(20)-5「初期開拓者」の祭祀と神宝を考える(仮説)

空海、幼名・佐伯真魚は、父から幼少より文字を習い、学問の手引きを受けました。『空海僧都伝』には、「和上生まれて聡明。よく人事を識る。五、六歳の後、隣里の間、神童と号す」とあります。12才頃からは論語、孝経、史伝などの漢籍を母の兄・阿刀大足(讃岐出身・桓武天皇の皇子伊予親王の侍講、従5位)から学びました。真魚(食用の魚)の幼名には違和感がありますが、当時の子供の名前としては一般的で珍しいものではないそうです。なかには、イエス・キリストにちなんだ名前ではないか?とする説があります。

空海は、18歳で長岡京の大学の明経科(論語、左史伝、五経などを学ぶ学科)に入学を許可されました。この大学は六学科で構成されていましたが、五位以上の貴族の子弟が入学を許された国の上級官吏養成機関でした。佐伯家は位が低く入学資格がありませんでしたが特別の計らいで入学を許されたのです。
当初、空海は上級国家公務員を目指したと考えられます。当時の大学の入学年齢は16歳前後であり18歳の入学は遅いものでしたが、家族は空海に大きな希望と期待をもったと考えられます。

ところが、20歳頃、中途退学(前述のとおり)してしまいました。期待していた父や親族はさぞ落胆したことでしょう。ところが、空海を大学に導いた功労者・阿刀大足の落胆ぶりや嘆き、空海の将来に係わる積極的な関与があったのか、なかったのか、これが何ゆえか空海研究では欠落しています。

空海は『聾瞽指帰』を著作して、出家の決意を表明しましたが、何故か、大学中退後ただちに出家して寺院に入り弟子入りしていないことが不思議です。23~30歳まで空白の期間をつくり、独立自尊の姿勢を取りながら山林に交わり、独自の開悟を目指すというのは不自然に考えられます。
合理的な解釈では、空海の出家は大学卒業後でも十分に間に合うものだったと考えられます。両親や親族の期待を背負い国家官僚になるべく特別に入学を許可されたのに、卒業を待たないですぐにも退学して行動に移さなければならない空海の身に突然に差し迫った緊急ミッションとは何か。それは本当に出家にあったのでしょうか。

阿刀氏とは事前の相談を十分にしていたのではないか、むしろ、阿刀氏が空海に特別ミッションを要請したのではないかと考えられます。空海が山林に交わり出口のない修業に邁進しただけとは考えられません。空海が語らなかった空白の7年間は、空海に緊急の特別なミッションが与えられ、しかも口外できない性質の任務であったのではないかと考えられます。
空海には、自身の経歴や事跡にさえ書くことができない特別ミッションがあっと考えることは合理的な推定だと考えます。
しかもその緊急な特別ミッションは、人目には熱心な山岳修行者に見えるものであったと考えられます。

ここで、『日本とユダヤのハーモニー(著者:中島尚彦)』(http://www.history.com/)が主張する阿刀氏の係わりがあったとみる見解 と『神社仏閣に隠された 日本史の謎と闇』(中見利男・編著 別冊宝島2069号)の特集『消された古代豪族物部氏と三種神器を超える十種神宝の秘密を追う』には合理的な推理があると考えられますので、これらの切り口を引用させていただき、仮説を展開してみます。

イスラエル王国はソロモン王の死後の前930年に北イスラエルが独立して南北に分離しました。南ユダ王国はユダ族とベニヤミン族の2部族が、北イスラエルには10部族(ルベン、シメオン、レビ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、セブルン、ヨセフ)が分かれましたが、後に、レビ族は祭祀一族として除外され、ヨセフ族がマナセとエフライムに分かれました。12部族はアブラハムの子ヤコブの子孫であり血縁関係を持つ同族です。

紀元前8世紀、ユダ王国の首都エルサレムから預言者イザヤが国家崩壊の危機に直面した北イスラエルの10部族と南ユダ王国の2部族に向けて、南北の同朋に向けて国家の崩壊と救いを予言する警告の「イザヤ書」66章のメッセージを投げかけました。
当時イザヤは神の予言者として活躍したもっとも有名なヘブライ人の預言者で人々の信頼が厚い人物でした。王の治世に直言できる存在でした。

前半39章には国家崩壊に象徴される神の裁きの記述があり、所々に希望と救いのメッセージが記載されています。それは、東方の「海の島々」や聖なる山に救いの道が残されていることを示唆するもので、イザヤはインマヌエル(神が我らと共におられる)という言葉を用いて、幼子が「驚くべき指導者、力ある神」の象徴となり、イスラエルが救われて平和の道を見出すことができることを語りました。

当時、北イスラエルはアッシリアの攻撃を目前に控えた緊迫の状態にあり、南ユダ王国も崩壊の現実的な危機に向かう緊迫した政治情勢の下にありました。イスラエルの民は一刻も早く国外に脱出することを望んだと考えられる状況下にありました。
前731年にダマスコ(現ダマスカス)が陥落し、前722年に北イスラエル王国が滅亡し、アッシリアの占領下に置かれました。

イザヤのインマヌエル予言には、東方の「海の島々」や聖なる山にイスラエルの救いがあるということだけでなく、インマヌエルの群れには、行き着く所どこでも速やかに相手を征服することができる力と権威が与えられたと信じられました。
預言者イザヤの言葉に励まされた大勢の民は、イザヤのリーダーシップに従い、北イスラエル王国が滅亡し、南ユダ王国が滅びる前に新天地を目指して旅立ったと考えられます。

南ユダ王国はヘゼキヤ王(前715-687)のとき宗教改革があって一時小康状態になりますが、次第にアッシリアやエジプトの征服を受けて支配下に置かれ自立できませんでした。前586年に新バビロニア(バビロン捕囚)によって滅亡しました。
イザヤは、ヘゼキヤ王の晩年に、ダビデ王の王系を継ぐ子孫の王国を継続するために王の皇子を同伴して王宮を去り、新しい平安の都を築くために、船で東方の「海の島々」や聖なる山のある新天地に向かったと考えられています。
この時、イザヤは神殿から「契約の箱」と「神宝」を新しい国のために持ち去ったことが旧約聖書に読み取ることができますが、ダビデ王の約束は永遠であり、ダビデ王の血脈が途切れないようにする必然の行為でした。国外脱出は、あらたな預言の地(東方の海の島々や聖なる山)に新王国を建設する船出であったと考えられます。

この頃、航海に耐えうる構造の船もあり海の航路は発見されていました.。海の道(航路)は、私達が考えるよりも早い時期にすでに利用されていました。海のシルクロードは、陸のシルクロードよりも古いことが分かっています。古代エジプトのプトレマイオス朝(AD306-30)にはインド洋に達してインドと交易を行っていました。ソロモン(BC961-922)の時代にはヒラムの船団と共にタルシシュの船団(インドやアフリカ東海岸を航海して交易)を所有していました。これらの船団はアカバ湾(エイライト湾)の奥のエジオンゲベルから出航し、アフリカやインドに象牙・さる・クジャクなどを運んだという記録(旧約聖書)があります。エドムは、銅の精錬が盛んで、船に乗せて世界に輸出されていました。銅の精錬技術はインド、インドシナ半島、マレー半島に伝えられ、BC4ーAD2世紀の間に日本に伝えられた可能性が大きいと考えられています。BC4世紀はエドムの地がナバテア人に奪われて、多くのソドム人が国外流出した時期に当たります。

船の航海の同乗者には王の後継者となる王子と国家のリーダー的存在であった著名な預言者や神宝(旧約聖書の「契約の箱」)を守り、主の神殿を司る祭司であるレビ人でした。また、護衛の任務についた軍人も同乗して国外脱出したものと考えられます。脱出経路は、船で海上から来たグループ(身分の高い支配者グループ)と陸上(後のシルクロード)を徒歩で来たグループが考えられます。(ここまで、要旨を引用しました)
数百万の民は、リーダーに引率され中央アジアを経由(シルクロードのはしりを形成)して中国、朝鮮半島に辿り着いたと考えらえます。途中でさまざまな土地に定住せざるを得ないいろいろな諸事情を抱える人々が多く出たものと考えられます。アジア各地にユダヤの居住地が発見されていることから、陸路は難儀を極めたものと考えられます。

新天地への夢を捨てがたく様々な困難を克服して数十年から数百年の時を経て日本にたどり着いた人々が大勢いたものと考えられます。1926年に中国の洛陽で発見された3つのヘブライ語石碑の破片は、後漢時代(AD73年、明帝の頃)のものでした。AD70年のエルサレム陥落後に世界に散って行ったユダヤの一部の形跡が洛陽にありました(1989年5月13日エルサレムポスト誌)。また、開封でユダヤ人を描いた人形(俑)発見されています。シルクロードが開通した紀元前の前漢時代には、西アジア・ユダヤから人物往来があり交易がおこなわれていた形跡があります。

これらから、このネット情報はさまざまな検証を試みています。
この中に見える記述を参照しながら、ユダヤの足跡を検証し、日本にたどり着いたユダヤの人々の痕跡を少ない文献などから考えてみたいと思います。

秦氏は、日本書記によれば、応神天皇の時代に中央アジアのオアシス国家・弓月王国(現・グルジア)の王・弓月君(事実を隠すために作られた伝説の人物)に率いられて百済の百二十県の民と共に渡来した人物です。途中で新羅に渡航を妨げられ伽耶で足止めにあっていますが、倭国が葛城襲津彦を指揮官とする軍隊を伽耶に派遣して無事に渡来させています。葛城襲津彦は、ヤマト葛城地方の王であり半島南部の伽耶諸国の倭人の王(または倭人の長)でもあったと比定されている人物です。不思議なことは、半島では天皇の命令に従わず、独自の行動を起こして3年後に帰還(「日本書紀」)していることです。

ここにいう「百済百二十県の民」とは、旅の途中で、何らかの事情によって百済(記紀説、本当は新羅)に定着していたユダヤ系の民であり、日本を目指した先遣の人々の後裔であると考えられます。組織力のある弓月君の移動情報を得て集団に加わり、移動のリスクを避けようとしたものと考えられます。「弓月国(クンユエ)」は199-283年頃成立した原始キリスト教徒を信じるユダヤ人が中心となって建国したといわれています。この国が景教徒ではないかとする説がありますが、それは考えられません。、キリスト教ネストリウス派が異端とされたのは431年にエフェソス公会議であり、451年のカルケドン公会議でローマ教会から追放されました。シリアからペルシャを経由して中国に伝わり、唐で正式に布教が許されたはの638年であるところから景教徒とはいえません。

このとき、新羅と戦闘状態にならなかったことはとりもなおさず、日本列島の王権の軍事力が新羅の軍事力を凌駕する実力があったと認められるものですが、この一行には列島王権の救援を求める手立てがあったこと、また、日本列島の王権には一行の救援要請を受け取り巨大な軍隊を派遣して渡来させる実力があったこと、一行を待ち望んでいる有力な先行勢力が存在していたことが分かります。国の正史にわざわざ記載された事実をみれば、為政者(大王)との特別な縁故関係が読み取れる出来事であると考えられます。

このことは、当時の日本列島の王権が朝鮮半島南部の三韓地域に既得権益を保持していたことが理解できる出来事でしたが、日本列島の王権が新羅との戦争を前提にしてまで当時の軍編成では巨大すぎる1万5千余の軍隊を派遣した理由は一体何故か疑問が残ります。何か特別な縁故の意識があったものと考えられます。

新羅の首都・慶州の遺跡から百済や高句麗から出てこない古墳の副葬品があります。古代ローマで作製されたローマングラスとトンボ玉(首飾りの部品)です。新羅の5~6世紀の王墓からしか出土していない珍品・装飾物ですが、これと同じものが飛鳥の蘇我氏の邸宅跡から出土しています。蘇我氏の邸宅跡には高度な排水施設(暗渠)と噴水設備が発見されていますが、蘇我氏と新羅の関係性を疑わせる遺物です。新羅の言葉は百済、高句麗とは異なる(中国の「宋書」)ことから、新羅の古墳の埋葬者は西域につながる可能性が考えられ、新羅は経由地に建国された国とも考えられます。

また、この一行の文化や史蹟は百済のものではなく、新羅系のものが多く残されていることから新羅系とみられていましたが、『新撰姓氏録』には秦始皇帝の末裔とするなど、そのルーツが謎に包まれました。彼らは中国系でも新羅・百済系でもなく、中央アジアを経由して朝鮮半島に至り、つてを求めて渡来してきたユダヤ系民族ではないかと見る有力説が浮上しました。

奈良・橿原市の新沢千塚古墳群126号墳(5世紀後半)から円形切ガラス括椀(深い緑黄色/厚さ1~1.5㎜/口径約8㎝・高さ7㎝)が発見されました。この高級ガラスはササン朝ペルシャ(226-651)の王宮遺構(ベー・アルダーシェル)で見つかったガラス片と同じ化学組成を持つものでした。また、同遺跡から透明な濃紺色の高級ガラス皿(口径14.1~14.5㎝)が見つかりましたが、この皿はローマ帝国(紀元前27-395)で出土したローマガラスと同一の化学組成を持つもので、表面には鳥や樹木などに復元できる絵の痕跡があります(いずれも蛍光X線分析の結果)。これらの品は、古墳に副葬された威信財と考えられ、古墳の主が西アジア経由の人物であったことが考えられます。他に埋蔵例がない希少品であること、壊れやすいものであることから大切に扱われた物と考えられ、単なる交易品(一般商品)であったとは考えられません。

実は、秦の始皇帝(第31代秦王・政、紀元前221年中国最初の統一国家を樹立)にもユダヤ人説があります。政の実父はユダヤの政商であった韓の呂不偉(後に秦の宰相となる)であるという風評が流布しましたが、後漢の班固は『漢書』 に始皇帝の実父は呂不偉であると断言しています。始皇帝の体格・容貌は大柄で顔の彫が深く、鼻が高く目の色が青であったことから西アジア系の特徴的な色彩があったとの伝承があります。

呂不偉は、趙に人質に出されていた不遇な秦の公子・子楚を秦王にさせるべく援助し、政の生母となる趙姫(呂不偉の愛人)を子楚の望みにまかせて婚姻させ、子楚を秦王にするべく、策を用いて秦に帰国させることに成功しました。子楚は妾腹の子であり、兄弟が20人もいて王になる資格は絶望的な人物でしたが、呂不偉は策謀によって競合相手を次々に失脚させ、子楚を荘襄王に就任させた功労者です。これによって、政が次の秦王となる道筋を作りました。「奇貨居くべし」の語源になった出来事です。

地方王権の一つにすぎなかった秦が、強国となって中国を統一できたのはユダヤの物心両面の支援によるものであったという説があります。ちなみに、中国の春秋戦国時代の諸子百家はユダヤ系の人々であったという説があります。

ところが、秦の名前を持つ国がもう一つあります。五胡十六国時代に建国された「前秦(351-394)」、「後秦(384-417)」といわれる国です。前秦はチベット系氐(てい)族が、後秦はチベット系の羌族(タングート)が建国した国ですが、国名に「秦」をつけたことは秦との関係性にこだわったものと考えられます。新羅が377年に前秦に朝貢していたことが宋の文献に記載されているところから、後秦でも新羅とチベット系の人々との関係性が継続していたと考えられます。この秦は、滅亡時に新羅に逃れたとする説があります。中国人(漢人)は自らを秦人とは言わないので秦氏は漢族ではありえず、チベット系(その出自はユダヤ系マナセ族ではないかと比定されている)であり、その末裔が新羅経由で日本に渡来してきたと考える説があります。

古事記によれば、秦氏は、第11代垂仁天皇の時代に羽田(秦)氏が渡来し、第14代仲哀天皇の時代に「功満王」一行が渡来していることから、これらは先遣隊であり、応神朝に本格的に集団を組んで渡来したのではないかと考えられます。秦氏は物部氏と特別な関係性を持った有力氏族という位置にあり、古代日本の重要な存在であったと考えられます。

「失われた10部族を帰還させるための調査をする特務機関・アミシャブ(1975年設立)」は、世界的に有名な諜報機関モサドの全面協力を受けるイスラエルの国家機関です。このアミシャブが失われた10部族の痕跡を探していますが、アフガニスタン、パキスタン、カシミール、中国、ミャンマーなどの各地に10部族の末裔が現在も居住していることを発見しています。

これによれば、①インド・ビルマの山岳地帯にシンルン族(人口100~200万人。中国で奴隷同然の扱いを受けタイ・ビルマを経由して避難したという伝承をもつ)中国の河南省の開封にユダヤの居留区が作られ、開封はユダヤ交易商人で栄えた。②ビルマのカレン族(人口600~800万人。中国から逃亡してきたという伝承をもつ)、③羌岷(チャンミン)族(人口25万人。中国四川省とチベット国境のミンコウ付近。秦氏の出自が仮説されている地区)、④バタン(パシュトゥン)人(アフガニスタン、パキスタン、インド、イランの広い地区に分布しているが人口は数千万人規模。ルベン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフの息子など失われた支族の部族名をもつ。)、⑤カシミール族(人口500~700万人。インド北部とアフガニスタンの国境付近。外見上でユダヤ人に酷似し、言語、習慣に共通点が多い)、⑥エチオピアのベト・イスラエル(王国が分裂したとき、ダン族が自ら捕囚となってエチオピアに向かった民の後裔、⑦日本(ユダヤ人研究者のラビ・マーヴィン・トケイヤーやヨセフ・アイデルバーグなど多数が日本とイスラエルの同祖性を文化、習慣、言語の近似性などを挙げて支持している。イスラエルではラビ(宗教指導者)の見解は尊重され人々の信頼度は高く、格別な評価を受ける伝統があります。

中国四川省とチベットとの境に定住してきた③の羌族は、アミシャブがマナセ族の可能性を認めている部族です。ちなみに、アミシャブのラビ・アビハイル氏(ユダヤ教の宗教指導者)は「日本人と失われた10部族との関係性が考えられる証拠は十分に根拠があるものであり、日本人と失われた10部族に何らかのつながりがあることは否定できないであろう」と述べています。

アミシャブは、今後、遺伝子の調査を中心に、ユダヤ(イスラエル)の末裔探しを継続する予定です。エフライムを名乗る民はかなりいましたが、Y染色体DNAがD系統でないマナセ族、エフライム族はいまだに発見されていません。アミシャブは、ユダヤの王家の系統であるマナセ族、エフライム族が世界のどこにいるのか関心を持っています。ちなみに、失われた10部族に比定された集団の中で最も進んだ国家を形成しいるのは日本です。

古代人の日本人の形成過程を仮定すれば、Y染色体DNAのO系統(東アジア系)が本土と沖縄に、C3系統(北アジア系)が北海道にそれぞれ先住民として存在しましたが、Y染色体DNA分析のD系統を持たない人々と考えられます。中国・朝鮮系のO系統の渡来人は農耕民族であり、寒冷な北海道、東北には移民しなかったと考えられます。

日本人を形成するもう一つの集団は、Y染色体DNA分析でD2系統の集団です。この集団は、縄文時代後期から弥生時代初期(BC97-BC68頃)に渡来した第10代崇神天皇(実在性が考えられる初代王神武と同一性がある)が率いる集団が最初です。この集団は支配階級となり、一夫多妻によってD2系統の民を飛躍的に増大させ、沖縄から北海道南部までの沿岸沿いに広く分布し、漁猟・狩猟を行っていたと考えられます。この集団は、古神道(修験道を含む)、天皇家の伝承など日本の伝統文化を形成したのではないかという仮説がありますが、これがユダヤ文化との類似性を持つ文化と考えられるところから、天皇家はユダヤの王権を継承する(エフライム族の)王家ではないかと見る説があります。スメラミコト(天皇)は、ヘブライ語では、(古代イスラエル王国の首都)「サマリアの高貴なる方(王)」という意味です。古代イスラエル王国の正統な王家の血統を継承する王ということになるのでしょうか。

これには、縄文時代に日本列島に到達したイスラエル氏族は12氏族の全氏族であったと考える別説があります。北イスラエル王国の10部族が出雲を建国し、南ユダ王国の2部族が日向のアマテラス族(皇室の祖)であるとする説です。 出雲と日向は、縄文人と弥生人が多く共生していたと考えられてい土地柄です。この説には、「出雲の国譲り」も、「ニギハヤヒのヤマトの国譲り」「伊勢の国譲り」もスムーズに納得できるストリー性があると考えられます。

もう一つのD2系統は、遅れて5世紀初頭に渡来した殖産豪族・秦氏一族(マナセ族に比定)です。エフライムとマナセはヨセフの子であり、失われたユダヤの10氏族の中でも親近性が特に高い氏族(王族)という推定があります。日本で成功した同族の支援や共存共栄を夢見て日本に渡来する動機が見えてくるようです。秦氏は欽明天皇の時の戸籍では7,053戸(家族数では3~4万人)であり、当時の人口の10%に匹敵する人口があったといわれていますが、現代の人口推定では、比較的に裕福で人口増加率が高かった考えられることから、第二集団の子孫の推定数は1,500~2,000万人以上だと考えられます。であれば、第一集団の子孫の現在推定数は2,800万人(日本の人口の40%ー「第一集団推定数」)以上と考えられます。合計数は4,800万人以上となります。

シュメール人の系譜にある古代ヘブライ人は、セム系の有色人種でアジア系です。現在のイスラエル人は、古代ヘブライ人の系譜ではなく、後に改宗してアシュケナージ・ユダヤ人となった人々です。古代カザール王国(トルコ系)に起源をもつ民族でしたが、後に改宗して現在のイスラエル人の主流になっています。正統な(旧約)聖書の民は、古代ヘブライ人の系譜にある各地に拡散した「失われた支族」です。ヘブライ語は、ヘブライ人が亡国の民となり、数千年も流浪の民となったことでほとんど失われていました。ヘブライ語は、わずか数世帯にしか残っていなかった言語でしたが、現イスラエル建国の施策により奇跡的に復活した言語です。

2007年3月、イスラエルの国家組織「アミシャーブ(Amisjav)」の最高責任者であるラビ(宗教指導者)エリヤフ・アビハイルが、失われた10支族の調査に来日しました。 アビハイル師は、日本に次のような関心を持っています。「私たちが一番注目しているには日本です。お互いにまだ神話の世界にいますが、失われた部族の本流(王族か?)が日本に移動したことは間違いがありません。」「アッシリアを出た古代イスラエル人の大集団は、東方に向かい、シルクロードをさすらい、その途上、数グループは各地に定住して、その子孫がアフガニスタン、インド・カシミール、ミャンマー、中国、チベット、タイにいます。そして、残れる本体は、朝鮮半島を経由して、日本へ導かれたのではないかと考えている。」これらは、イスラエルから来た先行の日本研究者の成果(伝統文化、言語、神道との強い因果関係など)に基ずく印象と仮説であろうと考えられます。

アビハイル師は、諏訪本宮大社(出自は出雲大社の系譜、現在は6500社の分社を持つ本宮として存在)の宗教施設、祭事や習俗などを詳細に調査してユダヤの痕跡を確信したと考えられます。師は「私は10支族が日本に来たと信じている」と述べましたが、それは、宗教施設や祭事、日本の風俗・習慣・言語・民族性にユダヤの同一性や痕跡が認められることから違和感が全くなかったことによるものであったと考えられます。アビハイル師は、諏訪はまさしく聖書(旧約)の地であったと述べています。

諏訪本宮大社の調査で上げられた宗教施設、祭祀・行事とユダヤの祭祀が一致する指摘点は①神社形式(特に、「十間廊」)、②御柱祭(オンバシラサイ)、③御頭祭(オントウサイ)、④御神渡(オミワタリ)、⑤神山山の守屋山(モリヤサン)を上げています。①はユダヤの「幕屋」の規格(横18メートル、縦5.4メートル、方位(入口は東向き、本殿が西向き)が完全に一致していること、②柱は神の宿る木、山から神殿に運ぶ祭事形式であること、③祭壇と祭祀様式の一致、ヤコブが息子を神に奉げる生贄の形式(明治時代まで、二名の神官と子供が聖書と同一の神事を執り行っていた)が鹿の頭75個に代替されたものであり、聖書の故事と変遷の表現が同一の祭祀形式であること、④聖書と一致していること、⑤イスラエルの聖地、モリヤと一致すること、また、相撲はヤコブと天使が行った神聖な神事でありヘブライ語のスモウの当て字であること、行司のかけ声の「ハッケヨイ・ノコッタ」は「投げ捨てよ、投げつけよ、やったぞ」というヘブライ語であること、丸い土俵は神とつながる神聖な場所であること、神聖な土俵を塩で清めること、てっぽう柱は神アシラの象徴であること、などでした。他にも日本語とヘブライ語の一致点が日本とイスラエルの研究者から数多く指摘されてきていますが、これだけ多くの一致があると偶然とは考えられないものあります。

前駐日イスラエル大使・コーヘン氏(ユダヤ祭祀族の末裔)は、徳島県美馬市の倭大国魂神社、神明神社を調査してユダヤ教の宗教施設との類似性や習俗の一致に驚き、この施設があるのことは近くに「失われた10支族」がユダヤの神殿から持ち出したユダヤの秘宝(神器=①十戒の石版、②モーセのアロンの杖、③マナの壺)が収められた「失われたアーク(聖櫃)」(契約の箱)があるはずだと確信したと述べています。実は、代々の駐日イスラエル大使は、外交官としての任務以外に「失われた10支族」の調査を積極的に行ってきた伝統があると述べています。コーヘン氏は、「失われたアーク」は剣山にあるのではないかと述べています。剣山は大規模な鍾乳洞の洞窟を持ち、古代祭祀場の施設や古墳群をもつ神聖な山として知られている霊山です。

実は、イスラエル国内では、日本人とユダヤとの関係性について、多くの研究者がいて、特に歴代の駐日イスラエル大使がこの関係性を力説する本を出版しています。イスラエルで学ばれる外国語は日本語が最も高い人気があり、エルサレム大学の日本語学科は人気抜群で競争率が高いことで知られています。イスラエル人は日本人との関係性を信じています。

本題に戻します。空白の7年の背景は、国家権力者が入り乱れて数多くの政権奪取を繰り返した歴史事実を作り上げたことで、敗者は恨みと怨念を持ち、勝者は祟りと怨霊にことのほか恐れおののく一種の精神障害を持つに至りました。勝者は、祟りと怨霊から逃れることを切に願い、その方法を探らせましたが、あらゆる手を尽くしても怨霊退散の効果がなく、最終的には、そのものが強い霊力を持つと語り継がれてきた「神宝」を求めざるを得ない状況に至ったものと考えられます。

安定した理想の都を造るためにはこの「神宝」を王都に迎い入れ、王城守護と繁栄を、そして祟りや怨霊の退散を切に願ったものと考えられます。

神宝とは何か。どこにあるのか。誰に探させればいいのか。神宝探索にはたくさんの難題が考えられます。これらを次章につないでいきます。