(15) 大乗仏教の成立(日本)

仏教は6世紀の初期に朝鮮半島を経由して朝廷と貴族にもたらされた中国の最新思想でした。この頃一般民衆には仏教は広まる歴史的な背景がありませんでした。
一般民衆に仏教が浸透し始め仏教を信仰するのは、この後百数十年後のことであったと考えられています。
仏教が受け入れられたのは、当時の大国であった中国の最新の思想であったからであり、朝廷や貴族が仏教思想を理解して受け入れたわけではありませんでした。
仏教を受け入れた朝廷や貴族は仏教の内容をほとんど理解していなかったと考えられています。

大乗仏教は他の宗教に比べて独特な思想です。仏教は「縁起の思想」と「空の思想」の理解の上に展開する特徴的な思想です。
実は、本来の釈迦仏教は最初に「信」から始まる宗教ではなく、知性による「教理」の理解から始まる思想でした。
ところが、教理の理解から始まる信仰は困難であるところから、鎌倉新仏教の祖師は智慧(教理)を熱心な信仰(信)に特化する「以信代慧」を強調することで大衆信者の獲得に方向変換をしました。
一心不乱に祈る行為によって功徳を期待する信仰姿勢は今日まで受け継がれて様々な盲信を生みました。

このような一般民衆の功徳を求める信仰姿勢が、仏教の本質を歪め、様々な功徳を説く新興宗教が芽吹く温床となってきたと考えられます。その要因は、仏教の受容の当初から日本人が信仰の動機として内包してきたものでした。

平安末期から鎌倉時代は、旱魃や暴風雨、飢饉や疫病が多発した不安定な時代でした。天台宗やその系列から出てきた日蓮宗や浄土宗・浄土真宗の僧が広めた末法思想は、社会に受け入れられやすい状況の中で布教拡大の手段として大いに利用されました。鎌倉仏教の特異性はここにも認められます。

仏教がもたらされた以前から、日本人には神々に対する信仰が浸透していました。
当時の人々の神に対する信仰は、神々は自然現象や事物の中に存在し超自然的な力を備えていると考えられていました。信の心を持って丁寧に祀ると恩恵に預かることができ、粗末に扱うと祟りをもたらす存在であると考えられてきたのです。

異国から仏教がもたらされたことによって、「崇仏」と「廃仏」の対立が発生しました。その争いの代表格が有力氏族の「蘇我氏(崇仏派)」と「物部氏(廃仏派)」との間で激しい争いが起こりました。
廃仏派の主張は「異国の神を拝むと国神の怒りをかう」というものでした。蘇我氏は配下に渡来人を多く抱えていたことから宗教的な権威を持つ必要性があったと見られています。

当初、朝廷は蘇我氏が私的に仏像を祀ることを認めましたが、その頃に疫病が流行したことから、その理由が蘇我氏の仏像崇拝にあるとする主張が認められ、仏像を難波の堀江に捨てさせ、寺を燃やしました。
ところが、今度は宮中に災厄が起こったことで仏の祟りに違いないと考えられました。仏教は、丁重に祀らないと祟りをもたらす神々と同列に考えられていたのです。
蘇我氏と物部氏の政治的な対立が宗教上の対立を招いたと考えられていますが、仏教が受容されていく過程がよくわかります。

古代より日本は神祇(神道)によって、天皇が統治する国家観が打ち立てられてきました。日本は神道の国であり、天皇は神祇の祭祀王でした。
天皇が仏教に帰依するという大転換は、公伝(日本書紀)によれば、仏教伝来は552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王が朝廷に金銅の釈迦像一体と幡・蓋・経論を献上したことが始まりとされています。実際には、元興寺伽藍縁起などには538年説の私伝があり、有力視されています。

飛鳥時代には、仏教思想に基づいた政治が行われました。大貴族は氏寺を建立し氏族の繁栄を祈りました。
蘇我氏は百済からの渡来人の技術力を用いて法興寺を建立しました。聖徳太子(厩戸王子)は四天王寺、法隆寺、広隆寺を建立したと伝えられています。

聖徳太子は、篤く三宝(仏法僧)を敬えとする「三宝興隆の詔」を発して、仏教の核心は三宝帰依にある伝承されてきました。

聖徳太子は日本人なら誰でもが知っている、もっとも尊敬されている日本人の一人です。しかしその歴史的実在は「厩戸皇子」であるとされていますが、その実績を証明する決定的な資料が存在しないところから、聖徳太子の実在を疑う人々は少なからず、その説の概要は次のようなものです。ちなみに有名な旧一万円札の肖像は別人のものであったことが証明されています。

厩戸皇子は、①用明天皇と穴穂部間人王との間に生まれた.。②601年に斑鳩宮を造って本拠とした。③現在の法隆寺のもとになる寺を建立した、という属性や事実関係は認めるが、聖徳太子は『日本書紀』が「ヤマトタケル」と同様に捏造した架空の人物であるとする説です。

この捏造説では、聖徳太子の名称が最初に出てくる「法隆寺金堂の薬師像光背銘・(607年)・釈迦像光背銘(623年)・中宮寺天寿国シュウ帳(622年以降)」などの法隆寺関連資料『日本書紀』(720年)に使用されている用語(天皇・法王・東宮・仏師)は『万葉集』や中国の『隋書倭国伝』の用語例と異なり、厩戸皇子や蘇我馬子の時代には使用されていなかった用語であることを子細に検証し、法隆寺関連資料は『日本書紀』成立後に成立したものであると推定しています。

また、『日本書紀』の編者は舎人親王ということになっていますが、その実質的な編者は、多数説では藤原不比等(藤原鎌足の子)だと見られています。
『日本書紀』のこの時代の記述については謎が多いことが歴史学者から指摘されていますが、藤原不比等の創作ではないかと見られています。

聖徳太子が、④冠位12階制を定めて、門閥主義を排し有能な人材を登用したこと。⑤十七条憲法を制定して天皇中心の国家理念と道徳を示したこと。⑥遣隋使8(小野妹子)を隋に派遣して対等な国交を開いたこと。⑦『三経義疏』(勝髪経、法華経、維摩経の注釈書)を述作し蘇我馬子とともに国史を編纂したとすることを強く否定しています。

厩戸皇子に大勢の豪族を抑え込む実力があったと認められないこと。厩戸皇子は摂政(最初の摂政は858年の藤原良房)でもなく皇太子(立太子制度は689年の飛鳥浄御原令で採用された制度)でもないこと。遣隋使を派遣した責任者は『隋書倭国伝』によれば聖徳太子と認められないこと。『三経義疏』のうち『勝髪義疏』は敦煌出土の『勝髪義疏本義』と7割方が同一内容であり、『法華経義疏』は8世紀に行信が捏造し、『維摩経義疏』は後代の杜正倫の『百行章』からの引用だったことがその理由です。

神道の国、神の国・日本に仏教が入ってきて、天皇が仏教徒になるという大転換が行われました。これ以降、天皇は神祇の祭祀王であると共に仏教の帰依者(信者)であるという関係性が生まれ、仏教と神道を神仏習合する『本地垂迹説』が生まれて明治維新まで続いたことは周知の事実です。
日本では、大乗仏教が天皇によって受容された歴史的事実があります。その初めから仏教(精神的権威)は王法(世俗の権威)に常に寄り添う形で国家から手厚く保護されましたが、実際には仏法は常に王法の管理下に置かれました。
仏教の受容は、鎮護国家の役割を期待されたことにあります。奈良時代、仏教は国家を鎮め護ることができると考えられました。その理由は、仏教教典が護国の霊験をもたらすと信じられたことにあります。

例えば、『仁王経』には、「動乱・外冦・天地怪異・星宿失度・賊・火・水・風の七難に臨んで国を護り、富貴・官位などの果報を護りたい時、疾病などの苦から身を護りたいときなど、この経を読誦すれば自ずと成就できる」と述べられています。
また『金光明経』には「この経を流布させる王があれば、四天王が常にやってきて擁護し、一切の災いや障害は皆消滅させる」と述べています。これらの護法の功徳が信じられたことはとりもなおさず、従来の神道を始めとする産土神にない霊力を求めたことが如実に分かります。
この『仁王経』と『金光明経』は密教経典です。

737年、聖武天皇は全国に「国分寺・国分尼寺の制度」の詔勅を公布して国ごとに国分寺・国分尼寺を建立し、その総国分寺に奈良の東大寺(現在の華厳宗の総本山)を任じて『華厳経』の世界観を表現する毘盧遮那仏(顕教の仏名、密教では大日如来という)を祀りました。国家の政策として仏教に鎮護国家の役割を持たせたのです。

聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立の外に、国分寺には『金光明(最勝王)教』を、国分尼寺には『法華経』の経典を収め、更に、この経典をそれぞれ各10部を書写するように命じました。しかし、当時、財源や技術者は中央政府に吸い取られていて、とても困難な事業でした。全国にほぼ完備したのは760年代の半ばでした。20年の歳月を要したのです。

奈良の唐招提寺を創建した律宗の開祖・渡来僧の「鑑真」(688-763)は、艱難辛苦を乗り越えて日本にくることができました。鑑真は中国で戒律の高僧として高い評価があり、その才能を惜しんだ唐の玄宗皇帝の出国許可が得られず渡航禁止処分となりました。鑑真はこれをものともせず10年かけて5回の密航を実行しましたが、諸々の妨害と密告・遭難に合い失敗を繰り返しました。最初の密航失敗から11年目の753年に、ついにこれを乗り越えて6回目の密航に成功し薩摩の坊津にたどり着きました。このとき鑑真は65歳でしたが過酷な密航で失明していました。

唐招提寺
鑑真の在世中は「唐律招提」という寺名でした。
聖武天皇・光明皇后の没後、鑑真は考謙天皇の庇護が得られず経済的に逼迫しました。
女帝は道鏡を天皇にしようとして失敗する大事件を起こしています。
(道鏡は考謙女帝の看病により寵愛を受けて異例の出世(太政大臣禅師・法王)をし、
女帝の譲位を受けようとしましたが和気清麻呂に阻まれました。)
鑑真没後に女帝・称徳天皇(考謙天皇と同一人物)より、思いもかけず
この揮毫を受けたことにより改名したのです。

鑑真は日本国の仏教政策により、僧に正式に授戒する「戒師」として国家から招聘された当時の中国を代表する戒律の高僧です。しかも、当初の招請の予定では、鑑真の弟子から10人の有資格者を期待していたのですが、快く応じる僧が揃わず途方に暮れていました。ところが、思いもかけず、数千人の弟子を持つ鑑真本人が来てくれるという予想外の展開になり招請の使者「栄叡と普照」は狂喜乱舞したことでしょう。
実は、6回目の密航では、いざとなったそのときに遣唐大使「藤原清河」は唐を恐れて鑑真の乗船を拒否しました。これに反して副使の「大伴古麻呂」が密かに乗船の便宜を図ったことで密航が実現したのです。

仏教政策
当時の日本は「飢饉」「疫病」「政変」が続き、世情不安が広がりを見せていました。
この逼迫した政治状況を打破する施策に仏教の鎮護国家思想を利用しようとした
ものです。鑑真は中国・唐では「江淮(江南地方と淮南地方)の間に唯一人化主たり」
といわれた高僧です。
聖武天皇・光明皇后(女帝・考謙天皇の父母)など多数に東大寺で授戒しています。
大僧都(当時の僧の最高位)に任ぜられ重用されましたが、聖武天皇没後は一転し
て考謙天皇は鑑真を用いることがありませんでした。
鑑真は南都六宗の既存勢力の排斥運動などにより解任されたという説があります。

授戒師の招請理由は、日本では仏教の戒律の重要性が十分に理解されることなく、これを省略した形で授戒していたので正式な僧がいませんでした。これは、決定的な欠陥でした。本来は、インド以来の伝統として3人の師と7人の証明師が立ち会う厳格な授戒の儀式が必要であることが分かりました。
これは今日でも同様ですが、この正式な受戒を受けていない者は「私度僧」といい本物の僧とは認められません。
そこで、急ぎ正当な資格のある授戒師を中国に求めたのです。
鑑真の来日により、正式な僧の授戒が可能になりました。国立戒壇は761年に奈良・東大寺の戒壇院、筑紫国・太宰府の観世音寺、下野国(栃木県)の薬師寺の3ケ所に置かれ、給料が支給される国家公務員の僧侶の授戒がなされました。