(41)-4浄土宗系④(布教と発展)

親鸞の法流は浄土真宗(本願寺教団・一向宗)ですが、教団運営と人心掌握に抜群の才能を発揮した第8世・蓮如(1415-1499)がでるまでは、本願寺は人跡絶えて参詣の人もない窮乏のどん底状態のあり様でした。
蓮如は、第七世・存如の庶子でしたが、兄弟や血縁者を政治工作によって粉砕し、壮絶な跡目争いに打ち勝ってその地位を掴みました。

蓮如は27人の子供(13男14女)を本願寺教団の拡張の布石として利用しました。5男の実如に第9世を継がせ、12男を重要地点に配置し、14女を有力寺院や新たに帰属した重要寺院に嫁がせるなど、本願寺中心の絶対的な専制体制の布石の要として利用しました。

蓮如の布教拡大は、御文(御文章)と呼ばれる独自の文書伝道でした。これは消息文(手紙)の形式による念仏指導で、読む者に不惜身命の覚悟をさせる絶大な効果がありました。
その布教の主な対象は農村の農民層でした。農村部に一向宗が浸透した結果、その後に誕生した日蓮宗は農村地域への布教が困難となり、町衆といわれた商工業者をターゲットとして対照的な棲み分けをせざるをえなかったと考えられています。
一向宗徒と日蓮宗徒は同一地域に混在することがほとんどない社会環境が自然に形成されたのです。今日でも、日蓮宗系は農村部への布教活動がほとんど浸透していません。

この頃、真宗門徒の仏光寺派は、名帳絵系図による布教活動で勢力をのばしていましたが、名帳に名前を記された者は往生が決定されるとする異端性がありました。また他派でも同様の異端説が蔓延して混乱がありました。蓮如はこれを徹底的に攻撃して排除するために、仏壇の本尊や名号に裏書きを自著して真偽を明らかにする布教活動を行いました。

各地に本願寺勢力が扶植され、門徒が組織化され他派に競り勝つ実力を持つ勢力になると、比叡山衆徒は本願寺を仏教の敵と見做し、1465年に京都大谷本願寺を襲撃しました。蓮如は近江に逃れ、各地に布教活動の場を移していきます。
1471年、越前の吉崎に拠点となる「御房」を建て、北陸地方を地盤としていた真宗高田派(天台系の諸行を取り入れていた)を一掃して、本願寺勢力を北陸地方に定着させました。
蓮如の布教で本願寺門徒は各地で講を組織しましたが、やがて自治単位に膨張し、一向一揆の組織的な基盤を形成していきました。

一向一揆について述べたい。来世の往生が約束されている一向宗徒は、(親鸞の)仏法を守るために、(また、地獄行きを免れるために)死をも恐れず殉教の為に徹底的に戦う決意が次第に形成されていきました。
一向宗(浄土真宗)の法主や有力寺院の代表者の地位は世襲制で妻帯しました。信者は法主や代表者を尊敬して仰ぎ、信者は多額の金銭を寄進するために群れをなしたといわれています。
今日の定義でいえばは、当時の一向宗はオカルト宗教ということになります。

この時代は兵農の分離政策がなかったので農民は何時でも武装できる状態にありました。
しかも、農民は各地の戦国大名に強制的にi駆り出されて従軍させられていたので戦闘行為の経験者が多数存在し、武装蜂起すればいつでも強力な即戦力となる強さがありました。
一向一揆の勢力が戦国大名に匹敵する軍事力を所持して強力な戦闘力が発揮できた秘密はここにあります。

しかし、一向宗徒の前途は多難でした。実は本願寺を絶対支配者とする専制体制の中では、屍を野に曝すのはいつの場合も門徒であり、寺院や僧から蓄えを収奪されるのも門徒でした。
門徒は、往生をカタにとられ、自身の生死の権利まで法主に握られた哀れな存在になっていきます。門徒にも差別と結びつく宿業思想がまとわりつき、地獄道や餓鬼道から解放されることはありませんでした。

一向宗は北陸に進出した17年後に、蓮如の指導のもとに加賀国の守護大名富樫政親と決戦してこれを破り、加賀を門徒農民の自治国「百姓の持ちたる国」として成立させました。
富樫氏の治世の在り方に反感を持つ小領主や土豪・寺院勢力を結集して、農民や小領主・土豪のためにという大義名分を掲げて戦ったのです。圧政を見て見ぬふりはできない、ということにしたのでしょうか。
各地の戦国大名を驚愕させた一向一揆の影響は各地に波及し、戦国時代に宗教勢力の侮りがたい軍事力の存在を認めさせました。

蓮如は、1478年、京都山科に本願寺を再建し、1497年には摂津(大阪)の石山に石山御坊(石山本願寺の前身)を建立し、1498年、85才で往生しました。

顕如(1543-1592)は、12才で第11代法主となり、正親町天皇の勅命で最高寺格の門跡となります。
当時、本願寺は日本第一の裕福な寺でした。朝廷が経済的に困窮して即位の式典が行えないことから、顕如を門跡にする条件で式典の費用を本願寺が提供する政治的取引を行ったのです。いわゆる足元を見たのです。

この頃、織田信長の勢力が破竹の勢いで膨張し、地方の一向一揆を武力弾圧し、顕如を圧迫し続けたことで、顕如は、伊勢や長島、加賀や越前、紀伊や雑賀などの一向一揆を率いて織田信長と対峙しました。

しかし、織田軍に一揆が平定されると、反織田勢力の朝倉氏や浅井氏、安芸の毛利氏、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信などと盟約を結び織田包囲網を形成しました。
1570年から最後の砦である本拠地の石山御坊で10年間の包囲戦が勃発しますが、同盟軍の諸大名が次々に敗退して石山本願寺は孤立化し、敗戦は時間の問題となりました。

織田信長の軍団が本願寺の巨大な包囲網を破り大勝を収めた秘密は、織田家の軍団が専門職の戦闘集団で構成されていたことにあります。
織田軍団の特徴は信長の先見性と合理性によっていつでも戦える専門職の武士団で構成されていました。
農民兵を徴用しない信長軍は自領の農民の怨嗟の対象になることなく、状況に応じて長期滞陣が可能な軍団でした。機動力に優れた軍団を複数所持していたことから同時に多方面の戦力展開が対応出来たのです。
信長は尾張半国の身代であった若年の頃から、家臣団の兵農分離を推進して戦闘員を居城の城下に集めて配置し、いつでも戦闘ができる体制を整えていたのです。

当時の最強軍団であった越後の上杉軍や甲斐の武田軍は、臨時に徴用された農民軍で足軽(歩兵)軍団を構成していたので農繁期には戦争を継続することができない欠点がありました。
ほとんどの戦国大名は、戦時のつど自領内の農民を徴用して軍団を編成せざるをえなかったので、急場に間に合わず、手間取ったり、雪の降る冬季は動けないなど出兵は困難を極めるのが通常でした。特に、農繁期になると戦闘を継続することができず和議を結んで撤退するほかありませんでした。

信長の領国は産物が豊かなうえ、楽市楽座を奨励して領内の通行税を廃止するなどの政策を実施して商業活動を活性化させていました。堺、京都、大阪を直轄地として戦費を調達し、鉄砲など武器や鎧兜の強化と軽量化などの武具の最新化に積極的に取り組み装備が優れていました。

信長は富国強兵の方策をかぎわける能力と部下を戦略的に使いこなす能力が卓越していました。信長軍は多方面に軍事力を展開したり長期布陣が可能でした。強固な石山本願寺の包囲網が完成して本願寺勢力の孤立化が継続していたので陥落は目前に迫っていました。

和議か徹底抗戦かで揺れる中で顕如は和議を決意しますが、長男の教如(1558-1614)は和議に反対して義絶されました。正親町天皇の仲介により退去しましたが、その後も本願寺は退去派と籠城派が対立し分裂しました。
顕如は紀伊に退去し、泉州、天満を転々としますが、1592年、豊臣秀吉から京都の土地を寄進され本願寺(現在の西本願寺)を再興しました。

その後、本願寺は相続問題がこじれて家騒動が治まらず、秀吉や家康の介入を招き西本願寺(顕如三男・准如)と東本願寺(教如)の二派に分裂しました..
これにより、歴史に初めて存在した戦う武闘宗教集団・本願寺勢力は政権の期待通りの教団となり脅威性を喪失していきました。本願寺は他の教団・宗派と同様に政権に寄り添う道を選択したのです。

日本の念仏宗の主な系譜は次の通りです。特に、本願寺の系譜は日蓮宗と同様に教義の解釈の違いから多くの宗派に分裂し、共存していることが特徴的です。

○浄土宗(京都:知恩院「鎮西派」、開山:法然坊源空(1133~1212)
徳川家の庇護を受け発展する。東京の芝「増上寺」が将軍家菩提所として有名。

○浄土真宗本願寺派(京都:西本願寺)宗祖:親鸞、開創(1591年):11世顕如
開山:准如(1558~1614、東本願寺の教如の弟)
12世教如は一向宗の石山合戦の責任を秀吉にとらされ隠居処分、准如に交代する。
徳川家康の一向宗(門徒宗)分断政策により復活し、東西分裂に加担する。

○真宗大谷派(京都:東本願寺)宗祖:親鸞、
開山:12世教如(1577~1630:西本願寺:准如の兄、11世顕如の長男)
徳川幕府から東西の分断政策により特別に庇護を受けました。

○時宗(藤沢市:清浄光寺)開祖:一遍(1239~1289)、開創(1325年):呑海
遊行と札(南無阿弥陀仏)配りの特異な布教をしています。
江戸時代に幕府の保護を受け、寺院を建立し本末体制を整備しました。

○融通念仏宗(大阪:大念仏寺)開祖:良忍(1073~1132)
声明念仏、踊り念仏に特徴があるが、良忍没後に衰退しました。
14世紀に再興され勧進聖により「絵巻」の絵解きをしながら各地を布教しています。
江戸時代に寺院化し本末制度を整備しました。