をもたらしたと考えられています。創価学会の体質の変化は、池田のパーソナリティによるものと考えられますが、たった一人の独裁者の構想によって巨大組織化をなし遂げたことで、絶対者・池田の権力を牽制する機能を失ってしまい、さまざまな諸問題を抱え込むことになったとみられています。

特に、複数のゴーストライターに書かせた膨大な池田大作・著作集は、出版社が学会系列下の聖教新聞、第三文明などあり、いつでも自在に出版できる体制にあるものです。これらは、熱心な学会員が喜んで購読して宣伝するので在庫の心配がなく、ほとんど問題なく売却できる本です。この累計販売部数は常識を超える数字になると見られていることから、印税の額を想定すれば、池田に対抗できる作家はいないと考えられています。池田は偉大な作家であり、比類なき宗教指導者であり、高邁な思想家であるという偶像がいとも簡単に捏造されてきたと考えられます。これらの捏造によって、池田は世界各国の著名人と対談する機会をつくり(対談相手に高額の資金提供を行ったという説がある)、世界に知恵を提言する現代の思想家という形式にこだわる体裁を作り、これをゴーストストライターに書かせてきたと指弾されています。数年前から重病説が伝わり生死不明状態を疑われていた池田が、新刊本の池田大作著作を出版し続けたことで、この疑惑説は補強されたと考えられます。これが偉大な文化人、宗教指導者の実体と考えられています。

これらの出版本の発行部数が比類のない膨大な数字とみられていることから、これらの印税を個人取得として池田が独り占めするには非難を受けるべき問題があるものと考えられます。出版本の実体は、池田の名前を使うことで池田の名誉欲を満足させ、同時に会員へ効果的な販売促進を図る一挙両得を狙ったものであろうと考えらえています。学会の内部情報によれば、池田個人の著作と認められる本は数冊の詩集があるだけで、これ以外は皆無といわれていることから、印税の独り占めには学会内部から異論が出てくる可能性があるといわれているものです。

個人の能力を遥かに超える大量の池田大作著作の出版本は、会員への宣伝効果を高め、売れ行きを格段に高める効果が著しいものでした。膨大な本の出版は、効果的な資金つくりに貢献するものでしたが、大半は文化人を気取る池田の自己顕示欲や名誉欲を満足させるものであったと考えられています。この大量の出版本の随所にゴーストライターの代作と考えられている池田の指導が受け入れやすく盛り込まれたことから、池田の人物像がバブル状態に膨らんで、池田のカリスマ性を強力に推進してきたといわれています。なを、詳細は、(34)-6:創価学会の研究⑥を参照ください。

この中にある『小説・人間革命』は、学会幹部の必読書となったもので、各種の会合で池田会長の人物像を褒め称えるための教科書として使われたものでした。この本は、池田の指導者としての資質を学会員に刷り込む意図をもって書かれたものですが、池田の人物像を決定的に捏造した宣伝本とみなされているものです。次々にゴーストライターが生産し続けた大量の池田大作著作集には、池田の歓心を買うために随所に数々の虚構が書き込まれています。池田のファビョン体質に迎合する作為と考えられるものです。

ルサンチマンの妄想にとりつかれた韓国人でなければ作れない歪んだ歴史観に覆われた恥ずかしい韓流時代劇の大量生産の在り様は、韓流時代劇=韓民族の本当の歴史=韓民族は偉大な民族、という図式によって韓国民に刷り込まれている疑惑が指摘されています。いま、韓国民は自国の歴史や実力を客観的に認識できない民族性を疑われているのです。他国から見る韓流時代劇の評価は、架空の歴史ファンタジー=時代考証を無視して韓国民が待望する栄光に包まれた歴史認識の捏造=(なかったことにしたい)歴史事実を隠す新たな韓国史の捏造、という図式で見られているのです。

池田創価学会は、『法華経』の精神を世界に広宣流布する仏意仏勅の正当な宗教団体=池田大作は並ぶ者が無い偉大な広宣流布の指導者=池田大作は永遠の師=池田先生は日本だけでなく世界の偉大な指導者、という図式を持っています。創価学会の池田信奉者でなければ理解できない独善的な宗教観やプロパガンダの在り様には、神経回路に欠陥を抱え込んでいるのではないかと考えられる共通性が見られます。創価学会の独善的な主張は、日本人に育まれた伝統的な宗教観や価値観とは異質のものであり、全く相入れないものだと考えられます。

池田大作は、日蓮正宗の宗務院(実際には法主の意向と考えられる)から法華講総講頭を解任され、信徒資格を失って破門されたことを恨み、あろうことか創価学会員を組織的に洗脳して抱き込み、会員に宗門と闘わせる戦術を執拗に繰り返したと批判されています。池田の恐怖は、信仰の絶対的な指導者とされている法主の意思を尊重する従順な会員が池田を見限り、宗門の軍門に素直に下る指導を受け入れてしまうことであったと事情通は見ています。

ちなみに、宗門はほとんどの会員が法主の指導を聞き入れ、過半数の会員が池田から離れることを期待していたと見られていますが、離脱者の実数は、宗門の予想を遥かに下回る数万から数十万人といわれています。この脱会者は、宗門・法主の指導に従って法華講に鞍替えした人々だといわれていますが、日蓮信仰から離脱する道を選択した者はごく少数にとどまったと考えられています。日蓮の憑依の軛が、信徒の精神を束縛して離さないのではないかといわれているのです。

一般的な感覚では、これほどの泥仕合を見せつけられれば、信仰に疑いを持ち自然に離脱する者が後を絶たない状態になるものと考えられますが、日蓮のドグマと憑依を受け入れた日蓮信者の在り方はそうではありません。何があろうと日蓮の信仰は正しく、対立関係にある相手の考え方が間違っているだけだと考えるのです。これが日蓮信者に共通する精神の憑依性の現象面の一つと考えられるものです。

池田名誉会長は、絶対的な池田体制で築き上げた既得権益を全て失い裸の王様になることを極端に恐れたと考えられています。組織と会員に対するカリスマ性をどうすれば維持できるか、これが池田の重大な関心事であったと事情通から見られているのです。

創価学会の理念は、宗門(日蓮正宗)を外護する信徒団体として設立された信徒団体でした。折伏活動による信徒獲得によって、宗門が世間の批判を受けることが無いようにという主旨のもとに、教育者であった初代牧口常三郎が、日蓮正宗管長の特別な許可を受けて結成した信徒団体でした。折伏によって獲得した新入信者は全員もれなく日蓮正宗の末寺に所属させて信徒にするということを前提条件として結成されたことから、創価(教育)学会は「宗門の楯」となることを存在目的としていたのです。しかし、その宗門と法主を攻撃して甚大な被害を与えたのは池田大作が率いる創価学会でした。ゆえに、宗門に対する初代牧口常三郎、第二代戸田城聖との決定的な姿勢の違いがクローズアップされ、創価学会が結成の目的を放棄して独自路線を取り存続しようとしていることに批判が集中しているのです。

絶対的な権力を握る池田は、本部の大幹部を締め上げて意の如く従わせました。学会幹部は失職して生活の糧を失うリスクを回避して身分保障が受けられる道を選ばざるを得なかったのであろうと考えられます。並ぶ者を許さない絶対的な権力者に反抗できる者はいません。組織的に否定されてしまう運命に晒される危険性が高いのです。また、失職した新興宗教団体の幹部職員が、次の職を探すことは相当にハードルが高いと考えられます。

学会本部は、利用できるすべての機関紙、言論紙、末端幹部まで動員して会員を洗脳し、「池田は宗門に前代未聞の供養・寄進をしてきた最大の功労者である。その池田先生を法主は無慈悲に切り捨てた。」という被害者意識を前面にたてて、池田を徹底して擁護させることで、宗門のむごい仕打ちを印象付けることに成功しました。

創価学会執行部は、下部組織に池田を中心とする組織の団結を執拗に刷り込むことで会員を洗脳し、会員の怒りを法主に向けさせることに成功しました。学会員は従順で池田を疑うことが無いのです。これに不快感を示した宗門が、法主の権威をおとしめられたことに激怒して忍耐力を失い破門を決意したことから、池田を支える続ける学会員を組織ごと破門させることに成功したのです。これによって、池田は、創価学会内の絶対的な指導者の地位の保全に成功したと見られています。同時に、宗門の仕打ちに対して、学会員に怨念を植え付けることに成功した池田は、宗門・法主の宗教的な権威を貶めた稀代の策士であると事情通から見られています。

池田は、学会員が日蓮の正当な系譜である宗門の信徒に戻る芽をも会員自身に摘ませたと見られています。まさに池田は従順でお人よしの会員に救われたと考えられているのです。これらの情報が元学会幹部のネット情報に溢れましたが、これらの情報には内部の関係者しか知りえない詳細な内容を含むものがあることから、この情報の信頼性は高いと考えられています。

宗門の池田破門作戦を乗り越えた池田創価学会が、次に採用した戦術は世間を幻惑して池田創価学会の正当性をプロパガンダする「世界平和の文化活動」を主張することであったと見られています。創価学会は、宗門に勝利したと宣言するために、創価学会は世界平和の民主的な文化活動を推進する平和的な宗教団体であると自画自賛する必要性があったのだと考えられているのです。この活動自体は仏教が持つ「普遍性の理念」を現代社会に展開することであり、この運動自体には問題がありませんが、池田が平和運動団体のリーダーとしてノーベル平和賞を望む野望を持ち続けて来たことを問題視されています。池田創価学会の平和運動は世間の目を欺くために、独善的な宗教のカルト性を希釈する意図をもっていると見られていますが、池田創価学会が日蓮思想の正当な団体であることを会員にプロパガンダしているという疑惑をもたれて批判されているのです。

これらは、批判的な学会員や世間の目を宗門に対する同情から引き離し、池田創価学会に正当性があると訴えることができる一石二鳥の高等戦術と考えられています。池田大作の支配下にある創価学会の特殊事情とも考えられますが、学会員の認識や価値観をも一定方向にコントロールする高いリスク性があると批判されています。

この平和活動は、世間を安心させる効果が期待できるものですが、本来の池田創価学会の本質とは認めがたいところから、創価学会の「世界平和運動」には深い疑惑が考えられるのです。創価学会の真の狙いは、絶対者・池田大作を擁護すること、創価学会の組織を維持すること、であろうと批判されているのです。毎年の高額所得者の上位者の常連になった池田は、宗門からの奇跡的な離脱の成功によって、実質的には池田教の教祖となった金満の宗教ビジネスの大成者とみられています。

池田は、創価学会の絶対的な権威者であり続けるために宗教法人の定款を強引に変更させて終身の最高指導者になりました。池田の個人資産は隠されたままですが膨大過ぎる金額であると考えられていることから、池田の死後に、遺族と創価学会の争奪戦が始まるのではないかと囁かれています。祖師・日蓮はどのような思いでこの金満疑惑を見つめているのでしょうか。

池田大作は、自らが創立した公党の影のオーナーとみられている存在感を持っています。世間には政教分離の方向性を表明していますが、党員の殆どが創価学会員であること、議員の殆どが創価学会の元幹部であったこと、現在も創価学会の幹部が議員候補として選出されていることから、実質的な政教分離は進んでいないと考えられます。しかしながら、この党は政権を支える与党として政治の安定に貢献している役割を果たしていることから、その働きには一定の評価ができると考えられます。また一方では、池田がこの党の創立者の立場を手放さず、国会議員候補、地方議員候補の指名権を持ち、公職議員に影響力を行使できる実力者として指先一つで議員の政治活動を制御できる絶対者として存在し続けていると、世間の人々から疑惑の目で見られていることは大きな瑕疵であると考えられます。

創価学会員が池田を支持し続けている現状では、池田を諌められる人物は出てこれないのではないかと事情通は見ています。創価学会の選挙の票が与党に強い影響力を発揮している現状の国政の在り方からみれば、創価学会には誰も手が出せないのだと考えられますが、外から見れば、自浄機能が全く働かない創価学会は理解しがたいカルト教団のイメージがあります。しかし、個人会員やその家庭をみれば、宗教的に異常な独善的な主張を除くほかは普通の社会人と変わることがなく、何故に集団になると強すぎる宗教的な情熱が抑制できないのかという疑問を持たれています。創価学会の宗教的な独善性の主張が一般社会の不信と不安を増幅させるのではないかと考えられるのです。

現在、池田大作は病気静養中であり、創価学会の本部幹部でも面会できない状態にあることが伝わっています。池田の病気の内容は明らかにされていませんが、数年にわたり池田の病気にかかわる動静が秘密にされてきたことで、一時は回復説や死亡説が交互に囁かれましたが、どうやら存命であるものの、池田家の家族以外との面会は謝絶されている状態にあるというネット情報が流れていることから、事情通の人々の間では周知の事実になっているものと考えられます。

創価学会と池田家の思惑が違っていることが伝わっていることから、もし、池田の意思確認が取れないままに死亡することになれば、家族と学会執行部との間で確執が始まる可能性が高いことが囁かれています。その核心には、第一に「次の会長人事」、第二に「財産処理の問題(個人遺産と学会財産の詳細な仕分け)」が考えられていますが、第三には「今後の学会の進路問題(独立路線か宗門と妥協を模索するか)」が考えられます。どうやら、悩みの尽きない諸問題の発生が待ち受けている怪しい雲行きになりそうだと囁かれています。池田の存在感と既得権益があまりにも大きすぎたことから、池田の臨終後に、遺族と創価学会本部との間でさまざまな性質を含む遺産分割問題がこじれて愛憎劇が繰り返される前兆が感じられます。何事もなく無事平穏に済みそうにない悩ましい雰囲気が漂っていることから、批判者や事情通の人々が興味津々の目を向けてこれらの推移を見ているものと考えられます。

なを、本章に関する詳細は下記の「創価学会の研究①~⑥」を参照して下さい。

 

「創価学会の独立(宗門否定)と教義の変更を考える」

以下のコメントは、聖教新聞平成26年11月8日3面に掲載された「創価学会会則教義事項の改正について」という発表に関して感想を述べるものです。

この改正は、平成14年(2002年)の「教義と本尊の改正」(公式な宗門否定)と「創価学会の独自性の宣言(宗門との絶縁及び池田創価学会の独立宣言)」に関するものと考えられます。 

従来の創価学会の会則は、宗門の指導を拝受し宗門の認証団体の資格を取得したものでした。その特徴は「(創価学会は)日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現することを大願とする」というものでした。しかし、宗門と絶縁するためには、①「創価学会の宗教的独自性をより明確にすること」②「現在の創価学会の信仰の実践・実態に即した文言にする」ことが必要不可欠であったと考えていたことが如実にわかる発表文でした。 

よって、旧会則を「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」に改定したといっています。旧会則の相応しくない文言を削除・改定して宗門との寺檀関係と信徒関係を断ち切り独立路線を明確に宣言することには、時間をかけて用意周到に準備されてきたものであることが「魂の独立から23年、大謗法の宗門とは全く無関係」という表現から読み取れます。さすがの池田も会員の動揺を抑え込むために23年の歳月を忍耐して我慢していたことが手に取るように読み取れる改正内容でした。 

本尊に関する改正について、「当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実践に励んできた会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ、この一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊については、弘安2年(1279年)の大御本尊を指すとの説明を行っていました」がこれを「大聖人(日蓮)の法門を信ずるということ」に変更するという説明には創価学会の不安が読み取れます。宗祖日蓮が、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると考えたこと、それを末法の全民衆の成仏のために「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」として具体的に顕した信仰の対象が「三大秘法」といわれてきたという特徴がありました。これが日蓮の僧俗が等しく絶対に守らなければならない宗論であり教義でした。 

ところが、創価学会は、会則の第1章第2条の教義条項を、世界広布の新時代にふさわしいものにするという意味不明の理由を付けて「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく本門の本尊であります。」「本門の本尊に唱える南無妙法蓮華経が本門の題目であり、その唱える場がそのまま本門の戒壇となります。」と変更したのです。宗祖日蓮に由来する「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ」という伝統的な信仰姿勢を「大聖人(日蓮)の法門を信ずる」という、どうとでもとれる抽象的な解釈に置き換えて、宗門・大石寺が800年護持してきた本門の本尊の根本的な教義を否定し宗門の宗教的な権威を貶めたことは、いわゆる開き直りの詭弁でしかなく、いずれ創価学会のアキレス腱となることは容易に想定できる範囲内にあると考えられます。

池田創価学会が池田思想を刷り込んで育ててきた会員に対して行ってきた宗門批判のプロパガンダは、宗教者がもつべき節度を超える非難に値する内容でした。この詭弁のプロパガンダが聖教新聞の掲載記事に満載し続けて会員の洗脳を計ったと見られています。創価学会の詭弁を客観的に知るために、その部分を「○○○」で示して転載します。

「宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者(67世・日顕を否定する表現)の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります。」この文言は、創価学会こそが日蓮思想の正当な継承者であり宗教団体である、宗門には創価学会を指導教育する資格がないといってるのですが、この思い上がりの増上漫をもたらす思想・価値観はどこからくるものでしようか。この宗の人々が持つ病的な表現方法とも考えられますが、日本人が培ってきた感性とは異質性が突出しているところから、池田指導下で現れる特徴的なファビョン思考の噴出であろうと考えられるのです。

また、「ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力用が発揮されないという、あたかも〝電源と端子〟の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を阻害するものとなりかねないのであります。」この文言は、世間と学会員を欺く主張と考えらえます。事実、海外の創価学会は異常な教義に驚愕した各国政府機関がカルト宗教と認定するなど批判に晒されているのが実態なのです。宗教問題に敏感な外国人が日蓮思想に憑依されることなどありえず、異常な思想を持つ創価学会が海外から評価を受けるなどありえないのですが、創価学会はこの本質が理解できていないのだと考えられます。この文言の狙いは、宗門が護持してきた本門の本尊を否定し、学会が無断で発行してきた偽本尊の存在を正当化するものであると考えられます。長年にわたり信徒団体として宗門と共存し、相互に多大な利益を共有してきた関係性をもちながら、宗門の三大秘法の根本教義をあからさまに否定する醜態を隠そうとしているものです。腹立ちまぎれに前代未聞の掌を返しを実行して宗門を兵糧攻めで圧迫しながら、同時に日蓮の思想を継承する立場に立つことを宣言するなどあるまじき悩乱としか考えられません。

 「大聖人(日蓮)の仏法における信仰の本義は、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じることにあります。具体的には、広宣流布を願い、御本尊を受持し弘めるという自行化他の実践であり、それは日々の学会活動そのものであります。そのことを御本尊に自行化他にわたる題目を唱えと表現いたしました。」これは、宗門の専権事項である「信仰の在り方」の指導性を否定して、創価学会の独立を宣言するものであると考えられます。この文言を考えた人は、宗門・僧侶は折伏をしてこなかったことを伏線にして宗門は日蓮の意思を実行しなかったと批判していると考えられます。しかし、日蓮正宗の教義を否定することが創価学会にどのようにブーメランとなって帰ってくるのかを考えなかった思慮のなさが見て取れます。思い上がりもここまで来ると付ける薬がありません。絶対的な権威者として君臨し続ける池田に迎合する愚かな主張でしかないと考えられますが、けなげな忠勤を池田に評価してほしいのでしょうか。

「創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安2年の御本尊を信受してきました。」「しかし、魂の独立以来、学会員は皆、大石寺に登山することもなく、弘安2年の御本尊を拝することもなかったわけであり、各人の御本尊に自行化他にわたる題目を唱えて絶大な功徳を受け、宿命転換と人間革命を成就し、世界広布の拡大の実証を示してきたのです。まさに、これが会員が実践し、実感しているところなのであります。」 これは、創価学会は宗門と絶縁して、すでに独立していることを再確認する文言と考えられます。未練はすでに断ち切ったという宣言なのでしょうか。

「創価学会は、大聖人の御遺命の世界広宣流布を推進する仏意仏勅の教団であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布のための御本尊を認定します。」したがって、会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておきたいと思います。」 この文言は、宗門・法主の宗教的な指導性の権威を否定し、三大秘法(戒壇・本尊・題目)の根本義を否定するものです。会員に対して、創価学会こそが広宣流布の主体であり、仏意仏勅の正当な宗教団体である。日蓮の信仰の正義は宗門・法主にはないと主張することで、お人よしの学会員の動揺を抑え込む意図をもったプロパガンダの典型例ともいえる開き直りの文言と考えられます。   

根本的な問題は、創価学会には宗教法人の独自性を主張できる教義が無いことにあります。主要な教義を天台宗の教義から借用した日蓮が天台宗から独立して日蓮宗各派の教祖となり、この中の一つの弱小宗派であった日蓮正宗の信徒団体の一団体にすぎない創価学会が日蓮正宗から独立して、日蓮正宗の教義を使い続けることは教義の盗用になると考えられます。そもそも信徒団体が宗門から独立して客観的に見分けのつかない教義を使い続けることなどあってはならないと考えられます。まして、宗門との絶縁理由の根底に、宗門を否定し、創価学会こそが日蓮の正当な血脈を継承する正義の団体であると主張するに等しい信徒団体の独立などは前代未聞の茶番劇に過ぎないと考えられます。

創価学会の存在理由は、日蓮の正当な血脈を主張し続けてきた日蓮正宗の楯になって広宣流布の先兵を務めることにあったと公言してきたことにあると考えられます。創価学会はこの存在理由によって、雨後の竹の子と忌み嫌われた新興宗教に対する世間の批判を免れ、日蓮の血脈の正当性を吹聴して折伏の批判をかわし、会員に折伏の正当性と功徳を刷り込んでこれたのではないかと考えられます。

創価学会には、宗教団体としての節度に欠け、独裁者・池田の指導や学会執行部の指導内容を無批判に受け入れる信仰姿勢が顕著に現れていることから、特徴的なオカルト性が指摘されています。カリスマ指導者の指導に従い、世間の批判をものともせず折伏を敢行し続けて巨大組織化した創価学会は、政党を作りこれを育て上げたことで外敵から身を護る力を所持し、宗門の信徒団体として多大の供養をするだけでは満足しない妄想を育てたものと考えられます。会員数の飛躍的な増大がシステム的に強い財務体質を育て上げたことで、宗門・法主に物申す力を誇示する存在に変貌し、組織の維持と運営に追われる宗教産業に変貌を遂げたのではないかと批判されているのです。

創価学会員は、日蓮の憑依を受け入れたことで組織的に池田創価思想を刷り込まれ、素直で協調性の高い従順な人格に育て上げられたのではないかという傍観者の指摘があります。創価学会は敬虔な宗教団体の範疇から抜け出して、高い収益性が見込める宗教産業に変貌を遂げていると見られているのです。従順で真面目な多数の活動会員の無批判体質のお蔭で、創価学会は組織の内部から一人一人の批判を吸収することが無いといわれています。批判の声が上層部に届いて、抑えきれないレベルの危機感を組織に与えることがない体質の中からは、今後も何があろうと批判の声が上がることはないのではないかとみられています。批判されない宗教・団体組織・独裁者はいずれ堕落に陥る末路が見えています。この先、創価学会はどのような変貌を遂げようとしているのでしょうか。

2015年11月17日の聖教新聞のトップ一面に次のような記事が掲載されました。これによれば、新たに「勤行経典」を制定し、三代会長(初代・牧口常三郎、二代・戸田城聖、三代・池田大作)を「永遠の師と仰ぐ 」こと、「万代の発展へ宗教的独自性を明確にする」ことを目的とする改定であるとしています。日蓮正宗の教義を否定して宗教的に完全な独自路線を取るという宣言であることから、宗門との宗教的な関係においては修復できない敵対関係が固定化されたことになります。会員には、朝夕の勤行で「三代会長を永遠の師として讃嘆する」文言が定型化されて刷り込まれることになりますが、結局は生きている池田大作の宗教的指導者としての権威を既成事実化し、池田大作=日蓮とする池田教に衣替えする教義をこれから会員に刷り込んでいくという宣言であると考えられます。

初代牧口氏、二代戸田氏には共通の意思「創価学会は宗門を守護する信者団体」があったと考えられますが、三代池田にはこのような意思が全く感じられません。池田の行動や価値観、とりわけ特徴的な金満体質には伝統的な日本人の価値観が全く感じられないのです。牧口、戸田の両氏と池田とは思想の継承が考えられません。池田は、突出しすぎた池田イズムを隠すために、三代の会長を含めて永遠の師としましたが、これによってカリスマ性が発揮できるのは生きている「三代目の池田」のみではないかと考えられるのです。すてに死亡した牧口、戸田の両氏は池田の隠れ蓑として使われたのだと考えられます。池田が牧口、戸田の両氏を恩師として尊敬しているとは到底考えられません。宗門との闘争の仕打ちには牧口、戸田の両氏の意思が否定され、無視されたことが歴然としているのです。

この創価学会本部の決定は、創価学会や政教新聞が得意とする会員の情に訴える美しい言葉を駆使して露骨な情報操作をしても、所詮は日蓮の法流から独立して独自の新興宗教を作る宣言であると見做されることになります。学会本部が考えているように、一般会員が何の異議も唱えず、学会本部の思い通りに唯々諾々と従うかどうかは興味を引くところですが、今後は独自性を主張する宗教団体としてどのような教義内容を持とうとしているのか世間の注目を浴びることになります。しばらくの間、世間は事の成り行きを静観しながら注視するものと考えられますが、今後は、創価学会が文字通り新興宗教団体であることを自ら宣言した道の先に何があるのか疑惑の目で見られることになると考えられます。創価学会本部は、池田の余命が幾ばくも無いとみているものと考えられることから、池田死後の路線問題について、池田の名前を使って決着させたという疑いも十分にあり得ることだと考えられるのです。