(6)キリスト教の禁止と宗教統制(寺請制度と寺檀制度)

1613年に家康は「切支丹禁教令(慶長の禁教令)を出して、①宣教師の追放、②切支丹寺院の破壊、③布教の禁止を行う弾圧を始めました。

実は、高度な宗教である大乗仏教が流布された日本や、厳しい上座部仏教が流布された東南アジア諸国ではキリスト教の布教は順調ではありませんでした。人々や国土の全体に仏教思想の精神風土が形成されており、異教の神を受け入れる社会風土や精神的な下地がなかったのです。

今日でも日本人をキリスト教徒に改宗させることは至難の業です。日本は世界的にキリスト教の布教が難しい国で僅かにわずか0.5パーセント未満の信徒しかいません。宣教師が布教の意欲を失うことから「宣教師の墓場」と言われています。ローマ法王も認めざるを得ないほどに布教に困難を極める不思議な国です。

宣教師の仕事は、神の言葉を布教する前に、人々の目を振り向かせる努力が必要でした。大名領主層には貿易の実利を説き、一般大衆には医療や介護の分野で徹底した奉仕活動をして警戒心を解いていきました。見たことがない社会奉仕活動を見せて感動させ、仏教や神道に不満を持つ人々を拾い集めましたが、仏教寺院や神社には不満を持つ人々を納得させる努力が不足していたのです。

1587年の豊臣秀吉の伴天連追放令は布教の規制でしたが、徳川政権はキリスト教の布教だけでなく信仰そのものを禁止するという質的な変化に特徴があります。幕府の過酷な禁止政策により、ポルトガル人のイエズス会宣教師クリストファン・フェレイラやイタリア人のイエズス会宣教師ジュゼッペ・キアラの棄教(転ぶ)がありました。

1616年には秀忠が「伴天連宗門禁教令(元和禁教令)」を制定して①キリスト教の厳禁、②外国商船の入港を長崎・平戸に限定、③棄教に応じない信者に対する弾圧・迫害を行い、日本人の海外渡航と出入国を禁止しました。

1637年には、島原の乱を契機として、徳川家康のキリシタン政策が変更されました。

1639年にはポルトガル船来航禁止令が発令され鎖国化政策がとられ始めました。

キリスト教の禁止の理由は、「日本が神国と考えられてきたこと」「主従の誓約や紛争関係の解決のための誓約」が神仏への起請文を取り交わすという形式で担保されてきた長い歴史があったからだと考えられています。

人と人が約束を交わすとき、その実行内容を明らかにして神仏に誓うことは当時の日本人にはとても重い約束事でした。自分の信仰する神祇から霊紙、例えば熊野三社で配布した烏の絵を図案化した熊野牛王宝印の誓紙は有名ですが、その誓紙に神仏名を列挙して約束事を書き入れる証文は、決して破ってはならない神聖な約束事と考えられていました。

神祇の誓紙に書いた内容は、神祇の頂点に立つ皇祖神・天照大神やこの祭祀者である天皇の存在に係わる重大な問題を含むものでした。
ところが、キリスト教では、誓約に神仏の名をかけることを認めない原則論がありました。異教の神から神国を護るために切支丹を追放しなければならないと考える必然性があったのです。

当初、家康はキリスト教の弾圧政策はポルトガルを刺激し交易の実利を失うデメリットがあると考え躊躇していました。ところが、カトリックと対立する新教国のオランダが、キリスト教の布教を前提にしない貿易も可能とする考えを示したことから、キリスト教の禁止の断行を決意しました。
この政策を支えたのが天台宗の天海と臨済宗の金地院崇伝です。

まず、1638年に幕府直轄領で「宗門改め」を実施して、キリシタンの洗い出しと締め出しを行い、1671年には全国規模で民衆が信仰する宗門宗派を漏れなく調べさせ、これを「宗門人別改帳」として作成させました。
これを定期的に繰り返すことでキリシタンの摘発を実施したのです。この人別改帳から漏れた者は無宿人として扱われ「非人」として不利益を蒙りました。
キリシタンでないことの証明は檀家寺院が請け負いました。
これを「寺請証文」といい、この制度を「寺請制度」といいます。
この「宗門人別改帳」は家族ごとに記載され、出身地、生年月日、続柄、宗旨、身分、収穫高が記載された詳細なもので、戸籍謄本+税収台帳+宗教台帳+身分台帳の役割を持つものでした。
これは同時に、全国民を信仰の有無に関係なく近くの仏教寺院の檀家に所属させるものでした。
これが「寺請制度(1871年廃止)」であり、やがて「檀家制度」に変貌を遂げていくのです。

1631年の幕法では新寺の建立が禁止され、檀家の固定化が推進されました。1687年の幕法は檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要、寺院への付け届けが義務化されています。

檀家制度とは、一般民衆が檀家として寺院の経済的な支援者となることであり、特定の寺院に所属して葬祭供養の一切を寺院に任せ布施を払うということです。

寺院は檀家に対し、常時の参詣と葬儀や年忌・命日の法要など を義務化することを説き、寺院の改築費用、本山の上納金などの経済的負担を求めました。
今日の彼岸の墓参りや盆の法事、盆暮れの付け届けなども檀家制度によって義務化され慣例化されてきたものです。

ここで仏教寺院は有力な氏族の壇越の信仰の対象であった寺院から衣替えして、広く民衆社会に浸透し家単位の檀家寺院になりました。この時、寺院は貴族、有力氏族、領主層が庇護してきた寺院から民衆が支える寺院に変貌を遂げたのです。

寺院は社会的な基盤を強化できて存在価値を高めることができました。経済的な側面から見れば、有力氏族の負担が激減し、これを民衆の負担に振り替えたことにより寺の経済も安定し一石二鳥の施策となったのです。

このとき、有力な大寺院は檀家化されませんでした。京都・奈良などの本山格を持つ大寺院です。これらの大寺院は全国の末寺を傘下に収めている(本末制度)ので一般民衆を檀家とする必要はありませんでした。また、政策としても本山は除外しなければ何かと差し障りがあったと考えられます。

寺院の世俗化が進み、仏教信仰の形骸化も進みました。
寺院は今日の役場の業務を分担したので、民衆は通行手形の交付、婚姻、各種の縁組や出産などに支障が無いように寺院の証明が必要でした。
寺院の権限は強く檀家は寺院の支配を受けていたと見られています。

檀家を持つ寺院は、祖先崇拝の側面を強調して寺院の過去帳と檀家の位牌を強く結びつけました。
過去帳は寺院の宝物となりました。
また、檀家を持たない寺院は現世利益を説いて信徒と布施を集めました。
他人の檀家を引き抜いたり改宗させることは禁じられました。
禁止行為を犯せば捕縛され処断(遠島など)されます。

現在の檀家制度は檀家の責務だけが形骸化した状況で引き続き存続していると見られていますが、葬儀や年忌法要などの通過儀礼の接点が残っているものの往年の関係性は希薄化しています。
檀信徒が寺院に求めるものは仏教の教義の側面のニーズは低く、葬祭の関係性の需要が不即不離の状態で残っていると見られています。これを「葬式仏教」といいます。

しかし近年では、人口の都市集中化が進み、農村部の人口移動などによって寺院の経営が成り立たなくなっています。人々の寺院離れが進み、葬儀業者が一括して葬祭儀礼を請け負って、その一切を手配する利便性と機能的な経済性が評価されています。
檀家制度の先行きは見通しが立たない状態になりつつあります。

明治5年に明治政府が全国一律の基準で実施して編製した日本初の全国統一様式の戸籍(壬申戸籍)によれば、当時の全国人口は3311万人です。今日の四分の一程度でした。
壬申戸籍は詳細な記述があり、「氏神、菩提寺、旧身分、身体的特徴、犯罪歴、病歴や犯罪歴、まで記載した詳細なものでした。この戸籍は旧身分の項目が問題視され閲覧禁止処分となりました。各地方の法務局に厳重保管され閲覧は不可能です。法務省の公式発表では廃棄したことになっています。
この戸籍は、租税や徴兵、学制に大きく貢献しました。

壬申戸籍の人口内訳は、次の通りです。

身分           人口     構成比
・皇族              29+3☆      ☆(今上天皇、皇后、皇太后)
・華族           2,666 (0.0081%)
・士族       1,282.167 (3.9%)
・卒           659,074
・地士           3.316
・僧           211,846 (0.64%)
・旧神官        102,477 (0.31%)
・尼             9,621
・平民      30,837,271 (93%)、
・樺太人員        2,358
・計        33.108,825

この数字が語るものは、僅か3・9%の支配階級(非生産者)が96・1%の人々を支配していたことです。(人口の実体は幕末と同様と考えても差し支えないと考えます。)
96・1%は苗字も家紋のない庶民です。明治7年の太政官布告によって、創氏改姓の対象者となる人々です。

今日、どの墓地でも、一般家庭の墓碑が御影石で建立され、ほとんどの墓碑に苗字と家紋が刻印されている様子を見ますが、実は、庶民には苗字も家紋もありませんでした。
苗字や家紋は封建時代の日本では庶民には許されない貴族・武士層の挌式でした。他にも、門構え、家・屋敷の構造、玄関式台、瓦屋根、床の間、畳、唐紙障子、履物などは身分挌式を表すシンボルです。

韓国(北も同様)では族譜(家系図)の偽造が頻繁に行われました。韓国は族譜を持つ両班が身分制度の支配者として庶民を一方的に虐待できるくにでした。朝鮮は収奪の対象にされた庶民が無気力になって労働意欲を失いましたが、その反動で族譜を偽造して身分を詐称することが頻繁に行われました。人権意識が軽く、両班の不正が横行した韓国社会では奴婢(奴隷)や白丁(ペクチョン=下層民)は生きる望みを失った人々でした。

朝鮮は、千年以上も中国の属国として虐げられた国でした。日清戦争で勝利した日本が清国から独立させて近代国家の基盤を築いた国です。朝鮮人には近代国家を作る能力も資力もありませんでした。現代の韓国の歴史教科書ではこの事実が隠されています。戦後に韓国が作った歴史教科書は韓国人が望んだ歴史ファンタジーで覆い尽くされています。韓国人は自国の歴史を語る基礎能力を持っていません。韓国政府が隠してきたからです。日本人は、韓国人とは(決定的に)同一の歴史観を語ることが不可能と考えられます。

儒教思想を信奉した李氏朝鮮は、自ら働かず庶民の生産物を身分によって強奪する両班が支配する国でした。日本の江戸時代の身分制度に比較しても庶民の権利が著しく毀損された封建社会でした。朝鮮では、意欲のある被差別民は身分詐称を行わなければ生きていけない社会環境にあったのです。族譜は売官と族譜(家系図)の売買、および偽造系図の売買という方法で行われましたが、日本統治下の朝鮮では、一割程度であった両班が5割に増え、5割もあった被差別民が1割程度に激減した都市が出現していました。族譜が偽造された証拠です。

朝鮮半島では、族譜を持つことが両班の証しですが、族譜が作成されたのは15世紀~16世紀頃です。族譜は先祖を飾る(名のある氏族に繋げる)捏造だらけであったと考えられています。朝鮮の歴代王朝は、北方系の諸民族が武力を持って大量に侵入、南下して朝鮮半島を支配して建国した国ですから、まともな族譜が作れるはずがないと考えられています。ほとんどの韓国人の族譜は偽物です。特に朝鮮半島から逃げてきた在日韓国人、朝鮮人が両班の族譜を持つことなどありえず、本物の両班は儒教思想に従順なプライドを持つところから、朝鮮半島に留まらせたと考えられます。

日本の先祖探しは、家紋や過去帳からでは探すことはできません。寺院の過去帳でも、手掛かりとなる苗字の記載が無いので探すことはできません。運よく探すことができる家系でもせいぜい寺請制度、寺檀制度の以降のことです。
武士の家系でも古い家系を除けば、戦国末期までがせいぜいです。もっと遡れる可能性のある者は貴族や守護大名の家系しかない、と言われています。

武士の構成比は4%未満です。明治維新は、官軍の主流であった薩・長・土・肥の連合軍せいぜい800,000人(人口比0.24%)の勢力が起こした軍事クーデターでした。
日本の夜明けは極少数の人々によって達成されたことになります。いつの時代でも、国家の体制は極少数の「目覚めた」人々の手によって握られているのでしょうか。