(5)キリスト教禁止の前哨戦(江戸初期)

徳川家康は、当初、キリスト教の布教を黙認しました。家康は貿易の実利は求めましたが、キリスト教には一貫して無関心でした。オランダ船リーフデ号の漂着によりイギリス人航海士ウィリイアム・アダムス(三浦按針)を家臣として最新の欧州事情情報を得ていました。スペイン、ポルトガルの旧強国と新興国のイギリス、オランダが八十年戦争を行い新興国側が勝利し、ポルトガルは斜陽にあることを知っていました。このウィリアム・アダムスはイギリス兵として参戦した実践の経験者であり、詳細な西洋事情に通じていました。

1612年、岡本大八が引き起こした大名・有馬晴信を巻き込む疑獄事件の双方がキリシタンであったことから危険視され、これを契機として、1613年、諸大名や幕臣へのキリスト教の禁止が通達されました。このとき、家康の旗本・原主水が改易処分になっています。
翌1613年には家康側近の「黒衣の宰相」金地院崇伝の手による「排吉支丹文」により、キリスト教禁止の明文化がなされ全国で迫害が頻発しました。1619年京都で52名、1622年長崎で55名、1623年江戸で55名の殉教が知られています。これらより、250年のキリスト教迫害の歴史が刻まれることになりました。

「黒衣の宰相」とは:家康の政治顧問僧です。政治参謀の役割をしました。

「崇伝(本光円照国師)」は室町幕府の有力大名一色家の出身です。
京都五山(①天龍寺②相国寺③建仁寺④東福寺⑤万寿寺)の上の別格・南禅寺の塔頭・金地院の住職(駿府と江戸にも金地院を創建)を勤め、建長寺と南禅寺の住職を歴任して37歳で臨済宗の頂点に立った高僧です。
家康の下で西笑承兌(相国寺中興の祖、南禅寺住職、秀吉・家康の外交担当僧)に代わり外交顧問を務め、また、朝廷との交渉や寺社行政に関わり「キリスト教の禁止」「寺院制度(寺請制度・寺檀制度)」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」の制定に深く関わりました。
豊臣家との大阪の役の発端となる「方広寺鐘銘事件」で「国家安康」「君臣豊楽」の文句が「徳川家康を二つに切る呪詛で徳川の滅亡と豊臣の繁栄を祈ること」であり、許し難いことであると難癖をつけて強引に開戦の理由にしたのは崇伝と天海の共同謀議であるといわれています。
大阪夏の陣で真田幸村の軍に攻められ自刃を口ばしった家康を止めたのは崇伝であるともいわれています。
ライバルの沢庵宗彰(大徳寺住職・普光国師)が崇伝を天魔外道と評した「紫衣事件」で後水尾天皇の勅許を撤回させたことにより、天皇が退位するという事態を引き起こしました。世間の評価は悪く「大欲山気根院潜山悪国師」と評しています。

なを、京都五山は足利将軍が定めた制度ですが、寺院の格式や上下関係を表すものではありません。例えば、同じ臨済宗の大徳寺や妙心寺は南禅寺に匹敵する本山格を持つ有名な伝統寺院です。

「天海(慈眼大師)」は出自が不明で諸説の取りざたがある不思議な人物です。
川越の喜多院の住職を務め、家康の下で朝廷との交渉役に携わりました。
比叡山探題執行として南光坊に住し、比叡山の再興に尽力しました。
日光輪王寺や東叡山寛永寺を建立して天台宗の総本山とし、天台宗大僧正となりました。
家康の死後、その諡号に「明神」(吉田神道)を推す崇伝と「権現」(山王一実神道)を推す天海の争いとなり、「大権現」が三代将軍家光に採用されました。
崇伝はこれ以降勢力を失っていきます。
天海は「日光の大造替」で東照宮を荘厳して功績を挙げて信頼を得ています。
徳川が滅びた明治になって比叡山は再び総本山となりました。

崇伝も天海も絶大な権力者・徳川三代(家康・秀忠・家光)に深く密着し、徳川家のための支配体制の構築に積極的に関わりすぎました。この制度は露骨な権力基盤の強化策に過ぎず、僧侶が提案する政策ではない、との批判があります。
江戸時代は日本史に前例のない特殊構造の封建社会を強固に構築にしました。
しかも、徳川家の支配権を確立するための異常な政策であるとして、これを評価しない有識者が多くいます。
崇伝と天海は、権力に極端に媚び諂い過ぎた、との批判があります。人々が僧侶に期待する「あるべき姿」とあまりにもかけ離れすぎていて、評価に値しないと考える人々は少なくありません。

岡本大八事件は謀略の匂いがする奇異な事件です。1609年2月、ポルトガル領マカオで有馬晴信の朱印船の水夫が酒場で些細なことからポルトガル船マードレ・デ・デウス号の水夫と乱闘し晴信の水夫60名が殺害され積荷を奪われる事件が発生しました。これを激怒した晴信は報復すべく家康に許可を願い出ました。晴信の報復の許可願いは、これを放置すれば日本国の権威が傷つくと判断した家康に聞き届けられました。1609年12月長崎でマードレ・デ・デウス号を発見した晴信はこれを三日間の包囲攻撃(船長と乗組員は逃亡)により沈没させました。このとき、目付役として同行した者が家康の側近・本多正純の与力であった岡本大八と長崎奉行の長谷川藤広でした。

この報告は、大八を通じて正純の手から家康に伝わり、晴信は家康から激賞を受けました。大八と晴信はともにキリシタンであったので、晴信は大八を饗応したのですが、このとき、大八が晴信に「今は鍋島領になっている旧有馬領の藤津・杵島・彼杵の三郡を恩賞として晴信に与えようと考えているらしい」と虚偽の甘言を弄したとされています。そこで、晴信は、これを実現するために、家康に働きかける運動資金として、金品の提供を正純にすべく大八に渡したのですが、このすべてを大八は自分の懐に入れたばかりか、家康の朱印状を偽造して晴信に渡し、更に6000両の大金を旧領回復の運動資金として詐取したというのです。

1611年の末に至り、待てど暮らせど恩賞の沙汰がなく不信に思った晴信は直接に本多正純に面会し催促しました。正純は驚愕して大八を詰問しましたが大八はシラを切り続けるばかりです。晴信の嫡男・直純の妾が家康の養女・国姫(桑名藩主・本多忠政の娘、家康の長男・松平信康の孫)であるところから家康に申し出て採決を仰ぎました。駿府町奉行の調査により大八は逮捕され極刑を免れなくなりましたが、大八は晴信を一蓮托生の道ずれにするために、晴信が長崎奉行長谷川藤広(家康の愛妾・於奈津の兄)の暗殺を企てたと訴えました。藤広がポルトガル船の包囲攻撃が三日もかかり手ぬるいと批判されたことを根に持った晴信が「ポルトガル船撃沈の次は藤広を海の藻屑にしてやる」と口走ったということでした。

晴信は身の潔白の陳述に努めましたが、度重なる尋問に遂にこれを認める供述をしてしましました。その結果、大八は火刑、晴信は領地(島原藩・4万石、実質石高は半分程度)没収・甲斐に流罪のうえ切腹に処されました。しかし、幕府は晴信の嫡男・直純(15才より駿府城で家康の側近として仕えた)に対し家督と所領の相続を許して、厳しいキリシタンの取り締まりを命じています。この2年後、直純は領民に対する迫害に嫌気がさしたのか幕府に転封と願い出て許され、1614年日向延岡(5万3000石)に加増されて転封になります。これに替わって大和・五条から入国した板倉重政が過酷な年貢の取り立てやキリシタン弾圧を行い島原の乱(1637年)を誘発する原因を作ることになります。当時、島原は晴信の庇護によりキリシタンが多い地域として有名でした。

島原の過酷な「年貢の取り立て」と「キリシタン弾圧」

島原藩は公称4万石ですが、実際の石高は3万石に満たない上げ底の藩でした。
適正な年貢の取り立てでは石高の半分あるかないかです。石高に見合う年貢を取ろうとすると、過酷な取り立てにならざるをえません。
領民を従わせるには残酷な刑罰が考えられます。同時に、キリシタンの弾圧をも行えば、残忍な拷問や処刑に行き着きます。これには、当時の強い反カトリックのオランダ人も辟易しています。
「蓑踊り」は素肌に蓑を着させて火をつける刑ですが、もがき苦しむ様が踊りのように見えることから名ずけられました。
数十年以前に、島原城内の残酷なキリシタン刑罰の数々を再現した展示物を見ましたが、あまりの残虐性に驚き、これは人間のする行為ではない、と思いました。

この事件の顛末は奇異です。岡本大八は莫大な資金を何に使ったのでしょうか。詐欺は収賄の真実は金銭の使途が明白にならないかぎり事件は解決したとは言えません。ましてや謀略の仕事師として定評のある絶対的な権力者・家康とその重臣にして懐刀といわれ吏務と交渉に辣腕を振るった正純(その父は家康の側近の謀略家で重臣の本多正信)が裁定した事件です。岡本大八にこの絶対権力者の名前を騙る意思や、大名を相手に詐欺を仕掛ける度胸があるでしょうか。
もしこれが事実なら、初めから死を覚悟の上で行った犯罪ということになり、無残な結末は目に見えています。事実、この後、正純が裏で糸を引いたのではないかとの風評が流れ、正純は幕閣で孤立して行くことになります。
ともあれ、この事件を契機にしてキリスト教の禁止政策が強化され、キリスト教徒に対する弾圧が各地で頻発することになります。とりわけ、島原地方はその重点施策のターゲットになっていくことは事実です。

プロテスタント国家のオランダが「キリスト教の布教がない貿易も可能」との意向を示したので、宣教師やキリスト教を保護する理由がないことから、幕府はキリスト教禁止のシナリオを具体化させる方針を固めることになります。
1637年残酷な税の取り立てを発端とする「島原の乱」が勃発し、幕府は強い衝撃を受けましたが、これを契機として、乱の終息後、1639年に再度の「寛永の鎖国令」を布告しました。
ポルトガル船は来航禁止となり、オランダ商館も長崎の出島に制限されました。そして「宗門改め制度」や「寺檀制度」の完成とともにキリスト教は禁止されました。
「島原の乱」の衝撃と岡本大八事件は、大名のキリスト教離れを決定的にする政策に利用されたものと考えられます。

後日談があります。幕府が諸外国と結んだ「不平等条約の改正(関税自主権、治外法権)」が明治政府の重い外交課題になりました。
諸国との外交・交渉が遅々として進まない理由の一つに「キリスト教の禁止」が取り沙汰されました。
ヨーロッパでは日本における教会の発展と受難の物語が語り継がれ、多くの人々が日本への再布教の日が来ることを待ち続けた、ということです。
キリスト教徒禁止令が解かれたのは1873年(明治16)のことでした。