(41)-1浄土宗系①(念仏の萌芽)

念仏の萌芽は、986年(寛和2年)に比叡山の横川で結成された「二十五三昧会」にあります。念仏は天台法華の修業道場の中で発芽し育てられた歴史を持っています。
この会の結社の目的は、毎月15日に集まり念仏三昧を行い、臨終を迎えた会員を極楽往生させるために皆で念仏を唱えて送葬することでした。
死者は、自分が往生したなら「往生した」、地獄などに堕ちたら「落ちた」と夢や幻、白昼夢でもいいから、往生の結果をお互いに知らせ合うことを約束するものでした。

参加者は花山法王などの皇族、貴族、学識豊かな僧侶などです。このメンバーに恵心僧都、源信などがいましたが、この結社の指導原理は源信の著作『往生要集』でした。

念仏が比叡山で支持され始めたのは、比叡山の中に蔓延した末法思想を発端とするものです。末法思想は、人間が迷いに迷い転生を繰り返すのは時代や因果によって予め定められた解脱不能の世界観を示すものと捉えられました。

ブッダはこの迷いの世界からの解脱を説きましたが、平安末期から鎌倉時代に生きた人々はこの理を知る由もなく、末法の世では人々の心は煩悩と罪悪にまみれ身心ともに悟りを得るための素質が劣悪になり成道できる保証が全くない世界になると考えたのです。
このような濁世末代のなかで、唯一の救いは阿弥陀如来にすがることしかなく、念仏しかないと比叡山・天台宗の中の有識者たちが考えたのです。

『往生要集』は、法然(1133~1212)に決定的な影響を与えました。
法然(1133~1212)は、美作国の押領使・漆間時国の子として生まれましたが13才で比叡山に出家し(諱は源空、房号は法然)、43才で日本の浄土宗の開祖となります。
法然は、保元・平治の動乱の中に生き、平家の台頭と滅亡、源氏の鎌倉幕府体制の成立などさまざまな政治的動乱と社会の混迷期を生きた人物です。末法思想を真正面から受けとめて生き抜いた僧です。清僧の評価があります。

この『往生要集』の特徴は、人間が迷って輪廻転生を繰り返す世界を壮絶な描写で表しています。とりわけ様々な地獄の生々しい描写は人々の無常観や不浄、苦を増幅させるものでした。
末法の人々は救いのない死後の世界から救われる方法をせつに願望しました。

この思想を末法思想といいますが、その特徴は「劣悪な素質しか持ちえない末法の衆生はどんなにあがいても往生の縁が無く、自力での往生・解脱は望めない」というものですが、この思想は天台宗の僧によって世間に伝播されました。
草木や瓦礫などのあらゆるものに仏性を認め、成仏の可能性を認める伝統を持つ比叡山から末法思想が生まれ育ったのは、まごうことのない自己矛盾、若しくは自己撞着というべきだと考えられます。

結果的に見れば、比叡山に始まる末法思想が天台宗の僧侶によって風評流布され、民衆に伝播されて社会に蔓延したことにより、鎌倉(祖師)仏教が誕生した機縁となったのは事実である徒考えられます。一切の法が滅尽して人々に救いがなくなるという末法思想に、この世の終わりを予言する終末思想が結びついた鎌倉時代特有の思想が出来上がり、人々は救いようのない絶望感にさいなまれました。この中で法然の絶望感が日本の念仏宗(浄土宗)を開きました。

法然が専修念仏を説いたのは、中国浄土教の僧・善導の『観経正宗分散善義』巻第四の影響によるものでした。法然は、この『観無量寿経疏』「散善義」の中のに「一心に弥陀の称号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文に着目して、阿弥陀如来の救済が専修念仏と他力本願意にあることを悟りました。どうにも救いようのない末法の衆生を浄土に救いあげることができる仏は阿弥陀如来以外にはない、と考えたのです。

善導(613-681)は、中国・天台宗の開祖・智顗(538-597)の弟子であった道綽(562-645)の弟子です。浄土教に帰依した道綽に師事して『観無量寿経』学び、『阿弥陀経』の思想から「散善義」の上記文を著したものだと考えられています。天台宗には諸宗兼学を推奨してきた宗風があり、浄土思想を学ぶ僧がたくさんいたことから、問題なく受け入れられたものと考えます。

法然が『選択本願念仏集』で説いた他力本願とは、自ら菩提心を求めることは素質や能力の問題、また、継続的な努力を続けられない人は少なく不可能なことだから、すべてを阿弥陀如来に委ね、無条件で阿弥陀を信じる切ることで「即得往生」の救済が得られるという思想だと考えられます。しかし、善導のいう「正定」の業は、釈迦の説いた「八正道」の一つの業でしかありません。

釈迦が説いた八正道とは、①正見(正しい見解)、②正思惟(正しい考え)、③正語(正しい言葉)、④正業(正しい行い)、⑤正命(正しい生活)、⑥正精進(正しい努力)、⑦正念(正しい記憶)、⑧正定(正しい注意)によって極端に偏らない考え方(中道)をすることです。

釈迦の説いた解脱の教えは、人間存在の原理として縁起(十二因縁)を説き、一切皆苦(四苦八苦)を説きました。苦を滅する手順には四諦(苦・集・滅・道)を示し、具体的な実践法として八正道を説きました。その目標とするところは解脱(輪廻から解き放たれた苦のない世界)です。この思想を継承した大乗仏教では、人々を慈しみ幸福へ導くために慈悲行(利他行)を実践する菩薩を登場させて「六波羅蜜行」を実践項目としたのでした。これが大乗仏教のあるべき実践法だと考えられます。

法然の思想は、阿弥陀如来の慈悲を無限大に拡張して、個人の主観を基準にする他力本願を強調することで、もれなく西方浄土の阿弥陀如来の救済を保証した過失があると考えられます。「末法の非常時の救われ方」を説く法然の思想は、釈迦や大乗仏教の思想とは本質的に異なるものだと考えられます。専修念仏者の姿勢には、自己の救済にこだわり続ける人々の存在が見えますが、利他行を実践する大乗の菩薩の存在感が全く感じられません。

親鸞(1173~1262)は法然の弟子です。親鸞は公卿・日野有範の長男として生まれましたが9才の時、京都の青蓮院で得度し比叡山に入って常行三昧堂の堂僧となりました。
浄土真宗の開祖となりますが生前は流罪後に非僧非俗の存在となります。
念仏信仰を激しく罵倒した日蓮から非難されていない唯一の念仏者です。

親鸞は、20年間念仏修行に専念しましたが悟りを得られず、絶望感の中にありましたが、本山のエリート僧の道を捨てて29歳で比叡山から下山しました。

当時の比叡山は、熾烈な派閥抗争に加えて、僧兵が比叡山の中だけでなく京都市中に乱入して乱暴狼藉を繰り返すことが度重なり目も当てられない喧噪の中にありました。寺院の特権を護るために神輿を担いで朝廷や権門勢家に強訴したのは比叡山延暦寺が始めた悪弊です。 僧も山内の治安の維持に忙殺され人々に法味を施す余裕もない状況にあったと考えられます。

親鸞は、京都の六角堂で百日間の参籠中の95日目の払暁に救世観音の夢告を得たと云います。 その内容は、「お前が宿報により女犯の罪を犯すときは、私が妻となって犯されよう。一生の間、お前の身の飾りとなり、臨終には極楽へ導こう」ということであったと伝承されています。女性を観音の化身にして、女犯の罪から逃れる親鸞の姿に痛々しい情念を感じますが、世俗の中にあっても往生の道は開かれている、という発想の転換には親鸞の苦悩が見えます。

親鸞の妻帯女犯は当時の仏教界の伝統から見れば間違いなく破戒僧の宣言と受け取られる性質のものです。しかし、当時の仏教界は、隠れ妻帯や稚児の男色などがあり、親鸞を破戒僧として糾弾できる道理に欠けていました。
また、親鸞が還俗して非僧非俗の立場になったことからことを荒立てる必要性が無くなったとも考えられます。

親鸞のどうにもならない性欲という本能との対峙の結末が女犯の罪から逃れるために観音菩薩の化身を持ちだしたことは、実は何の解決にもなっていません。これは親鸞自身が一番よく解かっています。

この問題は大変デリケートな要素を含むものでした。今日の私たちが考えるような理解を示す教団や僧侶はありません。他の僧侶ならこのような要素を含む問題に一石を投ずることなく内に秘めて語らないと考えられます。この点、親鸞は真面目な性格が表面化したものと考えられます。 ちなみに、仏教の高僧伝には親鸞と同様のデリケートな逸話は伝わっていません。

法然は性格が清涼で智慧に満ちた円満な人柄と見られていましたが、親鸞は一生貧しく、世に知られず、心情も障り多く、信仰・思想はがむしゃらに一途で、煩いと暗さとを含む性格であったと評されています。 親鸞は生まれながらに宿業を背負った自分を自覚してこれを受け入れ直視した人と見られています。

法然は妻帯しませんでしたが、親鸞は三度の結婚で妻帯しました。
親鸞は抑えきれない愛欲の炎が自分の中に存在する事実を受け入れ妻帯したのです。
法然は親鸞にたいして「一人で念仏できないというなら、妻帯して念仏申しなさい。僧では念仏できないというなら、俗のまま念仏申せばよく、俗ではできないというなら僧になって念仏申せばよい」と教導しています。

親鸞は最初の妻とは越後に流罪となったときに別れ、二番目の妻とは死別し、三番目の妻・恵信尼とようやく落ち着くことが出来たといいます。しかし、親鸞は各地に残した子供たち、別れた妻の貧窮、妾になる娘に対する心労、裏切った息子との対立や縁切りなど、様々な煩悩から解放されることが終生ありませんでした。

平安・鎌倉の時代、末法や地獄は心の中に在る心の様相という認識がありませんでした。
これらは心の外にある事実として受け取られ、ほとんどの宗教家は自己の内面の問題として受け止める姿勢がありませんでした。