(13)-2仏教とは何か(日本の精神文化の背景②)

仏教とは、紀元前5世紀頃のインドに出現した釈迦の悟りによって開かれた宗教です。その教えは「真実に目覚めて悟りを得る」ことを目的とする宗教です。
釈迦は29歳で四門出遊を契機として出家し、36歳で真理に目覚め、80歳で入滅するまで45年間、仏教伝道の旅を続けた実在の人です。

仏教の原点は、難行苦行の末に苦楽のいずれをも否定した釈迦が中道の精神にたどりつき、菩提樹の下で瞑想によって正覚(悟り)を開いたことにあります。悟りとは、私達の心の中にある真理を知る妨げとなる様々な要因を取り除くことができれば真理が明らかに知ることができる、ということにあります。

「神の啓示」を受けて創始されたキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教は一人の人間が真理に目覚めて悟りを得たことから出発し、修行を完成して成仏(如来となること)することを目的とするものです。
ここにヨーロッパ系と東洋系の宗教概念の大きな違いがあることを理解しなければなりません。

仏教とは、この菩提樹下の釈迦の境地を自分自身の中にも実現しようとして、菩提心(悟りを求める向上心)を求める修行をすることをいいます。
しかし釈迦の悟りは宇宙に存在する原理・法則・真理をあるがままに認識したものであり、釈迦が独自の瞑想によって発見したものではありません。

釈迦の悟りは、誰でもが釈迦と同じように追体験できる可能性があるものであり、さらにそれらを深めていけることをも可能とするものでした。
仏教の原点は菩提心にあります。菩提心とは悟りの浄土に至る強い信仰心を保ち続けることによって解脱の可能性が開かれるものですが、菩提心を否定するものは仏教とはいえません。
仏教の歴史は釈迦の菩提心を追体験する仏教徒の研鑽の歴史なのです。

釈迦が瞑想(禅定)により完全な涅槃に入ったとき、帝釈天は「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」の詩によってこれを表現しました。
しかし、釈迦(ブッダ)は悟りを開いたばかりの時、世間を見渡し、衆生の能力を見て、この悟りを理解できる者がいないと判断して説法をすることを躊躇しました。
釈迦は悩んだ末に、梵天の勧請によって、最初の説法(初転法輪)を決意することができました。

この初転法輪が明らかにする梵天の勧請は、ヒンズー教の最高神の懇願を受けるという形式をとることによって仏教の優位性を示すものです。
このことは、インド民衆が受け入れ易い信仰に合わせて仏教に取り込もうとする意図を持つものであると考えられています。

初転法輪に選んだ相手は、かつて難行苦行の修行仲間の5人の比丘でした。五人の比丘は釈迦の悟りを容易に認めず、緊迫した場面や困難な説得が続きましたが、これが功を奏したことにより仏教が誕生しました。

仏教にも釈迦の生前には今日のような仏教経典はありませんでした。インドでは、「尊い教えは声に出すのがよい」とされ、教えの内容は師から弟子へ口伝で継承され、書きとめるということをしませんでした。
釈迦滅後の数百年に口伝では正確な内容が伝わらないことが問題となり、紀元前383年頃に第1回の結集が行われました。同様に、第二回目の結集が紀元前283年頃に行われ、第三回目の結集が紀元前244年頃に行われました。

結集とは、自分が受けた教えを互いに暗誦し合い、皆で記憶することでした。皆が教えの内容を出し合い、比較することで教えの整合性を図り、伝えるべき内容を確認し合ったのです。
第三回結集後の紀元前3世紀末に、修行の在り方、日常の生活態度の在り方、教団の在り方を定める律の考え方などについて、これを厳格に守るか、緩めるかの対立が治まらず、固守派の上座部と柔軟派の大衆部とが根本的な分裂をすることになりました。
これ以降、上座部(南伝仏教)と大衆部(北伝仏教・大乗仏教)はそれぞれの道を歩むことになりました。

簡単な流れは次の通りです。
①1世紀にインドから中国に大乗仏教が伝えられました。
②4世紀に、中国から朝鮮に大乗仏教が伝えられました。
③538年頃、朝鮮(百済)から日本に大乗仏教が伝えられました。
④646年頃、インドからチベットに大乗仏教が伝えられました。
⑤13世紀、インド仏教はイスラム教徒に消滅させられました。

仏教には伝統的な解釈があります。仏教の内部で何か新しい運動が起こる場合には、それがブッダの事蹟にどのように関連づけられるかという視点が欠くことのできない検討課題になることです。
大乗仏典の多くはこのように伝統的な仏伝を意識して、これに独自の解釈を施し新たな仏陀観を打ち立ててきましたが、これには釈迦の成仏とこれにまつわる様々な事象をどのように解釈し整合性を持たせるかということに腐心したものと考えられます。

ブッダの「悟り」の内容については、古来より多くの弟子たちが頭を悩ませてきました。例えば、原始仏教の教典(『阿含経』)だけでも15種類の異なった伝承があるといわれています。これに大乗仏教の膨大な教典に語られる「悟り」は一体何種類あるのでしょうか。
般若教典には、悟りの同義語に「空」や「深遠」が語られています。「般若の智慧」も同様です。

このように、釈迦の説いた「悟り」の内容がこれを聞いた人により異なるのは、釈迦が聞く者の理解力に応じて教えを説いた対機説法にあると考えられています。
この他にも情報を正しく伝達する難しさがあります。情報伝達の難しさは、何人もの耳や口を伝わる間に間違った情報内容として伝わってしまうことにあります。

人から人に伝播するうちに、聞いた者の理解力、伝える者の表現力によって情報内容が少しずつ変化して間違った内容を伝えてしまうのではないかと考えられます。
文字によって記録されることのない時代でした。正確な伝達は困難でした。各人は正しく伝えたつもりでもそこには自ずから限界があります。各人が理解した内容が正しい教えということになってしまいます。

紀元前2000年頃、古代インドに侵入しヴェーダ文明をもたらした初期アーリア人は、カースト制度と呼ばれたインド固有の社会制度をつくり、インドを支配しました。
アーリア人は、高度な宗教哲学を持っていましたが無文字民族でした。文字や記録として残されたものではなく、人々の暗唱によって伝承されてきたものでした。インドでは釈迦の時代にも文字で記録することはありませんでした。

インドの文字の起源は、紀元前3世紀の阿育(アショーカ)王の国家統一以降のカローシュテイ文字(右から左に横書きする表音文字)やブラーフミー文字(左から右へ横書きする表音文字)と考えられますが、ブラーフミー文字はサンスクリット語の起源となるものです。今日の梵字悉曇の源流です。

インドでは、人間は生まれた瞬間に、自分の帰属するカースト制度によって日常生活の骨格が決定され生涯変わることのない社会生活を営まなければなりませんでした。
釈迦は、カースト制度を社会構造とする中で、人間が自由を求めるとき、どの様に考えたのでしょうか。釈迦は、この方法を社会の変革に求めず、人間の精神の自由を求める方向に舵を取りました。これが釈迦仏教なのです。

南伝の上座部仏教でさえ様々に「悟り」が伝承されました。大乗仏教も同様ですが、大乗仏教になると膨大な教典の中から○○経が最高教典という形で優劣を比較する状況になっていくことに特徴があります。
特に、インドから中国に伝播された大乗仏教にこの有り様が典型的に現れました。中国人の「本物探し」気質がこれに拍車をかけることになりました。

中国人の特質の「中華思想」(中国は世界の中心という思想)の一つに、他国の優れた文物を取り入れても、中国人の気質に合わせて受容する姿勢を堅持し、他国語が中国語に翻訳される段階から中国的な解釈に書き改められることです。この瞬間から原文の元意が失われることがあります。

日本にもたらされた仏教はほとんどが中国仏教の流れにあります。
中国では釈迦と同時期の紀元前5世紀頃にはすでに春秋戦国時代の諸子百家により道教や儒教といった中国人の精神文化の中核を形成した思想が花開いていました。

中国に仏教が伝わったのは、通説によれば漢の武帝が匈奴を追い払いシルクロードを開いた1世紀頃と考えられます。最初に伝承された教典は「空」の思想の大乗仏教であったと考えられています。
敦煌はこの頃に整備された城市ですが、敦煌遺跡の発掘調査などから、その頃には仏教経典は断続的にもたらされていたと考えられています。

中国に伝えられた仏教は、当初は宗教というよりも新奇な外来哲学の一つとして受けとめられました。中国には、紀元前から儒教や道教という中国産の社会道徳の思想が定着していました。仏教はこれらとは相反する教えを含むもので社会的に受け入れにくい側面を持っていました。

儒教の目標は「社会の秩序」であり「礼・仁・孝の実践」です。道教の目標は「不老不死」であり「正しい生活」の実践です。「悟りと解脱」を目標とする個人的な修行を実践する仏教との間には違和感があり、仏教側は儒教・道教との類似性(隠棲は出家に通じる、など)を説教的に強調しなければなりませんでした。
また、儒教・道教には、時代の変化に対応するために古びた教義の刷新を図り仏教思想を取り入れなければならない事情があったのです。

2~3世紀頃には、インドの竜樹(ナーガルジュナ「日本仏教八宗の祖」)の「空」の思想や『大智度論』などが中国に伝承されたと考えられます。
4世紀後半~5世紀初頭にインド系の僧・鳩摩羅什によって大乗仏教の「空」の概念を体系化した中観派の教典が中国にもたらされました。

中国では、インドからの渡来僧の手で次々に漢訳の仏典が翻訳され、その内容の矛盾が目立つようになりました。
そこで、直接に本場インドで学ぼうという機運が生まれ、5世紀には法顕、7世紀には玄奘などの求法僧がインドに赴き、多くの経典を中国にもたらしました。
儒教・道教と仏教は、互いに国の庇護を争う立場になりますが、反発と受容をくりかえしながら、中国社会に適した形で融合(三教合一)していきました。

629年、唐の玄奘が、仏典の原点に触れるべくインドに旅立ち、「経(教義・教典)」「律(規則)「論(教典の解釈)」の三蔵を中国に請来しました。日本では「大化の改新」が行われた年です。

日本仏教は、中国人の考えた仏教史観に覆われていることを事実として受け止めなければなりません。仏教は中国で研鑽され体系化されましたが、道教や儒教の思想の影響を受けながら中国人の受け入れやすい仏教観に書き改められた部分は少なくない、と考えられます。

仏教は中国人が変質させ、更に日本で日本文化との習合が図られました。釈迦のインド仏教の元意が正しく受け入れられたかどうか再検討する場面はあちこちにありそうです。

特に、末法思想の浸透した鎌倉期の仏教は、インド仏教や中国仏教からの教義の縛りを受けることなく日本の独自性のある複数の鎌倉新仏教(祖師仏教)が成立し、大衆の支持を得て定着しました。
鎌倉新仏教の登場によって、日本仏教の勢力関係に庶民の獲得という新たな構図が発生して激しい変化が起こりました。

幕府の宗教統制が無力となった明治時代に入ると、檀家制度の下で固定化されてきた宗教の改宗が可能となり、新興宗教が多発する激動期に突入していきました。
これに加え、昭和の新憲法の下で更なる信教の自由化が急速に拡大し、新興宗教が乱立して信者の獲得競争を繰り返しました。
その結果、なんと鎌倉新仏教系の信者の合計が仏教徒の過半数を占めるまでに成長したのです。
日本の宗教事情が乱れる大きな要因になりました。