(44)-2大乗非仏説について②(大乗の特徴は菩薩行)

視点をかえれば、仏(ブッダ)は歴史上に実在した釈迦だけを指す固有名詞ではないと考えることができます。大乗仏教では多数の仏を迎え、それらの諸仏がそれぞれに教えを説いて大乗経典が成立しています。この視点から「大乗は仏説にほかならず」といえる、との反論がなされています。

仏教経典は釈迦滅後200年以上たってから文章化され始めたものです。釈迦滅後から、釈迦の弟子たちによって語り継がれた説話がお経となったのです。
この中身は「経・律・論」に分けられますが、まとめて言えば、「釈迦の思想をまとめたもの」です。
別の言い方をすれば、釈迦の思想の本筋を継承するものは「お経」と見做すことができます。
これとは異なり、仏教経典を依経としても、釈迦の思想から外れた新たな思想を創作したものは仏教とはいえないことは当然です。

インドから伝承されて中国で翻訳された経典が日本に伝わりました。経典は訳者の思想のブレを反映する内容になることは避けられません。どの教団も教典選びにはこのような価値判断が働いています。

インドの原典を翻訳した教典とは別に、中国その他で新たに作られた教典を「偽経」といいます。しかし、信仰心に基ずいて釈迦の精神を受け継いだ者が作ったものであれば、それも仏教教典と言えるのではないか、という考えがあります。

大乗仏教では「法(真理)を体得したブッダをどのように見るか」という視点から「仏身論」が考えられました。二身説(法身と色身)、三身説(法身、報身、応身)、四身説(自性身、自受用身、他受用身、変化身)などです。このうち、三身説で話を進めます。
三身には、①法身、②報身、③応身とする三身説と、「法身」「応身」「化身」の三身説をとる空海密教(真言密教)の説があります。詳細は、「(33)顕教と密教は何が違うか」を参照して下さい。

前説では、 実在する釈迦が悟りを得てブッダ「釈迦如来」となったことをいいます。
また、報身とは、菩薩が修行を積み仏となることをいいます。
<例>法蔵比丘が48の衆生救済の願を成就して「阿弥陀如来」となる。
<例>菩薩であった時、12の衆生救済の願を成就して「薬師如来」となる。
<例>釈迦の次にブッダとなる記別を受け兜卒天で修業中の「弥勒菩薩」
56億7000万年後に「弥勒如来」として下生し衆生救済をする仏。
③法身:宇宙の真理、悟りそのものを人格化した仏⇒大日如来

これらの仏は過去仏、現在仏、未来仏として三世に存在すると考えられました。
釈迦は、過去世に於いて1002回の輪廻を繰り返し1003回目に悟りを得てブッダになったと釈迦の前世物語「ジャータカ物語」はいいます。この説話集は南伝仏教では釈迦の「本生譚」と扱われるパーリ語で書かれたれっきとしたお経です。
前世で修行中の釈迦(本生菩薩)を悟りに導いた仏は「燃灯仏」です。
釈迦と同じく、阿弥陀如来はインドの王族の太子でしたが出家し、「世自在仏」の教化によって法蔵比丘となり、修業を成就して阿弥陀如来となりました。
どのような仏も悟りを開く契機になった仏に導かれていると考えるのが仏教の特徴です。仏も突然に自力によって悟りが開けるのではなく、報身仏や法身仏の下で修業することによって悟りを開き仏になったと考えられたのです。

多数の「ジャータカ物語」が著されると、『マハーヴァスツ』という代表的な仏伝文学の書物が著され、これらが整理統合されて、修行時代の釈迦の姿を理想的な修行者の在り方として普遍化して菩薩の理想像が整理されるようになりました。
釈迦の修行を理想とし、自らも無上正等菩提(悟り)を発心して、釈迦の誓願を自らの誓願とする修行者が出現し、共有された菩薩の願(仏への行願)が一般化されるようになりました。

大乗の菩薩は、自らが解脱して完成するばかりでなく、他を解脱させる利他行(衆生済度)を願とする点で、小乗教とは異なります。

大乗の菩薩がどの様な「菩薩行」を目指すのか、によって多数の大乗経典が編纂されました。実は、釈迦は成仏に至る道筋と成仏の最終形の回答を用意していませんでした。
大乗の菩薩は釈迦の精神を受け継ぎながらも釈迦の立場に立って様々な道筋を忖度しながら自ら「菩薩行の回答を試みました。多数の大乗経典はこうして様々に編纂されたましたが、その中身は受け取る人によって様々に解釈されてきました。

こうして、大乗仏教では三世十方の諸仏諸菩薩の多数の尊が登場し、時間と空間を超えた仏の世界が花開き現出することになりました.
大乗経典には優れた数々の経典がありますが、この中でも『華厳経』と『法華経』は大乗仏教を学ぶものには必須の基本経典になると考えます。この中に大乗哲学の重要部分が含まれているからです。

やがて、統一的な仏陀観が密教の出現により成立します。
密教では、大乗仏教の諸仏・諸菩薩をそのまま受け継ぎ、全ての諸仏・諸菩薩を統一する絶対的な仏を大日如来と定め「普門総徳の仏」とし、その他の仏・菩薩・明王・天部などを「一門別徳の仏」としました。
端的にいえば諸仏・諸菩薩・明王・天部は大日如来の分身として位置づけられたのです。

大乗非仏説の中心は仏を生身とみるか、法身とみるかの問題です。
しからば、小乗教のように生身の釈迦の説のみに限定する必要はありません。
仏教とは歴史上に存在する生身の釈迦の説法のみをいうのではなく、釈迦を悟りに導いた法身の説法もまた仏教に相違なしと考えることができるのです。
悟りの本体である真理や法則は過去・現在・未来の三世に普遍的な存在と考えるべきです。

仏教の教えは、伝統的には「経・律・論」の三つの分野の内容を吟味することによって判断することになります。その上で、客観的な基準として「①教相論(教相判釈)」「②教理論(経典論)」「③仏身論(仏陀論)」「④成仏論(修行論)」の四つのカテゴリーにわたって比較検討することが妥当であると考えます。
また、北伝の大乗仏教と南伝の小乗仏教(上座部仏教)に共通する初期仏教(原始仏教=釈迦仏教)の基本概念は仏教のベースとして学習しなければならないことは当然です。これを外したら仏教とはいえないからです。

仏教の修行は「戒・定・慧」の三学を学ぶことです。日本ではまず比叡山の最澄が戒と律を混同し「律は劣った小乗のものだから大乗ではこれを捨てるべきだ」という主張を展開しました。これに「仏陀の教えは正しく実行できず、実行しても悟りは得られず、人に救いの道はない」という当時の末法思想が後押しすることになります。

鎌倉新仏教はこれを積極的に肯定し、「戒律は前時代的で非合理的、且つ、非現実的なものであるから大乗相応の地・日本には相応しくない。現実社会の要請や、常識、慣習にそぐうものに改めるべきだ」という日本独特の主張が多数派を占めるようになりました。
こうして、日本では戒律に関心が低い宗派や教団が増えてくるという問題が発生することになりました。しかし、戒のない仏道修行は無く、律のない教団などあり得ません。大乗仏教でも例えば「十善戒」は僧侶にも在家にも共通する戒です。

「戒」は「良い習慣」を意味するサンスクリットあるいはパーリ語「sila」の漢訳語です。戒は「防非止悪」を目的とするもので、個人が意志を持って自発的に守らなければならない行為規範です。戒は個人の日常生活のうえでの行動の指標・原則となるものです。「戒」の否定は由々しき問題を含むものがあります。
しかし、戒を守る、守らないは本人自身の問題です。その結果も本人自身に帰属する問題ですが、釈迦の時代にはどのように考えられていたのでしょうか。

「戒」の言語といわれるパーリ語「sila」が、釈迦の在世でどのように使われていたのかを調べた人がいます。当時の文献に出てくるシーラの用例をすべて抜き出して調べた結果、これこそがシーラの原語に違いないという文例を探し当てました。それは「あの娘はとてもシーラがよい。」という文例でした。この文例はシーラを「気立て」という意味で使っていたのです。これを考えると「戒」とは、「気立ての良い人を育むための方策」でした。気立ての良い人になることが仏教の大きな目的の一つであったと考えられるのです。(「お坊さんのための仏教入門」・正木晃・著、春秋社、2013年、p14)

テラワーダ仏教(上座部仏教=小乗教)が戒をどんどん増やしていったのは、普通の人が絶対に守れないくらいに厳しくすることで(バラモン教の)カースト制度に組み込まれないようにするためであった、といいます。畑を耕したり、野菜を作るなどの生産活動にかかわれば、その活動にかかわる職業カースト(バァルナ・ジャーティ制)に組み込まれてしまうことを防止するためでした。実は、僧が生産活動を禁止された理由は、バラモンのカースト制度に取り込まれないようにするためでした。インドの社会構造のどうにもならない身分制度から身を避けるための自己防衛だったのです。

これを考えれば、「なにかある場合に、ブッダの原点に返れ!」と言ってきたことが、実はそうとも言えないことを示唆していると考えられます。現代の日本では日常生活の場で、釈迦の原点に返れということは絶対に不可能ともいえるものがあると考えられます。時代背景の違いは、「戒」の自発的な考え方をも変える合理性が求められていると考えられるのです。

「律」は僧の集団・組織の秩序を維持するための規範であり、僧侶の行為にのみ適用されるものです。僧の犯した罪の軽重によって科せられる罰則規定があることがその特徴です。
一般的に、どのような宗教であれ集団には戒律がなければ秩序が維持できないことは当然と考えられます。

日本仏教界には他の仏教国にない特殊な環境があります。いわゆる、「檀家制度」「僧侶の世襲」「僧侶の妻帯」です。このような日本独自の制度を持ちながら、世界でも類を見ない形で発展を遂げて来た日本の仏教界は、外国の仏教界から見ると理解を得るには難しい事情があることも事実です。

また、寺院の中に住職の家族(寺族といいます)が同居しているのも日本だけです。家族が寺院に同居すれば家族の個人経費が発生します。寺院と直接関係ない家族の物品購入は税法上の区別ができているかどうかの議論もあります。これらに誤解が生じないように説明を続ける必要があると考えます。