(20)-4B「初期開拓者」を読み解く(仮説)

関裕二氏の説は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト ・諡号は「天津日高彦瓊瓊杵尊」)が高千穂の嶺に天孫降臨する以前に行われた「出雲の国譲り」によって強引に出雲を奪われた古出雲族(出雲神族)の王族が南九州に、蘇我氏の祖が越(北陸)に分れて逃れたという説です。日向に降臨した瓊瓊杵尊がアマテラス神話を身にまとっていたという説です。神武東征は、先にヤマトに降臨したニギハヤヒ(饒速日、物部の祖)からヤマトの祭祀の中心であった三輪祭祀(出雲神)を委ねられて祭祀王に招かれたものであるという仮説を立てています。6世紀初頭の継体天皇に随行した蘇我氏は、ヤマトに入り蘇ったことで「我れ蘇れり」という蘇我を名乗ったと考えています。この説では、記紀が出雲を抹殺してきた理由に、古代出雲神族(スサナオ系)と皇室祖・日向の天孫族との関係性を述べていますが、卓見の仮説であると考えられます。

ニギハヤヒ(饒速日命、諡号は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」)は、ヤマトの建国と祭祀に大きな影響を与えた人物と考えられます。『播磨国風土記』には出雲の大国主の子と記載され、別説にはスサノオ(素戔嗚尊)の子・大物主と同一視する説もあり、出雲系であることが強調されている人物です。しかし、ニギハヤヒ(天火明命)は、天忍穂耳命(諡号は「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」)の長男であり、次男がニニギノミコト(瓊瓊杵尊=神武の父)であることから、出雲と天孫の両系譜につながると『日本書記』はいいます。そうであれば、吉備王国は出雲王国と同族ということになり、天孫とも同族ということになります。

出雲の国譲りのさわりを再び述べます。アマテラスは、長男・天忍穂耳命(アメニホシホミノミコト)に葦原中国の平定(国譲り)を命じたが、天忍穂耳命が辞退したのでその子の天稚彦(天若日子:アメノワカヒコ=ニギハヤヒ)に交替させて、天表(あまつしるし)の弓(天鹿児弓:あめのかごゆみ)と矢(天羽羽矢:あめのははや=大蛇を表すシンボリックな弓を与えて出雲に派遣したといいます。この天表(天孫族のしるし)は、天孫族のトーテムと考えられ、出自は竜蛇族ではないか?という仮説が考えられます。出雲神族のトーテムも竜蛇族といわれていることから、同族の疑いが考えられます。しかし、天稚彦は、大国主の娘と結婚して出雲王となることを目論み帰ってこなかった罰を受けて(現実性を疑う意味不明の事故説をあげて)死亡しとた記述しています。ニギハヤヒは、ヤマトに移動して大国主の希望を叶えるために三輪山に鎮座させて出雲祭祀を移植したのではないかと考えられます。神武東征以前に、ニギハヤヒがヤマトに建国していた意味がこれで理解できます。

また、アマテラスは、孫の瓊瓊杵尊に東征を命じたという記述があり、別の天表の弓と矢が瓊瓊杵尊から神武に伝えられたものであると考えられます。タカミムスビノカミは天忍穂耳命の妻(幡千千姫:タクハタチヂヒメ)の父であり、瓊瓊杵尊の外祖父にあたります。ニギハヤヒは天忍穂耳命の長男とされていることから、瓊瓊杵尊はその腹違いの弟(一夫多妻)という関係性が考えられます。腹違いの兄弟には、それぞれに周囲の期待が集まったことから相互に避けがたい競争意識が芽生え、進む道が異なったものと考えられます。

ところで、天皇家の皇祖神に祭り上げられた天照大御神とは一体何者なのでしょうか?天照大御神には、全国の神々を率いる神々の最高神としての存在感が全く感じられません。全国の至る場所に祀られている数万、数十万の膨大な神社の神々が、天照大御神を最高神として敬い仕えている実態が全くないのです。出雲大社では、旧暦10月10日に記紀神話で国譲りが行われたとされる稲佐の浜で全国から参集する神々を迎えて「神迎祭」が行われ、1年の事を話し合う会議が行われることから諸国の祭神は不在となり「神無月」になります。これは民間語源を元にする伝承と考えられますが、出雲国だけ「神在月」になるという由来が今日まで人々から信じられている事実と比べれば、その違いが明らかだと考えられます。天照大御神には、最高神という実態がないのではないか、とさえ考えられるのです。皇室の三王朝交代説の立場から見れば、天照大御神は現皇室の祖先神とは考えられないのです。伊勢神宮に参拝した天皇が戦前まで皆無であった事実をどのように読み解けばいいのでしょうか?これについて、語源俗解という批判だけでは説明できないのではないかと考えられるのです。

ちなみに、吉備を出自とすると考えられている物部氏の『先代旧事本記』には、ニギハヤヒの別名に天火明命(アメノホアカリノミコト)があると記述し、物部連と穂積臣の祖としています。『播磨国風土記』にはニギハヤヒはオホナムチ(大国主)の子と記載していますが、これは、大国主の娘と結婚して入り婿になったと読めば辻褄があいます。ニギハヤヒはヤマトと吉備だけでなく、出雲と天孫族ともに血族としての接点を持っていることになります。しかし、『新撰姓氏録』は、ニギハヤヒを天神、瓊瓊杵尊を天孫として区別しています。諡号から見れば正反対のようにも感じられますが、日本書紀はニギハヤヒは皇統ではないとするところから、皇統の万世一系にこだわる強い意思が感じられます。神武(諡号は「神日本磐余彦尊」)は、天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)の次男とされる瓊瓊杵尊の子とされていることから、ニギハヤヒが甥の神武に祭祀王を譲る何らかの事情あったこと、ヤマトの三輪祭祀(出雲神)のシンボリックな祭祀王として迎え入れたことが考えられます。

『先代旧事本記』によれば、天穂日(アメノホヒ)は、アマテラスに派遣された偵察係(スパイ)でしたが、出雲神族(スサノオの系譜=前期の出雲)に紛れ込み、出雲の国譲り後に出雲臣族(後期の出雲)と呼ばれる出雲国造家を形成しました。出雲神族と出雲臣族の接触はBC100年頃と考えられますが、出雲の国譲り以降は、天穂日の系譜が出雲国造家として出雲大社の神主を代々務める家系となっています。当初の出雲国造家は熊野神社(松江市)の祭祀を熱心に行い、出雲大社の祭祀に冷淡でしたが、出雲大社の信仰が広まるにつれてて本拠地を出雲に改め出雲の祭祀に従事したという事情を持っています。

「出雲の国譲り」と「ヤマトの国譲り」は、ほぼ同じストリー性を持っています。神武東征軍はニギハヤヒの軍に神武の実兄が戦死する悲惨な敗戦を蒙り、紀州熊野に逃れて協力者を募り、軍を立て直して、再度、熊野から陸地伝いに戦を仕掛けています。神武(磐余彦尊)が天孫を名乗っていたことから、ニギハヤヒを天神と信じて実妹(トミヤヒメまたはミカシキヤヒメ)をニギハヤヒの妻にして随身していた長脛彦は、天神が二人になったことを疑い、その証拠を神武に求めています。双方が天表(上記の弓と矢)を示したことで、ニギハヤヒは神武が天孫であることを認め、神武もニギハヤヒが真の天神(天孫)であることを認めています。実は、この物語には伏線があります。古事記は、神武はニギハヤヒがヤマトに天岩舟で降臨して建国して豊かな理想郷を築いていることをアマテラスから聞かされて、その国を手に入れるべく東征を決意したというのです。神武が各地の勢力の手ひどい抵抗も受けず、各地に数年間も滞在するなど緩やかな行程であったと見られていることから、ニギハヤヒに招かれて旅立ったのではないか?とする説が考えられますが、ニギハヤヒが各地の勢力と起こした小競り合いは根回しに手間取り不調になったことから(手違いで)戦になったのではないかと考えている説です。この説は、神武東征の神話のストーリー性を疑っていることが考えられます。

天孫族が出雲とヤマトの「国譲り」を迫ったことには、隠された理由があるのではないかという疑念があります。通常は力によって奪う(戦争)ものですが、何故か、「譲る」ことが当然とする史観が強調されています。譲るということは、共通の利害関係を持つ親子兄弟、血縁関係を持つ血族、身分の上下関係に成立する概念です。何らの関係性がない他人の間ではあり得ない概念です。天孫族には出雲国やヤマトを譲り受ける当然の権利があるといっていることと同義だと考えられます。そうであれば、「譲る」という関係性は、中国系や朝鮮系のものではありません。中国系や朝鮮系では王権の交代は「易姓革命」といわれ、勝者が敗者を悪の存在と決めつけて取って代わる正当性を主張する特徴を持っています。敗者は悪であり王権を失うのは当然とする価値観で見れば、軍事力の強弱によって王権が定まります。敗者は復活できないように徹底的に奪い尽くされる運命でした。戦争の勝者のみが王権という支配権を一手に握ることができたのです。中国・朝鮮では、祭祀は軍事王を支える体制の中に組み込まれている存在です。

出雲は根絶やしにされることなく、各地に散りましたが、天孫族から追討されていません。考えられるのは、ユダヤの身分関係(王族と祭祀族が支配者となる)だったのではないかという疑いです。先に日本列島に王国を建設した出雲が後からやってきた天孫族(王権の正当性を主張する一族)に支配権を奪われたのではないかという疑いです。天孫族は出自を隠しながら神聖化を強調することによって支配の正統性と正当性を創り上げ、出雲とヤマトの二つの国譲りを受けたものと考えられるのです。あるいは、天皇の支配権が確立された時代の人が、天皇の支配権を当然視する時代錯誤の史観を遡って創ってしまったと考えられるのです。

日本書記は、これと似たような事柄を書いています。応神天皇が九州からヤマト入りしたという伝説です。神武と応神のヤマト入りの事跡が重なっているのです。天皇名に「神」を付けられた三名は、初代神武、10代崇神、15代応神です。日本書記はこの三名にヤマト建国の栄誉と祭祀王の地位を与えて顕彰することで、特に人々に尊崇させようと配慮したものと考えられますが、神武と応神には実在した大王かどうかを疑う説があります。

「闕史八代」説(2代~9代の天皇は存在しないとする説)が通説になっていることから、神武と崇神の間には何も無いと考えられています。神武と崇神は共に「ハツクニシラススメラミコト」という称号を持っています。通説は神武と崇神は同一人物であり、歴史を古くして権威づける為に、同一人の事跡を二つに分割し、神武に前半の事跡を、崇神に後半の事跡を分割していると考えています。同様に、応神と仁徳も同一人の事跡を二つに分割していると考えていますが、これは、皇室の権威が確立していくプロセスを印象操作するものだと考える説です。

初代神武には「存在感が無い」という有力説があります。諡号に「神日本磐余彦尊」(カムヤマトイワレビコノミコト)を付けていることに疑惑が持たれています。神も日本も磐余(イワレ)も8世紀の記紀によって命名されたと考えられ、神武の実在性が感じられないのです。磐余と神武に何の関係性があるか不明とされ、本居宣長も津田左右吉も匙を投げています。日本書紀と古事記は「神武は畝傍橿原宮(奈良県橿原市)に住まわれた」といい、これにちなんで明治時代に神武を祀る「橿原神宮」が創建されましたが、資料で確認できる橿原の存在は6~7世紀のことです。神武天皇説話は、5世紀後半以降に作られたものではないかと考えられます。神武東征は皇室の歴史を古く見せる為に作られた神話であろうと考えられ、本当は、10代崇神の事跡を神武を初代王とする神話に投影したのであろうと考えている説があります。

応神のヤマト入りについては、応神の誕生からヤマト入りまで不思議な人物(塩土爺=武内宿祢)が登場して神話なのか事実なのか分かりにくい物語を展開しています。日本書記は、応神は第14代仲哀天皇(日本武尊=小碓皇子の子)と神功皇后(当時30代の未亡人)の子としていますが、通説は神功皇后は実在していなかったと考えています。また、応神の父は仲哀天皇ではなく住吉大社で神功と同衾した武内宿祢とする説まであります。一方では神功皇后は、邪馬台国の卑弥呼と同時代人で実在したと見る説があります。この説は、ヤマトから派遣された神功皇后が邪馬台国の卑弥呼を殺害して宗女の台与(13歳)に成りすまし、邪馬台国を乗っ取った人物であると見ています。いわゆる、「ヤマトのトヨによるヒミコ殺し」と北部九州の東征?につながる説です。神功と応神の神話には様々な疑いが付きまとっています。

卑弥呼に比定する人物を上げる複数の説があります。卑弥呼が鬼道にたけていたことを根拠にしていますが、なぜ卑弥呼でなければならなかったのか、倭国女王に共立された必然性を証明した説は皆無です。宗女の台与についても同様です。鬼道(道教的な方術、祈祷など)の能力があるだけで30諸国の王が異議なく女王に共立するであろうか?鬼道を根拠にするのであれば、女王でない祈祷師でも用が足りるのではないかと考えられます。諸国の王が共立して女王を認めた本質的な理由が検証がされていないのです。中国・朝鮮の系譜にある軍事王の性格が強い王のもとでは、女祈祷師が女王に共立されるなどということは考えられないのです。中国・朝鮮半島には卑弥呼と同質の女王は存在していません。卑弥呼の存在は奇妙ともいえるのです。

卑弥呼の重要性は「親魏仮倭王」の金印を受けて倭国王を認証された事実が中国・魏の史書に記載されていること、この一点にあります。しかし、皇統譜には女王卑弥呼は存在しない。邪馬台国をヤマトと読み替えてもこの事実は代えられないところから、箸墓古墳が卑弥呼の墓とする説には無理があります。卑弥呼の時代(三世紀中頃)に日本列島の外交権を持っていたのは九州勢力(倭国)であり近畿のヤマトではないこと、金印(偽造説がある)が九州の志賀島(伊都国)で発見されていることから、やはり、倭国の邪馬台国は九州説に妥当性があると考えられます。邪馬台国の近畿説が成立すれば、記紀が苦心して創作したと考えられる大部分の神話伝説のプロパガンダが根底から否定され、記紀が崩落する性質のものになると考えられるのです。

邪馬台国近畿説と九州説の議論の対立には深刻な問題が考えられます。もしも、近畿にあった邪馬台国が発展してヤマトを建国し、統一王朝「大和」を建国したことが事実であれば、記紀が皇祖の神聖(天照大神)を語り、神武天皇、崇神天皇、応神天皇という神の名を持つ特別の天皇を登場させて皇統の万世一系を維持しようとする意味が全く無いことになるからです。邪馬台国近畿説には、記紀の建国神話が疑いないまでに完全な捏造であることを真っ向から主張していることになる内容が含まれていると考えられるのです。記紀は存在価値を喪失して、新しい日本史を最初から作り直さなければならなくなるともいえる問題が含まれていると考えられます。

『古事記』や『日本書紀』の記述の仕方には多くの疑問があります。これらは特に、「天孫族の神格化」と「万世一系の特別な血縁継承」の在り方に典型的に表れています。天孫族の美化に全神経を集中している皇国史観の記述の仕方には歴史事実の客観性が全く感じられません。四世紀以前の古代日本史の中心と考えられる北部九州の王権の繁栄や衰退に触れないままに、九州に多数存在していたと考えられる諸王権の消長を全く語らず、神武東征によって日本統一に仕上げてしまったストリー性には真実性が全く感じられないのです。

神武、崇神、応神の出自を神話で覆い隠し、その時代背景を時系列の事実によって語ることができない真意には一体どのような真実が隠されているのであろうか。神武、崇神、応神は同一の氏族ではなく、それぞれが別個の氏族を率いる王権の始祖ではなかったか?とも考えられるのです。神武、崇神、応神の活躍した時代はほぼ同時代ではないのか?また、神功皇后や卑弥呼・台与の邪馬台国が存在した時代は、これらの人物が競合した同時代ではなかったか?という疑問を消すことができません。アマテラスを皇祖とする天孫神話の創作は事実とは到底考えられず、支配の正統性を捏造する効果的な手法として捏造されたことは疑いない事実と考えられます。記紀が古代に多く存在していた諸国の諸王権や有力氏族の盛衰を記述せず、天孫族の万世一系の正統性の神話にこだわり続けた事実にこそ捏造の疑いがあるのと考えられるのです。

天皇の祭事王の性格には、多くの疑問点があります。政事王を凌駕する祭事王の存在は東洋には歴史上存在していない性格を持っています。歴史上の東洋の政事王(軍事王)は、祭事をも自在に統率する絶対的な専制君主であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など祭事に特別な優位性を譲った社会とは明らかに違うのです。天皇に与えられた祭事王の性格は、明らかに東洋的な価値観(政事>祭事)によって作られたものとは考えられず、祭事王(天皇)が国家権力の中核を形成しえた日本列島の民族は何故に祭事>政事の価値観(これは中国・朝鮮半島には無い関係性である)を持つにいたったというのでしょうか?今日に伝承されている皇室の農耕祭祀をみられる大司祭者をも兼ねる祭事王は、各王権の利害調整を目的とするのやむを得ない抑制的で便宜性がある選択の結果であったのであろうか。記紀が示す関係性の説明には説得力が感じられないのです。

③説には複数説があります。「BC150年頃、中国・長江流域の「呉楚七国の乱からの脱出した氏族が渡来して、アマテラス族と手を結んでスサノオ族と領土の奪い合いを繰り広げたと考える説」「呉と楚の亡国の王族が日本に渡来したとする説」、この別説には、「倭国は呉の太白(周王朝の王子・太白が呉を建国)の子孫とする説(水戸光圀の大日本史の編纂事業の発端として影響を与えた説)」を含みます。北九州からスサノオの勢力を追い出して糸島周辺に伊都国を建国したと考えられます。なお、この時期は先進技術を所持する「秦からの渡来者・徐福一行」の九州上陸とも一致する時代であるところから、徐福一行が最初に中九州(佐賀、熊本)に地歩を築き、各地の開拓者と関わりを持ったことが考えられます。徐福の一行は日本各地に不老長寿の神薬を探査しながら多数の痕跡を残していることから、各地の有力者との関わりも考えられます。

もし、日本書記が、歴史的な事実関係を整理して、事実としての出来事を時系列に記述していれば、私たちは歴史事実を時系列に理解することができたはずです。日本の正史と位置付けられた日本書記が720年に上梓された時点では、編者は歴史事実を把握していたと考えられます。そうでなければ、存在する人物の事跡と存在しない人物の事跡が入り組んで混在するはずがありません。事実を隠すという行為は、事実を知らない人物にはできません。事実を知られたくないからこそ、知っている事実を隠すために皇祖を天地開闢と神世8代の神話世界を作り、神話、伝説の類を大量に混ぜ込むことことによって、古い家系にみせて支配の正当性を捏造したのではないかと考えられます。日本書記や古事記の記述から歴史事実を取り出すためには、事実と虚構を整理して、一つ一つ洗い直すことが必要ですが、この作業は事実上では不可能と考えられます。

歴史事実を明らかにするためには、基準となる歴史事実(現在は中国の歴代の史書と朝鮮の三国史記を参照している)を明らかにして、対象とする事実関係を具体的に比較検討して再整理する必要があります。このような作業をしなければ、合理的な仮説も立てることができません。残念なことに、日本書記には、天皇家の真実の歴史と考えられるものは三分の一以下の程度しか認められません。神話・伝説が三分の二もあるのです。事実を書き留めなければならない歴史書であれば、せめて、中国の『史記』や朝鮮の『三国史記』のように、少なくとも客観性を意識して自制的に書くべきでした。歴史書は、事実の出来事のみを編年体で書き留めることが必要なのです。

日本書記は、編集指揮者の藤原不比等の謀略が書き留められた歴史ファンタジーでしかなく、事実を隠して神話の物語を多く記述しているので読み疲れします。現実感がなく実在性がまるでないのです。日本書紀や古事記は、編者の強い歴史的な意図と皇国史観・神話と伝説に覆われすぎて、国史を語る適格性を失っていると考えられます。これしかない貴重性があるからという理由で、いつまで記紀に頼り続けなければならないのでしょうか。記紀には、中国・朝鮮の歴史書にみられる王朝史観がありません。王族の出自を隠す記述の仕方は、記紀の特徴的な作為と考えられるものです。この点から見れば、記紀を作成した人々の民族性は中国や朝鮮の民族性とは異なる民族性を持っているのではないかという疑いが残ります。

②説と③説は、今後の考古学の証明が必要ですが、記紀が皇室の出自を神話の世界に閉じ込めて隠したことから見れば、アマテラスは持統女帝(応身天皇の母)を投影した神話ではないかという説があります。女帝に引き立てられて権力を握った藤原不比等が記紀に創作して挿入したのではないかとする説です。この説は、持統の新羅征伐説は新羅との関係性を隠す創作ではないかとみる説でもあります。中国、朝鮮系の王族や有力氏族が出自を隠すという事実が皆無であることからみれば、なぜ日本の皇室や有力貴族が出自を意図的に隠し続けて来たのかという説明がつきません。出自を明かすことは氏族の名誉欲を一段と高める要素であると考えられるからです。天孫族を僭称して「神」、「尊」、「命」の尊称を使い続けたことを恥じるからでしょうか?。中国・朝鮮の諸王朝は軍事王の性格が強く表れています。力による統治が全てであり、敗者の資産や文化を徹底的に奪い、殲滅するという支配構造を持つ軍事王です。軍事王の性格は、日本の皇室(祭祀王)とは性格が合わないところから、皇室の祖先の出自を縄文気質に求め、ハプロタイプのY遺伝子D系統を持つ民族(イスラエルの失われた10支族)とする説(日ユ同祖論)があります。

この説とスサノオの古代出雲の建国やニギハヤヒの吉備王国との間にはどのような関係性があるのでしょうか。出雲の国譲りで諏訪に逃れた建御名方命(タケミナカタノミコト)が創建した出雲神の分社・諏訪本宮大社は、イスラエルの国家機関アミシャブの最高指導者・ラビ(僧)であるエリヤフ・アビハイル師が探査して、宗教施設や数々の宗教行事がユダヤとの高い近似性を確認した場所でした。出雲にコメントしていないことは、出雲祭祀が出雲国造家(天穂日の系譜)に替わっているからだと考えられます。

スサノオには、新羅からの渡来者ではないかという複数の仮説があります。記紀の記述には、スサノオのさまざまな活躍譚が著しい善悪の両極端に投影されていることから、これらは同一人物の評価といえるのであろうかという疑いがあります。北部九州には伽耶諸国からの渡来集団が複数の建国(邪馬台国の勢力圏の諸国)をしたのではないかという疑いがあり、また、中九州(肥後)には遅れて渡来してきた百済からの渡来集団が狗奴国を建国して邪馬台国勢力を牽制して対抗したのではないかという疑いがあり、南九州には北部九州の権益の奪い合いに敗れた勢力が再起して建国したのではないか、という疑いがあります。日本海側の出雲、北陸の渡来者集団には新羅の影が感じられますが、新羅は複数民族が集積地を形成していた地域ではないかと考えられます。百済と新羅は、相互に敵対国として争い続け、犬猿の仲の関係性は百済滅亡まで解消されませんでした。百済と新羅は相互に協調性がなく、大和朝廷の外交姿勢にも大きな影響を与えました。両国の敵対関係の因縁は、民族性の違いから対立軸が形成されたのではないかと考えられるのです。

『後漢書』弁辰伝に、「弁辰(伽耶諸国の前身)と辰韓(新羅の前身)は雑居しており、・・・言語と風俗は異なる」「その族は背が高くて大きく、美しい髪、衣服は清楚である」「その国は倭に近い故に全身に刺青を施している者も少しいる」という記述が気になります。「美しい髪、衣服が清楚」という表現は中国の史書が朝鮮半島の諸国や民族の特徴を語る表現には他に類例がない表現です。明らかに東洋系民族に対する表現ではないと考えられます。西域から集団で渡来した民族(ユダヤ?)が雑居していたのではないかと考えられるのです。

弁辰は倭国の玄関と考えられる狗邪韓国があった伽耶諸国(3世紀頃から6世紀まで存在した連合体国家)の前身です。狗邪韓国は当時4~5千家の規模を持つ大国とみられていましたが、西晋の人々は狗邪韓国が邪馬台国の北の端に位置するとみる認識を持っていました。特に陳寿(233-297)は、『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条(通称名は『魏志倭人伝』)に倭国を形成していた諸国名を詳細に記述していますので下記に列挙します。

【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国

『後漢書』倭人伝には、「倭は韓の東南、大海中の山島に依って暮らす。およそ百余国。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより、漢に使者と通訳を通じてきた倭国の三十国としてその国名が記載されています。邪馬台国近畿説はあり得ません。(それぞれの)国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は邪馬台国に居する。・・・・・その西北界の狗邪韓国から7千余里。・・・」とあり、倭国の境界が朝鮮半島南部地域の狗邪韓国などを含む領域であったことを示していると考えられます。

狗邪韓国は、3世紀には金官伽耶となり4世紀に最盛期を迎えますが、三世紀中葉以降の木槨墓から大型の板状鉄斧や鉄蹄が埋納されていることから最盛期となる4世紀には強力な騎馬軍団を所持していたであろうと考えられます。また、弁辰は倭と韓の二重国家でもあったと考えられています。この地域の5-6世紀の王墓からしか発見されていないローマングラスとトンボ玉が蘇我氏の邸宅跡から発見されていることから、倭国へ渡海して日本列島の支配者となった渡来集団との関係性に疑わしさを感じるのです。

727(神亀4)年、渤海国の大武芸王が聖武天皇に宛てた国書には、「日本と渤海国は扶余を同祖とする本枝(兄弟)関係である」としています。高句麗と靺鞨が共立した渤海は、「日本の王統が扶余の王族の末裔である」と見ている認識を示したのです。国書は国家と国家の正式な公文書であることから、渤海には日本の王統は扶余の王族の末裔であるとする歴史認識が定着していた何らかの理由があったものと考えられます。

高句麗系の史書「朝鮮史」には、「依慮王、鮮卑め為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。事後、慕容廆、また復び国人を掃掠す。依羅衆千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王となる」という記述があります。これは偽書だとする説がありますが、事実関係の真偽の判断には難しいものがあると考えられます。この記述は、285年、扶余国は前燕の慕容廆に侵略され危機に瀕し、扶余国の王「依羅(イリ)」は武装集団を率いて倭国に逃れ倭の王になったというのですが、この依羅王に比定されている人物は、御間城入彦(ミマキイリヒコ)=御肇国天皇(ハツクニシラス・スメラミコト)=第10代崇神天皇です。崇神天皇を事実上の初代天皇とする説があります。神武天皇、崇神天皇、応神天皇の三人は記紀が特別な意図をもって存在させた疑いのある天皇と考えられます。名前に「神」が付けられた不自然な三人であり、いずれも創始王の性格が色濃く脚色されている疑いがあります。ゆえに、それぞれが別系統の王朝の始祖ではないかとする三王朝交代説があるのです。この説は、いわゆる「イリ王朝」の存在を示唆するものですが、天皇の血統が万世一系であるとする説を否定する説と考えられます。

また、韓国の日本史観は、「日本は百済の分国。百済の王族が日本に渡来して支配し、大王(天皇)になった。日本皇室の起源は百済にある。」という百済起源説を韓国の世論にまで創り上げています。この説が百済起源とする点では渤海国書と共通性があります。百済は馬韓の中の伯済国を前身とするという説がありますが、中国の資料に表われる百済の国号は4世紀の近肖古王の時代です。扶余族の朱蒙が高句麗を建国し、朱蒙の息子・温祚の子孫が百済(漢城)を4世紀中頃に建国したと考えられています。

この説は、「百済は魏と敵対的だったから、狗奴国は魏に朝貢しなかった。加耶系の邪馬台は魏に朝貢した。その後、邪馬台国は中国の文献から消えたから、狗奴国に滅ぼされたのではないか。邪馬台国の敗残勢力が畿内に移動し、先着していた新羅勢力を打倒して、崇神王朝を樹立した。この勢力は急速に成長し、最後の王・仲哀は九州(狗奴国―熊襲)征伐を試みるが、失敗する。九州征伐は鉄貿易の確保だった。」「加耶と日本の古墳からの出土品は類似しており、同一民族であることは明らか。」とも言っています。 

韓国の歴史家・金容雲氏は、百済王族(姓は扶余、のちに一字姓「余」に改正)が日本に渡海して九州北部に狗奴国を建国し、卑弥呼の邪馬台国(伽耶系の連合国家)を滅亡させたが、邪馬台国の敗残勢力が畿内に移動して先着の新羅勢力を打倒して崇神王朝を樹立したと考えています。崇神王朝の最後の大王・仲哀は、半島の鉄交易の確保を狙って狗那国(熊襲)の征伐を試みるが失敗し(仲哀は殺害された?)たことで崇神王朝は滅亡し、応神王朝が建国されたと考えています。応神は九州から北上して敵対する仲哀の息子を破り、仲哀の跡目を相続した形をとりましたが、この説は、仲哀と神功皇后は夫婦ではないとするところから、応神王朝は建国であったと考えているのです。また、継体天皇は、当時は百済系の人々の一大集積地であった河内に滞在していた21代百済王の弟・昆支王子と同一人物であるとしています。百済系の有力氏族であった大伴金村などに血統の良さを買われて支援を受け、20年の困難を克服して継体王朝を樹立(建国)したと考えられているのです。

昆支の子は百済に帰国して武寧王になっていますが、日本に長期滞在(人質か?友好の証か?)していた百済皇子が帰国して百済王になる例が複数あり、不思議な違和感があります。また、大和朝廷が親百済政策を取り、新羅を不倶戴天の敵として反新羅政策を断行し続けた異常な外交姿勢の不思議な在り方はこのような事情があったからなのでしょうか。百済最後の王・義慈王の王子・豊璋(日本書紀は扶余豊璋または徐豊璋と表記するが徐は余と考える)は日本に長期滞在して日本を唐・新羅の連合軍に対抗させ白村江の戦いに百済王として出征しましたが敗戦し行方不明になっています。この豊璋が藤原(中臣)鎌足ではないかと疑う説が支持されているのもこのような背景によるものと考えられますが、この説は、百済と日本は一体のものであったとする説でもあります。

高句麗と渤海の源流は扶余にあり、日本の源流は高句麗に起源をもつ百済にあるといっているのですが、しかし、百済は660年に唐と新羅の連合軍によって滅ぼされた国家であり、現在の韓国人との民族的なDNAの同一性はほとんどないと考えられます。

中国大陸や朝鮮半島からの渡来者であった弥生人集団の有力氏族もまた国家の形成に関わり、名誉ある地位を獲得して支配者・貴族層を形成したと考えられます。これらの氏族は軍事力を提供して皇室の祖を支えた有力氏族であったと考えられます。皇室の出自は、高い文化を持ち、大集団で移動する力があるユダヤ勢力ではないかと考える説があります。国家という概念を持ち、王(祭祀王)の血統性が支配の正当性を持つ集団、一定の文化と軍事力を持った集団はユダヤだけです。いわゆる日本列島の初期開拓者は、海と中国大陸、朝鮮半島(新羅)を経由し、建国の目的を持って渡来してきたユダヤ勢力であった可能性も否定できない悩ましさが考えられるのです。中国・朝鮮系の渡来系氏族や、始皇帝の意に背いて日本列島に留まった徐福の集団にはこのような特徴的な性格が考えられません。

巨大な軍事力を持たされなかった皇室が、その地位を軍事力が優勢な幾多の勢力から簒奪されなかった(天皇の万世一系説です。但し三王朝交代説もあります。)のは、祭祀王としての地位が確立されたこと、天皇の地位が血統の特殊性にあることを評価したことにあると考えられます。中国・朝鮮の王朝は、典型的な「易姓革命」であり、力(軍事力)が支配者を決めるという実力の歴史観の中にあります。中国・朝鮮では、血統を支配の正統性とみる思想は同一王朝内の王位継承順位を決定する場合には効果がありましたが、力のある者が王権を簒奪した場合(易姓革命)でも王位に就くことをが正当化されています。

天皇の名称は、天武以降から律令体制の頃から主として外交上の名称として使われ始めたと考えられます。天孫を自称し日本列島の支配者となったアマテラス族集団(天孫族)の支配者は「オホキミ」と呼称され、中國・朝鮮半島との外交上では「大王」という漢字表記が行われました。大和の統一政権では、血脈による世襲制によって神聖な絶対者として存在し「スメラミコト」と呼称され、「天皇」という漢字表記が外交文書で使われ始めました。しかし、朝廷など権力機構の中では、「ミカド」や「御上(おかみ)」という呼称が使い続けられていたのです。

明治維新まで一般庶民はほとんど天皇の認識がなかったとも考えらえますが、「オホキミ」・「スメラミコト」・「ミカド」・「尊・命(ミコト)」は、いずれも漢字の当て字が使われたことから、日本語、中国語、朝鮮語のいずれでも意味不明な言葉であることに変わりがありません。アマテラスも同様です。「天照」という同音の漢字をたまたま使えただけだと考えられ、『古事記』や『日本書紀』でつくられた造語と考えられるのです。これらの言葉はどの民族のことばでしょうか?。日本の古代語の中には語源が分からない不思議な意味不明の言葉がたくさん混ざっている事実に驚くばかりです。

特別の宗教的権威者が支配の正当性を認められると、その権威を象徴する神宝が考案されて様々な霊力が与えられ、王位継承の正統性の象徴となったものと考えられます。神宝には、人々に対する支配者・大王の権威付けだけでなく、人々の崇拝や恐れ、服従と信頼が複雑に織り込まれたものと考えられます。神宝は、それ自体が不思議な霊力や威力を持つ力の根源となる秘宝と考えられたのです。ユダヤ王国の再興を求めて渡来した人々によって神宝(ソロモンの秘宝「失われたアーク」)が持ち込まれたとする説があります。いわゆるユダヤ王国の神宝、ユダヤ統合の象徴です。この神宝は何処に隠されたのでしょうか。どこにあるというのでしょうか。