序章4:祖師仏教の特徴を考える

2018.12.29  この文章は加除訂正、増補を行いました。

伝統的な釈迦の教えを研鑽する部派仏教の教団の中から大乗仏教の精神に目覚めた一派が萌芽したとみる視点が近年の有力説になっています。この中に、釈迦の禅定の内容を様々な視点から追体験を試みる名もなき無名のブッダたちが相次いで大乗経典の編纂事業の競合を始めたことが考えられています。従来の教団の在り方に不満を抱き続けていた大乗思想の新進グループが興起し、様々な視点を研究して釈迦の禅定の悟りの内容の追体験を試みる機運が生じたのです。

釈迦仏教の出家修行者は、僧伽(サンガ)の中で、苦しみの源である煩悩を消し去る瞑想に没頭する修行に努めました。世間から隔離されたサンガの中に入り、労働などの社会生活と決別して、煩悩を生む契機をとなる迷いの元を断ちきり、涅槃(ニルヴァーナ)に至る瞑想をひたすら続けたのです。この瞑想は「自分自身を救いの拠り所」として「自分の力で道を切り開く(自己鍛錬)」修行の一端であり、貪・瞋・痴の三毒を克服して、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の輪廻転生から離脱する悟りを獲得することを目指すものでした。いわゆる、苦しみが生じるメカニズムを断つことを修行の目的としたのです。

大乗思想に目覚めた一派は、従来のサンガ修行の在り方を否定し、外部には不思議な力(パワー)が存在し、その「不思議な力が救いの拠り所になる」と考る発想の転換をしました。「日々の善行を積むことが悟りのエネルギーにつながる」とみる思想をもったのです。仏伝には、釈迦が悟りを開いた特別な修行方法は書かれていません。修行者たちは、「釈迦の悟りの内容は、釈迦の禅定を追体験することにより可能ではないか」と考えたのですが、この考え方は、やがて「在家でも悟りの修行が可能である」「誰にでもブッダへの道が開かれている」と考える大乗思想を形成することになります。ちなみに、南伝仏教には、釈迦の過去世(前世)には悟りを開いた契機があったに違いないと考える一派が現れ、釈迦の過去の修行を輪廻転生の視点で様々に忖度した釈迦の前世譚「ジャータカ物語」を編纂していますが、現在の各国でも出版されて読まれています。

大乗思想の萌芽の動機は、古い仏伝の経典に「声聞たちは悟りを開いて阿羅漢になった」と書かれていますが、「菩薩の自覚を持って修行した」とか、「菩薩の悟りを開いてブッダになった」とかは書かれていなかったことから、大乗の精神をアピールする新たな視点を追加する必要性があったと考えられます。大乗の名も無きブッダたちは、釈迦の禅定の悟りの追体験を続ける努力によって、釈迦の悟りの内容が体験できるはずだと考えたのです。いわゆる大乗仏教の精神の歴史はここから始まったと考えられます。

『般若経』は、声聞乗、独覚(縁覚)乗、菩薩乗の三乗を分けて、別の道から悟りに至る道を模索しています。この発想の転換は、釈迦の教えを認めながらも、それとは別の道があることを示そうとするものでしたが、仏説と大きく乖離する説ではありません。しかし『法華経』は、「釈迦の教えを信じ修行している声聞、独覚(縁覚)は、実は菩薩である(一仏乗思想)」と主張した一点において、釈迦の教えと矛盾することになります。『法華経』は、この難点を乗り越えるために、古伝の「釈迦の初転法輪は実は方便であった」とする書き換えを行い、『法華経』の各品(特に「方便品」「寿量品」等)を再編集して書き換えを図り、「実は釈迦が久遠の過去において成道したことを舎利弗に説き明かしている(発迹顕本)」という加上を施した、と有力説では見ています。

再編集者たちは、「三乗の真実が実は一仏乗であった(開三顕一)」ことを明かすという手法を導入し、初期『涅槃経』や『阿含経』などの古い仏伝が伝える初転法輪は方便(人々を真実の教えに導く仮の手段)であったとして否定する手法をとりました。ここには、釈迦仏教との整合性を図るための加上が行われたことが論理的に明らかに見えます。(『涅槃経』には二種類がある。「自性清浄心」を説き法華経の「本覚思想」「如来蔵思想」に多大な影響を与えた大乗『涅槃経』とは別のものです。)

『般若経』は、大乗仏教の萌芽を広く知らしめ、普遍的な大乗の精神(空の思想)を論理的に語る600巻の膨大な経典群で構成されている特徴的な大乗経典とという位置づけがありました。『法華経』が『般若経』を何としてでも越えたいとする願望が動機となったことが透けて見えるのです。

大乗仏教の空観を説く『般若経』の諸経典群(特に『般若心経』は、般若経群の論理性を見事に要約できるスキルを持った再編集者たちの努力の結晶が考えられる)や、『法華経』など様々な大乗経典が経典の受持による功徳を説いています。ここでは経典護持の功徳や恩恵を期待できるものとして呪文(真言)を用いていますが、これらはインド仏教の中に発生した密教的要素である陀羅尼(呪文・真言)信仰が中国仏教に与えた多大な影響が引き継がれたものと考えられます。

空の思想を説く般若経典群600巻の最終形は、大乗仏教の到達点に現れた『金剛頂経』(『真実摂経』)に見事に収斂されています。サンスクリット原典の経題(訳)は「一切如来の真実を摂めたものと名付ける大乗教」ですが、不空訳の経題では『金剛頂一切如来真実大乗現証大教王教』とされたことから、中国、日本では『金剛頂経』(『真実摂経』)と略称しています。

ちなみに、『大日経』の正式な漢訳名は『大毘慮遮那成仏神変加持経』といいます。しかし、この題名の「神変加持」は善無為の意訳と考えられます。他にこれと異なる翻訳名があることから、この善無意訳はインドの原題名が中国人の感性に受け入れられないリスクありと見て、中国人が受け入れやすい意訳をしたのではないかとの疑いが考えられます。インド仏教をそのまま継承したチベット後期密教に伝承された『大日経』(通称名)との文言の比較検討が必要な範疇にあると考えられます。この両経が、空海の真言密教では「両部の大経」と呼称されました。『理趣経』は、金剛頂経第十八会の第六会中の部分訳ですが、金剛智三蔵は『金剛頂瑜伽理趣般若経』と訳し、不空はこれを『大楽金剛不空真実三摩耶経・般若波羅蜜多理趣品』と訳しましたが、真言宗では不空訳を採用しています。

同じく、本有(「理」=衆生には仏性がある)を主とする大日経(胎蔵界=慈悲)と修生(「智」=修行によって煩悩を除くこと)を基本とする金剛頂経(金剛界=智慧)を金胎両部不二(而二不二)とする理智不二の深義を説く『瑜祗経』の正式名は『金剛峰楼閣一切瑜伽瑜祗経』(金剛智・訳)です。これらは、大乗の論書や解説書を読み込んだインド大乗仏教のブッダたちによって7~8世紀に編纂された完成度が高い密教経典です。いわゆる、大乗仏教の思想の到達点にあらわれた中期密教経典です。一般的に、大乗仏教(顕経)の経典は「教」が主に説かれその具体的な実践修行の方法の記述がほとんどありませんが、密教経典は「教相(教理)」と「事相(実践)」の具体的な探求が両輪となり、一体化されて論理的に記述されている特徴を持っています。

11世紀に編纂されたチベット後期密教の諸経典は、中央アジアや中国を経由すること無く、インドからチベットにそのままダイレクトにもたらされた完成度の高い密教経典と考えられます。この特徴のなかには、チベットにおいて土着のボン教と習合した特殊形態(性的儀礼)が異彩を放っています。この特殊儀礼は、本質的には高度なレベルに達した選ばれた密教僧が瞑想の中で行う特殊な観法であり、様々な行法の中の特殊形の一つですが、興味本位の視覚的なリアル性の標的にされる悩ましさが指摘されてきました。この人々の興味本位を刺激する悩ましさを中国、日本の中期密教(いわゆる正当密教)が忌避してきたことは事実です。しかし、「誤解されやすい儀礼内容」を正すこと、問題視する人々を納得させることは本質的に不能でした。この行法は秘中の秘であり、そのレベルに達していない人々に、密教の神秘な行法を納得するまで説明することはできないのです。この行法は特別な密教僧の瞑想の行法であり、特別な資質、能力が必要とされているものなのです。希望すれば誰もが許されるものではなく、資質と能力を認められた特別な密教僧のみが許されるのです。チベット密教でも密教修行を許される僧は一握りのエリート僧だけであり、大半は大乗仏教を学ぶだけで終わるといわれているのです。だれでもが許される行法ではありません。チベット後期密教はインド仏教の最終形を示すステータスの位置づけにあるのです。詳細は(28)後期密教の成立(チベット密教)を参照して下さい。

法華経が説く修行のあり方は、法華経を「受・持、読・誦、解説、書写」することです。しかし、これはどの経典であっても何ら変わることがない基本形であり、法華経の固有の特徴とはいえません。法華経の結論ともいうべき功徳は、「薬王菩薩本事品」「妙音菩薩品」「観世音菩薩普門品」「陀羅尼品」(真言=神々の守護の呪文)「妙荘厳王本事品」「普賢菩薩勧発品」(法華経の結経)の6章に明確に書かれています。いわゆる法華経の結びの章ですが、ここには、諸難に耐え忍んで法華経を受持した者には、諸菩薩が守護者・救済者となって救いの手をさしのべる誓いが明示されています。

法華経が信奉者にさしのべた救いの手が意味するものは、救済者・加護者に対する称名と陀羅尼(真言)によって、攘災と加護(功徳)の功徳が約束されるということでした。救済と加護は、仏・菩薩の陀羅尼(真言)を唱えること(称名)によって、その恩恵が受けられるという思想です。『法華経』の経題(南無妙法蓮華経)を唱えることではありません。

「薬王菩薩本事品」は「寿量品」から「嘱累品」までの虚空会という異次元の世界からインド霊鷲山に舞台が移し替えられて法華信者の守護菩薩たちが登場する最初の章です。ここでは、多くの求法者に法華経を説いた菩薩がその報いによって薬王菩薩となり、薬王菩薩の献身的な物語を信じる者は心身清浄にして無限の恩恵を受ける身となることを世尊が語る設定です。

法華経には「二処三会」(①前・霊鷲山、②虚空会、③後・霊鷲山)という場所で世尊が説法したという舞台設定がされており、前後の(インドの)霊鷲山の間に虚空会という心象世界が設定されています。この中の「従地湧出品」には、法華経にしか書かれていない夥しい地湧菩薩(そのリーダ格は上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩)が世尊の眷属として地下から湧出す設定があります。また、「寿量品」で久遠実成を説法し、「嘱累品」に世尊が地湧菩薩たち一人一人の求道者に伝道の委任をする設定がされています。しかし、ここには、四菩薩の上首・上行菩薩が久遠実成の釈尊の再誕とも、法の結要付属を受けたとの記述は全くありません。そもそも永遠不滅であるべき「久遠実成の釈迦如来」の再誕説が起こる論理的な必然性が全くないのです。日蓮系宗派は、祖師日蓮の法華経解釈に束縛されて、天台密教のように(永遠不滅の)釈迦如来=大日如来(大毘盧遮那仏)と言い切るだけの論理的な整合性が感じられないのです。

この虚空会の説法儀式は、奇想天外の舞台設定が施されており、日蓮系の捏造解釈がまことしやかに語られていますが、これが2世紀頃に編纂されたとする初版の法華経の思想性とは考えられません。後年に教相判釈にこだわった人々が釈尊の久遠実成の根拠を挿入するために加上して再編集したものと考えられます。

また、「陀羅尼品」には法華経の伝道者には守護の呪文(陀羅尼)が説かれ、毘沙門天、持国天、十羅刹女、鬼子母神の法華守護の諸天部から呪文が贈られていますが、世尊(釈尊)が法華修行者の守護を命じた、という形式をとっています。

「妙音菩薩品」には、変化自在の姿をとって出現する妙音菩薩は34の姿をとり法華経を信じる者を庇護することが説かれています。

法華経の最終章(結経)である「普賢菩薩勧発品」には、法華経を信じる者には白像に乗った普賢菩薩が現れて救いの手をさしのべるという誓いが示され、神々も精霊も人以外の生き物も永遠に苦を免れることに安堵し大いに歓喜することが語られています。この章には、普賢菩薩の唱える呪文(陀羅尼)を聴く者は法華経を保って永遠に苦を免れる功徳が説かれています。智慧を司り衆生救済にあたる普賢菩薩は、華厳経の世界では諸菩薩の上首の位置づけにあります。

『法華経』が、密教的要素そのものである真言(陀羅尼・呪文)を信者守護の具体的な手段に用いた事実には、様々な疑問が考えられます。①『法華経』は2世紀頃に編纂されたと考えられているが本当か。②なぜ、6~8世紀に成立した密教経典の本質的な要素である真言が『法華経』に書かれているのか。③何故に、真言を所持する諸菩薩、諸天部を法華守護者として登場させたのか。④般若経典群を越えられる論理性を強く意識して、『法華経』を再編集できる能力を身につけた者は、5~6世紀の成立といわれる大乗起信論など、大乗の論書、解説書が出揃った時期以降にこれらを参照することができ、しかもその論理性を理解できる者にしか最新の論理性を加上できる可能性がないのではないか。⑤『法華経』の存在証明ができるサンスクリット原典が確認されていない。天台宗が所依の経典とした法華経が何であったのか確認できない。⑥『法華経』が編纂されたとされる2世紀の時点では、現在形の28品の完成はあり得えず、それは不可能である。などの疑問です。

大乗仏教の諸経典は、各宗各派が選び取った経典の位置づけを上げるために、他の経典の論理性を超える加上が何度も施されていると考えられます。その原因は、中国で始まった教相判釈の競争を自宗に有利に展開する爲であったと考えられます。対抗者の上位に位置づけることに成功すれば、王権の覚えがめでたくなり、様々な庇護と施入が期待できること、また国師や大師号を与えられるチャンスに恵まれることを望んだと考えられます。

大乗仏教の精神を受け止めた論理の発展的な解釈や加上は、必ずしも非難に値する不正とはいえせん。思想の深耕や論理の進化は、新たな論理性を自宗の教理解釈に反映されていくものだからです。この意味では、教相判釈の中心的な存在であった法相宗、華厳宗、天台宗がもっとも積極的に取り入れていると考えられます。しかし、日蓮の法華経の解釈は、日蓮のパーソナリテイに由来する独特な感性から生まれた妄想と考えられる異質性が突出して見えます。日蓮の法華経解釈は、教相判釈の進化形から生まれた論理性とは認められません。

密教経典が現れるのは、大乗の論書や解説書が出揃い、教相判釈に何を取り入れるべきかが論理的に明らかになっていく時期の頃であったと考えられます。密教の思想と教理には、前三宗の教理と比較すれば格段の進化形が見えます。密教経典は大乗仏教の論理性を十分に参照し、その論理性と欠点(何が足りないのか)を理解できる能力をもった人々によって編纂されたことが当然のこととして考えられるのです。密教経典が大乗仏教の到達点に花開いたことが理解できる理由でもあります。

真言(陀羅尼、呪文)の起源は、古代インドにありますが、それらが論理的に整備されたのは密教経典の出現を待たなければなりませんでした。真言が密教経典に整えられたのは、6世紀以降と考えられ、真言は7~8世紀に「大日如来の真実のことば」として整えられて完成したのではないかと考えられます。古代インドには、民間信仰として古くは釈迦以前にも災難避けや福の招来の呪文(パリッタ)として用いられていた事実がありますが、それが整えられて、大乗経典に取り入れられたのは初期密教経典の出現を待たなければなりません。いうまでもなく、大乗の仏教経典に現れる諸仏、諸菩薩、明王、天部の諸尊の真言は密教経典の儀軌が整えられるまでは実際には使えないものです。もし、『法華経』が2世紀前後頃の編纂であれば、経典の中に真言の功徳の効用を取り入れることはできないのです。いうなれば、前記6章のいわゆる流通文にあたる経典に導入することは不可能です。『法華経』が今の形に再編纂できる時期は、密教経典の成立を待たなければならないのです。ここにも、『法華経』が何度も加上され、再編集が行われた形跡が見えます。

大乗仏教の諸経典の特徴は、「経典そのものに力がある」と考える思想をもったことにあります。しかし、このことと、日蓮が「南無妙法蓮華経 日蓮」を本尊とする曼荼羅を造立したこととは本質的な相違があります。

日蓮の本尊は、仏教が広まったどの国にも無い特殊形であり、本尊観を驚愕させるものでした。もし、日蓮が天台宗の正式な僧侶であれば、この本尊の造立は本質的にありえないと考えられるのです。この本尊の造立は、日蓮が大乗仏教の本尊の根本的な論理性である仏身論(仏の仏身とは何か)の基本知識が欠けていたのではないかと疑わせるものであり、日蓮が天台宗の正式な僧侶(住職)資格を授与された者であったかどうかの疑いを持たせるものなのです。天台宗の教理は厳格であり、有資格者の僧侶が天台宗にない本尊を造立することなど考えられないのです。

鎌倉時代は武家の台頭により、最大の庇護者であった朝廷、大貴族が没落し、仏教界は没落をしていく混乱期のまっただ中にあり比叡山も衰退していました。日蓮は修行のさまざまな必須課程(階梯)を満行しないで、修行僧のまま比叡山を飛び出した無資格者ではなかったか、という疑いが消えないのは致し方ないことだと考えられるのです。

なお、仏身論には、諸説ありますが、三身説(法身、報身、応身)が分かり易く基本的な説です。法身とは、法そのもの、宇宙森羅万象を本体とする仏身であり、華厳経の毘盧遮那仏、その発展形が密教の大毘盧遮那仏(大日如来)です。報身とは、修行の果報として現れる姿であり、阿弥陀如来・薬師如来などの諸如来です。応身とは、人々を救済するために現れた釈迦如来をいいます。

後に、日蓮の言動や振る舞いなど布教の在り方が問題とされて鎌倉幕府の罪人となり、その処断について幕府から比叡山に身分照会した際に、天台宗は日蓮の庇護を拒否したことが知られています。この無関心の真意が問題なのです。日蓮は二度の島流しの罪状に科せられましたが、比叡山の許可無く勝手に下山した修行僧や天台宗の教義と異なる布教をする者の僧籍は(仮にあったとしても)抹消されている、と考えられるのです。なお、日蓮宗の各宗派は、幕府がとった数々の処断を宗祖の法難と受け取る宗教的情緒をもつ共通性があります。

釈迦の悟りの内容をありのままに説法する経典であるとする説によって、『華厳経』から華厳宗が生まれました。この説では、「すべての仏の教えは悉く華厳より出て華厳に帰する」とする根本法輪の思想が見られます。いうなれば、『華厳経』と『法華経』の両経には「諸経を凌駕する経典」に位置づける自意識の高い共通性が見られます。この自負心は、大乗経典を広く検分してその上に立てる自信であり、諸経の論理性を越えた(諸経を見切っている)ことの表明でもあります。これは両経が大乗の論書、解説書を研究して取り込んだことの自信(それは両経が何度も再編集され論点整理を行ったことの自白)の現れとも考えられます。しかし、これには注意が必要です。すべての仏教経典は釈迦の真説と考える立場では、この両経の主張は読み手の精神を束縛する危険性が考えられるのです。

普賢菩薩は、衆生救済の菩薩行(実践)に特に優れた菩薩ですが、『華厳経』の「入法界品」には普賢菩薩行願讃として説かれています。『華厳経』が説く普賢菩薩行願讃に説かれた善財童子は、文殊菩薩の教え(智慧)に端を発し、導かれて53人の善知識を次々に訪ねて真理を探究する修行を続けましたが、最後に、普賢菩薩(衆生救済の実践)のもとで智慧(悟り)が完成しました。この善財童子の修行譚の物語は、東海道五十三次の宿場の数に使われましたが、大乗の菩薩の誓願の心の修行の階梯を示すものと考えられます。密教では、普賢菩薩は執金剛位(禅定と智慧を具有し慈悲を兼ね備えた菩薩位)を獲得した金剛薩埵(金剛手菩薩)と同体とされています。

ちなみに、『華厳経』は様々な大乗経典を編集し、増補を加える再編によって作られた大部の経典です。その主な教理の構成に用いられた諸経典は、『十地経』、『不思議解脱経』(「入法界品」)、『性起品』などです。その漢訳の時期は、後漢末から六朝初期頃と考えられていますが、現在の形になる『華厳経』の全体の編纂の構成が完了した時期や地域は明らかになっていません。随の頃に『六十華厳』(60巻)となり、唐代に「入法界品」の補訳が行われていますが、このほかにも複数の巻数で構成された華厳経があります。その仏身論の特徴的な法身・毘盧遮那仏の世界観が中国密教と空海の真言密教の両部のマンダラ思想に多大な影響を与えています。

『金剛頂経』の代表的な明王である愛染明王は、金剛手菩薩と同体とされ、『大日経』の代表的な明王である不動明王とともに明王の双璧とされ、両部マンダラの統一的仏身観の中尊・大日如来を護持する左右の脇士として安置する本尊形式が密教壇において採用されています。

実際には、法華経は、具体的な徳目(功徳)が力説されている『観音経』(『法華経』の「観世音菩薩普門品」)の観音信仰によって布教され、信仰されてきました。法華経に説かれる観音信仰は、様々な衆生の機根に合わせた33身の観音(聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、不空絹索観音、馬頭観音、白衣観音など)を出現させ、一切の衆生を救済する功徳が説かれています。衆生の信仰によって現れる観音の称名(陀羅尼、真言)を唱えることによって、観音菩薩の心と衆生の心とが感応して救済されるという教えです。この33観音は、人々の信仰心を導くために、人々が受け入れやすい姿・形に荘厳して次々に追加され、それが33観音として成立したと考えられるのですが、この中に、中国生まれの複数の観音が導入されています。

『観音経』の原型は聖観音(観世音菩薩、観自在菩薩)であり、インドで西暦1世紀頃に成立したものです。6世紀以降には、ヒンドゥー経の影響を受けた密教の流行により、多面多臂の密教的観音がインド、チベット、中国で相次いで成立しました。チベットでは歴代のダライ・ラマは観音菩薩の化身であるとされ、その宮殿をポタラ宮(観音の補駱駝世界=ポータラカ)と名付けています。チベットでは六字大明呪(六字真言オーム・マニ・ペーメエ・フーム、中国的にはオン・マニ・パドメイ・ウン)を護符として唱えますが、、真言密教は変化観音それぞれに固有の真言を唱えます。中国では後漢の滅後、随の建国前の分裂国家いわゆる六朝(呉・東晋・宋・斉・梁・陳)時代に多数の中国的変化観音が成立しました。6世紀の観音信仰を法華経が取り込んだ事実にはその再編集が6世紀頃に行われたことを物語るものであると考えられます。ここにも、法華経の加上と再編集の痕跡が見えるのです。

空海は『法華経開題開示』において、「妙法蓮華経とはこれすなわち観自在王(観自在菩薩=観音菩薩)の密号なり、すなわちこの仏を無量寿と名づく」と述べ、悟りの世界では無量寿如来(阿弥陀如来)であるが、この娑婆世界では観音菩薩の姿で衆生救済の活動を行っているという理解を示しています。ここには、空海の法華経に対する仏身観(観音菩薩は阿弥陀如来の眷属)が見えます。

『法華経』の再編集の最大の眼目は、釈迦は実は久遠の過去にすでに悟りを開き、今日まで衆生救済の説法を続けてきたとすることであり、そのために、釈迦自身に初転法輪を書き換えさせて、舎利仏に久遠実成を説法する構成をとっています。これを補強するために、いわゆる「法華七譬」の物語など多数の創作を各章に編入し整合性をとったことが考えられます。ここには、釈迦の法を地湧菩薩の一人一人に託す虚空会の儀式(現実世界でなく釈迦の心中を仮託した世界、いわゆる劇中の劇というべき架空世界)を加上して編入したことが見えます。この地湧菩薩と上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩は法華経以外の大乗経典に書かれていない菩薩であることから便宜上の創作と考えられます。日蓮は、この儀式をことのほか重要視し、日蓮こそが上首・上行菩薩の再誕であると自覚するにいたったと日蓮系では信じられています。故に、日蓮は末法の本仏であるとする日蓮本仏論が日興門(日蓮正宗とその分派、今の創価学会、顕正会など)に根付きました。論理的には、仮論の上に空論を上乗せする思想ですが、信仰の世界ではこれが信心の有る無しに直結するのです。日連系の独特な法華経観はここにあります。

『法華経』を依経とする日蓮系の宗派には、『法華経』の全28品の研究によって大乗仏教の思想性や大乗経典との整合性を意識することなく、僅かに「方便品」や「寿量品第」を切り出して、これを法華経の眼目(中心)とする独善的な教理を導き出して、日蓮を末法の本仏とする日蓮本仏論を捏造した過失があることから、法華経の全体像が把握できていないのではないかという疑いが指摘されています。

江戸時代まで続く各武家政権の中では、日蓮宗、中でも布施不授派の信仰姿勢は政権から疑いの目で監視されて来ました。また、日蓮本仏論が根付いていた興門派(いわゆる富士派、今の日蓮正宗)は、その布教が危険視され、いわゆる折伏布教は流刑(島流し)に処せられましたが、幕府は日蓮宗の各派の有り様を問題視し、その宗務統制を身延山久遠寺に委任しました。特に江戸時代は、寺檀制度・檀家制度が完成して庶民を政治支配する機能をもたされていたことから、これを揺るがす危険性がある布教行為そのものが禁制化され、新興宗教などが勃興する芽を摘んでいたのです。

日蓮系の宗派の中には、本尊観(仏身論)や諸仏、諸菩薩の捉え方が大乗仏教の普遍性の考え方と全く合わない突出した自意識過剰の自己満足と異質性を抱え込み、自宗・自派を大乗仏教の頂点に位置づける異端の宗派が存在しています。教祖の特異な仏教観に染まり(憑依)、 法華経の特異な解釈に固執し過ぎて、異常な信仰心が沸騰したことから唯我独尊に陥り、法華経を褒め殺しにしてきたことにも気づいていないのではないかと疑われています。戦後の混乱の中で立ち上がった新興宗教団体が布教の主力になってきたことから、軌道修正ができなくなったものと考えられます。

日蓮本仏論の法華経信仰のあり方(その捉え方)は、法華経(大乗経典)に説かれた仏説ではありません。日蓮系の特定宗派が強引に捏造した恥ずべき独善説としか考えられないものですが、諸外国の仏教徒に日蓮本仏論を語れば、間違いなくオカルト宗教の評価を受けることになります。日蓮本仏論の内容を具体的に検証できる状態になれば、まともに取り合うことなく自然に離れていくことになると考えられます。

日蓮は、『立正安国論』の中で念仏信仰に激しい攻撃を加え、国難を招く理由の一つに挙げています。この書は、国家の三災七難を防ぐためには念仏を停止し、他宗を謗法として退け、法華経信仰の確立を訴える独善的な国家諌暁の書と考えられます。1260年に鎌倉幕府・前執権の北条時頼に提出したのですが、その内容があまりにも異常であったことから受け入れらず、流罪に処せられました。ところが、不可解なことに日蓮は、なぜか662年後の大正11年(1922年)の軍備強化の特殊な時代的背景の中で、熱心な日蓮宗徒の政治的な働きかけを受け入れ「立正大師」号が与えられました。他宗の教祖に比べ、日蓮に大師号の宣旨がなかったことに対する特別な配慮が日蓮宗徒の軍部(国家)への協力体制の見返りに行われたのではないかと考えられるのです。

日蓮の法華経至上主義の国家観が、明治以降に急速に勃興した日蓮神秘主義者が声高に吹聴する国家主義思想に共鳴して台頭しました。時代の荒波と狂気に染まった軍部の指揮官に影響を与えたのです。日蓮の思想は、本質的には神道、天皇を否定する不敬思想を抱えすぎていたことで、天皇中心の国家体制とは完全に適合しない思想でした。そこで日蓮の遺文の解釈が変更され、天皇・天照大神に迎合する「神国日本」という「国体思想」に看板を付け替えて国体(天皇制)との融合が図られたのです。反国家思想の取り締まり元締めであった司法省刑事局は、この事実を「日蓮宗各派全体の情勢としては…国家主義思想の勃興に乗じて盛んに同宗の日本的仏教、国体的宗教なるゆえんを高調して、その出版物の夥しきこと、宗教書類出版中の最高位」と記しています。日蓮系の新興宗教団体が相次いで結成されたのです。

日蓮主義に基づく国家主義思想者には、国柱会の「田中智学」、狂信的な妄想が生み出し奇想天外な奇書を書いた「木村鷹太郎」、2.26事件の黒幕として存在感を示した「北一輝」、霊媒を使い200万余の心霊を霊鷲山に送った(?)狂気の僧「鷲谷日賢」、血盟団を結成し5.15事件に関与した右翼日蓮主義者「井上日昭」、法華経の信仰に生涯を捧げた文学者「宮沢賢治」、死のう団という戦闘集団を組織した盟主「江川忠治」などが知られています。また、満州事変を指揮した関東軍参謀「石原莞爾」は日蓮の預言を信じる信仰心から世界最終戦論を構想し、中国大陸で陸軍の虎の子の関東軍を消耗させる泥沼に引きずり込みました。日蓮の預言とは、救世の菩薩(上行菩薩)が現れて戦争を勝利に導き、本門の戒壇を日本国に建立し日本の国体(天皇)を中心とする世界統一が完成するというビジョンです。日蓮の妄想には人々に憑依する避けがたい力があるのか、もしくは、自ら進んで日蓮の妄想に憑依されることを望んだのか不思議な現象ですが、日蓮思想と個人の価値観が何らかの因果関係の因縁によってチャネルがあってしまったのでしょうか?

なお、日蓮が宗祖として著名な宗教家の扱いになったのは、明治以降に信仰の足枷が外され信教の自由化が認められる方向性が見えたこと、特に昭和の戦時中から戦後に新興宗教団体が結成され、熱心な布教と折伏活動により多数の信者獲得の成果を挙げたことにより世間に知られる存在となってからであったと考えられます。

法華経の総合性を評価する視点から見れば、日蓮宗・総本山久遠寺の教理(本迹一致説)が社会的には認知されやすいのではないかと考えられます。日蓮宗系を久遠寺に統括させた江戸幕府の宗教政策には妥当性があったと考えられます。本迹優劣説は、「従地涌出品」や「如来寿量品」から「開近顕遠(開迹顕本)」を導き出して日蓮を末法の教主(日蓮本佛論)とするレトリックに使われたと考えられるのです。

鎌倉時代、疲弊した農村地域に称名(南無阿弥陀仏)が浸透しました。浄土宗の宗祖・法然が中国浄土宗の僧・善導の思想を根拠として『選択本願念仏集』を著し、他宗を攻撃する一面を内包する専修念仏を末法救済の教えとして広めました。称名による即得往生は、誰でも漏れなく西方浄土の阿弥陀如来の救済があるという思想です。

法然は、人は正しく仏道を修行する力が無いのだから、阿弥陀仏の万人救済の本願に従って念仏を唱えるしかない、として専修念仏の易行を勧めました。菩提心を求め続ける素質のない人でも専修念仏すれば阿弥陀如来の慈悲によって西方浄土に救いとってもらえるという「他力本願」の思想です。これが阿弥陀如来の本願にかなう易行である、と思い定めたことに法然の阿弥陀観が如実に表れていると考えられます。法然の念仏信仰のあり方は、「往生したいと自ら願い、念仏を称えること」を前提とする事によって、極楽浄土への道が開かれると考えたのです。しかし、『選択集』の成立後、法然は迫害を受けることになりました。

鎌倉時代の庶民は無学文盲でした。僧のような厳格な修行は望むべきもありませんでした。もし、法然が、当時の社会には衆生の機根を整える条件が揃っていなかったことを前提にして、一時的に、方便としての専修念仏を勧めたものであれば、菩提心に目覚める条件付きで許容できるのではないかとも考えられます。

しかし、800年の時の流れの中には、様々な歴史的事実や人々の思いが刻み込まれて定着しています。何よりも巨大教団が存在感を示して活動していることから、いまさら路線変更ができるものでもありません。これについて問題意識を持つことができる信者一人一人が、よく考えて選択すべき問題だと考えられます。

法然の弟子であった悩み多き親鸞(浄土真宗・教祖)は、これをさらに塗り替えて『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を著し、阿弥陀如来を信じた瞬間に救われるという教義を立てました。法然の念仏観の他力性が変更され「わざわざ願うまでもなく、阿弥陀仏の方から救いの手を差し伸べてくれるので何もする必要はない」と考え、阿弥陀仏の誓願に独自解釈を加えました。親鸞は、『正信偈』に釈迦の教説は「阿弥陀仏の本願唯一」であるという仏教理解を示しています。

ここに、インド、中国、日本の聖教を縦横無尽に引用して一切経の真意を明らかにした『教行信証』、そのエッセンスが『正信偈』であるとみる解釈が親鸞の門徒に継承されてきた独善的なロジックが見えます。しかし、大乗仏教の真意が専修念仏であるとするロジックは、阿弥陀如来の慈悲の本願を捻じ曲げた牽強付会の不遜なブラフ(bluff)を用いたロジックでしかあり得ないと考えられます。それは、鎌倉時代を背景とする末法思想の中に芽生えた突然変異であり、他の仏教諸国には見ることができない日本特有の宗教的情緒にまみれた特殊説と考えられます。

親鸞は、菩提心に欠ける悪人こそが救われるという「悪人正機説」を立て「絶対他力本願」を主張しました。親鸞の思想は、人間の弱さを阿弥陀如来の慈悲に委ねて救いを求めるものでしたが、修行や努力を奨励せず、個人の資質や菩提心を問題にせず、懺悔や悔悟を求めないままに、阿弥陀如来の慈悲の深さを無限大に強調して、人々に救済を告げて安堵させるものでした。しかしながら、中国で性格を一変した浄土教の非仏性は、悟りに向かって仏陀を目指すべき大乗仏教の菩薩のあるべき「行」の信仰姿勢を否定して、極楽浄土に往生することを最終目的とする「信」の信仰姿勢を主張するものでした。親鸞は、法然の選択集から浄土門>聖道門とする解釈論を持ち込み、自らの信仰姿勢の在り方を正当化しました。自ら発心・修行して悟りを開くのではなく、「信」によって阿弥陀如来の慈悲に救いとられ、不自由のない極楽浄土(永遠に続く楽園)で究極の生活ができると信じたのですが、永遠に極楽浄土に居つづけられる世界などというものはあり得ないのです。

生死から解脱に至るプロセスにおいて、念仏を救いの本願の行とする解釈は、中国浄土宗の道綽に始まる説です。親鸞は、『仏説無量寿経』(中国魏曹の康僧鎧の訳、経典の成立時期は釈迦滅後500年以降と考えられるが編纂者は不明であり、サンスクリット原典は存在しない)を極理としましたが、この経はいわゆる中国で撰述された偽経と考えられます。「極楽浄土に生まれたいと願う者は、皆、仏になることを約束され、阿弥陀の名号を聞信し、心から念ずれば往生が定まる(要旨)」という特徴的な説を述べていますが、その用語は老荘の思想や道教の強い影響が指摘されているものです。ここでは、『無量寿経』に混入された第十八願の解釈について、「念仏を救いの本願の行としたのは如来自身の選択である」という解釈がされていますが、この解釈は伝統的な釈迦仏教や大乗仏教の精神が明らかに認めない非佛説と考えられるものです。ここには、浄土経典が大乗仏教の変質の変遷に大きくかかわった事実関係が見えるのです。

阿弥陀如来に対する称名念仏は、それ自体が否定されているものではありません。しかし、信仰者の菩提心の在り方に問題となる難点があるのです。阿弥陀如来に向き合う信仰者の菩提心を正すことなく、慈悲深い阿弥陀如来の救済を逆手に取る(発心、悔悟、菩提心もないままに)絶対他力本願の信仰姿勢を勧めたことに重大な瑕疵があるのです。阿弥陀如来の慈悲の心を人々に誤認させた責任があると考えられるのです。親鸞の仏教理解は、文学であり、情緒であり、情念が突出した独善的な世界観の中に逃避するものです。ここには、大乗仏教思想の普遍性や論理性が欠落しているのです。親鸞の情念が生んだ念仏信仰は、親鸞の情念から生まれた特殊な情緒の形態でしかなく、これは決定的な非仏説と考えられるのです。

念仏宗には、きわめて情緒的な信仰姿勢が現れています。僧を中心とする厳格な伝統教団として成立しなかったことから、親鸞の選び取った他力本願の思想だけを信じ、大乗仏教の普遍的な思想に背を向けた半僧半俗の指導者たちが善良な人々を純粋培養して妄想を植え続けてきた特殊な歴史性の中にその原因があると考えられます。

慈悲深い阿弥陀如来に対するする信仰は、日本語であれば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となりますが、鎌倉新仏教の念仏衆徒は伝統的に「なまんだー」とか「なんまんだぶ」などの称名を唱えています。「なむあみだぶつ」の連続した称名の調子の取り方が難しいところから、リズム感のある親しみを込めた称名の表現方法が工夫された(?)とも考えられますが、伝統的な仏教観からみれば、これは阿弥陀如来に対する南無(帰命)を表す「あるべき称名」の在り方とは考えられません。あまりにも情緒的すぎる宗教観に変貌しすぎていると考えられます。傷だらけの称名を何万遍唱えても、それは阿弥陀如来に対する帰命とはいえない、と考えられるからです。

特に浄土真宗の教義には、親鸞の仏教観が見事に表れています。神や仏に向かってする信仰の在り様は、信仰に目覚めた衆生の側から神や仏に向かって祈り、願い、救いを求めるという関係性にあることを条件としています。その救いには、衆生の信仰心や努力としての修行が前提条件となっています。この条件があってこそ神仏の力による救いがあると考えることが大乗仏教の基本的な認識です。ところが、親鸞は、阿弥陀仏の因位の菩薩(法蔵菩薩)は「衆生が修行を励んで仏道を完成する歩みができない」と考えたのです。そのような修行に背を向けて逃げているのが凡夫衆生であると認識したのです。故に阿弥陀仏は、修行ができない衆生を憐み、そのような衆生の救済を決意して、法蔵菩薩であった時に、菩薩の48誓願を成就して自ら努力ができない衆生の救済を誓願した、と考えたのです。

故に、親鸞は座像の阿弥陀仏を嫌い、立像の阿弥陀仏(立像=立って動きやすく、他力回向の救済をする大慈悲の姿とみる)を本尊と定め、念仏の唱え方は徹底した阿弥陀仏に対する報恩感謝の気持ちを表す念仏に特化されています。このような他力回向(=仏力=本願力)の信仰は、正統仏教の信仰姿勢とは決定的に異なる非仏説と考えられます。

親鸞が導いた教理は、悩み抜いた親鸞自身が長年引きずってきた親鸞自身の信仰の葛藤に決別するものであったのであろうか?という疑問が考えられます。これによって、偉大な師僧であった法然の教説でも自身が救われる確信が持てなかった悲しい親鸞自身に決別できたのであろうか?という疑問です。もし、このようなありようが、親鸞自身が阿弥陀仏から救い取られる教理を導き出せる帰納の結論であったのであれば、それは釈迦仏教や大乗仏教の精神を受け継ぐ思想とはいえません。仏教の世界観から逃避して、文学的な情念や情緒の世界観に身をゆだねて安息を求めた親鸞の悩ましい情念と息遣いが感じられてならないのです。

法然と親鸞の布教は、絶望的な末法思想と終末思想の蔓延の中で悩みぬいたすえの布教方法であったと考えられます。悩める人々を救いたいという動機があったこと、同時に、救われたいと願う庶民の切実な要求(非常時の救われ方)に応えたものであったという情念的な評価があることも事実です。

しかしながら、これを仏教観を基準にして見直せば非難に値する布教行為となります。阿弥陀如来の深い慈悲に付け込む印象操作をすることによって、あたかも阿弥陀如来には万民を漏れなく救済する義務があるかのごとき独善的な情念を迷える人々に刷り込んだ非道理性があるのです。誰もが簡単にできる称名念仏だけで阿弥陀仏に抱きとられて西方浄土に導かれるという「教祖が選んだ易行」は大乗仏教にはない思想です。仏教の教えは、迷える衆生を導くための指南(または教導)であり、衆生に修行の正道を示すものです。仏教は悟りに至る道を説く教えであり、彷徨える哀しい情念や文学的な情緒を慰撫したり、共感を示すことによって解決させるという教えではありません。有難いお経を聴き、仏や教祖を拝めば成仏するという教えではないのです。衆生に対する優しさや気遣いは、衆生を悟りに向かわせる方便に過ぎないものなのです。

薬は病気によって使い分けるように、仏は衆生の機根によってさまざまな法(顕教)を説きましたが、衆生の素質に合わせた教えは仮(権教)の教えです。すべての衆生の機根を劣悪とみる根拠は一体何でしょうか。現代人は鎌倉時代の衆生ではないのです。今日の人々は、悟り(成仏)の智慧は、自分自身が、本気で自分自身と向き合うこと、悔悟や努力に目覚めて菩提心を持ち、自行と化他行の菩薩行道を意識しなければ解決に向かうことができない、という道理を理解できない無知な人々ではないと考えられるのです。

大乗仏教の普遍性は、仏の慈悲と知恵に感応する私たち一人一人の胸中に育まれた菩提心の中にあります。釈迦が衆生の機根にとらわれず、悟りを得た者の立場(随自意)から説法したとされる『華厳経』 には、悟りに向かうためには、菩提(悟り)への誓願を発心して、菩提への向かう熱意(菩提心)がなければならないという教えがあります。

菩提心と菩薩行は大乗仏教思想の核心ともいえるものですが、仏教者の自覚を促す根本条件でもあります。『大日経』の「住心品」には、仏の智慧(一切智智、覚り)を獲得する肝心として「三句の法門」が説かれています。金剛手菩薩(執金剛または秘密主ともいう、金剛薩埵と同体、華厳経の普賢菩薩と同体)が大毘盧遮那仏(大日如来)に対し、「仏の智慧(覚り、一切智智)とはどのようなものでしょうか」と単刀直入に質問したことに対し、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」と答えたのです。最高の真実(智慧、覚り)は、さとりの心を出発点とし、大いなる慈悲を基本とし、それらを応用する手立てを究竟の目的とすることである、ということになります。一切智智とは、すべてを知る者(仏)の智慧です。

なお、方便究竟には若干の説明が必要と考えられます。方便を究竟とするという意味は、真言行者は六波羅蜜行の修行によって悟りを得るが、まず自分が成仏した後に自身だけの悟りに終わることなく、大悲をもって衆生を教化救済することを意味するものです。大乗の菩薩が衆生と共に成仏を目指すもの、むしろ衆生を先に成仏させることを本望とするなどという意味合いに誇張して語る説がありますが、これは失当と考えられます。菩薩といえども自身の素質や種々の機根の影響を受けざるを得ないことは当然です。菩薩が悟りにいたる場合でもその機根等によって頓(速い)と漸(遅い)があることは致し方ないことなのです。菩薩は自行として菩提を求めることを第一義とするのであり、衆生の苦を抜く大悲行の後に菩提行を修行するものではありません。衆生を見捨てて自身のための自利行を優先させているのではないのです。

菩提心とは、菩提(さとり)と心であり、「菩提を求める心」と「菩提の自性の心」という二種類があります。菩提という目的を立て、誓願という宗教的な発動と実際の修行を行う菩提心とが必要なのです。他力本願の思想には、魂の救済を阿弥陀如来の慈悲に転嫁して人々に安心感を与え、成仏の丸投げを許容して受け入れて欲しいとする情緒的な観念のとらわれ過ぎがあり、強い独善的な情念が感じられてなりません。大乗仏教の精神を枉げた非仏説という批判を受けることは致し方ないと考えられます。

浄土思想は、阿弥陀如来の西方極楽浄土に往生して成仏することを説く思想です。一般的には、阿弥陀信仰として信仰されていますが、浄土教という宗派はインドの成立ではなく、インドに萌芽した浄土の概念が中央アジアで形成され、中国に伝播されて浄土教として成立したものと考えられます。その思想の出典は、『無量寿経』・『阿弥陀経』(この2経は紀元100年頃の編纂とする説があるが疑問。釈迦仏教には阿弥陀仏の観念や浄土思想は存在しなかったとする説がある。)、『観無量寿経』(4-5世紀頃中央アジアでその大綱が成立し、中国で中国的要素が加味されたとする説があるが、サンスクリット原典は発見されていない)という浄土三部経にありますが、これらが中国の浄土教に大きな影響を与え、これを輸入した比叡山の中で突然変異を繰り返し、日本的情緒が追加、増幅されてきたと考えられるのです。

浄土思想の論書は、龍樹(150-250年頃)の『十住毘婆沙論』(「易行品」)、天親(4-5世紀頃)の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』・『往生論』)に始まるものでしたが、中国には2世紀後半頃から浄土経典が伝わり、5世紀に廬山の慧遠(334-416年)が白蓮社という念仏結社をつくり初期の中国浄土教を主導しています。曇鸞(476-542年頃)が天親の前記論書を注釈した撰述書を著わし、曇鸞の影響を受けた道綽(562-645年)が『観無量寿経』の解釈書『安楽集』を撰述しました。道綽の弟子善導(613-681年)が、『観無量寿経』は観想念仏ではなく、称名念仏を勧めている経典であると解釈する立場で『観無量寿経疏』を撰述しました。ここに称名念仏思想の萌芽があったのです。浄土宗は、その成立の当初は「善導宗」と呼ばれましたが、善導への崇敬の念が突出していた法然門下の信仰の在り様を投影したものであったと考えられます。

しかし、中国では、慧日(680-748年)が浄土と禅を兼修する「念仏禅」を主張し、中国の浄土思想の主流は「念仏禅」(観想念仏)となりました。浄土思想は渡唐の僧・円仁が比叡山に「観想念仏行」をもたらし、良源(912-985年)が比叡山・横川を整備して阿弥陀如来を事観(事相)の対象とする観想念仏を定着させましたが、良源の弟子・源信(942-1017年)は観想念仏を重視する立場でしたが、『往生要集』を著わし一般民衆のための易行として「称名念仏」を認めたことから、民衆救済の大衆仏教化の流れが出てきました。法然が観想念仏を否定して称名念仏を推奨したことから大衆化された専修念仏の流れが親鸞に受け継がれ、独特な日本的情緒に包まれた悪人正機説が生まれたのです。

専修念仏者の信仰姿勢には、“自分が救われたい”という念仏の情念の響きを強く感じますが、専修念仏の功徳で、死の間際に阿弥陀仏の来迎により西方浄土に救い取られて即得往生をするという思想には、大乗仏教の精神が全く感じられません。菩提心に目覚めず、菩薩行(利他行の実践)の思想が欠落すれば大乗仏教の精神が無いことになります。

大乗経典である浄土三部経『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』を所依の経典にしているという理由を挙げて、自宗自派が大乗仏教だと誤解している人々が大勢います。しかし、これは明らかな間違いです。どのような経典に準拠しようとも「大乗仏教の精神」が欠落すれば、それは大乗仏教とはいえません。浄土三部経は菩提心の否定を許容し、菩薩行を無視することを認める思想ではないのです。菩提心に目覚めて、阿弥陀如来の智慧と慈悲に感応して「発心」すること、菩薩行道(衆生救済の実践)に目覚めて利他の精神を「修行」する姿勢を保ち続ける信仰態度が必要なのです。菩提心(発心)と菩薩行(修行)を否定する大乗仏教はありえず、それはもはや仏教とはいえないのです。

法然、親鸞の師弟が共に越後に流罪となり、親鸞は非僧非俗の身となりました。両人が数々の弾圧を受けた理由は、比叡山の意思が働いた結果でした。両人が非仏説を布教したことで比叡山の逆鱗に触れたのです。比叡山が時の権力者に懇請し、幕府権力に忌避されて流罪に処せられたことは周知の事実です。後に、戦国時代の浄土宗(法然の系譜)は権力者の理解を得て為政者と共存を認められ、一向宗(浄土真宗)は、生き残りをかけて強力な戦闘集団に変貌を遂げました。

厭離穢土・欣求浄土の思想(死ぬことを歓喜に変える思想)を持つ念仏信者は、現世に執着心を持たず、死して阿弥陀如来に救い取られ、光に満ちた何不自由のない西方極楽浄土に再生することを願い、死を恐れない戦闘集団となって織田信長の武力に挑み、戦に破れて数万~数十万人の大量の死者を出しました。

戦国時代、加賀の一向宗(現・浄土真宗)門徒が、反領主派の寺社・国人勢力と手を結んで加賀領主・富樫氏を追放したことで、門徒を多数抱える領主層に動揺を与えました。これを加賀一向一揆(1488~1580の92年間)といいます。加賀・能登・越中(現・石川県と富山県)に伝播し、領主を追い出す実力を示したことから、近隣の戦国大名に大きな衝撃を与えました。戦国の覇者となる織田軍団がこれを危険視して壊滅させるために軍事行動に出たのですが、地方領主や国人・土豪層の多くが、主家に反逆することよりも阿弥陀如来に逆らうことの不信を恐れ、後生善処を願って農民層に寄り添って大量に参戦し、戦国乱世が現出しました。一向宗は織田軍に破れて大阪の石山本願寺に本拠を移しました。

一向宗は、甲斐の武田信玄、中国の毛利元就、将軍・足利義明、近江の浅井長政父子、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺の勢力と同盟して織田包囲網を形成して対抗しました。比叡山が中立の立場を取らず、仏敵の旗印を掲げて織田軍に対して敵対行動を鮮明にしたことから、織田軍は比叡山の宗教界に対する影響力を恐れ、宗教界に拡大して連鎖する危険性を断つために、比叡山の焼き討ちを決意せざるを得ないまでに追い込まれました。一向宗は宗派の存亡をかけて起死回生の武力戦争を耐え抜いたことで、庶民の中に浸透して定着した歴史に彩られました。何よりも支配者層に対し、宗教を敵に回す恐ろしさを植え付けたことに歴史的な意義が感じられます。

しかし、織田軍団は他の戦国大名とは異なり、職業軍人を主体とするプロ軍団で構成されていました。織田軍は、専従の武士層で構成され、農民兵を抱えていなかったことから農繁期の足枷や農民の怨嗟の声がなく、いつでも多方面で同時に戦闘が継続できる強みを持っていたのです。織田軍の軍事力と機動力、その大量の兵站の実力差は決定的であり、遠征軍は飢えることなく、織田包囲網は次々に織田軍に各個撃破されて敗退しました。織田信長は、軍事力の育成だけでなく、領国政治の信頼を高め、豊かな富の蓄積を図るシステム(楽市・楽座、領内の関所の撤廃と交通の自由化、金銀銅山の直轄化、貿易港の直轄化と交易支配など)を機能的に構築して富国強兵を計り、領民を搾取することがなかったのです。次々に織田領内に組み込まれた諸国では、前領主の治世を懐かしむ領民の声が上がらず、織田領内の治世は歓迎されて安定していました。戦国時代の稀有な事例です。

余談ながら、徳川家康は、三河の一向一揆において門徒の家臣団の統率に失敗して内乱を押さえきれずに疲労困憊し、九死に一生を得る家臣団との戦いに懲りたことから、旗印(軍旗)を「厭離穢土・欣求浄土」に改め、家臣団の統率に成功したと伝わっています。主家思いの結束力の固い三河家臣団でさえも一向宗の掲げる阿弥陀如来には逆らえなかったのです。

大阪の石山本願寺(その後地が大阪城)に立て籠もった一向宗は、織田軍を包囲する一角を占めて難攻不落の法城を構築し捨て身の戦闘行為を果敢に仕掛けました。一向宗は、織田軍に敗れた残存勢力を招き、紀州の雑賀衆を専門の鉄砲戦闘集団として傭兵し、反織田勢力を受け入れて戦闘態勢を整えたことから諸国の為政者に恐怖心を植え付けて警戒心を与えましたが、織田軍に敗れ法城を明け渡しました。信長の滅後、一向宗は、天下人になった豊臣秀吉の懐柔策に従い、東西の本願寺に分割する条件を受け入れて、豊臣政権の保護下で命脈を保つ道を選択しました。

石山本願寺の陥落の後、敗戦処理の考え方に宗内に意見の対立が生じました。また、本願寺は顕如の相続問題がこじれて御家騒動が治まらず、秀吉の介入を招いたことで、西本願寺(顕如三男・准如)と東本願寺(顕如の長男・教如)の二派に分裂しました。教如は顕如から13世の法統を正式に継承した長男でしたが、石山本願寺陥落後の対応を巡り、父・顕如と対立して義絶されたのです。これを奇貨として喜んだ秀吉は、危険な本願寺勢力を分断することによって、本願寺勢力の結束力に楔(くさび)を打ち込んで抵抗力を失わせ、教団が弱体化することを望んだと考えられています。