(20)-3空海の「入唐求法」とは

空海の留学直前には、「空白の7年」があり、この間の空海の行跡を空海自身が何も語らず謎とされてきたことで、空海研究者の間で「空白の7年」に何があったのか、これを知ろうとする関心が高まりました。この間の空海の事跡を語る歴史資料が発見されていないことから、さまざまな仮説が独り歩きをしています。

事実関係を証明する資料がなければ、学問的な研究とは言えません。しかし、それを知りながらなをも、この「空白の7年」に対する仮説を試みる者がでてきます。「空白の7年」は、空海が留学僧に選任される難条件をクリアして、突如として第16次・遣唐使の随行員として登場する直前の空海の事跡を知ることになるからです。

実は第16次遣唐使船は803年(延暦22)4月16日に難波津を出帆したのですが、瀬戸内海で暴風雨にあって甚大な被害を蒙り、この年の派遣は中止となりました。嵐にあった者は不吉とされたことで渡航禁止となった留学僧の欠員補充が急遽行われ、新たに空海が選任されました。第16次遣唐使船は、延暦23年5月12日難波を出帆し、7月6日に五島列島の田浦から唐に向けて出帆し日本を離れましたが、空海の留学はまたとない僥倖の上に成立したのです。しかし、7月7日には暴風雨に遭い1カ月の間、海上で遭難することになります。船には風見師が同乗して出帆の判断を下していましたが、当時は台風の気象知識がなく、単なる偏西風の知識しかなかったと考えられます。

このときの遣唐使の動向や日程が『続日本後紀』に書かれています。この遣唐使船団は4船で構成され600名が乗船しましたが、第1船に遣唐大使・藤原葛野麿が、第2船に副使・石川道益(入唐後に没)が乗船しました。空海は第1船に乗船し、最澄は第2船に乗船しています。第1船は1ケ月海を漂い、帆は破れ舵は折れて九死に一生の状態で福州の近くの赤岸鎮に着岸しましたが、あまりにもみすぼらしい状態であったこと、国書など身分を証明となるものを所持していなかったことから、日本の遣唐使船であることが信じてもらえず海賊と間違われて拘留されています。

遣唐大使が三度も福州長官に弁明書を差し出しましたが相手にされなかったことで、空海が遣唐正使に替わって「大使の福州の観察使に与ふるが為の書」(この題名は弟子・真済が後に付け『生霊集』に集録)を代筆しました。この文の書体、文体、表現法が福州長官・閻済美を感動させたことで遣唐使として扱われることになります。ところが、これによって長安へ行くことを許可された大使一行22名の中に空海の名前がなかったことから、今度は自分のために、長安に上京できるように再び「福州の観察使に請うて入京する啓」(『性霊集』巻5)を提出して許され長安に行くことができました。空海が入京を拒否された理由が不明ですが、空海の身分に行き違いがあったのではないかと考えられます。

大使と空海の一行23名は11月3日に福州を出発し、12月23日に長安に到着しました。24日に大使は皇帝・徳宗に国書(第2船の副使が所持)及び貢物を奉げ、25日には皇帝の接見をうけて、遣唐使の大任を果たしています。

最澄が乗船したの第2船(判官・菅原清公)は、同様に遭難の一歩手前の状態を乗り切って、運よく予定航路に近い明州・寧波府に9月1日に到着しました。最澄は体調回復の休養を取って、長安に向かう遣唐使一行(11月15日長安に到着)と別れ、9月15日に弟子の義真を連れて目的地の天台山に向い、24日に台州に到着しています。このとき、台州の陸淳が天台山修禅寺の道邃を竜興寺に招いて『摩訶止観』を講義している最中に巡り合うことになり、10日後に天台山に到着して国清寺の行満から天台の法門を30日間にわたって伝授されています。

第3船は行方不明で難破沈没したものと考えられ、第4船(高階遠成が乗船)は時期は不明ですが中国に到着しています。空海(第1船)と最澄(第2船)が渡海に成功したことで、平安仏教(空海の真言宗と最澄の天台宗)が花開くことができたのです。遣唐使は次の第17次(中止や計画だけで終わったものを除く)で終了となったことから、この意味では、空海が突然に留学僧に選ばれ遣唐使船に乗船できたタイミングが絶妙であったことが分かります。帰国は、大同元(806)年10月のことでした。

最澄の身分は、すべての経費と諸費用の全額を国家から支給され、随行員を帯同できる身分の還学生(期間1年)、空海は滞在費用のほか全ての経費と諸費用の全額を個人負担しなければならない留学生(期間20年)でした。最澄と空海の身分差は歴然としていました。

ここで、空海が、個人負担の膨大な留学費と多数の経典群(書写)、仏像・仏具(密教法具)などの調度品を整えた莫大な費用(今日の価格換算で数億円~)をどのように捻出したのかという疑問がもたれることになり、さまざまな仮説が独り歩きするようになりました。

空海の七年間の空白は、空海自身が何も語らず、また、この期間の空海に関する情報が何にもないことから名づけられたものですが、これは意図的に隠された、または公にできない理由があったことを示すものではないかと考えられています。

多くの空海研究者は、この空白期間について、入唐を準備するために学問や語学の準備をしていたとか、唐に渡るための自己資金を蓄えるために多くの苦労を重ねて各地を旅しながらお布施を募ったのではないか、などという仮説を述べています。しかし、20年の長期留学生が必要とする多額の金銭(今日の換算で数億円相当と考えられる)が当時は無名の空海に布施などの手段で調達できるとは考えられません。何よりも、無名の空海が国家から留学生に選ばれる保証はなく、空海の卓越した能力があればできたはずだと簡単には考えられません。南都六宗が持つ独占的な推薦枠を獲得しなければならなかった理由が説明できないと考えられます。

空海は、23歳から30歳まで消息不明になっていましたが、 一介の私度僧であった空海が、30歳になって現れたかと思うと、延暦23年4月7日に出家得度(空海・生涯と思想・宮坂宥勝、ちくま学芸文庫、2011年)し、あっというまに国家公認の僧となるために東大寺戒壇院の受戒(同年4月中旬~5月初旬頃)を済ませ(入檀の推薦は誰がしたのか)、難破で渡海に失敗した遣唐使船(延暦22年4月)から下船させられた留学生が失格して空海に差し替えられ、空海が正式な留学生に選任(延暦23年4月下旬頃)されて、延暦23年5月12日の遣唐使船に乗船しています。三つの難関条件を絶妙のタイミングで見事にクリアできた空海の僥倖には権力者の強い意思が働いたのではないかと考えられます。このスケジュールから見れば、留学費の準備は万端であったこと、すべてが予め決まっていたかのように何事もなくスムーズに運ばれたことが分かります。

この仮説に立てば、空海が20年の留学期間を2年余に自主短縮して帰国した理由も明らかです。空海は当初から20年の留学期間の縛りを意に介していなかったのではないかと考えられます。何よりも重要なことは密教の根本を学ぶことが第一であり、その他のことは期間短縮の合理的な理由を明確にして朝廷の理解が得られる手続きを踏むことで非難を受けても解消できる自信があったと考えられます。もし、空海が留学期間20年を守っていたら帰国できたかどうか、空海の真言宗が成立したかどうか誰にもわかりません。また、正統な密教の伝法潅頂が終われば、20年も留まる必然性もなかったと考えられます。

空白の7年間は、①東大寺戒壇院への入檀許可(803年4月9日入壇/国家公務員資格の取得)、②留学生に選ばれる保証(803年5月12日遣唐使船に乗船)、③20年の留学費用+空海コレクション(大量の経典、曼荼羅・仏具、など概算でも数億円)を持ち帰ることができるほどに多額の経費の調達、などの三つの条件を同時に保障するものでなくてはなりません。この三つの条件は、強力な国家の保障または遣唐使人事を一手に握る人物の関与がなければ解決できない内容であると考えられます。後に、空海は810年に東大寺別当(官職名、現在の管長職、他の職位にある者が兼職するときの職名)や乙訓寺別当、大安寺別当に任ぜられるなど、京都・奈良の複数の大寺院の別当職を任ぜられています。

このような仮説の立ち位置からは、若干20歳の空海の出家宣言の書といわれる『聾瞽指帰』の読み方もおのずと違ったものになります。巷間で言われる「大学を中途退学をして家族の非難を浴びた出家の理由を正当化したもの」または「出家の気持ちを抑えがたくその理由を吐露したもの」という説明よりは、「特定の権力者に対して空海の能力や人物像をアピールするものであった」とする視点に妥当性があると考えられます。

叔父の阿刀大足は空海の能力を高く評価していたと考えられますが、阿刀氏は空海を特命ミッションの担当者に推薦できてもこれを決定できる立場になく、高位の決定者に対し空海の能力を示す必要があったのではないかと考えられます。『聾瞽指帰』の大人びた見識や論旨の明白さ、優れた書風や書体は、空海の人物像を決定者に質量ともに十分アピールできる内容として認められるものであったと考えられます。

空海が留学生に選任される三つの必要不可欠条件を次々にクリアできた理由は、特命ミッションを十分に遂行できたこと、もしくは、これと同様の高い評価を受けたことの褒賞であったと考えられます。空海の特命ミッションとは一体何であろうか。ちなみに、『聾瞽指帰』は空海によって改定がされ『三教指帰』と改題されています。なぜでしょうか。

空海に渡唐留学の勅許が下りた経緯は不明です。空海自身は、後年、「先帝(桓武天皇)の特別のはからいで幸いにも大唐へ渡って勉学することができた」という感謝の言葉を述べていることから、通常の手続きにによる選任ではなく、桓武天皇の勅許により突如として決まった、と考えられます。当時はまったく無名であった空海が入唐僧に抜擢され、居並ぶ南都六宗の推薦僧を差し置いて、勅許を得ることは容易ならざることであったというべきです。これにはどのような裏事情があったのでしょうか。桓武天皇が特別に認めた空海の資質とは一体なんであっただろうか興味が尽きません。これを仮説することは許される許容範囲と考えます。

空海の中国語の語学力は卓越したものでした。中国人と通訳なしで不自由なく会話ができたというレベルという程度を遥かに超えるものであり、中国の科挙を合格した中国の上級官吏が空海の漢文能力に驚愕して敬意を払うというハイレベルの中国語の教養(詩文など)を身に付けていました。空海が二十歳まで学んだ大学で身に付けた教養(唐語や書法など)で到達できるレベルではないと考えられます。

空海はこの中国語の語学力をどのような方法で身に付けたのでしょうか。ここにも阿刀氏の特別なサポート体制が取られたのではないかと考えられます。このように卓越した能力は、南都の諸大寺の特別な配慮、南都の諸大寺に来ていた中国僧の協力が必要だと考えられるからです。空海が探し求め続けた密教を短期間で習得しえた理由の一つが、卓越した語学力と理解力、記憶力にありました。空白の7年間にこれらの習得期間があったと考えることは自然で違和感がありません。
教養の高さを感じさせるこれらの能力は整えられた学習環境の中に育まれるものです。単なる中国人との会話や書物を独習しただけで身に付くものではありません。山林修行の中では身に付かない性質のものです。空海には空白の7年間にこのような学習環境があったと考えることはとても自然なことだと考えられます。

高野山大学(大学院)は、真言密教研究の中心地の一つです。密教蔵書では日本一(ということは世界一)といえる貴重蔵書を保存してきた図書館を持ち、密教研究部門では超一流の教授陣を揃えた教育(研究)機関と考えられます。その教授陣の大半が現職の高僧であるとともに当代の一流の学者、研究者であるところに特徴がありますが、教相(理論)と事相(実践)とが両輪となった教育体制がとられていると考えられます。ここで、空海の系譜につながる今日の学僧が、空海の「空白の7年」をどのように受け止めてきたのか、どのような空海像を思い描いてきたのかを考えてみることは欠かせない重要な要素となります。

これは仮説であるという性格上、何らかの形で書かれた全ての仮説を紹介することは不可能ですが、この中で穏当であり、かつ蓋然性が高い要素を持っていると考えられる仮説をランダムに抽出して紹介します。検証可能な証拠に基づくものばかりではない、という点では控え目に扱わなければならないものであるところから、氏名は省略することになりますので、ご了承ください。

これらの説の特徴は、空海の渡唐(留学)の真の目的がなんであったのかというところから、空海が抱き温めてきたものに視点をあて、空海の研究姿勢や緻密な思考力、行動力を考えながら、空海が持ったであろう蓋然性の高い事柄、それは、密教の本質を具体的に知ることができる内容とは、空海にとっては何であったのかという視点に立つ合理的な手法と考えられます。

「空海は最澄の留学を知り、自身も私費留学を決意した」などという根拠のない仮説を主張する者がいます。「最澄と空海の最初の出会いはいつか」という問題がありますが、この仮説を示す証拠がありません。もし、これを証明する証拠がでてくれば、新発見です。現在、分かっている二人の出会いは、809(大同4)年8月24日付けの最澄から空海に宛てた現存する最古の手紙です。空海は留学期間を短縮して帰国したことで、九州・大宰府観音寺に留め置かれるという処置を受けていましたが、大同元年(806)9月10月初旬には帰朝していたと考えられます。806年(大同元年)空海は、わずか2年の留学を切り上げて帰国する決意を固めましたが、このとき、旧知であった遣唐判官・高階真人遠成から空海と橘逸勢の両名が帰国の許可を受けています。

このことが『新唐書』日本伝に記述されています。「貞元末(805年)、その王は桓武といい、遣使が来朝。その学士の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以って勅許す。」がこれです。「二十余年を経て」という間違いがありますが、空海の帰国は唐・皇帝の勅許によるものであったことが分かります。

空海は、規則破りの「欠期の罪」を犯しましたが、2年後に中国皇帝への祝賀使として入唐してきた高階遠成が遣唐使船の戻り便に乗船することを許可したのは、旧知の空海に高い人物評価があったからだと考えられます。また、空海が留学僧に選任された特別の経緯が理解されていたとも考えられます。乗船を許可した(遣唐大使や)遣唐判官・高階遠成もまた罪を犯すことになるからです。両名には「欠期の罪」を回避できる目論見があったものと考えられます。

空海は、大同元年10月12日付けで『請来目録』 の提出を高階真人遠成に託しましたが、空海は早期帰国した「欠期の罪」を詫びる書を上表分として添えています。高階遠成は12月13日に入京して平城天皇に報告していますが、平城帝は『請来目録』を最澄に見せて下問したものと考えられます。最澄は、空海の『請来目録』のコピーを所持していました。

空海が許されて入京できたことが、大同4年7月16日付けの太政官符で分ります。空海が入京できたのは早くても8月の初めと考えられます。最澄から空海に宛てた手紙には、「謹んで啓す。借請法門の事」で始まり、12部の経典を箇条書きにした後に、「右の法門、伝法のための故に暫く山室に借らん。敢えて損失せず、謹んで経珍仏子に付して、以って啓す。大同4年8月24日、下僧最澄状上」とあることから、最澄は空海が朝廷に差し出した「請来目録」を書写して、空海が入京する日を待っていたことが考えられます。

「空海は最澄の留学を知り、自身も私費留学を決意した」という説は、最澄の留学目的が法華経に心酔して「中国の天台宗の教理と論書類を請来すること」が主目的とするものであったことから類推した仮説と考えられます。法華経はすでに鑑真によって請来され諸宗で学ばれていました。世間には誤解があるようですが、法華経は諸宗でも研究されていた経典で、天台宗の専属ではありません。最澄の中国・天台教学の移植は、端的にいえば、この宗の論拠「法華文句、法華玄義、摩訶止観」を権威のある天台山で学び、その教理の本旨や理論体系を理解して持ち帰る(移植)ことであったと考えられます。最澄は1年留学の還学僧でした。

ところが、空海の密教の請来は、このような単純な移植を目的とするものとは到底考えられません。密教は、一部の経典類が遣唐使船で請来されていましたが、サンスクリット(梵字・悉曇)や密教儀軌、修道システムを理解できる僧はいませんでした。日本に根を下ろしていない未知の最新仏教でした。この説の主張者は、法華経の体系と密教体系の根本的な違いが全く理解できていない者の説であることが明白です。密教は、教相(理論)と事相(実践)を両輪とする膨大な密教体系を持ち、教義や論書を学んだだけで日本に持ち帰り、真言密教の緻密な体系を構築できるなどという簡単なものではありません。密教の核心はその実践的な修道システム、特に、伝法潅頂にあります。ここに空海と最澄の仏教研究の根本的な相違点を見落としている決定的な欠点があると考えられます。両人の仏教研究の姿勢の違いが、空海と最澄の交流の中で徐々にすれ違いを起こす素因であり、後に、空海と最澄が別離する原因になったものと考えられます。

空海の真言密教は、大日経や金剛頂経などの密教経典を学び、著名な学者や密教僧の論書を学んだだけでは概要レベルの理解にしか到達できません。天台宗にも緻密な台密の体系があるので、これを実践した密教僧には十分に理解できる内容だと考えられます。法華経を修行の中心にしてきた僧には理解できない内容があると考えられます。真言宗は全員が密教僧ですが天台宗には「止観業(法華)」と「遮那業(密教)」の二門があり、修道システムが根本的に異なるところから僧侶にもいろいろと違いがあると考えられます。

話を元に戻します。渡唐前の空海は、大日経の「住心品」第一は読解力よって理解できたが「具縁品」第二以下からは実修部分となり、師資相承の伝授がなければ理解できないことから、中国・唐の長安に行き密教のしかるべき師に直接会い教授を受けたいと念願していたのではないかと考えられます。これは空海の『御遣告』からの解釈です。

空海の留学目的は、『性霊集』巻七に「仏弟子であるわたし空海は、すべての根源である仏の境地にたどりつこうと願っていましたが、たどるべき道がわからず、涙にくれていました。すると心が通じたのでしょうか、真言の深い教えに接することができました。しかし、経文(『大日経』)を読んでも、まったく理解できません。そこで教えをもとめて中国を訪れようと決心したのです」と記述されています。これは空海の「還源の思い」といわれているものですが、空海が入唐を決意したのは、①山林修行の密教的な行体験(“求聞持法の修法”と“明星の来影”の二つの体験)の探究と②久米寺の大日経との出会いによって、これまでの経典にはない驚くべき教えと修行法を直感したからであったと考えられます。

密教は、般若経典の「空の思想」、華厳経の「華厳思想」のなどの理解力や基礎能力を前提にしていると考えられます。この説では、渡唐前の空海が東大寺で『八十華厳』や『六十華厳』を比較対照しながら徹底的に学んだと考えています。法蔵の『(華厳経)探玄記』や『(華厳)五教章』をそのわきに置いて何度も熟読したと考えています。空白の7年、空海は東大寺の学僧に従い相当深く華厳思想の研究をしていたと思ってさしつかえない、と述べています。

この説は、空海が言霊(ことだま)言語と考えたサンスクリット語(梵字、悉曇)の取得について言及していますが、説得力のある見解だと考えられます。空海の渡唐動機を「虚(むな)しく往(ゆ)いて実(みち)て帰る(『性霊集二』恵果碑文)」の意味と両立して考える説です。空海が渡唐によって切実に良師を求めた動機は、梵字・悉曇すなわちサンスクリットの修得と真言・陀羅尼の(本格的な)勉強、そしてそれをもとにした儀軌類の理解や作法の伝授にいたる期待こそが動機の一番であった、ということに躊躇しない。と述べています。

空白の7年間、空海は大安寺に出入りする渡来僧をつかまえては悉曇・梵字・真言・陀羅尼を少しづつでも学び、不首尾ながら多少の参考文献を手に入れ、読み書きのほか唐語や和語への変換を徹底して習ったのではないだろうか。しかし、これがきちんと取得できなければ自分が向かおうとしている密教世界が不備に終わる、そういう危機感やあせりがつのるばかりであったと思う。だから、長安における空海のサンスクリットの勉強は日に夜を徹して行われたと思われる。たった2年足らずであそこまで、と思わせることが『三十帖策子』に朱で手書きされた書き込み内容のレベルや後の『声字実相義』の理解力に見える。今、大学などで学べるサンスクリットにしても、入門から2年で空海のレベルに達するのは無理である。空海とてサンスクリットには時間がかかったはずで、空白の7年はちょうどよい時間である。と述べています。

密教の行法には、言霊言語のサンスクリット語が多用されています。空海は、真言、・陀羅尼が持つ言葉の意味やイメージが、行者と仏とが一体(入我我入)になる大事な秘儀のカギを握っていることについて、強い関心を持ちながらも、おそらくわからずに悶々としていたのではないか。と述べています。なお、空海は入唐後に『金剛頂経』系の存在を知り、恵果阿闍梨に教えを受けなければ胎蔵系と金剛頂系を統合する正統密教に出会えなかったことを知り、遣唐使に随行できたことが千載一遇のチャンスであったことを深く感謝したものと考えられます。

その効果の一端を『三十帖策子』をあげて説明しています。『三十帖策子』の中に梵字・悉曇にかかわる資料がある。諸処の行外に空海の赤字の書き入れがあるが、これを注意深く見ていくと、空海のサンスクリットの(修得)レベルが見え、それは相当な実力がなければ書けない注記である。と述べています。さらに、『声字実相義』のサンスクリット複合語(六離合釈)の正確な捉え方やその概念をメタファー(metaphor 隠喩//直接表現にかえて属性の類似するもので代置する間接表現法)して声字とのかかわりを説く発想からしても並々ならぬものがうかがえる、と述べています。

空海は、長安の西明寺に入り、カシミール出身の般若三蔵からサンスクリット、梵字・悉曇を、インド僧・牟尼室利三蔵からやインド哲学や文法、修辞、音韻、漢訳の特訓を受け急成長しましたが、その理解度があまりにも早く(3ケ月程度)両三蔵を驚嘆させています。この後、基礎力をつけた空海(32歳)は、入唐翌年6月上旬青竜寺を訪ね、恵果(59歳)阿闍梨(密教の二つの流れ、胎蔵と金剛界の正統な継承者、第7世)に面謁を許され(般若三蔵は恵果の弟子であり、情報提供があったと考えられます)ました。一介の留学生がインド密教の正統な法灯を伝える大唐帝国の国師・恵果阿闍梨に面会が許されるなどということは一般的には考えられないことでした。ここで空海は稀有な能力を認められ、「我れ先より汝が来ることを知りて相待つこと久し。今日相見ること大(おおい)に好(よ)し、大に好し。報命竭(つ)きなんと欲すれども、不法に人なし。須(すべか)らく速やかに香花を弁じて灌頂壇に入るべし(『請来目』)」という破天荒な待遇を受けています。諸外国からの幾多の学僧や直弟子1000余人を差し置いて空海に伝法潅頂の入壇が許されたのですが、恵果の期待感が示されていることから、すでに空海の資質が認められていたことが分かる出来事でした。

恵果は健康の衰えを自覚していたが、弟子は千人余いるものの付伝する適格者が病身の弟子・義明しか無く、正統密教が一代で枯れてしまうのではないかという不安を持っていた時期であったと考えられますが、そのようなときに空海が現れ、日常を共にして空海の資質を見るにつけても密教理解の到達度が予想以上で会あったことを知り、空海に伝法灌頂する決心を固めたのではないかと考えられます。

入門まもなく、空海に胎蔵界の灌頂が授けられ、7月上旬には金剛界の灌頂が授けられました。8月上旬には愛弟子・義明にも授けられていない伝法阿闍梨の灌頂が授けられましたが、これによって恵果の正当な法灯が空海に正式に伝法されたのです。恵果阿闍梨は同年12月15日に青竜寺の東塔院で入滅されましたが、空海が恵果の門に入ってから6ケ月後の事でした。空海と恵果の出会いは奇跡的なまたとない千載一遇の邂逅でした。

仏と縁を結ぶ「投花得仏」(目隠しのまま曼荼羅に導かれて行うの儀式)において、1461尊ある金剛界でも、414尊ある胎蔵界でも空海の投花はいずれも大日如来の身上に着いたことで、恵果は不思議なことだと讃嘆して空海に「遍照金剛」の灌頂名を付与しています。この由縁によって、空海の宝号が「南無大師遍照金剛」と定まりました。

恵果が空海に次のように遺言しています。同様に『請来目録』より要約して引用します。「去年(804)12月15日、恵果阿闍梨が香しい湯で身体を洗い、大日如来の印を結び右脇を下にして遷化された夜、空海が道場で念じていると、恵果和尚が宛然として空海の前に現れ、我と汝とは深い師弟関係があって密教を広めてきた。我は日本に生まれ変わって汝の弟子となろう。汝は知らないであろうが、我と汝は宿縁が深く、何度も生死を繰り返して密教を広め何度も(互いに)師弟関係にあった。だから今、遠方より訪れた汝に密教を伝えるのである。」空海はこの宗教体験によって、「恵果の膝元に来ることができたのは空海の力ではなく、学び終えて日本に帰国するのも空海の意思ではないこと、恵果阿闍梨の鉤に引っ掛けられて招かれ、阿闍梨の綱に引っ張られて帰国することになったこと、ゆえに、空海は、恵果から速やかに帰国して日本に密教を広める責任があるといわれたことが理解できた」と考えられます。宗教体験には人を変える力があります。空海の内面には大きな変化が生まれたものと考えられます。

空海は門下を代表して「恵果碑文」を撰し恵果の偉大な功績をたたえ、多くの遺弟に感動を与えましたが、大同元年(806)10月初旬頃、皇帝の代替わりを祝賀する臨時の検討船が派遣されてきたチャンスに恵まれこれに便乗して帰国することができました。このとき、空海の帰国と共に密教の正統も中国を離れ日本に伝わることになりました。恵果から伝法灌頂を受けた弟子は「弁弘、慧日、惟上、義明、空海、義円」の6人でしたが、胎蔵・金剛界の両部の灌頂を受けたものは空海と義明の2名だけでした。義明は歳若くして世を去ったので、インド伝来の正統密教の伝法灌頂を受けた正嫡の後継者は空海以外にはいません。この後、中国の密教は次第に衰退に向かいました。

恵果・阿闍梨(伝持の7世及び付法の7世)は、俗称は「馬」氏、貧しい昭応村に生まれました。9歳で青龍寺の塔頭・聖佛寺住職・曇貞に仕えていることから親の意思で寺に預けられたものと考えられます。しかし、恵果は才能豊かな人物でした。20歳で出家、得度して具足戒を受戒しましたが、一行(伝持の6世)に師事し、不空(伝持の4世)より金剛頂系の法灯を、善無為(伝持の5世)より胎蔵系と蘇悉地経を、幻超から大日経を受け継ぎ、胎蔵生系と金剛界系を統合して中国密教を形成した人物です。30歳で本山・青龍寺の住職に任ぜられ、唐の三朝(代宗・憲宗・徳宗)の国師となって、数千人の弟子を育成した偉大な宗教家です。

空海や橘逸勢と共に第一船で入唐した興福寺の僧・霊仙がいました。霊仙は空海より長く留まりましたが、唐皇帝・憲宗に才能を認められ「三蔵」の地位を与えられたことで帰国を禁じられました。唐が終焉を迎えたことで、帰国することなく骨を埋めることになりました。

密教は大乗仏教の到達点に花開いた教えです。空海が請来し再構築した真言密教は、インド~中国~日本という三国伝来の密教を体系化して完成させたものでした。全仏教のみならず、人間精神の全階梯を包摂する密教の体系化を成し遂げたのはインド・中国・日本を見渡しても空海以外にはいませんでした。純粋密教は空海によって完成され、真言宗の1000年を超える長い歴史をみても、もついに空海を超える人物が出てくることがありませんでした。これが真言宗の長所でもあり、短所でもあると考えられます。しかし、これが真言宗に新興宗教が生まれてこなかった理由の一つでもあります。

空海の真言密教の系譜は、『大日経』の胎蔵生曼荼羅思想と、『金剛頂経』の金剛界曼荼羅思想の二つの異なる法流を統合することによって誕生しています。二つの法流は、中国・青竜寺の恵果阿闍梨によってなされましたが、空海は恵果に両部の伝法灌頂を伝授されて正当な血脈を相承した第8祖です。

インドから中国に胎蔵界系の密教を伝えたのは、東インドの王族出身の善無為(シュバカラシンハ)三蔵でした。716(開元4)年に80歳の高齢の身で入唐して長安に留まり、多くの弟子を養成しましたが玄宗皇帝の下で『大日経』などの密教経典の漢訳に勤めました。金剛界系の密教は、720(開元8)年にインドから入唐した金剛智(ヴァジュラボーディ)三蔵が長安に灌頂道場を建立して『金剛頂経』などの密教経典を漢訳して弟子を養成しました。金剛智は霊的超能力にすぐれ中国密教の開祖に擬されています。

金剛智の弟子・不空三蔵はインド出身の僧ですが、金剛智の下で20年余密教経典の翻訳に携わり、一切の法を師の金剛智から伝授され、玄宗、粛宗、代宗の三代の皇帝に仕え絶大な信任を受けました。五台山に密教の根本道場を建立し密教の普及に精魂を尽くしましたが、天台山の天台法華宗の影が薄くなったと喧伝されています。不空三蔵は胎蔵生系の密教に通暁することがありませんでしたが、弟子の恵果阿闍梨が両部の曼荼羅思想を統合することになります。

恵果は善無為の高弟・玄超について胎蔵生の曼荼羅思想を受け継ぎ、密教史上初めて両部の思想統合を成し遂げたのです。こうして恵果は正純密教の最高峰に立ちましたが、空海が入唐したのは、恵果阿闍梨が徳宗の貞元20(804)年に長安の醴泉寺に金剛界曼荼羅の灌頂道場を建立した年で、恵果が中国密教界の第一人者の足場を築きあげた直後の事でした。