(14)仏教の本質とは

仏教には絶対的な造物主である「神」は存在しません。初期(原始)仏教の特徴をいえば、仏とは、救世主でもなく預言者でもありません。「覚者」つまり「悟った者=真理に目覚めた人」という意味です。信仰の対象は神ではなく、仏陀(釈迦)に対するものでもなく、「法に対する帰依」を表すものです。

仏教の帰依の対象は釈迦ではなく「法」です。仏像は釈迦在世には存在せず、滅後に法を象徴する形式として表われたものです。仏教では三宝(仏・法・僧)を厚く敬います。釈迦は悟りへの道を説くにあたり三つの真理を説きました。これを「三法印」といいます。

1. 三宝とは「仏法僧」に帰依して厚く敬うことをいいます。
(仏教特有の「三帰依文」を紹介します。これは南伝・北伝仏教とも共通で読経・勤行の前に称えられるものです。)『華厳経』浄行品には「三帰礼文」として採用されています。

【漢訳文】      【現代和訳文】
「自帰依仏」    私は仏に帰依します
「自帰依法」    私は法に帰依します
「自帰依僧」    私は僧に帰依します

【サンスクリット文】
Buddham saranam gacchami. ブッダム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依仏)
Dharmam saranam gacchami. ダルマム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依法)
Sangham saranam gacchami. サンガム・シャラナム・ガッチャーミ (自帰依僧)

2.三法印とは
①「諸行無常」=万物は常に変化し一定の物は無い。
②「諸法無我」=存在するすべてのものは実体がない。
③「涅槃寂静」=輪廻の苦を抜け出せば煩悩に迷うことのない境地に至る。

この三法印に、「④一切皆苦(すべては思い通りにはならないという人生の実態)」を加えて四法印とする場合があります。

四法印とは「物事は常に変化しており、それ自体で存在し続けるものはないのに、ずっとあり続けると錯覚し、執着して苦を招くことになる」ことを戒めるものです。

苦は執着によって生起するので「苦の発生」「苦の原因」「苦の滅却」「苦の滅却の道」を「四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)」という因果関係を示して原因とその結果を明らかにし、苦から抜け出して涅槃(煩悩を断じた悟りの境地)に至る方法を考えたのです。

この四諦は大乗仏教ではより高度な縁起説「十二因縁」として継承されました。
十二因縁は、苦の根本原因を12の因縁生起によって因果関係を凝視したものです。
十二因縁説は、老・死という苦しみの原因には、無明という根本的な原因がある、という説です。
無明という真理が分からない無知を脱することができれば苦しみが無くなるとする考えです。

この説によれば、前世の無知を原因とする①無明(真理を知らないこと)や②行(間違った行為)によって、現在の果となる③識(間違った認識)、④名色(認識の対象)、⑤六処(感覚器官)、⑥触(外界との接触)、⑦受(感覚作用)が生じる。
また、現在の果を原因として⑧愛(激しい渇愛)、⑨取(執着)、⑩有(生存・存在)が生じ、来世の果となる⑪生、⑫老死が生じる。
これらの前世、現在、未来のことがらが原因と結果になる因果関係(因縁)によって輪廻が生まれるという考えです。
この説には、老死という苦は無明から生じるとみる「順観」と、無明という根本の煩悩を滅することで老死などの苦が無くなるとみる「逆観」の二通りの見方があります。

この中に、無知や渇愛、執着などの因果関係を分析して、生・老・病・死の「四苦」と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦は社会生活の中で発生する誰もが避けることができないものであり、人間の存在、生存そのものが苦であると見るプロセスを凝視する英知が示されました。

釈迦は、四苦八苦を断じて悟りを開くための具体的な実践方法を「八正道」(①正見・②正思・③正語・④正行・⑤正命・⑥正精進・⑦正念・⑧正定)と考えました。
これらは釈迦が菩提樹下の深い瞑想で得た悟りの内容だと伝承されてきたものです。

八正道は、修行者が自ら心に正しい行いをすることを誓い、そのことに専念し、智慧を磨き、釈迦の教えを身に付けるために不断の努力をする修行の枠組みを示すものです。この理念が仏教の仏道修行の体系化やマニュアル作成の基本とされるようになりました。

ちなみに、この八正道から「身・口・意の三業」と「戒・定・慧の三学」の仏教の修行の根幹となる概念がでてきます。
釈迦の仏教からみれば、キリスト教やイスラム教でいう地獄も天国もすべて空であり実在する真実ではない、ということになります。

釈迦仏教(原始仏教)の基本的な考えは、「中道」「慈悲」「無我」の思想と「縁起」の関係性を内的連鎖で説明するところにあります。
縁起とは「互いに相依って生じせしめる働き(その関係性)」であり、現象界は何ひとつとして実体視してならないという考えです。
一切の出来事(結果)は直接的な原因(因)と間接的な原因(縁)の作用によって生じるものであり固定のものや不変のものはない、と考えたのです。
ここから無我(非我)という考えが出てくると同時に、互いの関係性が最も望ましい状態で存続するためのありようが「中道」です。また、この中道の基となる精神的な働きが「慈悲」です。この「目覚め」に向かう基本的な姿勢が他を拠り所としない「自灯明」です。

慈悲とは、自己犠牲をともなう他人への思いやりをいいますが、他人に利益や安楽をもたらす「慈」と、憐れみや同情などから他人の不利益や苦を取り除く「悲」からなる思いやりの心をいいます。慈悲には「喜」と「捨」が加わり、慈悲喜捨と説かれました。「喜」は自らの喜びが同時に他人を喜ばすこと、「捨」は平静を指し、心に動揺や偏向がないことをいいます。
この仏教の基本理念はやがて大乗仏教の菩薩の「四無量心(慈・悲・喜・捨)」に引き継がれていくことになります。

中道は修行の実践の在り方を示すもので、ブッダの教えの実践の核心ともいうべきものです。あるがままを受け入れ、八正道の精神を目標とする生活を実践することがその内容です。
苦と楽の両極端に偏る無益性を戒め、「不苦不楽」の立場で、ものの見方、考え方、価値観に偏りがなく、物事への執着心を持たず、自由な精神を求めるバランス感覚を実践の核心とするものです。

例えば、輪廻の考察に於いて、人が死んでも霊魂(アートマン)は不滅と考える「常見」の立場、また、人はこの世かぎりの存在で死ねば再生しないと考える「断見」の立場は、それぞれ両極端であるからこの考えから離れ中道をとるべきだと考えられました。

ブッダは、ブッダ滅後の「修行の在り方」について何を拠り所にすべきかを明確に述べています。「阿難陀よ、比丘は自らを燈明とし、自己を頼りとして、他を頼りとせず。法を燈明とし、法を頼りとして他を頼りとしないでいなさい(『ディーガ・ニカーヤ』)」という有名な句です。これは、「自灯明、法灯明」とか「自帰依、法帰依」といわれ、釈迦の遺言ともいうべき言葉です。自己と法を頼りにして、他人の言葉に惑わされることなく、自己を確立すべきことを遺誡したものであると解されています。

縁起(因縁生起)は構造や原理を示し、慈悲と中道は実践論を示す概念です。
釈迦の教えは、まず動機づけを与え、目標のヴィジョンを示して、修行者自らが修行の道を歩み、自分自身で悟りを得るようにする特徴があります。
弟子になったからといって、手とり足とりして悟りの境地に運んでくれるわけではありません。修行は自分自身で解決しなければならない道なのです。

仏教の特徴は、物事の成り立ちを「法(ダルマ)」と見たことにあります。物事を成り立たせ、その状態を維持する構成要素や固有の属性を「法」と見て、人間存在の法を深く考察しました。仏教は人間存在の構成要素である「法(ダルマ)」を考察の対象とする宗教です。
キリスト教やイスラム教では宇宙の創造主である神の意志は絶対ですが、仏教では原因を変えれば、自らの意思で結果も変えることができると考える大きな違いがあります。

釈迦が「教義帰依」や「偶像帰依」「個人崇拝」を否定したことは明らかです。釈迦は、「我々の中には如来が宿っている。しかし我々には煩悩がまとわりついてそれが見えない。だから、心を清らかにして煩悩を抑制し、如来の胎児(如来蔵=仏性)を育てていけば、いつか我々も如来になれる」と教えています。

誰もが仏になる可能性を原始仏教では「自性清浄心」といいますが、『涅槃経』では「如来蔵思想」といい「一切衆生悉有仏性」といいます。この思想は『華厳経』や密教に大きな影響を与えました。悟りのプロセスの概要を示す概念です。また、法華では「本覚思想」といいます。
今日の新興宗教の特徴にあげられる教祖や個人崇拝は、まさに目を覆いたくなる惨状にあると言うべきでしょうか。
神に帰依するキリスト教、イスラム法に帰依するイスラム教との違いは明白です。個々の人間をどのように見るか、人間はどのように神や法に向き合うべきか、という視点でみれば、その違いは歴然としています。

宗教は時代とともに変質する傾向性があります。キリスト教が産声を上げた頃、仏教の中に大乗仏教が登場しました。複数の大乗の菩薩が現われてさまざまな高度な大乗経典を説きました。
この大乗教典には、大乗仏教の存在を鮮烈にデビューさせた空の思想を説く『般若経』の600巻の膨大な教典群が圧巻です。
また、釈迦の悟りの内容を示して釈迦を超える存在(毘盧遮那)と華厳思想を説く『華厳経』、一乗妙法の法華思想を説く『法華経』、阿弥陀仏を信奉する浄土思想を説く『浄土教』、一切の衆生には仏性があることを説く『涅槃経』など特色のある多数の大乗の教典群が大乗仏教の優れた思想の花を開かせることになりました。

キリスト教やイスラム教の精神文化と日本人の精神文化の違いとは何でしょうか。精神文化とは、人々の生活様式や文化活動に重要な影響を与える要素です。これを知ることにより、本当の歴史事実の意味内容が理解できるのではないでしょうか。

仏教は日本人の精神風土の形成に重要な要素を与え、生活の様々な部分に浸透しています。日本の仏教の大きな特徴は、ブッダの救いの力が死者に及ぶように期待され、生きている者に幸福を招き寄せる祈りとして定着してきました。「現世安穏・後生善処」は端的にこのことを語るものです。

世界三大宗教のいずれもが創始者(預言者、神の使徒を含む)の死後には求心力が弱まって考え方の相違により分裂しながら競合し発展を遂げましたが、釈尊滅後、仏教教団も同様に分裂をしました。

仏教は、釈迦滅後にサンガ教団の膨張とともに、様々な規律の受け止め方に違いが生じて部派仏教に分裂していきましたが、釈迦滅後500年頃(紀元前後頃)には決定的な分裂があり、この中の「大衆部」からは大乗仏教が興起して様々な大乗の菩薩が出現し大乗経典を編纂するようになりました。(詳細は「(21)-1大乗仏教(その特徴と成立過程を考える」をご覧ください)

他方では、上座部仏教から大乗仏教への批判が、分裂の当初からあることも知られた事実です。(44-①~②大乗非仏説の章をご覧下さい)