(8)産業革命と植民地政策

中世では世界最高水準にあったイスラム文化や科学技術を持ったイスラム文化圏が何故にヨーロッパ文化圏に後れをとり、植民地政策の標的になってしまったのか、ヨーロッパの社会構造の変化と産業革命の近代化の歩みを見てみたい。

モンゴル帝国が興隆した13世紀の初期頃、ヨーロッパに奇妙な噂が広まりました。東方のキリスト教徒プレスター・ジョン(実は架空の人物)が大軍を率いイスラムを攻撃するという噂です。
ローマ教皇や西ヨーロッパ諸国はプレスター・ジョンを確認すること、国情視察や同盟と交易を兼ねて東方に使節を派遣しました。いわゆる国際交流の始まりです。
この使節の中のプラノ・カルピニの一団がカラコルムに達し、グキュハーンと謁見を果たしました。

宗教や異民族に比較的寛大なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れましたが、イタリア商人とイスラム商人は頻繁にアジアの各地を訪れて交易を行いました。
これらの商人の中にはカラコルムや大都(北京)に長期滞在する者が現れました。マルコ・ポーロは20年の体験と旅行記を「東方見聞録」として著しました。

イスラム諸国やインド・中国・日本の情報を詳細に記述した「東方見聞録」はヨーロッパ人の眼を世界に向けさせ好奇心をかきたて、人々の海外進出の夢を膨ませることになりました。
当時、羅針盤の伝播により外洋航海が可能となったこと、また、「香辛料」を渇望する世情を背景に東洋への関心が高まりをみせていました。
黄金より価値のある香辛料の交易は一介の民を一夜にして大富豪にする魅力溢れる実利があり、人々を地の果てまで海外進出に駆り立てる欲望の対象でした。

15世紀にモンゴル帝国が衰退すると、1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)はオスマン・トルコに滅亡させられました。
地中海の制海権を獲得したオスマン・トルコは、地中海交易を支配し高い関税をかけたので有名な大資産家のメジチ家やフッガー家の資本は甚大な影響を蒙り破産しました。
西ヨーロッパ諸国はあらたな交易ルートの開拓をしなければならない死活問題を抱えることになりました。

この頃、頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造できるようになり外洋に進出することが可能になりました。まず、ヨーロッパ諸国に先駆けて、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐してレコンキスタを達成したスペインとポルトガルで強力な国王のもとで中央集権制度が完成し海外進出が可能になりました。

15世紀初頭から宗教改革の嵐の中に巻き込まれたカトリック教会は、相次いで自立していくプロテスタント諸派に対抗する緊急の施策が必要とされていました。
そこで、従順なカトリック教国であったスペインとポルトガル両国の航海に使命感の強い宣教師を特別に選抜して同行させ海外の新たな信者獲得の計画を実行させました。こうして、まず両国が海外に獲得した領土の住民に対し布教活動を開始させることになりました。
スペインとポルトガル両国王とローマ教皇の利害は完全に一致したのです。

1760年代に始まるイギリスの産業革命は、7年戦争終結のパリ条約においてライバルのフランスからアメリカ、インドの植民地に対する優位性を獲得したことによりもたらされたものです。この産業革命とは、いわゆる「工業化」を意味する概念ですが「市民革命」とともに近代化とそれ以前を明確に区分する分水嶺となる出来事です。

産業革命の要因としては、一般的に下記のような要素が挙げられています。
・工場生産の原料供給地で且つ商品供給の市場でもあった植民地の存在。
・清教徒革命や名誉革命によっててもたらされた社会経済的な環境整備。
・蓄積された資本や資金調達が容易な経済環境。
・農業革命によってもたらされた人口増加。
・工業化による労働力の都市部への集積化。

植民地の拡大競争に於いて、ライバル関係にあったイギリスが7年戦争に於いてフランスに決定的な勝利を収めたことで、イギリスはこの時点でヨーロッパ諸国に先駆けて巨大な帝国主義国家を建設し、有利な位置を占めて近代世界の主導権を握ることになりました。
驚くべきことは、イギリスの東インド会社が事実上インドを支配し、アジア諸国に多大な影響を与えたことです。東インド会社は自前の巨大な軍隊を所持しましたが、充実した陸海軍の実態は本国の正規軍と何らの変わりない高度に組織化された軍隊でした。インドを本拠地とする東インド会社が東南アジア諸国に与えた影響は甚大です。

イギリスの植民地政策の成功を目の当たりにしたヨーロッパの列強諸国は、東南アジアの香料貿易を独占すべく植民地の獲得を目指して競って進出することになりました。19世紀は東南アジア諸国の植民地化という苦難の時代の始まりでした。

工業化の進展により、資本主義が発展し、金融資本と産業資本の融合した独占資本が生まれました。独占資本は政治に深く関与し、活動範囲を広げて市場の拡大を政府とともに推進する実力を付けました。
当初のヨーロッパ諸国は国内市場が貧弱で、海外貿易に依存しなければならない事情を抱え、植民地は原料供給地としてだけでなく、市場と余剰資本の投下先として重要視されました。

18世紀初頭まで東西交易の中心にあったイスラム社会は学者や科学者が集まり文明の集積地でした。天体観測や羅針盤技術を駆使する航海術はイスラム社会で実用化されたものです。数学・化学や科学の分野でイスラム社会はヨーロッパを大きくリードしていました。

とりわけ、イスラムからヨーロッパに伝わった大砲や鉄砲は、ヨーロッパで改良されて大量に実践配備され、戦争の戦術に劇的な変化をもたらしました。ヨーロッパ諸国がこれより異文化を持つアジア民族の侵入を受けることが無くなったことは画期的な出来事でした。大規模な戦術の劇的な変化により、ヨーロッパは侵略者の道(植民地政策の実行)を歩むことになります。

しかし、イスラム社会はイスラム教の教義に従順で、宗教が完璧すぎたために平和主義にとどまり、覇権を求めて海外進出する精神が育たず、社会システムの近代化に向かなかった、と考えられています。
唯一絶対の神アッラ(キリスト教、ユダヤ教の神と同一の神)の意思に従うイスラム教徒は、信仰だけでなく、生活のすべてを神の意思に従い、コーランとシャーリア(イスラム法)の教えを実践しました。

信仰行為と道徳規範の全体をムスリムとして生きるイスラム教徒は、キリスト教徒やユダヤ教徒に比較すれば更に徹底した信仰者の立場が要求されていました。
一般的にイスラム教徒は他の異教徒にも寛大に接し、キリスト教徒のように植民地政策を目指した他国を侵略することがありませんでした。

イスラム社会が近代化の時代の流れに遅れたことにより、キリスト教社会とのバランスが崩れ、やがて、イスラム社会はヨーロッパ列強との実力の差が歴然と現われるにしたがって侵略行為を排除する力を喪失してゆき、今日のイスラム社会の威信の低下を招く要因になりました。