(9)世界宗教の比較

世界三大宗教といわれる仏教とキリスト教、イスラム教との簡単な比較をしてみたいと思います。
宗教とは何でしょうか。人間の存在に対する不安とこれを取り除こうとする探究心と人類の知恵から信仰が生まれました。そして、人間の根本的な疑問に答えようとするさまざまな宗教が登場し、個性のある布教活動を行ってきました。

宗教には二つの側面があります。一つは「社会的な組織や制度(教団)」であり、もう一つは「心のあり方、捉え方(信仰)」です。これらは、「信仰の対象=神・仏」という形で捉えられ、崇拝の対象とされる神や仏には人々の信仰心が投影され、神や仏の捉え方は、信仰の考え方の相違点として譲り合うことのないさまざまな宗教紛争を起こしました。
特に、キリスト教にこの傾向性が強く表われたことは歴史的な事実です。

実は、中世のキリスト教徒は、今日では考えられないくらい文盲率が著しく高く、また、当時の聖書はラテン語かギリシャ語で書かれていたので、一般民衆のほとんどの人はこれを読むことができませんでした。
今日のように、客観的に、哲学的に思索できる人々は育っていませんでした。キリスト教徒の大半は、指導者(聖職者など)のことばに左右されやすく、過激な言動にもすぐに影響されやすい欠点がありました。
庶民が、自分たちの母国語で聖書が読めるようになったのは、宗教改革の嵐の中でドイツのマルティン・ルターがドイツ語訳の聖書を翻訳したことに啓蒙され、各国でも母国語の聖書が翻訳されるようになってからのことです。

キリスト教は、ユダヤ教徒(旧約聖書)であったキリストが神の啓示により新たに説いた教え(新約聖書)であり、キリストの没後の紀元一世紀の半ば頃成立した教団で「イエスを神の子として、その復活と絶対愛を信仰する」特徴があります。
イスラム教は、7世紀に登場したムハンマドが大天使ガブリエルの啓示を受けて成立した教団で「唯一神アッラに対する絶対帰依とイスラム法を遵守する」特徴があります。

キリスト教の神とイスラム教の神は同一の神です。宇宙観と死後の世界について同一のイメージをもっています。唯一絶対神の「天地創造」と「最後の審判」がこれです。
この両教の特徴的なことは、国家権力と結びつき、布教のために「宗教戦争」といわれる領土獲得の侵略戦争を何度も繰り返してきたことです。仏教はこれを保護する王は何人もでましたが仏教を布教するために侵略戦争を起こした王はいません。

ヨーロッパ諸国に比べ、イスラム圏では、イスラム教徒としてのムスリムの義務(コーランの朗読)を実践する必要から、アラビア語教育が共通語として普及し、出身地や人種の違いを問われることがなく、貿易や商業の発展がスムーズに行われていました。
イスラム教徒は、異教徒に寛大に接したことから、商業活動を通じて、各地の先進技術が導入されていました。異文化を柔軟に取り入れた中世のイスラム圏は、いわば文明の集積地となったのです。

イスラム商人は、東南アジア諸国や中国に盛んに進出し、貴金属や香辛料の交易で莫大な利益を上げました。ムスリム商人の寄港地となった各都市には自然にイスラム教がもたらされました。
インドネシアやマレーシアなどにイスラム教徒が多いのは実はムスリム商人の遺産でした。ムスリム商人の後に軍隊が進出し政治・経済宗教を制圧するということはありませんでした。
イスラム教は、実は異文化を尊重し、実力を以って干渉することを選択しませんでした。この点がキリスト教の布教とは大きく異なる事実です。

しかし、中央アジアのイスラム教徒はこれとは明らかに異なり、アジアではインドに至る道筋の仏教徒は悉く蹂躙され仏教文化や文化遺産が大量に破壊され続けました。
アジアのイスラム教徒は、罰則規定がある律法の禁止規定に忠実に従い、仏教を偶像崇拝と見做し、仏教遺蹟の破壊を宣言しています。

イスラム教徒は、キリスト教やユダヤ教に対する場合と異なり、仏教が持つ宗教観が全く肌に合わず、特に仏教施設は偶像崇拝の場と見做され、何の躊躇もなく近年まで無残な破壊活動を受けています。今日でもアフガニスタンでのタリバンの破壊活動が世界に強い衝撃を与えています。
イスラム教徒の眼から見て受け入れられない信仰対象(仏像など)はことごとく偶像と見做されます。偶像崇拝の禁止はイスラム教徒の義務と考えられ、敬虔なイスラム教徒の視点から見れば、仏教はことごとく偶像崇拝と見做されることになります。

近世になると、イスラム教徒の特質は、日常の生活や行動基準、考え方の全般に至るまで詳細な教義の縛りが厳しく行われるようになりました。ここでは自由な発想や柔軟な思考が妨げられるようになり、教条的な信徒が目だってきてイスラム教と異なる思想を強く否定する民族主義的な傾向性が表面化するようになります。

宗教の権威が社会の全般に浸透し、あらゆる社会基盤に大きな影響を与えたイスラム社会では王権や宗教権威を牽制できる市民階級が育たず、市民の手による民主化が芽生えませんでした。
キリスト教社会の西欧文化圏で近代社会の思想基盤となる「デモクラシー」が育っていくのと対照的にイスラム社会では民主化の芽生えはありませんでした。
今日でもイスラム世界の社会基盤が脆弱で不安定なまま推移して多くの紛争を抱え込む結果となったのは「グローバリゼーション」に背を向けた閉鎖社会を形成してしまった為だと考えられます。

イスラム世界にこのような顕著な変化が見られるようになったのは、18世紀後半に始まったイギリスの産業革命以後、ヨーロッパ諸国の発展に取り残されたからです。キリスト教徒に軍事、外交、経済、政治の世界で明らかな劣勢になったのです。19世紀のオスマントルコの壊滅によって、イスラム世界はヨーロッパ諸国に分断され植民地政策に組み込まれて隷属する運命をたどりました。
20世紀以後もイスラム諸国では市民階級が育たず、民主化の種も芽吹くことがありませんでした。

ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教は同じ神の啓示により発生した同根の唯一絶対神を信奉する一神教の宗教です。この三つの宗教を「アブラハムの宗教」その教徒を「啓典の民」といいます。三つの宗教が同じ預言者アブラハムから分かれた兄弟の宗教という意味です。
啓典とは預言者が神の啓示を受け伝えたとされる聖典(経典、教典ともいう)です。キリスト教とイスラム教は改宗が容易で身分や民族を問わない平等主義に立ち個人単位で戒律に随いますが、ユダヤ教は民族単位で改宗は厳格です。

ユダヤ教では、神とモーセが結んだ契約(旧約聖書)により、神がユダヤ民族に安住の地を与えることと引き換えに生活習慣や態度について厳しい戒律を与えました。ユダヤ教の特徴は、ユダヤ民族が神から選ばれたとする「選民思想」をもつ民族性にあり、天国に行くための条件は民族単位です。個人単位ではありません。
ユダヤのこの思想は、他民族や他宗の理解が得られず、長年にわたり迫害や差別の対象となっています。イスラム教とキリスト教の大きな違いは、キリストとマホメットをどのような存在と見るかです。

イスラム教はユダヤ教とキリスト教の影響を受けて成立しました。マホメット(ムハンマド)はアブラハム~モーゼ~イエスと続く預言者の中で、最高・最後の預言者と位置付けられ、神の預言を完成させた者であると考えられています。
イスラム教徒はキリストの神性を否定して神の啓示を伝える預言者とみる立場ですが、キリスト教徒はキリストは神(三位一体説)と同一視するところから両者は相入れない対立軸をもっています。

キリスト教やイスラム教に共通する信仰姿勢は、まず全ての造物主である神ありきで始まり、人は神を信じる存在であるということができます。ところが、仏教では、まず宇宙の法則(法)があって真実を実感することができる、と考える大きな違いがあります。

キリスト教とイスラム教、そしてユダヤ教は神を主体とする「他律性の高い宗教」であり、仏教は「自立性を重んじる宗教」ということができます。一般的に、他律性の高い宗教は修行方法がシンプルで規律性や評価基準が比較的に容易という長所があり、異文化を持つ他宗教の考え方や思想の違いを容認できず攻撃する欠点があります。

特に教義にこだわる原理主義者は妥協のない極端な行動をとる傾向性が強く、これと特徴のある民族主義が結合すると妥協ができない頑固者になります。このような人々と紛争を起こせば出口のない戦争に巻き込まれる危険性が著しく高くなります。キリスト教徒やユダヤ教徒とイスラム原理主義者の戦争は解決策が無くこの調停はいつも困難を極めています。

なを、プロテスタントについては、カトリックの教皇のように、教義のすべてを判定する権威が存在せず、各派の教団に個性のある新たな教義が発生して混乱が生ずるリスクをその体質の中に持っているといっても過言ではありません。皮肉にも絶対的な権威者が必要な場合もあるのです。

伝統のある、ユダヤ教やヒンズー教が世界宗教と認められないのは、民族宗教の特徴が強すぎるからです。信仰の単位は個人が主体となり入信や脱退が容易であること、民族性を否認し、国際性という共通項を持つことが世界宗教のキーワードです。

キリスト教もイスラム教も、建築、美術、音楽、文学、哲学、科学そして社会福祉や生活文化に至る広い分野において世界の手本となり、世界中に多大の貢献をしてきた事実をもっています。

世界の文化に多大な貢献をしてきたキリスト教の長い歴史を見れば、称賛に値する多くの光の面だけでなく、悲惨な影の部分を色濃く投影してきた事実を否定することができません。
しかし、これはキリスト教の教義に問題があるのではなく、その信徒の一部の者の欲の中に問題があるといわなければなりません。

ところで、宗教改革が資本主義を育てた、という説があります。フランス人カルヴァンはドイツ人ルターの『聖書回帰説』に影響を受けましたが、カルヴァン自身は『予定説』を主張しました。
予定説は「死後、神の国にいけるかどうかは神が予め決めている」という主張です。「全知全能の偉大な神が、救済する人を決めていないはずがない」ということを根拠とする説です。この説は「自分はすでに救われている」と信じることができる人々に受け入れられました。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、この予定説が欧米の資本主義の発展に寄与したと信じて、1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を発表しました。これによると、「自分に与えられた職業を天職と考えて勤勉に働き、経済の発展に貢献することで国力を発展させることができる」ということです。
この考えは、「現世で成功する人を神が救わないずが無い」「現世で成功した自分は、神にすでに救われている」のだから「自分に与えられている天職(運命)を全うすれば良い」という考えを根拠とするものです。これで納得できるキリスト教徒の精神の柔軟性を垣間見る思いがします。

キリスト教のような一神教の立場では、自らの正当性と優位性をけっして他の宗教に譲ることはありません。熱心な布教活動には長所と短所が同時に現れます。
例えば、キリスト教徒とイスラム教徒、ユダヤ教徒の間で発生する争いには出口がありません。
この三者は同じ神を土壌とする同根の宗教でありながら、自らの正当性は絶対に譲ることがありません。今日のイスラエルとパレスチナの国際紛争は宗教の対立が深く絡み、出口のない国際政治問題になっています。

社会への無償奉仕(神への奉仕)や隣人愛はキリスト教のもっとも優れた理念です。しかし、植民地政策の重要な一翼を担ってきたこともまた事実です。
愛は解かりやすく受け入れやすい概念です。仏教の慈悲と類似していますが一般人が理解できる長所があります。
「愛を送られて傷つく人はいない。しかし、受け取り手にとって、不安を感じる愛は、もはや愛ではない」という箴言がある通り、愛も自然に伝わるものではなく、相手が受け入れるまでの努力が必要です。

もっとも興味を引く事実は、植民地政策の前哨戦として熱心に布教されたキリスト教がさまざまな障害を乗り越えて、植民地となった諸国や支配地に根付き今日まで文化的に伝承されてきた事実です。
これは、キリスト教の卓越した業績の一つというべきでしょう。