序章5:祖師仏教の非仏説を考える

鎌倉時代、比叡山の先輩僧・法然をライバル視した無名の日蓮が、念仏の流布に対抗する形で唱題行「南無妙法蓮華経」を布教しました。日蓮の法華経の解釈は、妄想と捏造から生まれた「日蓮本仏論」(これを宗論としたのは大石寺の第二祖日興と第三祖日目と考えられる)という非仏説でしたが、日蓮自身を『法華経』が予言した(?)末法の法華経の行者=上行菩薩=末法の本仏(日蓮本仏論)とする異端説でした。この日蓮を末法の本仏とする妄想が、その後の日蓮の信者にみられる特異な法華経思想の足枷となるものですが、これが日蓮が感じ取った独善的な法華経観として「文底下種仏法論」を捏造し、「日蓮本仏論」を生み育てることになったものであると考えられます。

釈迦が説いた究極・最高の教えは『法華経』である、というまことしやかな捏造と思い込みが日蓮系の新興宗教団体や創価学会員に蔓延しています。その気になれば、宗教の客観的な比較情報を入手できる立場の現代人が、鎌倉時代の宗教観(大乗仏教の普遍性が欠落した「祖師が感じとった選択の宗教観」)をそのまま信じて憑依を受け入れることには疑問が感じられます。日蓮の独善的な教説に自ら憑依されることを望んだ人々にとっては、日蓮の教説に疑問を持つことは不可能と考えられます。しかしながら、大乗仏教の普遍性の精神や大乗経典編纂の歴史を学ぶことは、今日では難しいことではなく一般的な情報として誰でも入手可能なものであると考えられるのです。

このような開かれた情報や客観的な大乗仏教の教理を比較することなく、法華経が最高、日蓮は大聖人(仏)などという無批判で教条的な独善説を受け入れる人々が後を絶たないことには少なからずカルチャショックを受けざるを得ません。日蓮本仏論を前提とする大乗仏教の普遍性が欠落した異様な教義を世界に広宣流布することを本気で夢見る体質に育て上げられた人々がいるという無残な事実が信じられないのです。そのようなオカルト思想が世界の人々に受け入れられる可能性は考えられません。その異様なオカルトの本質を見破られて指弾を受けるだけだと考えられます。

宗教をアヘンに比定する批判には二面性が考えられます。①耐え難い苦痛を緩和するために医師の処方箋によって使用する鎮痛作用の医学的効果というプラス面と、②快楽を求める常習性の悪業によって引き起こす中毒症の弊害というマイナス面があるのです。オカルト宗教の弊害はこのアヘンのマイナス面と同質の危険性があるのです。すべての宗教をアヘンに見立てる妄想には同意できませんが、この宗教団体の信者の人々が主張している世界平和運動や社会文化活動には、新興宗教団体の批判されるべき体質を隠し、世間の目をそらすために、耳触りの良い平和活動として利用しているのではないかという批判があります。この批判は、本来は善意の人々の自主的な社会活動であるべき平和運動や社会文化活動がこの宗教団体のプロパガンダに利用されているのではないか、という無視できないリスクがあることを指摘しているものであろうと考えられるのです。一般的に、この宗教団体の活動家は、自身の行為に疑問を持たないまでに独善的な宗教ドグマに憑依されている人々であると評価されていますが、ここに危険性の因子が隠れているのではないかと批判されているのです。

法華経を信じて受持する者には計り知れない功徳がある。法華経が諸経の王であると褒めちぎったのは、なんと法華経自身でした。「薬王菩薩本事品」では、「如来の説いた諸経の中でもっとも深く大」「衆経の中でもっとも尊い」「諸経の王」「この経典をよく受持する者もまた一切衆生の第一」といい、また、「安楽行品」には「此の経は為れ尊、衆経の中の上なり。我常に守護して妄りに開示せざりしを、今正しく時なれば汝等が為に説く。」といっています。これは典型的な自画自賛というものですが、法華経はその理由を述べず、法華経自身の中身が何かをまったく語っていないのです。しかし、法華経はこれを「難解難入」といい、このことが理解できるのは唯仏与仏(真理は仏と仏のみが知る)のみであるとして、法華経の受持の功徳を力説しているのみです。

しかしながら、この自意識過剰な自己評価の物言いには、その他の大乗経典の教理を完全に見切ったという唯我独尊の態度が見えることから、何故に仏教経典に相応しくないこの尊大な自己主張をわざわざ挿入する必然性があったのかという強い疑問があるのです。ここには、何故に法華経が再編集されなければならなかったという裏の諸事情が透けて見えるのです。

法華経は論理的に記述された経典ではありませんが、法華経28品が説く大乗の精神が進歩的な説話と比喩で語られていること、法華三大思想(①一乗真実、②久遠実成、③菩薩行道)を持つことから代表的な大乗経典のひとつとして『華厳経』と並び称されている経典であり、多くの学僧に学ばれています。法華経は、天台宗や日蓮の専属経典ではありません。特に、日蓮の法華経解釈が異端としか評価できない「文底下種仏法論」や「日蓮本仏論」を生み、独善性にまみれた日蓮思想を折伏という強引な布教活動によって世間にまき散らしてきたことは、この宗の突出したオカルト性を物語る典型的な事例であろうと考えられます。

法華経を編纂した大乗の菩薩たちは、長い年月をかけて28品の全体像を構成したのであろうと考えられます。法華経は、大乗仏教の頂点に位置づける意図を持って加上され何度も再編集され続けた典型的な経典と考えられます。方便品には釈迦の初転法輪が書き換えられ、「釈迦の初転法輪は、人々を真実の教えに導くための方便(仮の教え)である」と加上しているのです。「方便品」の再編集の意図は、一仏乗の論旨の整合性を潤色することと考えられます。上座部仏教の『涅槃経』が伝える本来の初転法輪の内容を否定する手法によって、初転法輪の真実を語るという論理の構築がなされています。ここには、釈迦の初転法輪の真実は「阿羅漢を目指す修行の道を示すものではなく、真実は一仏乗を示して菩薩行道に向かわせる方便であった」と作り替えることによって第二の初転法輪の論旨が加上されています。この再編纂の目的は、大乗仏教の著名な先行経典(『般若経』群)の上に立とうとする意図であることが考えられるのです。ここには、なんとしても大乗の諸経典群のトップに立ちたいとする願望の強い意志が見えるのです。

また、『法華経』には、この一仏乗の整合性を強く印象づける意図が混入さていますが、いわゆる「法華七喩」といわれる加上です。①三車火宅の喩(「比喩品」)、②長者窮子の喩(「信解品」)、③三草二木の喩(「薬草喩品」)、④化城宝処の喩(「化城喩品」)、⑤衣裏繋珠の喩(「五百弟子授記品」)、⑥髻中明珠の喩(「安楽行品」)、⑦良医治子の喩(「如来寿量品」)といわれるものです。これらは、紛れもなく一仏乗を強調する意図によって新たに組み込まれた再編です。一仏乗の論旨との整合性を図る補強でした。『法華経』には、上座部仏教経典が語る釈迦の入滅は、実は人々を真実の教えに導くための手段(方便)であり、釈迦の入滅は「死んだふり」であったことが強調され、真実の釈迦は久遠の過去に成道した存在=久遠仏であることが加上され再編集されているのです。

これによって、『法華経』は、永遠不滅の救済者または宇宙の本体そのものを説くブッダ観(仏身観)を示す最高経典とする主張が始まったものと考えられます。これは他の大乗仏教経典が具体的に語らなかった永遠のブッダ観を示し、仏身のあるべき姿に言及する説でした。同様に、『華厳経』には、永遠の本仏である「毘盧遮那仏」(密教では法身の大日如来となる)の華厳世界が説かれました。永遠のブッダ観は、法華経だけの独自性とはいえませんが、決定的なことは、『法華経』も『華厳経』も統一的な仏身観を明らかにできていないことです。『

法華経を編纂したブッダたちは、法華経の比喩や説諭の展開に心を砕き、よほどの傑作が生まれる満足感をもって、法華経が最高経典とする自画自賛の自信を誇示したかったのであろうと考えられます。しかし、『法華経』が仏教の最高経典とする捏造は、中国仏教の独善性を反映する説と考えらえます。天台の一念三千論、天台三大部(『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』)の発生源は、鳩摩羅什が翻譯した『妙法蓮華経』の「方便品」の中に意訳によって挿入された十如是(いわゆる諸法実相の元ネタ)を淵源とするものでした。鳩摩羅什が翻訳した法華経がなんであったかは特定はされていませんが、法華経のサンスクリット原本は発見されていません。十如是は鳩摩羅什の翻訳にしかない文句であることは事実です。

智顗は諸法実相を論拠として法華経を意訳する解釈をし、その教理を『法華玄義』に著したのですが、中国天台宗では、智顗の『法華玄義』の教理を解釈の絶対的な基準にしたのです。法華経の評価は、天台智顗の教理の独善性によって蔓延したのです。法華経の自画自賛は、多数の大乗経典の教理を理解し、その優劣を比較検討できる広範囲の情報を持つことができる人々でなければ知ることができないという特殊な事情があります。法華経が編纂されたと考えられている2世紀前後ではそのような情報を得ることは不可能です。法華経の再編集事業は、大乗の論書(大乗起信論、釈摩訶衍論、等)が成立して参照できるようになった時期以降に修了したのではないかと考えられます。智顗の法華経は、6世紀中頃~末頃に再編纂されて完成したのではないかと考えられるのです。

『法華経』は、生存中の釈迦が説いたすべての経典の中で最高経典であり、釈迦の真意である。これが日蓮の教条的な法華経の解釈と考えられます。このような教条的な経典解釈の在り方では、普遍性をもつ大乗仏教の理念が理解できるとは考えられません。釈迦は、日蓮が法華経を唯一絶対の経典と主張し、その余の大乗の諸経典は謗法であると主張していることを快く許して下さるでしょうか。それとも、釈迦の名前を好き勝手に使われることは大変迷惑とお考えでしょうか?それとも大笑いするでしょうか?ふと、そのような思いが涌いてきます。

竜樹(ナーガルジュナ)、世親(ヴァスバンドウ)が法華経の注釈書を残していますが、インドには法華経が流布した形跡が遺跡寺院から発見されていません。法華経は中国の隋代に天台智顗の一念三千論という独特な哲学によって「人の一念に仏の世界が内包されている」とみる仏教観がもてはやされましたが、中国・唐代の仏教の中心は密教と禅宗に移り、法華経は衰退に向かいました。法華経は朝鮮半島にも請来されていますが、法華経によって立宗された宗派は皆無です。法華経が高い評価を受け続けたのは日本だけです。最澄の比叡山の影響力と考えられます。

巷に『法華経』は即身成仏を説く有難いお経とする説がありますが、法華経28品のどこにも即身成仏の出所の文言を探すことができません。「提婆達多品」の竜女の成仏が即身成仏にあたるとする見解を述べる者がいますが、これらは法華経の独特な味付けに使われた単なる一面性にすぎないと考えられます。即身成仏の具体的な修道の在り方や修行の階梯などの道程が何一つ明かされていない即身成仏などありえないのです。法華経の救いの構造は、法華経を信じることによって、善行を積んで仏になるという考え方にあります。その前提には「お経そのものに力がある」とする価値観に支えられていると考えられます。しかし、法華経が説く経典受持の功徳=成仏=即身成仏という図式は修行が持続できない人々に対する方便であり、信仰の目覚めを持続させる工夫の一つに過ぎないと考えられます。ゆえに、天台・智顗が方便品(迹門)の十如是から掴んだ燭光を手掛かりに一念三千の教理を考案し、妙楽大師がこれを天台の極理として育て上げ、法華経は即身成仏を語っているという形式を作り上げたと考えられるのです。

法華経は、その序品に、釈迦滅後の56億7千万年後(仏教特有の法数の表現)に出現して救いの手を垂れ給う弥勒仏(未来仏=釈迦滅後の救済者)となることを授記された弥勒菩薩(今は兜率天で説法中。上座部仏教が認める唯一の菩薩。インド・中国・朝鮮・日本の仏教信仰に大きな影響を与えた菩薩)を地上の修行者の群れの中に混じる姿で登場させています。しかも、名利に執着して大切な経文を忘れる情けない修行者を演じさせています。あたかも弥勒菩薩が未来仏になれるのは無数の仏のもとで歴劫修行してからのことであるという設定をしているのですが、法華経は、予言された未来仏=弥勒仏をも法華経の偉大さを誇張する演出に利用したことは明白と考えられます。法華経は、弥勒菩薩に普通の人の役割を演じさせることによって、悟りには様々な階梯があるということを示したかったのであろうか?

ところが、従地涌出品(第15~28品を本門とする説がある)以降の本門になると、寿量品では、釈尊(ブッダ)は滅することが無い永遠の存在であることが示され、歴劫修行の階梯が大幅に圧縮されて、この世がすでに釈尊(ブッダ)の浄土であることが説かれるのです。人々は浄土に生まれ変わる必要がなくなるのですが、法華経は、弥勒菩薩の兜率浄土も観音菩薩の補陀落浄土も法華経のうちに包摂されると説いています。法華経は、論理的な記述をしないままに、経典受持の功徳を特化して、説法の舞台を急速に移し変える手法が頻繁に見受けられます。このことは、法華経28品が多数のブッダ(大乗の諸菩薩)たちの分担作業によって編纂されたことを物語るものだと考えられるのです。

釈迦滅後の悪世において、法華経を護持して説き広める誓願をたてた求法者が行うべき「伝道の指針」が安楽行品に書かれています。これによれば、法華経を説こうと願うなら安らかに語ること、他の経典の欠点を語ってはならない、他の教えを説く人に対して高慢であってはならない、他人の良悪・長所や短所を口にしてはならない、人の安穏を願って法を説きなさい、いたずらに議論して論の優劣を競うことがあってあはならない、などです。日蓮が激しく他宗を排撃した宣教の手法は法華経の心に全く合わないものであったと考えられます。

「勧持品」は、釈迦入滅後の法華経の伝道者は苦難と忍耐の殉教の道を歩む覚悟が必要であることを説き、これに法華経の宣教者たらんとする者が「不惜身命」の誓いを立てる章です。これを強引に日蓮の身に当てはめて、日蓮は法華経の布教のゆえに一命を殺害されようとした大難を蒙った唯一の宣教者であり、この境界は日本第一の法華経の行者であるとするものでした。日蓮のこの自画自賛は同時に最澄をはじめ法華経を宣揚してきた比叡山の数々の高僧の功績を無視するものであると考えられるのです。しかし、このことから、日蓮は佐渡流罪を契機に「発迹顕本」し、日蓮が上行菩薩の再誕、末法の本仏である自覚に立ったと日蓮門下では信じられています。こうして、宗祖日蓮を礼賛する憑依の伝説が作られ、この中で日蓮を末法の本仏とする日蓮本仏思想が育てられてきたと考えられるのです。

日蓮が蒙った諸難は、日蓮が他宗を邪宗呼ばわりしてきたことによって引き起こした因果応報の妥当な処断であり、法難ではないと考えられます。これは鎌倉幕府の刑罰を不服として法難にすり替えるものであり、法華経の説く宣教者の受難ではありえず、法華経の解釈を枉げる独善説であると考えられるのです。日蓮は安楽行品が説く宣教の求法者の道に明らかに外れていました。勧持品の説く法難は、安楽行品が説く宣教姿勢を護持したにもかかわらず、無法な言い掛りによって法難を受ける場合であると考えられるのです。日蓮は法華経が説く法難にあった唯一の宣教者であるという形式にこだわって、自ら法難を招いた疑惑があるとさえ考えられるのです。日蓮の独善的でかつ異常な宣教姿勢は、幕府、顕密仏教界に対する挑発的な不満の表明でしかないと考えられます。

法華経は、根本の教主について不滅の釈迦如来という思想を語っています。不滅の存在と見做された釈迦が入滅したことから、生身の釈迦(色身)と不滅の釈迦(法身)の問題が発生しています。ここに、仏教徒にとっては無関心ではありえない「仏身論」の問題が発生し、さまざまな大乗仏教経典が各自に独自性のある解釈を示したのです。釈迦滅後の本仏の特性は、生身の釈迦ではなく、不滅の釈迦如来という新しい本尊観が生まれたことから、法身または報身という仏身観が考えられたのです。ここから大乗仏教の根本的な論理性をもつ「仏身論」の研究が始まり、各宗が独自性のある教理を展開するようになりました。

仏身観の研究は、仏教教理史の中心的な課題となるものです。釈迦滅後、大乗仏教では永遠のブッダ(仏)の存在が語り始められ、仏とは何か、仏の真身とはいかなるものか、という議論があらわれ、その主張内容が教判の中心課題になりました。この仏身観を論理的、哲学的に整理して教理体系を構築したものが仏身論であり教判論の中心課題となっているのです。、仏身論は、仏教としての正統性と正当性を挙証する理論体系ともいえる重要な論です。自宗の存在性の正統性と正当性が挙証できるかどうかの論証の基準ともいえるものなのです。

日蓮本仏論の主張は、地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕を持ち込んで『法華経』の解釈を歪め、法華経の精神を捏造する妄想と考えられます。伝統的な大乗仏教の教理を学んだ僧の中から、日蓮=地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕=末法の本仏=根本仏(諸仏を統括する統一的な本仏)などという妄想の仏身観を主張する者が出るなどありえないと考えられます。日蓮本仏論の主張は、法華経の如来寿量品から日蓮本仏論を導きだすことは不可能です。法華経の布教にまことをささげた天台大師智顗、妙楽大師湛然、伝教大師最澄およびその系譜に連なる者が絶対に認めない妄想に過ぎないことは自明の理と考えられます。

日蓮の法華経観は、天台宗の伝統の正当な師僧から伝授されたものではないと考えられます。修行僧日蓮に芽生えた妄説と考えられます。日蓮が天台宗の正式な僧侶資格を認可された僧とは考えられないのです。比叡山を勝手に下山した修行僧にすぎないのではないかと考えられるのです。日蓮宗には厳格な天台宗の諸儀式・諸儀礼が継承されていません。天台宗の余韻が感じられないのです。日蓮本仏説は、日蓮に憑依された強い思い込みや節度が欠落した情念としか考えられませんが、法華経を根拠にして日蓮本仏論を捏造した精神構造にはまったく仏身観が感じられません。このような妄説を継承する宗教団体には、オカルト性が濃厚にあると考えられるのです。

統一的な仏身観は中期密教(『大日経』・『金剛頂経』)の曼荼羅思想がはじめて示した概念です。法華経の仏身論のあいまいさが日蓮本仏論の捏造を生んだのではないかと考えられます。立宗宣言しながら、日蓮が長い間、本尊の相貌(その相、姿、形)を信者に示すことができなかった理由は、日蓮自身も本尊を何にするかの逡巡があり、具体的に示すことができなかったのであろうと考えられるのです。

日蓮が本門の本尊として図顕した本尊は、墨一色で日蓮の独特な髭文字といわれる癖字で書かれた本尊ですが、明らかに密教の要素が含まれています。これを事の一念三千の十界曼荼羅といっていますが、何故か大日如来の教令輪身(明王)の双璧とされている不動明王、愛染明王を抽象的な表現(梵字ではない、意味不明の文字か?)によって書き入れている特徴があります。いわゆる円密一致の表現なのでしょうか?日蓮門下では、これを本門の大曼荼羅といいますが、日蓮の各派が本尊とする曼荼羅はそれぞれ異なります。これら数種の本尊は、いずれも日蓮の真筆とされているものですが、日蓮が書いた経緯はそれぞれに事情が異なります。日蓮の弟子は日蓮の死後に分裂し、それぞれが手を尽くして入手できた日蓮真筆の特別ないわれを持つ本尊を入手したものですが、各派ともそれぞれに唯一絶対の本尊であることを主張しています。どれか一つの本尊の唯一絶対性を認めれば、自派の存在と血脈が否定されるリスクがあるからだと考えられます。日蓮の本尊の仏身観は、日蓮の胸中に芽生えた日蓮の独自の世界観から生まれた極めて個性的、特殊なものですが、これを大乗仏教の仏身論という普遍性を持った論理性で説明することはとても難しいものがあると考えられます。詳細は「(33)-3日蓮の法華経解釈」「(33)-4日蓮本仏論」及び「(33)-6日蓮の本尊とその論理性」を参照して下さい。

日蓮の法華経観は、比叡山の逆鱗に触れる非仏説でしたが、 この世こそが常寂光土(浄土)であると力説して専修念仏の西方浄土を徹底的に批判した姿勢には、一定の評価がありました。死後の世界に安穏を求める思想(現世逃避)を否定する姿勢には、現世の改革思想が認められるからでした。

この意味では、日蓮と法然、親鸞の世界観は対極にありました。鎌倉幕府から2度の流罪に処せられ、鎌倉御家人、地方領主の数々の弾圧を受けながらも日蓮が生き残れたのは、僧の身分であったこと、鎌倉御家人であった地方領主や土豪層を信者に持つことができたからだと考える説があります。これに対し、日蓮系では「仏は横死せず」という牽強付会の妄説が信じられています。

僧を殺せば七難に祟られる。これは僧が蔓延させた為政者に対する牽制でした。この牽制論には、為政者に心理的な圧迫感を与え僧の処断を躊躇させる威力があったものと考えられます。日蓮の弟子は法華宗を名乗り、比叡山の衣を便利に利用して弾圧を免れた僧が相当数いたことは事実です。後年、法華宗の名乗りは比叡山が正式に禁止処分にしたことで宗祖の名を取って日蓮宗(各派)に改めた経歴があります。

日蓮の現実的な改革思想が、室町・戦国時代の町衆の商工業者に支持されて根付きました。いつしか、題目は都市部の町衆に根付き、農村部の念仏と棲み分けをして流布されてきた歴史があります。

この中の少数派であった興門派(日興、日目の系譜)には、単なる祖師崇拝を突出した日蓮本仏論が根付いていました。興門派は弱小で、江戸時代から戦前まで穏健な多数派の身延門流の傘下に置かれていましたが、戦後に独立し、信徒団体の創価学会が急激に信者数を増やしたお蔭で総本山大石寺の大伽藍を整備し、地方寺院を多数建立して寺院の信徒組織を整えながら裕福な巨大教団に変貌を遂げました。

興門派の富士・大石寺は、鎌倉時代から一貫して日蓮本仏論という頑迷な教義を死守してきたことから、ハリガネ宗の異名が付けられています。日蓮の正統な血脈を主張し、日蓮本仏論を捏造する異端の仏教観を基準にして、他宗にいわれのない批判を浴びせて攻撃する独善的な体質に呪縛されているという批判があります。創価学会との対立が表面化し、創価学会を破門して独立させたことから弱体化していると考えられます。

念仏と題目は、平安時代の院政期ころまでは貴族層から武士層まで、朝は題目、夜は念仏、と使い分けをされていた簡便な信仰方法でした。禅も密教の修法も併修されていたのです。平安末期から鎌倉時代の度重なる政変や激しい気候変動・大地震が頻発しました。これを末法思想の始まり、終末思想の現れと受けとった祖師が、悩める民衆を救うために、簡便な庶民向けの信仰形態を考え出したものと考えられます。混乱の時代に登場した新たな布教方法でしたが、疲弊しきった人々の心の中に根付きました。

しかし、これらは釈迦仏教や大乗仏教の精神を継承するものではなく、むしろその精神性を否定するものであったと考えられます。端的に言えば非仏説です。

『法華経』は、その精神性が進歩的であったことから、これに心酔した個性の強い新興宗教の祖師が独善的な解釈を加えてさまざまに変質させられた経典です。現代でも新興宗教の経典に利用されている著名な経典です。浄土三部経は、念仏宗徒が阿弥陀如来の広大な慈悲の深さを拠り所として、菩提心や菩薩行の自覚のないままに成仏を丸ごと預けることができる有難い経典に祭り上げられました。鎌倉新仏教(祖師仏教)は、非仏説が民衆仏教の顔を装って異質な教理を大量に刷り込んだ過失があると考えられます。

日蓮系と念仏系は、庶民の中に教勢拡大するライバル関係にありました。庶民の支持を広げる工夫は、信仰実践の簡略化に如実に表れましたが、信者の実践は「題目」と「念仏」に競うように特化されました。題目は娑婆世界(現世)の中で成仏することを求める人々が、念仏は阿弥陀如来に抱き取られて西方極楽浄土(来世)での極楽往生を求める人々に支持された簡便な信仰の実践方法でした。祖師たちが、庶民が簡単にできる実践方法を示したことで庶民の支持を得ることができたのです。これが、仏教の庶民化といわれる祖師仏教の実態であったと考えられます。

禅宗系(栄西、道元)は、日蓮系や念仏(浄土)系とは一線を画す独特の立場で、中国文化を背景にして新たに台頭した新興勢力です。禅宗は、インドの仏教集団であるサンガ(僧伽)集団から発生した仏教ではなく、いわゆるインド発祥の大乗仏教の中から発祥した仏教集団ではありません。その実態は、仏教とは全く別の中国の道教コミュニティから発祥して仏教を名乗った集団でした。禅宗が仏教教団に衣替えできた理由は、大乗の『涅槃経』が説いた「一切衆生悉仏性」(いわゆる如来蔵思想)の影響を受けて成立したこと、いわゆる座禅修行の精神的な眼目が大乗思想の「一切衆生悉仏性」の影響をうけたことにあると考えられます。

大乗仏教が考える釈迦仏教の眼目とは、「自分の中にいるブッダに気づくこと」にあります。釈迦の遺言(「自灯明・法灯明」)とは、「自分で努力を重ね悟りの道を歩む」こととされています。自分の中に如来の胎蔵(仏性)があるという如来蔵思想に強い影響を受けたことを理由にしていると考えられます。禅宗は、大乗仏教の諸経典を根本経典として発生した仏教教団ではありませんが、「自分の中にブッダの本性がある」ことを前提として、「すべての人は条件さえ整えばブッダになることができる」と考えたのです。この意味において、当時の中国人は、禅宗もまた大乗仏教の系譜に連なる集団であるとの自覚を強くもったことが考えられます。

禅宗では、「禅とは信仰ではなく、修行である」といいますが、基本的な姿勢には文字によって書かれた経典の教え(法)には重きを置きません。禅宗がいう座禅とは「仏性に気づくための座禅修行」でした。しかし、朝廷・貴族・大寺社の旧勢力が長年にわたり独占してきた既得権益を簒奪する武力を持った鎌倉幕府の武士階級の精神的な支柱として武士文化の形成に利用したことが考えられます。朝廷が庇護してきた既存仏教の精神文化に対抗する意図をもって、台頭する武士勢力の精神的な対抗軸として物心両面で支援し、新たな新仏教に位置づけて育て上げたのです。

禅宗は、武士階級の手厚い庇護を受けて隆盛に向かいました。禅宗が武家政権から特別の庇護が受けられた理由は、京都の伝統的な(貴族)文化に対抗できる最新の中国文化であると認められたからでした。多数説によれば、文化的に見下げられていた武家政権の意地が、京都朝廷・権門勢家の伝統的な精神文化に、最新の中国文化をもって対抗したものであったと位置づけられているのです。

鎌倉幕府の執権北条氏が保護して育成した「鎌倉五山文化」や室町幕府の将軍家足利氏が保護して育成した「京都五山文化」は臨済宗が受けた恩恵です。鎌倉と京都の臨済宗の古刹寺院が巨大な寺域を持つ理由がここにありますが、現在は歴史的建造物として観光寺院の色彩があります。臨済宗には、庶民に対する布教活動の熱意が少ないと考えられています。

曹洞宗は地方領主や在地の有力武士の帰依を受けて、手厚い保護に浴して成長した教団です。武士階級は、殺傷に関わる職業の身上があったことで、後生善処を求める気持ちがより一層に強かったのではないかと考えられます。武士の心の中に沈殿していた「職業上のわだかまり」(合戦、殺傷=不殺生)を払拭させた禅宗の功績は大きいと考えられるのです。曹洞宗は自助努力の布教活動によって次第に教勢を拡大してきた宗派です。現在、一般的に禅宗という場合は、曹洞宗を指すと考えられています。庶民の大半は、江戸時代の檀家制度の下で行われた庶民の強制割り当てによるものではないかと考えられます。

黄檗宗は、1654年に中国・明国から招かれた隠元が京都に開宗した新参の明朝様式の臨済宗の一派です。正統派の臨済禅を伝える意識を持ち「臨済禅宗黄檗派」などと名乗りました。江戸幕府の外護を背景に諸大名の帰依を受け、1745年の末寺帳には1043ヶ寺の末寺の記載があります。黄檗宗を名乗ったのは1876年のことですが、一般市民に対する布教活動に見るべきものがなく、現在は小規模の教団(本山は京都・宇治市の万福寺)です。

鎌倉時代の守護・地頭の権勢と室町時代の守護大名の権勢の庇護を求める地方寺院が、禅宗に改宗することが頻発して、天台宗や真言宗の地方寺院に打撃を与えました。寺院の改宗は、政権を掌握した幕府を支える武士層の武力と財力の庇護を求めざるを得なくなった地方寺院の自己防衛本能であったと考えられます。武士の台頭によって、朝廷や権門勢家の権威が削り取られる世相の移り変わりが見えてきたことから、かつての朝廷・権門勢家の手厚い庇護が期待できない社会情勢になったことを契機にするものでした。①本山の遠隔地にある末寺は、本山の庇護が期待しにくいこと、②権力を握った在地領主の意向に逆らえないこと、③在地領主が禅宗への改宗を望んだこと、などがその理由とされていますが、禅宗の多数の大伽藍が今日に残された理由はこのあたりにあると考えられます。

禅宗各派は、自らの修行と研鑽を通じて悟りを求めることを重視する立場であり、庶民に熱心に布教活動をしてこなかった教団です。庶民獲得の布教活動は、明治維新後のことでした。しかも自らが自発的に法を求める人々を受け入れてきたまっとうな教団であったと評価できます。禅宗の僧侶の育成は厳格であり、戦後の混乱期でも新興宗教団体が芽吹く素地がありませんでした。禅宗には、修道システムが機能していたことの現れであったと考えられます。

修禅(瞑想行)という修行の方法は禅定といわれ、インド仏教伝来の伝統的、基本的な修行方法の一つです。上座部仏教、大乗仏教のほとんどの宗派で取り入れられてきた瞑想法です。しかし、禅宗の禅(無想禅)は、老荘思想の強い影響を受けた中国禅の独特な瞑想方法を受け継いだ特徴があり、インドの瞑想法とは異なると考えられています。①悟りを目的とすることなく、ただひたすら余念を交えず一途に座禅に専念する只管打坐(しかんたざ=曹洞禅)と、②悟りを導くための手段や工夫が仕掛けられた問題を修行者の心根を練磨するために課す公安(臨済禅)がありますが、この解には修行者の独自性のある回答が求められています。

禅宗の無想禅に対し、有想禅と呼ばれる真言密教の瞑想法があります。姿勢と呼吸を整えて瞑想状態に入り、この状態を維持する禅定が「数息観」、次にこの数息観から大日如来(宇宙の実相)と一体化(入我我入=仏が我に入り、我が仏に入る、双入の瞑想法)する具体的な観法に入りますが、この観法が「月輪観」、「阿字観」、「五相成身観」などと呼称されています。安定した瞑想に導く手段として、具体的な図絵や瞑想方法を用いることから有相禅といわれています。

釈迦の悟り(開悟)は、難行苦行の果てに、極端な苦楽から離れて中道に立ち返った釈迦が菩提樹の下で行った深い瞑想(修禅)の中から生まれました。釈迦の滅後に、釈迦を慕った弟子たちが釈迦の悟りを追体験する修行法として行った瞑想法が「禅定」と呼ばれています。しかし、日本の禅宗は、中国の老荘思想などと混淆して生まれた中国禅の系譜を移植したものでした。この点からいえば、釈迦が行った瞑想法(観法)と禅宗の禅とは、修禅観法の在り方や悟りの内容が全く違うものだと考えられます。

中国禅の特徴の一つに「禅問答」があります。この問答を書き留めたものが「語録」です。禅の問答は体験主義から生まれたものですが、日常のあらゆる体験を書き留めることの意味は、禅では「悟り」とは日常の絶対性に気付くことにほかならない、と考えられたことにあります。禅の師弟の指導では、弟子の進境に従って適切な指導をしなければならず、相手の境地を見極めることが必要不可欠になることから、問答を記録する語録が採用されたのです。

中国で生まれた禅宗は、仏教としては特異な系譜にあるという典型的な特徴に彩られています。禅宗は、中国人の現世的性格を色濃く反映して伝統的な「語録」という形式を採用していますが、禅宗が依経とする経典には中国で作られた数々の偽経が含まれていることから、禅宗には経典の真意を究明しようとする姿勢が希薄であるいう評価を受け続けているのです。中国人の感性では、「生きていく上で真に意味のあるものは何か」ということを突き詰める意思が重要視されます。ゆえに、日常性を絶対的に肯定する思想をもつのですが、自らの体験と思惟を根拠にして、中国人の感性に基づき、生きていくことの意味を自由に探究する思考法や発想法を表現しようとしたと考えられています。禅宗は経典の権威を否定して、生きていく上で何に価値を見出すのかという姿勢にこだわりを持ったのですが、このことは、臨済の言葉に「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」という有名な句があることから、まさに超越的な価値をもつとされているすべてのものを怪しげなものとみることによって槍玉にあげる手法であったと考えられます。

ところが、禅宗では、釈尊が悟った「正法眼蔵」(悟り)は以心伝心によって摩訶迦葉に授けられて禅宗の系譜が発生し、代々に伝授が繰り返され、第28祖の菩提達磨に至り中国に伝承されて自分に及んでいるとする仏教としての正当性を確保しようとする主張をしてきました。しかし、これは根拠がない神話に過ぎないことは誰の目にも明らかであり、仏教史では完全に否定されている神話です。禅宗がいう不立文字・以心伝心・教化別伝は、禅宗が依経とする『大梵天王問仏決議経』を根拠とするものですが、この経は中国で創作された偽経と考えられているものです。禅宗が創作したこれらの故事は、中国禅の発生を古代インドの釈迦仏教に繋げる意図をもって創作した偽経を根拠とするものでした。釈迦の拈華微笑を摩訶迦葉の微笑につなげて以心伝心に見立てることで、釈迦の瞑想に正当性をもってつなげようとした創作神話には真実性が全くないことは明らかな事実と考えられます。

これと同様に、禅宗に「禅密一致説」という説がありますが、教理的には密教と中国禅は仏教の対極に位置する存在と考えられることから、「禅密一致説」とは政治的な大人の妥協点に成立した抽象的な概念であると考えられます。鎌倉時代は武家政権の価値観、宗教観を受け入れなければ有力者の施入が期待できず、反感を抱かれるリスクが存在したと考えられるのです。この禅と密教の一致説は、武家の台頭に危機感を持った東密サイド(台密には伝統的に禅の兼修があった)の危機回避の現実的な解決策であったことが考えられます。これによって応仁の乱以降の戦乱で幾多の伽藍を消失して衰退した高野山に、北条政子(頼朝の妻、二位禅尼)の施入があり、金剛三昧院が建立され、15個の荘園、10余万石の寺領が寄進されたことで三千の学徒が養育できたという一面があるのです。栄西の弟子行勇(1163-1241)はもともと真言僧でしたが、鎌倉八幡宮の住僧となり政子の帰依を受け政子に授戒した僧でした。栄西が鎌倉に寿福寺を開いた時、行勇は栄西に師資の礼をとり禅宗に帰したのですが、政子が高野山禅定院を改修し金剛三昧院と改名した際に行勇を第一世としたことが機縁でした。行勇は、高野山の道範より密教の秘奥を授けられていますが、この金剛三昧院を密教と律、禅の三教研修の道場としたのです。他面では、禅宗に密教の諸仏(密教の諸菩薩、明王、天部の諸尊)を信仰の対象とする他宗からの改宗寺院が多くでたことから、これを解決しなければならない現実的な要請があったものと考えられます。あるいは、禅宗に改宗した寺院が持ち込んだ説かもしれません。いずれにしても、このことは双方に政治的な必然性があった一致説と考えられます。

しかしながら、禅宗は大乗仏教の精神を継承する意図があり、歴代の武家政権に支持されてきたこと、厳格な教団運営をしてきた実績があることから、大乗仏教の系譜の中に存在していることを黙認(インドの発生ではなく中国生まれ)されてきたと考えられます。この点では大乗仏教の精神を見失った日蓮系、念仏(浄土)系の宗派とは一線を画する存在感が認められるのではないかと考えられます。

特に、禅宗の中で育成された禅文化の創造性は社会に多大の貢献をしました。禅宗の文化創造の功績には大きな功績があります。今日に伝承された禅の造形文化(建築・作庭・造形など)は、世界的に認知度が高い日本生まれの文化です。禅宗は、中国で生まれ、中国育ちの中国仏教に軸足を置く鎌倉新仏教ですが、多大な文化創造の功績が認められるポジションにあります。特に、曹洞宗が欧米で広めた瞑想やスピリチュアル・ケア(病気と心のケア)の分野において、積極的に参加して外国人の理解を深めてきた功績は他宗に見られない稀有な社会貢献であると評価できます。外国では曹洞宗の社会貢献の在り方を目の当たりにした人々が日本文化の仏教の瞑想に目を開き、瞑想の心を理解しはじめたと考えられます。

米国における禅宗の(瞑想の)影響は、宗教の側面ではなく、心理的側面やスピリチュアル・ケアの側面が評価されています。2015年12月7日読売新聞夕刊が次のような記事を掲載しました。「米国の仏教徒は350万人で全人口の1%に達し、宗教に関して仏教に大きな影響を受けた人々は3000万人もいるという。」「多くの米国人が仏教に惹かれる理由は、仏教の瞑想とその心理学的解釈にある。彼らにとって仏教は、葬式や法事ではなく、日常の目覚めを実現させてくれるものなのである。つまり、従来の教会で説教を聞いて信じる宗教ではなく、自らが瞑想し、仏教の心理学的解釈を糸口に、日常の目覚めに基づく心の安穏を求める、目覚める宗教に惹かれるのである。」「仏教の影響を受けた心理学と瞑想法が米国で大きく発展し、今、逆に東洋に新しい形で上陸し始めた。」「仏教の歴史が米国より長い日本では、日本人に相応しい独自の形で心の平穏が求められ発展していくことだろう。」と。

仏教に始る瞑想は、宗教の枠を超える有効性が考えられます。その影響は、医療、心理療法、教育関係、福祉関係、スポーツや軍隊(精神力の効果的な集中法応用)に取り入れられています。瞑想法には様々な手法がありますが、瞑想に関しては宗派の違いを意識しなくてもいいのではないかと考えられます。ここに仏教の各宗派の共通項があるのではないかと考えられるからです。

インドから中央アジア経由で中国に大乗仏教がもたらされましたが、中国は諸子百家の伝統的な思想を受け継ぎ、儒教、道教、墨子、荀子、老荘思想などが花開いて根付いた文明国家でした。また、プライドの高い中華思想が蔓延した中国人の気質は、インド思想をそのまま受け入れることはなく、中国人の気質や思想に合うように加工修正されて受け入れられた事実を知らなければなりません。仏教の中国的理解は、特に、一念三千論を構築した天台宗の法華経観は智顗の独自解釈を論拠にするものです。智顗の特徴的な天台三大部(『摩訶止観』『法華文句』『法華玄義』)が著されたことによって、天台宗に独特な優越感が生まれ、「四種三昧」という天台宗の独特な瞑想法を生んでいます。また、阿弥陀仏の慈悲の受け取り方に特殊な解釈を示した善導の念仏観、中国禅宗の独特な悟りの世界観の構築の在り方、などに典型的な中国生まれの仏教思想の特徴をみることができると考えられます。

この意味では、中国仏教は、必ずしもインド仏教の思想をあるがままに反映するものではありません。日本仏教の特質は、このような中国人の仏教観に大きく影響を受けていることにあります。この事実を知った上で、真摯に釈迦仏教の原点を見直す努力が求められていることを知らなければならないのです。ゆえに釈迦仏教の精神、これを受け継ぐ大乗仏教の精神はそのまま堅持しなければならないのです。この精神が欠ける宗教は仏教とはいえないのです。

仏教思想の淵源を理解するためには、混入された中国思想を中和する立場で各宗派の教義や教理、実践法を見直す必要があると考えられます。とくに、鎌倉新仏教(祖師仏教)には、日本人が持つ宗教的情緒が大量に埋め込まれたことで仏教が持つ普遍性を失い、多くの瑕疵が混入されてきました。日本仏教の中にはこのような独善的な多様性に覆われていることを理解しながら、釈迦仏教の精神を受け継ぐ大乗仏教の本質とは何かという基本認識を見つめ直す必要性があるのではないでしょうか。

鎌倉新仏教の祖師達は、自分の意思に基づいて比叡山から下山した僧侶でした。比叡山の所定の修行を円満に満行して、本山の方針に従って天台宗の布教活動をするために下山したのではありません。祖師たちは、比叡山の在り方に不満を持った僧でしたが、これをもって改革派とか革新派とはいえないのです。この祖師たちが、さまざまな宗教的情緒を持ち込んで独自の布教活動を始めた頃、比叡山は、祖師たちの独善的な在り様に驚愕して数々の弾圧を自ら行い、為政者にその取締りを求める行動を取り続けました。これが比叡山の良識であったと考えられます。

ところが、さまざまな弾圧を耐え抜いた歴史を持つ祖師仏教が、人々の支持を得て社会に根付いてしまうと、比叡山は方針を変換してしまいました。今度は、祖師たちが比叡山で学んだ僧であることを強調して、比叡山が総合的な仏教アカデミーである、比叡山は諸宗の母山である、とするプロパガンダに利用したのです。しかし、比叡山の実態は、最澄の意思に反する教義の粗製乱造を制御しきれず、独善性にまみれた新興宗教の独り立ちを矯正できなかった、というのが正直な実態ではないかと考えられます。

もし、比叡山の方針転換が、祖師たちが布教した異端の教義を丸ごと認めるものであれば、天台宗の伝統的な教義は統制不能の自己矛盾に陥いるリスクがあると考えられます。最澄の意思に反する異端の教義を認めることになるからです。また、「教義は認めないが、布教の実績は認める」というのであれば、顕彰された祖師たちが喜ぶとは考えられません。どう考えても、祖師たちが比叡山で学んだことを認めるという意味以外には考えられないのです。そうであれば、この顕彰は比叡山のプロパガンダに使える効果的な素材であったという意味でしかない、と考えられます。この比叡山の方針転換は、さまざまな疑義を感じさせるものであったと考えられます。宗教界から批判が出てこなかったことが不思議ですが、百戦錬磨の歴史を持つ各宗派は、この比叡山の変身の真意は十分に見切っていたと考えられるのです。

鎌倉新仏教(祖師仏教)の宗派の中には、僧侶を養成する修行プログラムを持たない教団が存在していると聞きます。驚くほどの短期間に簡単な養成をして済ませ、僧侶と認めて法衣を着せていると批判されているのですが、諸外国の仏教国の人々がこの事実を知るところとなれば、どのような批判を受けるでしょうか。祖師仏教の宗派の中には、伝統的な釈迦仏教や大乗仏教の精神と修行の意味内容を理解しない何らかの理由があるのでしょうか。鑑真和上が生命の危険をも省みず、僧の厳格な養成のために日本に伝えた「僧の受戒制度」はどのように行われているのでしょうか。はなはだ疑問です。厳格な修行を課せられない僧侶がいることが信じられません。不思議としか言いようがないのです。

天台宗(比叡山)の開祖・最澄は、天台智顗の法華経の世界観を布教するために生涯に渡って南都六宗と宗論を争ってきた厳格な僧でした。当時、正当な国家仏教であった南都六宗を敵に回して生涯を宗論の闘争に奉げる決断をした最澄が、法然・親鸞・日蓮の教理を認め、天台宗の法流を継承する有資格者として認めるであろうか?という疑問があります。天台宗の教理の上に独善的な妄想を上乗せして立宗宣言をした日蓮、善良な庶民に非仏説としか言いようのない大量の情念を刷り込んだ教理を捏造して流布した法然と親鸞の在り方を考えれば、宗論に厳格な最澄がこれらを弟子の系譜に連なる僧として認めるとは到底考えられません。大乗仏教の普遍性が欠落した教理を認めるわけがないと考えられます。