(43)鎌倉新仏教をどう見るか

鎌倉新仏教は、修行の単純化と本尊の功徳を強調することにより多数の民衆の心を掴みましたが、同時に大乗仏教を大きく変質させました。

鎌倉新仏教は、日本仏教史の大きな転換期にあたり、まさしく「大乗非仏説」が乱立することになりました。しかし、この現象を進化と捉える人々がいること本当に驚きを隠せません。歴史教科書の記述は、ほとんどこれに倣うものが多いところから、その基礎知識があやふやで、確信がないところから既存の教科書の記述をそのまま援用して前例に倣うという無難な作成をしてきたのではないかと考えらえます。中・高生の教科書は批判的な文章を掲載できない性質があるところから、教科書の執筆者は仏教知識を深め、記述の仕方には、より一層の慎重な対応が求められていると考えられます。

鎌倉新仏教の始祖たちは、多くの衆生に生きる力を与え、多くの人々の精神を開放し、一時代を反映する布教活動をしました。宗教には、世相や時流が敏感に反映される局面があります。しかし、これは表層的な見方であり、宗教の本質ではありません。仏教の本質は時代や世相の影響を受けることがない、人間の本質にかかわる「真理の探究」にあります。
民衆の中に根を張れない宗教は評価されませんが、民衆の宗教観をミスリードする宗教も問題視されなければなりません。

浄土宗、浄土真宗と日蓮宗の布教の仕方は、大衆に解かり易くしかもシンプルでした。
この両宗の布教活動には多くの共通性があります。この両宗が難解な仏教を民衆レベルに理解させた手法は画期的な出来事でした。仏法を理解するための難解な基礎知識がいらないのです。仏教の大衆化という大きな質的変化の幕開けによって、いくつもの道筋が拓かれるようになったのです。
称名念仏や題目を唱えることだけで誰でも救われるという文句は、民衆に直接に語りかけることができる大きな価値転換の比類ない効果がありました。燎原の火のごとく急激にひろがる勢いがありました。

「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも阿弥陀如来に救われる。「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば誰でも救われる。しかも法華経は釈迦の真実の最高の教えだ、と簡単に解かり易く、直接に、手短に民衆に語りかけ、大きな驚きと感動を与えられるのです。
布教の在り方を根本から変える出来事でした。

特に、日蓮宗系と浄土真宗の信者の抱え込みや教義の刷り込みには強い独善性と違和感を感じます。
信者が他宗の寺社仏閣に参詣することを極端に嫌悪し隔離しようとする意思が強く感じられます。
他宗との比較や検討を考えることさえ奪われ、囲い込まれる信者は哀れです。
しかし、これは純粋な信心の在り方という特異な教義を刷り込まれることによって沈黙させられています。

仏教の本質は、釈迦の悟りの精神にあります。しかし、大乗仏教や密教のアジア各地への伝道や移植は釈迦在世の純粋な形態が保持されたものではありませんでした。
仏教は、これが伝播された地域の気候・風土や民族性、風俗・習慣、によって生まれた固有の宗教観や民族思想との混交などの様々な変容の歴史を持っています。
この意味で、仏教は各地の民族宗教と接触し、融合や同化をしつつ民衆の中に定着して勢力の拡大を図ってきました。

そうであれば、仏教に本質的なもの、本来的な在るべきものを厳格に規定して、それ以外のものは純粋な仏教ではない、とする宗教観を持つのはどうか、という反対意見が出てくるのは致し方ないことです。
しかし、これを仏教の堕落とみるか、あるいは発展と捉えるかは個人の価値観の問題だとして放置することは許されません。

もっとも大事なことは、他の宗教や思想と接触しながらも、仏教の基本的な考え方を維持する過程の中で生きた仏教の歴史が作られることを再認識することが肝要だと考えられます。
仏教の本質と合わない思想や教義を持つ宗教は仏教とはいえないことは当然です。

過熱する布教では勢いのままに誇大な言葉や過大な表言が語られるものです。
根幹に狂いが生じても繁った枝葉は自ら過ちに気付くことはありません。
しかし、仏教の創始者である釈迦の思想や教義を逸脱する思想を持つ宗教は仏教ではない、との評価を受けることは致し方ないことです。

これは周知の事実ですが、どの宗派にも自宗が他の宗派より優れているとする、いわば自画自賛の教理論を持っています。
残念ながら、客観的に、権威的に、あるいは教理的に一つの教判論に従わせる強制力はありません。だから、新興宗教がいくらでも作れるのです。
勿論、優劣を論ずる基準が作れないわけではありませんが、作る努力をする力が結集できないのです。自宗の否定になるかもしれない基準作りに参加できるはずもありません。

自宗派は仏教であると思っている教団でも仏教の伝統的な解釈によれば、とても仏教とはいえないものまで混在しているのが実態です。

仏教には教義を判定する権威が存在しません。キリスト教やイスラム教、ユダヤ教との大きな違いです。

宗教に求められる道理とは何でしょうか。
宗教を説く側(教団)と、説かれる側(信者)には根本的な違いがあります。
この違いの壁が低ければ低いほど信者の評価が高くなります。
信者を上からの目線で見る横柄な僧よりも、信者の目線に合わせた心使いができる僧の方が評価が高くなることは道理です。
人々は、宗教の教義や理念を理解してから受け入れているのでしょうか。
本来の「あるべき姿」をいえば、教義や理念に共感してから受け入れる、という形が理想的ですが、実際にはこのような人々は皆無に近いのではないかと考えられます。

信者の入信の動機は、思想や理念の共感などという高尚なものではなく、もっと現実的な「人的関係」や「現世利益」などにあるのではないかと考えられます。
現世利益は結果次第です。たいがいの結果は現世利益にしてしまう解釈が横行することになります。

現代でも、実際には、親兄弟の勧めや友人知人の勧誘によって背中を押されたり、生活環境の中の人と人のつながりによって入信する場合が圧倒的に多い、といわれています。

宗教に権力の意思が干渉し、自由な布教活動が許されない時代には内輪で語り合うことしかできなかった教団が、戦後に信教の自由を保障されると遼原の火のごとく興起し、多くの新興宗教が生まれました。

この特徴的な新興宗教は僧侶の布教活動によるものではなく、世俗の信者が教団をつくり、信者の獲得に成功したことです。
巨大な新興宗教が誕生しましたが、これらの大多数は、浄土系と日蓮系そしてキリスト教系の団体です。
その理由は、布教活動が比較的に簡単で容易だからと考えられています。

宗教の基礎知識の乏しい信徒が宗教を自由に語れば、誤解が生じます。
しかも誤解に気づかず、様々な解釈が横行するようになることは避けられません。
広範囲に伝播された教義の曲解は簡単に正すことができません。ここに新たな問題が発生することになりました。

かつて、古典的な入信の動機として、病気、貧困、罪の意識(地獄行き)などが語られ、もっと積極的な者は福運、運気を開く、宿命の打開などを期待しました。
このとき、歴史と実績のある教団は、教祖や継承者の人格的な魅力や行為、奇跡譚などを語り、宗派の教義や理念を解釈して初心者の不安を取り除き慰留してきました。
宗教の正しい理解があれば、受け入れの時間的な経過とともに信心が安定して行きます。
自律的な人は、やがて教義や理念がエンジンとなって推進力を発揮するようになります。
しかし、これは個人の性格や能力、理解力の影響を受けながらのことであり、一般的には長時間を必要とすると考えられます。

人の出会いは「縁起」によります。縁は実に様々で良縁もあれば悪縁もあります。
どの様な縁に出会うかは本人の運次第といえます。
どの宗教に出会うかは本人がどのような縁を持っているかで決まります。
縁は、人の縁、天の縁、地の縁など、人によって色々な云い方がされます。
仏教には、たまたまも、偶然もありません。
宗教に出会うのも、いい師匠に出会うのも縁起によります。縁起は不思議な現象です。
オカルト宗教に出会うのも、新興宗教に出会うのも、キリスト教やイスラム教に出会うのも、顕密仏教に出会うのもその人の持っている縁によると考えられます。
しかし、縁起は条件を変えることによって、縁を変換することも可能と考えられます。