(41)-3浄土宗系③(念仏思想の特異性)

浄土宗の法然は「他力本願」の専修念仏の思想を打ちだして、末法思想の中で急速に広まった終末の世相の中で生きる無力な民衆の共感を集めました。
法然は、阿弥陀仏を信じ「南無阿弥陀仏」と唱える者は誰でも極楽浄土に救い取られるのだから、自ら厳しい修行を積まなくても阿弥陀仏の力によって悟りを開くことができるとして「他力本願」を人々に勧めました。
これは、自力を主体とする伝統的な修行を否定する大胆な変化です。大きな驚きを持って民衆から迎え入れられました。

中国・唐の道綽(562-645)は『安楽集』に自力の行を励んでこの世で悟りを開くことを目指す「聖道門」(釈迦仏教の教え)を否定して、阿弥陀の本願を信じて念仏して浄土に生まれ来世に悟りを得ようとする凡夫の道の浄土門を勧めました。

中国・浄土教を大成した善道(613-681)の『観無量寿経疏』の「散善義」に「一心に阿弥陀如来の名号を称えるならば、阿弥陀如来は決してその人を捨てず、救ってくれる。なぜなら、それが阿弥陀仏の願だからだ」とあります。だから、阿弥陀仏はすべての人々を救い上げる義務があるから誰でも救われるはずだ、というのがその根拠です。

末法思想を背景にして日本の中で広まった他力本願の思想は、仏教の修行の伝統を根底から否定する新思想でした。

末法では、聖道門は悟りがたく、浄土門は容易だ、とするのがその根拠です。しかし、これは事実ではありません。釈迦は修行方法として浄土門を説いていません。浄土門は釈迦仏教の精神に相反するものでありえないのです。あえていうなら、釈迦滅後のインドの大乗の菩薩が説いた『無量寿』、『阿弥陀教』にある思想です。

法然は、念仏至上の核心を『選択集』を著して表明しました。唐僧・善導の私論である『観経疏』の一文によって、これまで大乗の諸菩薩が積み上げて来た大乗仏教の叡智の方法論の全てを尽く捨て去り、阿弥陀仏の本願によってのみ救われるとする思想を選択しました。

法然の弟子、親鸞は『教行信証』を著して、「自分の罪を減らそうとするのは、阿弥陀仏の本願、力を信じていない証拠である。そのような善人(自力の向上心を持つ人)は、疑いの心が残っているいる以上極楽に入れない。」「すべてに自力を捨てて、弥陀の前に自分を投げ出せ。その瞬間に極楽浄土が確約される。生きたまま弥陀にすくい取られるのだ。」と「絶対他力」を主張して異彩をは放ちました。

越後流罪後の親鸞は非僧非俗(僧でなく、俗でもない)の不思議な存在でした。
当時の既成仏教界は堕落が著しく、本物の僧は皆無と見られていました。
僧は僧侶の姿をした俗人と見られたのです。
これを評価すれば、全てでは無いにしても世間一般では「僧侶とは自分を偽り、人を偽って、醜い自分を上手に覆い隠し、あるいは居直って恥じない者をいう」と酷評されるケースもあったのです。

親鸞の場合は、還俗したので正しい僧とはいえないが、俗人かといえば単なる俗人でもない。僧も俗人も越えて仏道に励む者とみれば、本当の僧といえるのではないかと考えられたのです。これが親鸞の言う非僧非俗という概念だと考えられています。

親鸞の弟子・唯円は、親鸞思想の真意が正しく伝わらず、師の意志と異なる信仰を正して信心の本質を語るために『歎異抄』を著して「悪人正機説」という伝統的な仏教とは明らかに異なる衝撃的な論旨の異説を唱えました。
これによれば、親鸞の真意は「真実心(自力の向上心)が持てない凡夫(悪人)」ほど阿弥陀仏が救い取ってくれるはずだ」という主張にあります。なぜなら、こういう人ほど阿弥陀仏の救済があるはずだと親鸞は考えたのです。

法然(浄土宗)と親鸞(浄土真宗)の違いは、法然は阿弥陀如来にすがりつき、称名念仏、専修念仏することによって救済が得られると考える「念仏為本」の出家仏教です。
これに対し、親鸞は、称名念仏さえ思うに任せない人がいる、だから、「阿弥陀如来の力を信じること」が信心の第一歩だとして「信心為本」を主張する(剃髪しない)在家仏教でした。

親鸞は善と悪を自問自答し続けた人です。「自分が性欲に悩んだように、人はどうしようもない煩悩とともにあり、善悪の判断は条件や環境により変化する不安定なものだ」と考えたのです。
親鸞の生きた時代は朝廷から武家への政権交代が始まる動乱の中にあり、権力争いや反乱が多発し上皇や天皇が流刑されるなど末法の始まりという世相を反映したものでした。

阿弥陀如来は西方浄土の教主として、巷間ではあたかも念仏宗(浄土宗や浄土真宗)の専属の仏のように誤解を受けることがあります。
しかし、これは明らかな間違いです。阿弥陀如来は尊格が高い仏であり、特に慈悲の深い仏として顕教でも密教でも多くの寺の本堂の中尊として安置されています。日蓮宗を除く多数の宗派で人気の高い仏です。

阿弥陀如来の慈悲の深さには心を打たれますが、このような考えを持つ念仏者を救い上げなければならないと決めつけられた(?)阿弥陀如来に心から感謝をし、そして同情したいと思います。
親鸞の思想は明らかに釈迦仏教(中道説)が否定する性質の宗教です。
なを、浄土宗では「声に出して念仏する」ことに意味があるとしますが、浄土真宗では「阿弥陀仏にすがる心(信仰を心に限定)」にこそ意味がある、と考える違いがあります。

親鸞の門下は、その当初から肉食妻帯を許し、管長職は世襲制でした。日本の浄土真宗は本家の中国浄土宗とは全く異質のものになってしまったことは確かです。
親鸞の300年後に、プロテスタントの聖職にあり宗教改革の牽引者となったドイツのルターも妻帯しています。
日本では、明治維新の改革で太政官が僧の妻帯を許可したことで、どの宗派でも寺院の世襲と私物化が始まり、その中には僧の質の低下が問題視されるケースがあることが指摘されています。

浄土思想は日蓮思想と相反する概念を持っています。浄土系の思想の特色は、「この現世では救われるはずがないから、阿弥陀仏の手で極楽浄土に救い取って貰い、来世で成仏する」というものです。現実を否定するこの浄土思想は、現実肯定主義の日蓮から激しい攻撃を受け、また、為政者から弾圧を受けました。しかし、すべての人々をもれなく救う「阿弥陀如来の誓願」が次第に人々の共感を捉えました。

京都・高山寺の開山「明恵(1173-1232)」は、華厳と密教と禅を思想の核とする実践をし、法然の『選択集』を批判するために『摧邪輪』を著しました。
明恵の法然に対する批判は「法然は悟りに向かう心(菩提心)を重視せず、阿弥陀如来に救済を求め、自らの悟りへの修行を否定している」ということにあります。.
そして「称名の一行は、劣根一類(宗教的能力の劣った人)の為に授く、何ぞ、天下諸人をもって、皆下劣根機と為すや。無礼の至り、称計すべからず」と憤慨されています。また、「法然の説は自ら邪心に任せて善導(中国浄土教の泰斗)の正義を穢している」と云いきっています。

明恵は鎌倉前期の華厳宗の高僧です。高野山の文覚らに師事して出家し、真言、華厳、禅を兼学しましたが京都・栂尾・高山寺を華厳宗中興の道場としました。栄西が中国から請来した茶樹を栽培しています。

日本の浄土思想は、釈迦仏教にない思想です。釈迦仏教の理念に相反する思想です。大乗仏教の特徴的な思想である菩薩行道の修行とも大きく異なる特異性を持つ思想です。

浄土教は、『無量寿経』、『阿弥陀経』、『観無量寿経』の浄土三部経を根本経典としています。
浄土教が成立したのは2世紀初頭の紀元100年頃に編纂された無量寿経、阿弥陀経に始まります。しかし、インドで流布された形跡はありません。インドでは阿弥陀如来像が発見されていないこと、宗教以外に銘文や文献に浄土経典の引用や言及が全くないことから、インド人には受け入れられていなかったことが分かります。
『観無量寿教』はインドではなく4-5世紀頃の中央アジアで編纂された経典ですが伝訳の途中で中国色が加味され、いわゆる中国仏教色が濃厚ですが、この経典は、特に、中国と日本の浄土教思想の考え方に決定的な影響を及ぼしました。

法然はこれら三部経のいずれかに比重をかけることはありませんでしたが、他の念仏者を見れば、親鸞は無量寿経を、証空は観無量寿経を、一遍は阿弥陀経を、それぞれ重要経典と位置付けました。

浄土思想は、古代インドで広く展開した「仏国土」に由来する思想です。インドでは紀元前後の大乗仏教運動の中で救済仏思想が次々に創造されました。特に、西方の極楽浄土の教主・阿弥陀如来の48願の徳目に人気が集中しました。、
本来的には多くの仏の存在とその仏の国土(浄土)意味するものでしたが、中国、日本の阿弥陀仏信仰が広まってから、一般的には阿弥陀仏の浄土を示すものと受け取られるようになりました。

インドの浄土思想は、釈迦仏教の精神を継承するものであり、中国の変質した浄土教とは異なります。日本の浄土教のように菩提心(自力の向上心)を否定する称名念仏や専修念仏の思想を持つものではありません。

釈迦の仏教精神を継承するインドの大乗菩薩の中に中国や日本のような称名念仏や専修念仏を広める者は存在しませんでした。
日本特有の浄土思想は、釈迦仏教の精神や教理の縛りがある中で自然に発生する思想ではなく、釈迦仏教の拘束を受けない者にしか持てない思想だと考えられます。

菩提心を否定する称名念仏や専修念仏の思想は、本質的には仏教といえるかどうかという問題を含むものであり、実に悩ましい事柄を多く抱えています。中国で大きく変質し、日本で上塗りして育てられた日本仏教(鎌倉新仏教または祖師仏教)というべきものです。

浄土教は、中国に2世紀の後半に伝えられ、5世紀初めに慧遠が白蓮社という念仏結社をつくり、曇鸞が浄土三部経から『往生論注』を著し、道綽が『安楽集』を著し、善導が『観無量寿経疏』を著して称名念仏の浄土教が確立しました。

中国では、中国で発生した「念仏」と「禅」が融合して「念仏禅」が誕生し、中国禅の大勢を占める大きな勢力に育ちました。中国禅は中国仏教の基盤を形成する大きな勢力に発展し、周辺藷国の仏教勢力との間で中国禅の正当性と優位性を争う歴史を作りました。

日本では、7世紀前半に浄土教が伝えられ、9世紀前半に円仁が中国・五台山の念仏三昧法を比叡山に移植しました。良源が『極楽浄土九品往生義』を、源信が『往生要集』を著して天台念仏教が誕生しました。これが末法思想の影響により、一遍が時宗を開き、良忍が融通念仏宗を開き、法然が『往生要集』を著して称名念仏を主張して浄土宗を、親鸞が『教行信証』を著して専修念仏を主張し浄土真宗を開いたのです。