序章4:祖師仏教の特徴を考える

大乗仏教の空観を説く『般若経』の諸経典群(もっとも読誦されてきた経典が『般若心経』です)、『法華経』など様々な大乗経典が経典の受持による攘災信仰を説いています。ここでは経典護持の功徳や恩恵を期待するものとして呪文を用いていますが、これらはインド仏教から中国仏教に引き継がれた陀羅尼信仰の影響を受けたものと考えられるものです。

空の思想を説く般若経典群600巻の最終形は、『金剛頂経』(『真実摂経』)と考えられます。サンスクリット原典の経題(訳)は「一切如来の真実を摂めたものと名付ける大乗教」ですが、不空訳の経題では『金剛頂一切如来真実大乗現証大教王教』とされたことから、中国、日本では『金剛頂経』(『真実摂経』)と略称しています。

ちなみに、『大日経』の正式な漢訳名は『大毘慮遮那成仏神変加持経』といいます。この両経が、空海の真言密教では「両部の大経」と呼称されています。『理趣経』は、金剛頂経第十八会の第六会中の部分訳ですが、金剛智三蔵は『金剛頂瑜伽理趣般若経』と訳しました。不空はこれを『大楽金剛不空真実三摩耶経・般若波羅蜜多理趣品』と訳しましたが真言宗ではこれが採用されています。

同じく、本有(「理」=衆生は仏性がある)を主とする大日経(胎蔵界=慈悲)と修生(「智」=修行によって煩悩を除くこと)を基本とする金剛頂経(金剛界=智慧)を金胎両部不二(而二不二)とする理智不二の深義を説く『瑜祗経』の正式名は『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祗経』(金剛智・訳)です。これらは、大乗仏教思想の到達点にあらわれた密教経典です。一般的に、大乗仏教の経典は「教」が主に説かれその具体的な実践修行の方法の記述がほとんどありませんが、密教経典は「教」と「実践」の具体的な方法が両輪となり、一体化されて論理的に記述されている特徴があります。

法華経が経典を読誦し、書写し、受持する功徳として説いたものは、陀羅尼(真言)と称名による攘災信仰です。法華経に相応しい称名とは、救済加護の役割を持つ仏・菩薩の名前の陀羅尼(真言)を唱えることであると考えられ、それは法華経の教主である釈迦如来に対する帰命に帰結するもでなければならないと考えられます。釈迦滅後(5百年前後)のブッダ(大乗の諸菩薩)たちが編纂した『法華経』の名前(南無妙法蓮華経)を唱えることではないと考えられます。この意味で、日蓮系の称名の在り方は大乗仏教の称名の在り方とは根本的に異質なものであると考えられます。

『法華経』の「薬王菩薩本事品」には、薬王菩薩と勇施菩薩が人々に護身と幸福の呪文を贈り、毘沙門天、持国天、十羅刹女、鬼子母神の法華守護の諸天部から呪文が贈られますが、世尊(釈尊)が法華修行者の守護を命じるという形式を取っています。

また、「陀羅尼品」には法華経の伝道者には諸天部の守護の呪文(陀羅尼)が説かれ、法華経の最終品である「普賢菩薩勧発品」には、釈迦滅後に普賢菩薩の唱える呪文(陀羅尼)を聴く者は法華経を保って永遠に苦を免れる功徳が説かれています。

『華厳経』は、釈迦の悟りの内容をありのままに説法する経典であるとする説によって華厳宗が生まれました。この説では、「すべての仏の教えは悉く華厳より出て華厳に帰するものだ」とする根本法輪の思想が見られます。いうなれば、『華厳経』と『法華経』の両経のみが他の大乗経典にみられない「諸経の頂点」を自認する特徴的な自己主張をしていますが、この突出した共通性には注意が必要です。すべての仏教経典は釈迦の真説と考える立場では、この主張は読み手の精神を束縛する危険性が考えられるのです。

普賢菩薩は、衆生救済の菩薩行(実践)に特に優れた菩薩ですが、『華厳経』の「入法界品」には普賢菩薩行願讃として説かれています。『華厳経』が説く普賢菩薩行願讃に説かれた善財童子は、文殊菩薩の教え(智慧)に端を発し、導かれて53人の善知識を次々に訪ねて真理を探究する修行を続けましたが、最後に、普賢菩薩(衆生救済の実践)のもとで智慧(悟り)が完成しました。この善財童子の修行譚の物語は、東海道五十三次の宿場の数に使われましたが、大乗の菩薩の誓願の心の修行の階梯を示すものと考えられます。密教では、普賢菩薩は執金剛位(禅定と智慧を具有し慈悲を兼ね備えた菩薩位)を獲得した金剛薩埵(金剛手菩薩)と同体とされています。ちなみに、『金剛頂経』の代表的な明王である愛染明王は、金剛手菩薩と同体とされ、『大日経』の代表的な明王である不動明王とともに明王の双璧とされ、両部マンダラの統一的仏身観の中尊・大日如来を護持する左右の脇士として安置する本尊形式が採用されています。

実際には、法華経は、具体的な徳目(功徳)が力説されている「観音経」(『法華経』の「観世音菩薩普門品」)の観音信仰によって布教され、信仰されてきました。法華経に説かれる観音信仰は、様々な衆生の機根に合わせた33身の観音(聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、不空絹索観音、馬頭観音、白衣観音など)を出現させ、一切の衆生を救済する功徳が説かれています。衆生の信仰によって現れる観音の称名(陀羅尼、真言)を唱えることによって、観音菩薩の心と衆生の心とが感応して救済されるという教えです。

日蓮本仏論の法華経信仰のあり方(その捉え方)は、法華経(大乗経典)に説かれた仏説ではありません。日蓮系の特定宗派が強引に捏造した恥ずべき独善説としか考えられないものですが、諸外国の仏教徒に日蓮本仏論を語れば、間違いなくオカルト宗教の評価を受けることになります。日蓮本仏論の内容を具体的に検証できる状態になれば、まともに取り合うことなく自然に離れていくことになると考えられます。

『法華経』を依経とする日蓮系の宗派には、『法華経』の全28品の研究によって大乗仏教の思想性や大乗経典との整合性を意識することなく、僅かに「方便品」や「寿量品第」を切り出して、これを法華経の中心とする独善的な教理を導き出して、日蓮を末法の本仏とする日蓮本仏論を捏造した過失があることから、法華経の全体像が把握できていないのではないかという疑いが指摘されています。

日蓮系の宗派の中には、本尊観(仏身論)や諸仏、諸菩薩の捉え方が大乗仏教の普遍性の考え方と全く合わない突出した異質性を抱え込み、諸仏、諸菩薩の存在を認めない異端の宗派が存在しています。 法華経を讃嘆する異常な信仰心から独善性に固執し過ぎたことで、法華経を褒め殺しにしていることに気づいていないのではないかと考えられます。

法華経の総合性を評価する視点から見れば、日蓮宗・総本山久遠寺の教理(本迹一致説)が社会的には認知されやすいのではないかと考えられます。日蓮宗系を久遠寺に統括させた江戸幕府の宗教政策には妥当性があったと考えられます。本迹優劣説は、「従地涌出品」や「如来寿量品」から「開近顕遠(開迹顕本)」を導き出して日蓮を末法の教主(日蓮本佛論)とするレトリックに使われたと考えられるのです。

鎌倉時代、疲弊した農村地域に称名(南無阿弥陀仏)が浸透しました。浄土宗の宗祖・法然が中国浄土宗の僧・善導の思想を根拠として『選択本願念仏集』を著し、他宗を攻撃する一面を内包する専修念仏を末法救済の教えとして広めました。称名による即得往生は、誰でも漏れなく西方浄土の阿弥陀如来の救済があるという思想です。

法然は、人は正しく仏道を修行する力が無いのだから、阿弥陀仏の万人救済の本願に従って念仏を唱えるしかない、として専修念仏の易行を勧めました。菩提心を求め続ける素質のない人でも専修念仏すれば阿弥陀如来の慈悲によって西方浄土に救いとってもらえるという「他力本願」の思想です。これが阿弥陀如来の本願にかなう易行である、と思い定めたことに法然の阿弥陀観が如実に表れていると考えられます。法然の念仏信仰のあり方は、「往生したいと自ら願い、念仏を称えること」を前提とする事によって、極楽浄土への道が開かれると考えたのです。しかし、『選択集』の成立後、法然は迫害を受けることになりました。

日蓮は、『立正安国論』の中で念仏信仰に激しい攻撃を加え、国難を招く理由の一つに挙げています。この書は、国家の三災七難を防ぐためには念仏を停止し、他宗を謗法として退け、法華経信仰の確立を訴える独善的な国家諌暁の書と認識されています。1260年に鎌倉幕府・前執権の北条時頼に提出したのですが、その内容があまりにも異常であったことから受け入れらず、流罪に処せられました。ところが、不可解なことに日蓮は、なぜか662年後の大正11年(1922年)の軍備強化の特殊な時代的背景の中で、熱心な日蓮宗徒の政治的な働きかけを受け入れ「立正大師」号が与えられました。他宗の教祖に比べ、日蓮に大師号の宣旨がなかったことに対する特別な配慮が日蓮宗徒の軍部(国家)への協力体制の見返りに行われたのではないかと考えられるのです。

鎌倉時代の庶民は無学文盲でした。僧のような厳格な修行は望むべきもありませんでした。もし、法然が、当時の社会には衆生の機根を整える条件が揃っていなかったことを前提にして、一時的に、方便としての専修念仏を勧めたものであれば、菩提心に目覚める条件付きで許容できるのではないかとも考えられます。

しかし、800年の時の流れの中には、様々な歴史的事実や人々の思いが刻み込まれて定着しています。何よりも巨大教団が存在感を示して活動していることから、いまさら路線変更ができるものでもありません。これについて問題意識を持つことができる信者一人一人が、よく考えて選択すべき問題だと考えられます。

法然の弟子であった悩み多き親鸞(浄土真宗・教祖)は、これをさらに塗り替えて『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著し、阿弥陀如来を信じた瞬間に救われるという教義を立てました。法然の念仏観の他力性が変更され「わざわざ願うまでもなく、阿弥陀仏の方から救いの手を差し伸べてくれるので何もする必要はない」と考え、阿弥陀仏の誓願に独自解釈を加えました。親鸞は、『正信偈』に釈迦の教説は「阿弥陀仏の本願唯一」であるという仏教理解を示しています。ここに、インド、中国、日本の聖教を縦横無尽に引用して一切経の真意を明らかにした『教行信証』、そのエッセンスが『正信偈』であると解釈が親鸞の門徒に継承された独善的なロジックが見えます。しかし、大乗仏教の真意が専修念仏であるとするロジックは、阿弥陀如来の慈悲の本願を捻じ曲げた牽強付会の不遜なブラフ(bluff)を用いたロジックでしかあり得ないと考えられます。それは、突然変異を遂げた宗教的情緒でしかありません。

親鸞は、菩提心に欠ける悪人こそが救われるという「悪人正機説」を立て「絶対他力本願」を主張しました。親鸞の思想は、人間の弱さを阿弥陀如来の慈悲に委ねて救いを求めるものでしたが、修行や努力を奨励せず、個人の資質や菩提心を問題にせず、懺悔や悔悟を求めないままに、阿弥陀如来の慈悲の深さを無限大に強調して、人々に救済を告げて安堵させるものでした。しかしながら、中国で性格を一変した浄土教の非仏性は、悟りに向かって仏陀を目指すべき大乗仏教の菩薩のあるべき「行」の信仰姿勢を否定して、極楽浄土に往生することを最終目的とする「信」の信仰姿勢を主張するものでした。親鸞は、法然の選択集から浄土門>聖道門とする解釈論を持ち込み、自らの信仰姿勢の在り方を正当化しました。自ら発心・修行して悟りを開くのではなく、「信」によって阿弥陀如来の慈悲に救いとられ、不自由のない極楽浄土(永遠に続く楽園)で究極の生活ができると信じたのですが、永遠に極楽浄土に居つづけられる世界などというものはあり得ないのです。

生死から解脱に至るプロセスにおいて、念仏を救いの本願の行とする解釈は、中国浄土宗の道綽に始まる説です。親鸞は、『仏説無量寿経』(中国魏曹の康僧鎧の訳、経典の成立時期は釈迦滅後500年以降と考えられるが編纂者は不明であり、サンスクリット原典は存在しない)を極理としましたが、この経はいわゆる中国で撰述された偽経と考えられます。「極楽浄土に生まれたいと願う者は、皆、仏になることを約束され、阿弥陀の名号を聞信し、心から念ずれば往生が定まる(要旨)」という特徴的な説を述べていますが、その用語は老荘の思想や道教の強い影響が指摘されているものです。ここでは、『無量寿経』に混入された第十八願の解釈について、「念仏を救いの本願の行としたのは如来自身の選択である」という解釈がされていますが、この解釈は伝統的な釈迦仏教や大乗仏教の精神が明らかに認めない非佛説と考えられるものです。ここには、浄土経典が大乗仏教の変質の変遷に大きくかかわった事実関係が見えるのです。

阿弥陀如来に対する称名念仏は、それ自体が否定されているものではありません。しかし、信仰者の菩提心の在り方に問題となる難点があるのです。阿弥陀如来に向き合う信仰者の菩提心を正すことなく、慈悲深い阿弥陀如来の救済を逆手に取る(発心、悔悟、菩提心もないままに)絶対他力本願の信仰姿勢を勧めたことに重大な瑕疵があるのです。阿弥陀如来の慈悲の心を人々に誤認させた責任があると考えられるのです。親鸞の仏教理解は、文学であり、情緒であり、情念が突出した独善的な世界観の中に逃避するものです。ここには、大乗仏教思想の普遍性や論理性が欠落しているのです。親鸞の情念が生んだ念仏信仰は、親鸞の情念から生まれた特殊な情緒の形態でしかなく、これは決定的な非仏説と考えられるのです。

念仏宗には、きわめて情緒的な信仰姿勢が現れています。僧を中心とする厳格な伝統教団として成立しなかったことから、親鸞の選び取った他力本願の思想だけを信じ、大乗仏教の普遍的な思想に背を向けた半僧半俗の指導者たちが善良な人々を純粋培養して妄想を植え続けてきた特殊な歴史性の中にその原因があると考えられます。

慈悲深い阿弥陀如来に対するする信仰は、日本語であれば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となりますが、鎌倉新仏教の念仏衆徒は伝統的に「なまんだー」とか「なんまんだぶ」などの称名を唱えています。「なむあみだぶつ」の連続した称名の調子の取り方が難しいところから、リズム感のある親しみを込めた称名の表現方法が工夫された(?)とも考えられますが、伝統的な仏教観からみれば、これは阿弥陀如来に対する南無(帰命)を表す「あるべき称名」の在り方とは考えられません。あまりにも情緒的すぎる宗教観に変貌しすぎていると考えられます。傷だらけの称名を何万遍唱えても、それは阿弥陀如来に対する帰命とはいえない、と考えられるからです。

特に浄土真宗の教義には、親鸞の仏教観が見事に表れています。神や仏に向かってする信仰の在り様は、信仰に目覚めた衆生の側から神や仏に向かって祈り、願い、救いを求めるという関係性にあることを条件としています。その救いには、衆生の信仰心や努力としての修行が前提条件となっています。この条件があってこそ神仏の力による救いがあると考えることが大乗仏教の基本的な認識です。ところが、親鸞は、阿弥陀仏の因位の菩薩(法蔵菩薩)は「衆生が修行を励んで仏道を完成する歩みができない」と考えたのです。そのような修行に背を向けて逃げているのが凡夫衆生であると認識したのです。故に阿弥陀仏は、修行ができない衆生を憐み、そのような衆生の救済を決意して、法蔵菩薩であった時に、菩薩の48誓願を成就して自ら努力ができない衆生の救済を誓願した、と考えたのです。故に、親鸞は座像の阿弥陀仏を嫌い、立像の阿弥陀仏(立像=立って動きやすく、他力回向の救済をする大慈悲の姿とみる)を本尊と定め、念仏の唱え方は徹底した阿弥陀仏に対する報恩感謝の気持ちを表す念仏に特化されています。このような他力回向(=仏力=本願力)の信仰は、正統仏教の信仰姿勢とは決定的に異なる非仏説と考えられます。

親鸞が導いた教理は、悩み抜いた親鸞自身が長年引きずってきた親鸞自身の信仰の葛藤に決別するものであったのであろうか?という疑問が考えられます。これによって、偉大な師僧であった法然の教説でも自身が救われる確信が持てなかった悲しい親鸞自身に決別できたのであろうか?という疑問です。もし、このようなありようが、親鸞自身が阿弥陀仏から救い取られる教理を導き出せる帰納の結論であったのであれば、それは釈迦仏教や大乗仏教の精神を受け継ぐ思想とはいえません。仏教の世界観から逃避して、文学的な情念や情緒の世界観に身をゆだねて安息を求めた親鸞の悩ましい情念と息遣いが感じられてならないのです。

法然と親鸞の布教は、絶望的な末法思想と終末思想の蔓延の中で悩みぬいたすえの布教方法であったと考えられます。悩める人々を救いたいという動機があったこと、同時に、救われたいと願う庶民の切実な要求(非常時の救われ方)に応えたものであったという情念的な評価があることも事実です。

しかしながら、これを仏教観を基準にして見直せば非難に値する布教行為となります。阿弥陀如来の深い慈悲に付け込む印象操作をすることによって、あたかも阿弥陀如来には万民を漏れなく救済する義務があるかのごとき独善的な情念を迷える人々に刷り込んだ非道理性があるのです。誰もが簡単にできる称名念仏だけで阿弥陀仏に抱きとられて西方浄土に導かれるという「教祖が選んだ易行」は大乗仏教にはない思想です。仏教の教えは、迷える衆生を導くための指南(または教導)であり、衆生に修行の正道を示すものです。仏教は悟りに至る道を説く教えであり、彷徨える哀しい情念や文学的な情緒を慰撫したり、共感を示すことによって解決させるという教えではありません。有難いお経を聴き、仏や教祖を拝めば成仏するという教えではないのです。衆生に対する優しさや気遣いは、衆生を悟りに向かわせる方便に過ぎないものなのです。

薬は病気によって使い分けるように、仏は衆生の機根によってさまざまな法(顕教)を説きましたが、衆生の素質に合わせた教えは仮(権教)の教えです。すべての衆生の機根を劣悪とみる根拠は一体何でしょうか。現代人は鎌倉時代の衆生ではないのです。今日の人々は、悟り(成仏)の智慧は、自分自身が、本気で自分自身と向き合うこと、悔悟や努力に目覚めて菩提心を持ち、自行と化他行の菩薩行道を意識しなければ解決に向かうことができない、という道理を理解できない無知な人々ではないと考えられるのです。

大乗仏教の普遍性は、仏の慈悲と知恵に感応する私たち一人一人の胸中に育まれた菩提心の中にあります。釈迦が衆生の機根にとらわれず、悟りを得た者の立場(随自意)から説法したとされる『華厳経』 には、悟りに向かうためには、菩提(悟り)への誓願を発心して、菩提への向かう熱意(菩提心)がなければならないという教えがあります。

菩提心と菩薩行は大乗仏教思想の核心ともいえるものですが、仏教者の自覚を促す根本条件でもあります。『大日経』の「住心品」には、仏の智慧(一切智智、覚り)を獲得する肝心として「三句の法門」が説かれています。金剛手菩薩(執金剛または秘密主ともいう、金剛薩埵と同体、華厳経の普賢菩薩と同体)が大毘盧遮那仏(大日如来)に対し、「仏の智慧(覚り、一切智智)とはどのようなものでしょうか」と単刀直入に質問したことに対し、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」と答えたのです。最高の真実(智慧、覚り)は、さとりの心を出発点とし、大いなる慈悲を基本とし、それらを応用する手立てを究竟の目的とすることである、ということになります。一切智智とは、すべてを知る者(仏)の智慧です。

なお、方便究竟には若干の説明が必要と考えられます。方便を究竟とするという意味は、真言行者は六波羅蜜行の修行によって悟りを得るが、まず自分が成仏した後に自身だけの悟りに終わることなく、大悲をもって衆生を教化救済することを意味するものです。大乗の菩薩が衆生と共に成仏を目指すもの、むしろ衆生を先に成仏させることを本望とするなどという意味合いに誇張して語る説がありますが、これは失当と考えられます。菩薩といえども自身の素質や種々の機根の影響を受けざるを得ないことは当然です。菩薩が悟りにいたる場合でもその機根等によって頓(速い)と漸(遅い)があることは致し方ないことなのです。菩薩は自行として菩提を求めることを第一義とするのであり、衆生の苦を抜く大悲行の後に菩提行を修行するものではありません。衆生を見捨てて自身のための自利行を優先させているのではないのです。

菩提心とは、菩提(さとり)と心であり、「菩提を求める心」と「菩提の自性の心」という二種類があります。菩提という目的を立て、誓願という宗教的な発動と実際の修行を行う菩提心とが必要なのです。他力本願の思想には、魂の救済を阿弥陀如来の慈悲に転嫁して人々に安心感を与え、成仏の丸投げを許容して受け入れて欲しいとする情緒的な観念のとらわれ過ぎがあり、強い独善的な情念が感じられてなりません。大乗仏教の精神を枉げた非仏説という批判を受けることは致し方ないと考えられます。

浄土思想は、阿弥陀如来の西方極楽浄土に往生して成仏することを説く思想です。一般的には、阿弥陀信仰として信仰されていますが、浄土教という宗派はインドの成立ではなく、インドに萌芽した浄土の概念が中央アジアで形成され、中国に伝播されて浄土教として成立したものと考えられます。その思想の出典は、『無量寿経』・『阿弥陀経』(この2経は紀元100年頃の編纂とする説があるが疑問。釈迦仏教には阿弥陀仏の観念や浄土思想は存在しなかったとする説がある。)、『観無量寿経』(4-5世紀頃中央アジアでその大綱が成立し、中国で中国的要素が加味されたとする説があるが、サンスクリット原典は発見されていない)という浄土三部経にありますが、これらが中国の浄土教に大きな影響を与え、これを輸入した比叡山の中で突然変異を繰り返し、日本的情緒が追加、増幅されてきたと考えられるのです。

浄土思想の論書は、龍樹(150-250年頃)の『十住毘婆沙論』(「易行品」)、天親(4-5世紀頃)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)に始まるものでしたが、中国には2世紀後半頃から浄土経典が伝わり、5世紀に廬山の慧遠(334-416年)が白蓮社という念仏結社をつくり初期の中国浄土教を主導しています。曇鸞(476-542年頃)が天親の前記論書を注釈した撰述書を著わし、曇鸞の影響を受けた道綽(562-645年)が『観無量寿経』の解釈書『安楽集』を撰述しました。道綽の弟子善導(613-681年)が、『観無量寿経』は観想念仏ではなく、称名念仏を勧めている経典であると解釈する立場で『観無量寿経疏』を撰述しました。ここに称名念仏思想の萌芽があったのです。浄土宗は、その成立の当初は「善導宗」と呼ばれましたが、善導への崇敬の念が突出していた法然門下の信仰の在り様を投影したものであったと考えられます。

しかし、中国では、慧日(680-748年)が浄土と禅を兼修する「念仏禅」を主張し、中国の浄土思想の主流は「念仏禅」(観想念仏)となりました。浄土思想は渡唐の僧・円仁が比叡山に「観想念仏行」をもたらし、良源(912-985年)が比叡山・横川を整備して阿弥陀如来を事観(事相)の対象とする観想念仏を定着させましたが、良源の弟子・源信(942-1017年)は観想念仏を重視する立場でしたが、『往生要集』を著わし一般民衆のための易行として「称名念仏」を認めたことから、民衆救済の大衆仏教化の流れが出てきました。法然が観想念仏を否定して称名念仏を推奨したことから大衆化された専修念仏の流れが親鸞に受け継がれ、独特な日本的情緒に包まれた悪人正機説が生まれたのです。

専修念仏者の信仰姿勢には、“自分が救われたい”という念仏の情念の響きを強く感じますが、専修念仏の功徳で、死の間際に阿弥陀仏の来迎により西方浄土に救い取られて即得往生をするという思想には、大乗仏教の精神が全く感じられません。菩提心に目覚めず、菩薩行(利他行の実践)の思想が欠落すれば大乗仏教の精神が無いことになります。

大乗経典である浄土三部経『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』を所依の経典にしているという理由を挙げて、自宗自派が大乗仏教だと誤解している人々が大勢います。しかし、これは明らかな間違いです。どのような経典に準拠しようとも「大乗仏教の精神」が欠落すれば、それは大乗仏教とはいえません。浄土三部経は菩提心の否定を許容し、菩薩行を無視することを認める思想ではないのです。菩提心に目覚めて、阿弥陀如来の智慧と慈悲に感応して「発心」すること、菩薩行道(衆生救済の実践)に目覚めて利他の精神を「修行」する姿勢を保ち続ける信仰態度が必要なのです。菩提心(発心)と菩薩行(修行)を否定する大乗仏教はありえず、それはもはや仏教とはいえないのです。

法然、親鸞の師弟が共に越後に流罪となり、親鸞は非僧非俗の身となりました。両人が数々の弾圧を受けた理由は、比叡山の意思が働いた結果でした。両人が非仏説を布教したことで比叡山の逆鱗に触れたのです。比叡山が時の権力者に懇請し、幕府権力に忌避されて流罪に処せられたことは周知の事実です。後に、戦国時代の浄土宗(法然の系譜)は権力者の理解を得て為政者と共存を認められ、一向宗(浄土真宗)は、生き残りをかけて強力な戦闘集団に変貌を遂げました。

厭離穢土・欣求浄土の思想(死ぬことを歓喜に変える思想)を持つ念仏信者は、現世に執着心を持たず、死して阿弥陀如来に救い取られ、光に満ちた何不自由のない西方極楽浄土に再生することを願い、死を恐れない戦闘集団となって織田信長の武力に挑み、戦に破れて数万~数十万人の大量の死者を出しました。

戦国時代、加賀の一向宗(現・浄土真宗)門徒が、反領主派の寺社・国人勢力と手を結んで加賀領主・富樫氏を追放したことで、門徒を多数抱える領主層に動揺を与えました。これを加賀一向一揆(1488~1580の92年間)といいます。加賀・能登・越中(現・石川県と富山県)に伝播し、領主を追い出す実力を示したことから、近隣の戦国大名に大きな衝撃を与えました。戦国の覇者となる織田軍団がこれを危険視して壊滅させるために軍事行動に出たのですが、地方領主や国人・土豪層の多くが、主家に反逆することよりも阿弥陀如来に逆らうことの不信を恐れ、後生善処を願って農民層に寄り添って大量に参戦し、戦国乱世が現出しました。一向宗は織田軍に破れて大阪の石山本願寺に本拠を移しました。

一向宗は、甲斐の武田信玄、中国の毛利元就、将軍・足利義明、近江の浅井長政父子、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺の勢力と同盟して織田包囲網を形成して対抗しました。比叡山が中立の立場を取らず、仏敵の旗印を掲げて織田軍に対して敵対行動を鮮明にしたことから、織田軍は比叡山の宗教界に対する影響力を恐れ、宗教界に拡大して連鎖する危険性を断つために、比叡山の焼き討ちを決意せざるを得ないまでに追い込まれました。一向宗は宗派の存亡をかけて起死回生の武力戦争を耐え抜いたことで、庶民の中に浸透して定着した歴史に彩られました。何よりも支配者層に対し、宗教を敵に回す恐ろしさを植え付けたことに歴史的な意義が感じられます。

しかし、織田軍団は他の戦国大名とは異なり、職業軍人を主体とするプロ軍団で構成されていました。織田軍は、専従の武士層で構成され、農民兵を抱えていなかったことから農繁期の足枷や農民の怨嗟の声がなく、いつでも多方面で同時に戦闘が継続できる強みを持っていたのです。織田軍の軍事力と機動力、その大量の兵站の実力差は決定的であり、遠征軍は飢えることなく、織田包囲網は次々に織田軍に各個撃破されて敗退しました。織田信長は、軍事力の育成だけでなく、領国政治の信頼を高め、豊かな富の蓄積を図るシステム(楽市・楽座、領内の関所の撤廃と交通の自由化、金銀銅山の直轄化、貿易港の直轄化と交易支配など)を機能的に構築して富国強兵を計り、領民を搾取することがなかったのです。次々に織田領内に組み込まれた諸国では、前領主の治世を懐かしむ領民の声が上がらず、織田領内の治世は歓迎されて安定していました。戦国時代の稀有な事例です。

余談ながら、徳川家康は、三河の一向一揆において門徒の家臣団の統率に失敗して内乱を押さえきれずに疲労困憊し、九死に一生を得る家臣団との戦いに懲りたことから、旗印(軍旗)を「厭離穢土・欣求浄土」に改め、家臣団の統率に成功したと伝わっています。主家思いの結束力の固い三河家臣団でさえも一向宗の掲げる阿弥陀如来には逆らえなかったのです。

大阪の石山本願寺(その後地が大阪城)に立て籠もった一向宗は、織田軍を包囲する一角を占めて難攻不落の法城を構築し捨て身の戦闘行為を果敢に仕掛けました。一向宗は、織田軍に敗れた残存勢力を招き、紀州の雑賀衆を専門の鉄砲戦闘集団として傭兵し、反織田勢力を受け入れて戦闘態勢を整えたことから諸国の為政者に恐怖心を植え付けて警戒心を与えましたが、織田軍に敗れ法城を明け渡しました。信長の滅後、一向宗は、天下人になった豊臣秀吉の懐柔策に従い、東西の本願寺に分割する条件を受け入れて、豊臣政権の保護下で命脈を保つ道を選択しました。

石山本願寺の陥落の後、敗戦処理の考え方に宗内に意見の対立が生じました。また、本願寺は顕如の相続問題がこじれて御家騒動が治まらず、秀吉の介入を招いたことで、西本願寺(顕如三男・准如)と東本願寺(顕如の長男・教如)の二派に分裂しました。教如は顕如から13世の法統を正式に継承した長男でしたが、石山本願寺陥落後の対応を巡り、父・顕如と対立して義絶されたのです。これを奇貨として喜んだ秀吉は、危険な本願寺勢力を分断することによって、本願寺勢力の結束力に楔(くさび)を打ち込んで抵抗力を失わせ、教団が弱体化することを望んだと考えられています。