(12)イスラム教

イスラム教は、13億3696万人の信者を擁する世界第二の一神教です。その成立時期は7世紀初期です。
イスラム教は、神の啓示を受けた預言者・ムハンマドが創始した宗教です。
6世紀末頃、ムハンマドはマッカー(メッカ―)で生まれました。しばしば郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していましたが、40歳の時、神(アッラー)の啓示を受けたといいます。

神の啓示は突然のことでしたが、妻ハディジャーとその弟ワラカ(キリスト教徒)に、啓示を与えたのは神意を伝える天使(大天使ガブリエル)に違いないと励まされ、次第に預言者としての自覚を持ってイスラム教の布教を決意するにいたったと伝承されています。

ムハンマドは、釈迦やキリストと違って神格化されることなく、普通の人間として生涯を全うしました。
初期のイスラム教は、日常の仕事を持ちながら信仰を実践する在家宗教として発展しました。

当時のアラビア半島は、ユダヤ教やキリスト教が一部に布教していましたが、大部分のアラビア人は自然の事物に宿る聖霊などを崇拝する多神教でした。
この多神教信仰は、現世に価値を置く生活を基本にするもので、来世の存在を考える思想がありませんでした。イスラム教ではこれをジャーヒリーヤ(無知)といいます。

ムハンマドはメッカーで布教を開始しましたが、布教の内容は「唯一神アッラーへの帰依」「富の独占の批判」「社会的弱者の救済」などで若者や貧しい者に広まりを見せました。..

しかし、大商人たちの反発を受けて迫害に遭い、メディナに移住してイスラム共同体(ウンマ)の形成を目指し布教活動を行いました。

アラブ諸部族間の争いや宗教対立の中で、ユダヤ教徒との連携を図りましたが、ユダヤ教徒が「偽預言者」とムハンマドを非難して対抗勢力の支持に回ったため、ユダヤ教徒やキリスト教徒と決別して独自の道を歩むことになります。

ムハンマドは、ユダヤ教に対しては「神の前では全ての人が平等である」として選民思想を否定し、神を信じる全ての者が救われると批判しました。
キリスト教徒に対しては「神は生みも生まれもしない」としてイエスを神と同一視する三位一体説を批判しました。

イスラム教徒は、全知全能の神アッラーに対する絶対的な帰依と絶対服従を誓う者(ムスリム)です。この信仰の在るべき姿は「六信五行」によって救われ、信仰が完結すると考えられています。
信仰が篤ければ誰でも天国に行けるといいます

六信とは、「神、天使、啓典、預言者、来世、天命」という六つの存在を信じる内面的な信仰をいいます。
①「神」とは、全知全能の神アッラーに対する絶対的な帰依と服従。
②「天使」とは、アッラーの使者ガブリエルの啓示を信じる。
③「啓典」とは、神の啓示の書「コーラン」「シャーリア(律法)」
④「預言者」とは、ムハンマドはアッラーの言葉を預った偉大な信徒
⑤「来世」終末の世界(来世)こそ本当の世界であると。
⑥「天命」とは、この世の全てのことはアッラーのお思し召しであり、死後の世界も予定されていること。

五行とは「信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼」という五つの実際に行わなければならない信仰行為をいいます。
①「信仰の告白」とは、アッラーの他に神は無く、ムハンマドは神の使徒なり、と唱えること。
②「礼拝」とは、メッカーの方向に向かって1日五回行う。毎週金曜日の昼には集団で礼拝を行う。
③「喜捨」とは、貧者への施し、生活困窮者や孤児などに富を分かち与える。
④「断食」とは、ラマダーンの月(イスラム暦の第9月)に、富める者も貧しい者も平等に苦しみを経験する。
⑤「巡礼」とは、ムスリムの一生に一度の義務として、メッカーのカーバ神殿の儀式に参加する。

イスラム教徒の信仰の在るべき姿は、六信五行によって具体的に示されているので、誰にでも分かり易く、実践項目が具体的に明らにされていることに特徴があります。

イスラム教の教義と律法は驚くほど具体的で精緻です。あまりにも整いすぎていて、信徒の創意工夫の入る余地はありません。イスラム教徒は教条的に教義を受け入れるだけで、自由な精神を前提とする思索の道を奪われているのではないかとの疑いが感じられます。
このため、聖職者の権威が強く、信徒は教義と律法に服従する信仰をそのまま受け入れることにより成就するとされています。

コーラン(クルアーン)は、イスラム啓典の中の最高位に位置付けられるものです。この内容は、ムハンマドが610~632年までの22年間に神から授かった啓示です。
教義に関すること、日常生活の振る舞い方などが記されていますが、神の言葉とされているので一語たりとも改変することは許されません。

コーランの翻訳は認められず、翻訳されたものはコーランと認められません。コーランは「読誦されるべきもの」という意味であり、声に出して読まなければなりません。
読み方や、節の付け方、息継ぎをする箇所などが事細かに定められていて、幼い頃から繰り返し暗誦して正しい暗誦方法を学ばなければなりません。

イスラム教の行動規範は、神から与えられ、イスラム法学者が解釈を付した「シャーリア」によって、日常生活をしなければなりません。
シャーリアの法源は、第1に神の言葉「コーラン」、第2にムハンマドの慣行「スンナ」、第3に共同体(ウンマ)の合意「イジュマー」、第4に法学者の類推解釈「キャース」とされています。

更に、シャーリアの具体的な内容は、五つの範疇に分類されます。①「義務行為」(五行や配偶者扶養など)、②「推奨行為」(喜捨や結婚など)、③「許容行為」(飲食、売買など)、④「忌避行為」(離婚や中絶など)、⑤「禁止行為」(殺人、窃盗、飲酒、豚肉食、偶像崇拝など)です。
このうち、禁止行為には罰則規定があります。

コーランに説かれる神と人間の関係は、キリスト教とほとんど同じです。全体が114章から構成されていますが、ムハンマドが神から与えられた啓示を、ムハンマドの死後の7世紀半ばにアラビア語で結集したものです。この中で、繰り返し強調されるのは「汝らの神は唯一なる神である」という原理です。

神は天地創造説で構築され、創世記や最後の審判を語ります。
神は6日で天地を創造し、その創造行為は今も続いているとします。神はこの世を一瞬で無にできる存在だとし、この世は7層の天界と7層の地層で構成された世界であるとして天使や悪魔の存在を語り、随所に登場させています。

神の前では、人間は無力な存在であるとし、人間は神の被造物であるが、命を吹き込まれたことで善にも悪にもなる生き物になったとしています。厚い信心をすれば、神は人間を赦しますが、祈るだけでは全て罪が赦されるわけではない、といいます。
神は従順な僕には慈悲を深くし、従わない者には罰を下します。
その世界は、アッラの絶対的な存在と厳正な因果応報です。

また、コーランには、人間社会の生活活動の全てが記されているわけではないので、現実生活のすべてには対応できません。
そこで、ムハンマドの慣行(スンナ)や共同体(ウンマ)の合意、イスラム法学者の類推解釈(キャース)によって、合理的な規定を適用するという運用をしてきました。

イスラム教徒の一生の生活全般や通過儀礼はコーラン、ハディース、スンナなどに具体的に規定されています。結婚や葬儀、命名、割礼、など多数にわたります。

例えば、結婚はイスラム世界の発展を推進する為に多産が推奨されるので、数字的にはイスラム教徒の信者数がキリスト教数を上回る傾向性が出ています。
カトリックや東方正教会では結婚は秘蹟(機密)の一つとされ神が介在する儀礼とされますが、イスラム教では花婿と花嫁その後見人が契約書を交わすことで成立し、役所に婚姻届を提出するだけでは成立しません。

イスラム教徒は、死を来世への通過点と考えます。墓などは質素なものが多く、遺体を清めて納棺し土埋にします。葬列は墓地に向かう途中でモスクに立ちより、葬儀の礼拝を行います。
遺体は右わき腹を下に、顔はメッカーの方角に向けなければなりません。埋葬は死後できるだけ早く、その日の日没までに行います。

イスラム教徒の聖地は、第一に、ムハンマドの生誕地でカアバ神殿があるメッカー、第二にヒジュラが行われ、ムハンマドの霊廟があるメディナ、第三にムハンマドが天上世界に旅立ったとされる岩のドームがあるエルサレムです。

エルサレムにはユダヤ教徒の聖地(嘆きの壁・シオン山)でもあり、キリスト教の聖地(イエスが処刑されたゴルゴダの丘に建つ聖墳墓教会)でもあります。エルサレムは三つ巴の聖地を巡る果てしない争奪戦の渦中にあります。

イスラム教も預言者ムハンマドの後継者問題で各派が生じ対立が始まりました。その最大のものはスンニ派とシーア派との対立です。
イスラム世界の両派の勢力は、スンニ派9割、シーア派1割(イランを拠点とする)であり、数の上ではスンニ派が圧倒的に多数派です。
そもそもの対立の経緯は、合議制によって定めた第4代カリフの正統性を不満とする勢力がシーアを分派したことにあり、預言者ムハンマドの後継者問題にからむ政治的な対立を要因とするものでした。

現代の中東問題にイスラム原理主義とかイスラム過激派として問題視されている勢力はシーア派内部の政治的な対立が数々の分裂を起こし、過激な武力による破壊行為を公然と行う者が出て来たと考えられています。
しかし、イスラム原理主義=テロ組織・過激組織との図式は誤解によるものです。原理主義はイスラム教徒から見た目線ではなく、キリスト教徒の目線で見た表現です。もともと原理主義という表現は聖書の原点(聖書は無謬性)に帰ることの主張であり、キリスト教根本主義を唱えることでした。

過去に栄光の文化圏を建設したイスラム社会は、10世紀のアッバス朝の滅亡後は分裂と衰退を繰り返し、11~13世紀には十字軍の遠征によって荒廃し、13世紀には巨大帝国モンゴルの侵略によって見る影もなく衰退に向かいました。

イスラム社会は、日常生活の全般をイスラムの諸儀礼に適合しなければならない社会でした。厳格なイスラムの教えを守ることで社会変革の意思を次第に失っていったと考えられます。
西洋諸国との政治・経済・軍事・外交の面で徐々に実力差が出始め、やがて海外進出に勢いづいた西欧諸国の植民地政策に曝されました。
20世紀のイスラム社会は独裁政治や社会主義政策の失敗などから深刻なインフレや失業問題に悩まされ、貧富の差が拡大しました。

イスラム社会では、その原因は欧米の真似をして欧米と付き合うことにあると考えられたのです。そこで、政治や社会習慣を見直してイスラム教の原点に戻ろうとする運動がでてきました。これを「イスラム主義」といいますが、欧米人はイスラム原理主義と云ってきました。
欧米人の脳裏に、20世紀初頭にキリスト教プロテスタントの特定の宗派に悩まされた記憶が甦ったのではないかと考えられます。

特に、石油利権と領土問題が複雑に絡んだイラン・イラク戦争は、イランでパーレビ王朝が崩壊しホメイニ師が最高指導者となったことでイスラム原理主義が活発化し、この一部が過激な活動をするようになったことでした。
この隣国の社会情勢を注視して、スンニ派勢力を結集してイスラム社会の統一を目論んだイラクのサダム・フセインがイランに軍事力による先制攻撃を仕掛けたことからイラン・イラク戦争が勃発しました。

過激派は、武器を使ってまでイスラム社会を守ろうとする人々のことを云いますが、「ジハード(聖戦)」という便利な言葉で正統化しようとしているように考えられます。
この勢力は、少数派の孤立を免れる為に、欧米キリスト社会に対する反感を強めて、イスラム社会の同情や支援を受けようとしています。イスラム教徒はその宗教的情熱とムスリムの義務などから決して欧米のキリスト教諸国に屈したり信念を曲げることはありません。納得させるのは至難の業です。
あるいは、世界的な硬直状態を望んで、イスラム教とキリスト教の全面対立に引き込もうとしているのではないかとも考えられます。

キリスト教徒とイスラム教徒の深刻な争いを収める処方箋はありません。いずれも世界宗教を代表するプライドの高い一神教だけに仲裁する実力を持った勢力が無いのです。イスラム教とキリスト教の対立には有効な合意や和解形成の為の智慧が必要です。