(40)-1日本民族の形成過程を考える-①(古代の諸王権を考える)

日本の民族と国家の形成に関する歴史事実をありのままに記録した歴史書は存在しません。天皇制を国の最上の機構として誰にも手を付けさせないまま近代化を進めてきたことで、今更ながら国の歴史を検証して作り直すという歴史を再現する作業は困難であり、これについて政治家や教育界、新聞、テレビ、出版界でさえ発議、提案する気配が全くありません。実はできないのです。真実の歴史にさわれば、あたかも天皇制を否定しようとしているのではないかと疑われる危険性があるからです。日本書紀や古事記の記述を変えたり、削除することは誰にもできないのです。「天皇は神聖にして犯すべからず」この古い戒めは今日でも国民に深く浸透しているのではないかと考えられます。


日本の正史と位置づけられた『日本書紀』は、対外的(中国)に天皇の支配を認めさせる意図的な意思を持って記述されたことで、数々の記載内容が事実かどうかの疑いがもたれています。日本書紀は言い換えれば「天皇記」といえます。もう一つの史書『古事記』は日本書紀に8年先行して712年に完成(太安万侶の編集)したものです。日本書記(720年完成、実質的な編集姿勢には藤原不比等の強い意思が反映されていると通説は考えている)は、先行の古事記を参照していると考えられますが、記述内容に多くの相違点が見られることはそれぞれの編集目的が異なるためであろうと考えられています。

歴史学的には、最初の実在した天皇は第10代崇神天皇と考えられています。神武東征は崇神天皇の事跡を分割して振り当てられた事跡と考えられています。特に、後世に意図的に天皇名に神が付けられた初代神武、10代崇神、15代応神の事跡はこのような意図的な事跡が『古事記』『日本書紀』ともに編集の際に、割り振られていると考えられています。特に注意が必要と考えられます。

日本書記と古事記には異なる記載内容が随所にありますが、古事記はその序文に「帝紀と本辞(天皇の系譜を記した書)との間に大きな違いが出てきたので口伝をまとめて後世に伝えることを目的にした」と述べています。『古事記』は天皇家のプライベート文書であり多く神話を題材としていますが、『日本書記』は「王朝の公式な歴史」をプライドのある歴史とするために中国王朝との外交関係を強く意識する目的で作られたものである、という違いがあります。

しかし、日本書記は、天皇の支配と正当性を強調する天皇記の性格が濃厚すぎて、今日の日本に求められる日本史の適格性があるとはいえません。今日の学問的な「日本史」に求められる「あるべき日本の歴史」とは客観的事実に基づき記述された真実の歴史であり、日本書記の用途とは本質的に異なるものだと考えられます。


記紀は、近畿の大和王権の天皇の神聖を際立たせるために皇統の万世一系を捏造したと考えられます。このため、九州や近畿に実在した複数の王権の存在を否定して歴史事実を隠蔽し、大和王権の神話や伝記として編集していると考えられるのです。記紀の皇国史観をそのまま日本の正史とする歴史教育のあり方をいつまでも続ければ非難に値するものがあると考えられますが、真実が意図的に隠されて記紀が編集されたことから歴史を再現することは容易ではありません。歴史の再現が出来なければ記紀の皇国史観を変えられないことは致し方のないことなのでしょうか。このことは誰の責任に帰するのでしょうか。

戦前の日本の歴史は、日本列島に縄文人が定住し縄文文化を作った。この文化がより高度な弥生文化に発展し、特定の支配者である大王(諸王を統率する王)を中心とする統一国家・日本を形成したという皇国史観のもとで、日本を神国とする歴史観を教育してきました。歴史の捏造といわれても仕方がない内容でした。

村社会の縄文人が、部族・氏族社会の弥生人(定住農耕文化)に発展をとげて、国家という概念を持ち、青銅器文化から鉄器文化に発展して強力な軍事力(鉄製武器・馬・馬具)を持つ大王に率いられた氏族が中央集権国家(大和王権)を建設したとする史観や様々な神話で彩色された神々の偉業を顕彰して国作りをさせた手法は歴史事実を隠蔽する手法でした。

空白の4世紀(ヤマト建国の時代)が明けた5世紀に、ヤマト朝廷が朝鮮半島の三韓(馬韓・弁韓・辰韓)に軍事力を持って介入して侵略する力があったとする史観が高句麗の『広開土王の碑』に記述されています。この拓本には数か所に文字の欠損があり、読み方や内容の受け取り方に違いがありますが、ヤマトが朝鮮に次々に軍団を派兵する国力があったことは認められると考えます。3世紀後半頃に誕生したヤマトの象徴と考えられている統一規格の墓・前方後円墳が4世紀には東国にまで伝播していたことから、東国の多くの首長(王)がヤマトになびいていたことが分かります。ヤマトは東国の精兵を動員して朝鮮半島に派遣し既得権益の拡大を強く意識していたことが考えられます。3世紀以前に、ヤマトの正規軍団が朝鮮半島に侵入していたという歴史観はほとんど考えられません。朝鮮半島は中国や西アジアからの避難場所であり、日本は中国や朝鮮半島、また西アジアからの避難場所であったことがほぼ推定されているからです。風下(日本)から風上(中国・朝鮮半島)に向かう逆流現象の証拠が揃えば新発見の対象になると考えられます。

軍事力は最新武器を整備し、戦略・戦術を研究し、兵員の戦闘訓練を積んで、総合的な戦闘能力を高いレベルで維持する努力が必要です。しかも軍事力を使うことなく、国際協調の外交努力を重ねて国益を維持する努力をすることを理想とするものです。国と国の攻防戦には勝っても負けても深い痛みを覚悟しなければなりません。4世紀のヤマトが朝鮮半島に侵入した政治的な要因が解明できれば、日本と朝鮮の因縁の関係性が見えてくると考えられます。

戦闘を忌避する生き方をした民族は、勝者に全てを奉げ、全てを失う覚悟が必要です。古代の朝鮮半島では、敗者の王族、有力者は徹底した殲滅を受けましたが、亡国の民もまた奴婢となる定めでした。戦争に負ければ滅びるか、奴婢にされるか選択の余地がなく、子孫を残せない運命をたどりました。運よく逃れられた者は、亡国の民となって勝者の手が届かない安全な土地にたどり着いて、自ら生きるすべを探さなければなりませんでした。

避けることができない緊急事態になってから、身の危険を感じて防衛力の必要性を痛感してもすぐには実現できる性質のものではなく、それは不可能です。軍事力を軽視したり忌避してきた民族が他国の挑発や侵略を蒙ることなく、平和な社会を維持できると考えることは空虚な妄想にすぎません。

世界最大の大帝国ローマは、驕りと慢心で平和ボケしたローマ人が軍人となることを忌避して異民族の傭兵に軍事を委ねたことで滅びました。軍事力の劣勢は他国の干渉や挑発、略奪や侵略の意図を防ぐ能力がないことを意味しています。不毛な争いでしかない資源や国土の奪い合いを、話し合いで解決して恒久的な平和を築いた国家はなく、そのような歴史はありません。一方の満足は片方の不満要素になるからです。

古代社会は氏族や民族の違いが資源や領土の奪い合いを引き起こす典型的な弱肉強食の世界です。防御を怠れば、未来を喪失する運命に直面する世界でした。軍事力は生き残るための最大の防御手段でした。軍事力のない王族に率いられた民には悲惨な未来しかありません。日本列島の在来種と考えられている縄文人が鉄器文明を発明し、朝鮮半島に軍事力を行使して侵略行為を実行できる能力があったなどという戯言は信じられません。皇国史観に束縛された歴史家や行きすぎた国粋主義や愛国心が間違った歴史観を育ててしまったと考えられます。

基本的には、外交と防衛は一体のものであり、経済と交易(貿易)は不可分のものです。いざとなった時でも国益を損うことがないように、十分な国力を整え、他国が自国によからぬ欲望を抱かないように毅然とした防御体制を整備しておかなければなりません。平和を維持する努力を続けながら、万一の場合でもあらゆる局面に即応できる国力を整備しておくことが国の基本的な責任です。

自分の頭のハエを追えない者が他人の争いに口出ししても影響を与えることはできません。また、ハエが寄ってくるにはそれなりの隙があるからだと考えることが肝要です。軍事力を放棄して外交努力するという考えは国際政治そのものが根本的に理解できていない証拠です。軍事力、経済力を背景に持たない外交は亡国の民の妄想です。「備えて用いず」道理に従って是々非々の外交努力を毅然とすることこそ国を維持できる本物の外交といえます。

古代朝鮮半島の軍事力は多数の狩猟民族が形成する北方系騎馬民族が主力軍を構成しています。日常の生活の中で狩猟採取を行ってきた民族は戦闘行為に熟練した民族です。農耕民族の歩兵を中心とする倭軍とは戦闘力が違いすぎると考えられるところから、倭軍も三韓からの渡来系氏族(弥生人・三韓に既得権益を持つ氏族)は、騎馬軍団を伝統的に常備する氏族によって構成されていたと考えられ、対抗できる戦闘力があったと考えられます。

 歴史的にはヤマトと大和は異なるもと考えられます。大和(朝廷)の表記は8世紀に成立したものです。また、日本という国号は689年の持統天皇の統治下で倭国から日本国に国号の正式な変更が認められています。このことは『旧唐書』(倭国・日本伝)に、「倭国とは、古の倭奴国なり」「日本国は倭国の別種なり」「日本は昔、小国だったが倭国の地を併せた」「倭国の名は雅でなくところから憎み、改めて日本とした」という入朝使節の説明であったが、その説明が自惚れが大で不誠実な対応であり、中国はこれを疑う、という記述があります。実態は、北部九州を拠点としていた倭国は中国から外交権を認めらた正当な承認国なのに、日本が無断で倭国を滅ぼして外交権を奪ったことを隠して事後承諾を求めて来たのではないかという疑いであったと考えられます。

ちなみに、天皇の名称は天武・持統朝の頃、君主の権威の高まりによって飛鳥浄御原令によって定められたと考えられるようになっています。3世紀のヤマト建国に始ったヤマト王権は近畿の諸国連合体から出発して、4~7世紀頃に徐々に諸豪族の勢力を牽制して押さえ込み、天武天皇の皇親政治から壬申の乱と大化の改新によって天皇の権威が確立されたと考えられます。中央集権国家を目指した「大和」が一人勝ちして、統一国家「日本」に変遷していく過程の時代であったと考えられます。持統が宣布した「飛鳥浄御原令」は、日本国という国号が対外的に承認(黙認)された最初の法令です。

大和は「ヤマト」とは読めないにもかかわらず、読ませてきたのは「倭国王権(北部九州と対馬、朝鮮半島南部を含む地域)」を「ヤマト王権(近畿の有力氏族の連合体)」に強引に引き継がせ、統一王朝の同一性を継承させた手法であると考えられます。倭を「和」に置き換えたことは明らかですが、これは万世一系の天皇が統治する正当性を主張する皇国史観を正統化するため卑字を捨てた自尊心の表れとも考えられます。ここでは倭国と大和は異なる国という立場で、倭国はヤマト王権(日本)に吸収されたという史観を取ります。

驚くべきこと、不思議なことは、4世紀頃のヤマト王権が軍事力の優勢な倭国(九州、瀬戸内海の勢力)を統一できたのは軍事力の優勢によるものではなく、実は宗教による祭祀の力によるものであったことです。考古学の考証と『日本書紀』の記述からは、最初にニギハヤヒがヤマトに舞い降り、その後を追うように神武が九州からやってきたことが分かるのです。発掘された埋蔵物から、最初に纏向に集まってきてヤマトを形成した勢力は、吉備、出雲、東海、北陸の氏族であり、考古学的には発掘された遺物(祭祀器具)から見れば、出雲より吉備の方がヤマト建国の貢献度が高いことが認められ、九州の影響は限りなく小さなものであったことが分かります。

しかし、軍事力を比較すれば、全面的な軍事衝突によってヤマトが勝利できる可能性は極めて低いものであったと考えられます。中国、朝鮮半島との交易ルートを持ち(ヤマトの交易ルートは微弱)鉄器の先進的な軍事力を所持する倭国を軍事力で攻略できる可能性は考えられません。極めて低いものです。神武はヤマトの祭祀王としての王権の禅譲をニギハヤヒから受けたものと考えられます。『日本書記』は、神武天皇の后が出雲神の娘から選ばれ、以降の数代にわたり出雲神の娘が后になったと記述していること、出雲の国譲りに際し大物主がヤマトに移りたいという条件を出し、ヤマトの祭祀の聖地・三輪山の御神体に祀られています。ヤマトに移った大物主がヤマトを造成したとことが第十大崇神天皇の時代、三輪の神大物主に神酒を献上したときの歌として、大物主がヤマトを造成したと謳いあげられているのです。

ニギハヤヒと大物主を同一視する説などでは、ニギハヤヒの出自は出雲と推測していますが、主要祭具が吉備形式であったことから、出雲と吉備には高い近似性があると考えられます。親子兄弟のような密接な関係性が疑われるのですが、では何故に、『日本書紀』は吉備を歴史から抹消し「出雲神話」の中に押し込めてヤマト建国の事実関係を隠滅したのでしょうか。「出雲神話」は、ヤマト建国の真相を封じ込めるレトリックに使われた可能性が否定できないと考えられるのです。アマテラス族(天孫)と出雲、吉備の本当の真実はどのような関係性だったのでしょうか。ニギハヤヒをキーワードにしてその事跡を比較して推察すれば、とても高い近似性、もしくは同族ではないかという疑いが考えられるのです。

邪馬台国が魏志に出現する以前の古代倭国(小国家群)の成り立ちを概観すれば、中国江南地方の呉、越の人々が亡国の民となって朝鮮半島南部の三韓に移住した人々であると考えられます。中国の秦、漢、魏の王朝から「韓」や「倭」と呼ばれた人々です。呉と越の戦争で敗れた呉の亡国の民が流人となって初めに移住して「韓」の集団を形成し、楚と越の戦争で敗れた越の亡国の民が遅れて移住して「倭」を形成したとする説を取ります。倭人は三韓(馬韓、弁韓、辰韓)地域に韓や北方系の穢(ワイ)族やパク族等と雑居し、弁韓の伽耶地域で複数の倭人氏族単位の部族国家を形成したと考えます。伽耶地域は鉄の一大産地で資源の奪い合いが激しく行われ地域です。中国の秦、漢、魏の時代に東海の離れ小島の印象しかもたれていなかった倭国(その実体は統一国家とはいえない小国国家の集合体)の存在が、国家として認識されていたかどうかさえ疑わしいといえるのです。

倭は伽耶に複数の氏族が王と名乗る小国家を形成しましたが、金官伽耶(のち新羅に吸収されるが、王族の金氏が朝鮮半島を統一し「統一新羅」の王となる)が伽耶(加羅)諸国の中心地でした。金官伽耶は「狗邪韓国」ともいい、「韓」と「倭」二重国家でした。韓の加羅連合の一国であると同時に倭の一国でもあり、北九州や出雲、北陸地方の倭人との交流が活発であったと考えられます。日本海側の福井県、石川県、富山県、新潟県は古代では「越」と呼ばれる国でした。越を発生とする倭人は、呉を発生とする韓が九州北部に先着して倭の諸国を形成して密集している地域であったことから、これを回避して出雲をはじめとする日本海側に上陸して入植したと考えられます。

司馬遷の『史記』、『魏志倭人伝』、『晋書』、『梁書』に、倭人は「呉の太伯の子孫」であるという記述があります。太伯は周王・古公亶父の長男でしたが三男の季歴に王位を継がせる為に江南に身を隠し初代の呉王となったという伝説上の人物です。日本人の祖が太伯とする説は中国・朝鮮の儒者に引き継がれました。後述の『新撰姓氏録』には、「松野連」は呉王夫差の後(子孫)と記述されていますが、鹿児島神宮は全国の神社の中では、唯一、太伯を祭る神社です。余談ながら、水戸光圀は「日本人の祖は太白」という伝承を聞いたことをきっかけとして(皇国史観の立場の)『大日本史』を編纂したと伝承されています。

太伯は、紀元前473年に滅亡した「呉」の避難民との関係性を示すものです。臥薪嘗胆の故事で知られる呉王・夫差と越王・勾践の存亡かけた因縁の戦争で呉が滅びますが、避難民が倭人の系統にあると考えられます。越も楚に敗れ亡国の民は朝鮮半島と日本列島に逃れましたが、楚も秦に滅亡させられて同様に逃れています。呉人と越人は、朝鮮半島と日本列島で氏族(豪族)を形成して新たな既得権益の奪い合いで争ったのではないかと考えられます。

倭の諸氏族は三韓の領土と資源の奪い合いから圧迫を受けて日本列島に分国を形成し活路を見出していきますが、当初の倭国というまとまりを形成した倭人国家「倭」は統一国家ではなく、氏族王の複数国家の連合体と考えられます。邪馬台国は倭の中の一つの有力氏族の連邦国家と考えられます。弁韓(伽耶諸国)が連邦制から馬韓、辰(秦)韓のように統一国家を形成できなかったのは倭人が統一を拒んだからであったと考えられます。驚くことに、邪馬台国が朝鮮半島南部にあったという無視できない説もあり、邪馬台国論争は尽きません。

倭の領域は、三韓の南部の伽耶地方から壱岐・対馬を含む北九州地域であり、中九州、南九州には及んでいなかったと考えられます。朝鮮半島南部地域(経由を含む)から、遅れてきた氏族が南九州(日向)に移住し天孫族を名乗っています。後に東遷して、ヤマトに至り、これを吸収して大和を建国する氏族です。ただし、倭国の勢力は、百済、新羅が建国される過程で、半島の圧力を受けて、日本列島に追い出された氏族と考えられます。

三韓には、朝鮮半島北部より高句麗の勢力に圧迫されたツングース系穢(ワイ)族が南下して雑居しましたが、この穢(ワイ)族を核とする北方系の諸民族の混血によって朝鮮民族の租となる人々が形成されたと考えます。倭は日本列島に活路を見出し、韓は百済と新羅に分断されていきますが、百済には高句麗の王族が分流して百済王となります。百済は高句麗と韓、倭の人々が雑居し、新羅は王族が韓と倭、庶民がツングース系穢(ワイ)族(朝鮮民族の租となる人々)や北方系諸族が雑居していた地域です。百済と新羅は民族、習俗、言語が異なっていました。

ヤマトは、3世紀から始まる古墳時代に奈良盆地などの近畿地方中央部に出雲、吉備などを中心とする諸王権(有力氏族)の祭祀を集合させて作った地域連合体と考えます。4世紀(いわゆる空白の4世紀)以降に南九州(狗奴国?=鹿児島、宮崎、熊本周辺)の天孫族(後述)が東遷して近畿地方の諸王権を次々に統合して7世紀頃に中央集権国家(大和王権)を成立させたと考えられています。

記紀は皇室の血統とする天孫族(朝鮮半島由来のアマテラス族)の皇国史観の妨げとなる北部九州王権(倭国=福岡県、佐賀県周辺)、邪馬台国(九州説)、出雲王権、吉備王権、物部王権、葛城王権などの諸王権の存在を意図的に隠し、天孫族渡来の以前に存在した諸王権との関係性を何も語らず不記載にする方針をとっていると考えられます。これらの中には、記紀を天皇家に都合のいいように作り変え、部分的に神話として組み込まれたものがあると考えられます。

記紀に邪馬台国の記載がないことなどから、その存在を重要視していないことが明らかであり、中国の史書『三国志』(通称『魏志倭人伝』)に記述された邪馬台国は天皇家の歴史とは考えられない合理的な理由があります。大和王権が邪馬台国を前身とする存在であれば、記紀が邪馬台国の存在を不記載にする理由がなく、神武東征の神話が何故に作られたのかの説明ができなくなると考えられます。

『魏志倭人伝』によれば、180~190年頃、30ケ国ほどの小国連合が成立し卑弥呼が王(政治王ではなく祭祀王との説がある)に立てられ、魏に遣使して「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚を授けられたと記述されています。当時の倭人は稲、からむし(麻の一種)を植え、桑の木を植えて蚕を飼い、糸を紡ぎ、布や絹、真綿を作っていた。牛や馬、羊などの家畜はまだいないが米で税を納め、交易の市があり、身分制度があった。牛馬は大陸からもたらされたものであったことが分ります。

纏向遺跡は、180年代後半頃より始まり、4世紀の中頃の350年頃、突然に消滅したと考えられていますが、纏向遺跡は考古学上の出土品などからヤマト諸王権の政治的な中心地ではなく、祭祀の連合体の中心地ではないかと考えられています。初期ヤマトの祭祀は出雲王権や吉備の氏族が中心とするもので、ここで諸王権の祭祀、墓制を統合して前方後円墳を生んだと考えられます。纏向遺跡の中に3世紀中頃の構築と見られる最古級の前方後円墳の箸墓古墳があり、これを卑弥呼の墳墓とする邪馬台国近畿説がありますが説得力がないと考えられます。

239年、邪馬台国の女王卑弥呼は、自国の南に位置する男王の国・狗奴国との敵対関係を有利にする目的で魏に朝貢したと考えられています。1784年、福岡県の志賀島で発見された「漢委奴國王」の印(真贋は未確定)は、中国の冊封体制下に入ることで、中国の後ろ盾を得る冊封国となって倭国での立場を有利にしようとするスタンドプレイではないかと考える説があります。

通説では、「漢委奴國王」の委を倭に読み替えていますが、ここは字句とおりに受けとり、漢から委(まかされた、ゆだねられた)奴(卑語)國王(の印)と読むべきではないかと思います。常識から見れば、邪馬台国などという自尊心のない卑語の国名を自ら国名にするなど考えられず、邪馬台国は中国の尊大な中華思想の表現方法としか考えられません。これに続く倭国の氏族小国家の国名も同様です。

248年、卑弥呼の死後、男王が立ったが国が乱れて治まらなくなり(いわゆる「倭国大乱」)、13歳の台与が女王になって治まったという伝承があります。しかし、倭国大乱は三韓が馬韓と辰韓の領土と資源の奪い合いの中で、弁韓(伽耶諸国)が滅んで百済と新羅に収斂されていく混乱の状況を意味しているものと考えられます。倭國は朝鮮半島の本貫地を失い三韓の権益を喪失して北九州に逼塞していく過程であったと考えられます。ゆえに、後年、朝鮮半島に何度も出兵して本貫地の回復を試みた事跡(広開土王碑など)が統一新羅の朝鮮統一まで断続的に続いたことの理由を語っていると考えます。

古代史の研究者は邪馬台国にロマンを感じて「邪馬台国」の所在地に強いこだわりを持つ傾向がありますが、魏志倭人伝の記述の位置関係は不詳であり、邪馬台国は日本国の成立に大きな影響を与える存在ではないと考えます。この頃、魏に派遣できる王権が近畿に存在し魏の冊封を認められる実力があったなどとは考えられません。記紀の「神武東征神話(真贋の各説あり)」は南九州勢力が近畿を侵略して王権を築く物語ですが、第10代応神天皇の東征物語を分割して投影させ、天孫族の存在を古く見せるためのレトリックと考えられます。

邪馬台国は、敵対勢力の狗奴国によって滅亡(3世紀中頃から4世紀初頃)させられたとする説があります。この狗奴国勢力が東遷して河内に応神王朝を形成したとする説(神武東征は贋作)があります。なかでも、水野祐氏の説は文献資料を精査した結果から、三王朝(古王朝「三輪王朝」、中王朝「応神王朝」、新王朝「継体王朝」が交替したとして、万世一系の天皇が統治する皇国史観は意図的な創作であると考えるものでした。このことは、考古資料の検討からの仮説として、4世紀後葉から5世紀に王権の交代があったとする「勢力交代論」とは方法論の違いがありますが関連性を持つものと考えられます。

近畿地方に統一国家を初めて形成する勢力になった氏族は、先着勢力が各地に定着する北九州を迂回し、遅れて南九州(日向地方)に到達して拠点を構築した勢力(天孫族)であったと考えます。邪馬台国は先に北部九州に移住して30余国の小王国を形成した複数氏族の一つであり、北部九州連合を構成する一国と考えます。倭国は中国の中華思想から見た視点です。

「天皇」という称号や「日本」という国号、「大嘗祭」という宗教儀礼が制定されたのは、7世紀後半の「天武天皇」、その妻の持統女帝の時代でした。天武天皇が日本書紀の編纂を命じ、この頃から始まったと通説では考えています。「大化の改新(645年)」や「壬申の乱(672年)」の出来事は古代天皇制の完成段階の重要な勢力争いでした。これらの日本書記の記述を疑うことなく受け入れて記述してきた国定教科書の存在が捏造の歴史を放置させてきましたが、確たる証拠がなければ改変できないのが教科書の態度です。

しかし、戦後の多くの歴史研究者は、日本書記の記述内容には事実関係を隠匿するためのレトリックが随所にあることを知り、真実を研究する態度を取るようになりました。今日では特殊な立場にある例外者を除き、記紀を信頼して歴史を論じる研究者はほとんどいない状況にあります。天皇の正当性や王権神話(天皇を「神」とする史観)の体系化が7世紀後半頃から強力に推し進められてきた歴史事実が何を物語っているのかを見つめ直す必要があるのではないでしょうか。