(37)日本と朝鮮半島との関係性を考える

倭人は古代中国人が名づけた名称です。古くは『山海経』(戦国~秦漢時代の成立)、『論衡』(後漢時代、1世紀頃)に倭や倭人の記録がありますが、日本列島の倭人とのかかわりは不明です。しかし結果的には、倭人の名称は日本人の祖形となる弥生人が継承したと考えられます。
日本列島に住む古代人「倭人」との関係性を示したのは『漢書』地理誌が最初です。
その後、『後漢書』東夷伝、『三国志』中の『魏書東夷伝』倭人の条(いわゆる『魏志倭人伝』)、『宋書』倭国伝など、また、中国南北朝時代の南朝の史書『隋書』、『旧唐書』、『新唐書』などに倭や倭人、倭国に関する記述があります。

この中でも、『魏志倭人伝』は、倭人の生活習慣や社会態様が比較的に詳細に記述されています。
これらの記述をみれば、文化的な共通性(生活様式、風俗、慣習、言語など)の違いによって「韓人」や「穢人(現在の韓民族の祖先)」とを区別した記述であることがわかります。朝鮮半島の倭人は含まれていないと考えられます。

『論衡』には、紀元前11~10世紀頃の周の武王に「倭人」が薬草を献上したという記述があります。この倭人は朝鮮半島や日本列島に移動した倭人ではなく、それ以前に江南や華南に定住していた倭と考えられていますが、古くから倭人と呼ばれた人々が存在した事実が分かります。

『漢書』地理誌にいう倭は、「夫れ楽浪(朝鮮半島に設置された中国・漢の直轄地)海中に「倭人」あり、分かれて百余国をなし、歳時を持って来たりて献見す」とあります。この記述が日本列島の倭人を示すものであることは疑問の余地がありません。この中には、倭人の一部が定期的に漢の楽浪郡と通交していたことが記述されています。紀元前1世紀頃のことで弥生時代に当たります。

『魏書東夷伝』倭人の条(いわゆる『魏志倭人伝』)には、風俗・習慣・風土・生活様式(税や刑罰、身分、寿命、住居、品性、衣装、また、兵器など)の詳細な記述がありますが、これらは、扶余、高句麗、東沃沮、穢、馬韓、辰韓、弁辰、倭人の9条に分けてその違いを詳細に記述していることを判断すれば、倭人が日本人との関係性を持つ人々であることが分かります。

朝鮮の最古の歴史は殷の紂王の一族であった箕子が殷滅亡後に朝鮮に亡命して箕子朝鮮を建国(前12世紀初期頃)し、後に周王朝から侯国に封じられたとするもので高麗時代の儒者が支持したとされますが、考古学的考証がない捏造説です。高麗の儒者、李氏朝鮮の両班に小中華思想が典型的に表れ、現代に残る朝鮮民族の歴史書はこの時代に朝鮮民族優位の史観で捏造され塗り固められて作られたものが多いところから、朝鮮の歴史書はこの点に特に注意が必要です。朝鮮民族は先天的に自民族を客観的に分析する能力が欠落しているものと考えられます。

韓国の情けない国民病としかいいようがない「韓国起源説」(韓国が世界文化の発生起源であるという説)は、「ウリナラ起源説」といわれますが、朝鮮民族の精神性の中にしか生まれない珍説です。笑うしかない幼稚な精神性から生まれた捏造説です。この説は韓国国内を席捲する勢いと危険性の高さから、後戻りができない破滅型のファビョン史観ということができます。韓国人は「日本の文化が朝鮮半島(つまり韓国から)経由でもたらされた」と本気で信じています。日本の伝統道徳はこの文化から生まれたものであり、現代日本人の「社会性」や「協調性」の高さや「他人を思いやる心」や「他人に迷惑をかけない心」が朝鮮から伝えた文化から生まれたと学校教育の現場で教えています。「韓国起源説」が5000千年の文化を主張していますが、これには、さすがの中国人もあきれて怒るより笑うしかありません。

しかし、日本のこのような伝統性は儒教思想から生まれたものではなく、日本民族のもつ精神性は、神道や仏教などの社会環境の中で熟成されて生まれた独特な日本文化です。儒教狂いの国家である中国や韓国には決して生まれることがない伝統的な価値観に裏付けされた高い精神性から生まれた伝統文化です。日本の武士道の精神でさえ韓国起源であるという異常な精神構造を持つ韓国人や儒教狂いの中国人に武士道の世界がまともに理解できるはずがなく、その原因は日本人と韓国人・中国人の民族性や精神性が根本的に違うところにあると考えられます。

前194年中国・燕出身の将軍・衛満が箕子朝鮮を駆逐して衛子朝鮮を建国しました。これは朝鮮民族の建国ではありません。この頃の朝鮮半島には韓という名称はありません。『魏略』逸文によれば、韓は辰韓にあたるもので、楽浪系漢人の韓氏に由来するという説があります。
韓は中国江南地方を淵源とする中国民族(複数民族)の一つです。13世紀の高麗時代に形成された朝鮮民族(エベンキ族の支流・穢族)が何故に韓民族と名乗っているのか不思議です。韓国は自らの民族の発生と形成を証明しなければなりません。

衛子朝鮮は、漢の武帝の意に添わなかったことで滅ぼされました。準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として王となり馬韓を支配した(『後漢書』)と伝承されています。しかし、衛子朝鮮は朝鮮民族の歴史とはいえません。その後、馬韓は高句麗(扶余族)の分流によって百済の建国に吸収されて行きます。

1~5世紀の朝鮮半島南部に三韓(辰韓、馬韓、弁韓)が存在しましたが、ここでも建国者は朝鮮民族ではありません。このころは、支配者である建国の王族と被支配者の一般庶民は異なる民族でした。外来の王族は軍事力はありましたが少数民族でした。三韓は中国の楽浪郡、帯方郡の間接的支配を受けていましたが、異なる言語と習俗を持つ国です。

辰韓は、秦の苦役から逃れた逃亡者が馬韓からその東界を割譲されて建国した国であり「秦韓」ともいいます。『三国志』魏書弁辰伝によれば、弁辰は馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語が似通っていたといいます。『後漢書』弁辰伝によれば、辰韓と(弁韓)は城郭や衣服は同じだが、言語や風俗は異なっていたといいます。
『北史』新羅伝には、新羅は辰韓の苗裔なり、領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く、その言語や名称は中国人に似ている、との記述があります。

これをもって韓国は、南北の朝鮮戦争を経験したことで、同一民族の北朝鮮とは民族が違うという捏造を主張して「韓国」という国号を宣言しました。韓族が中国系であったところから、小中華思想の価値観がファビョンの思考回路に点火して中国系民族を詐称したものと考えられます。韓族は、倭族と同様に揚子江流域の呉・越を出自とする民族ですが、黄河流域の漢民族とは異なる民族です。朝鮮民族は血縁関係の情をことのほか重要視する傾向性が強く現れる(狩猟民族の特徴)ところから、民族の出自を詐称されたことを悲しむ祖霊の魂は号泣し続けていると考えられます。

一方の中国では、中国社会科学院が、新羅は「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」とする公式研究書を記述しています。新羅の建国は377年です。辰韓の王は韓人でしたがその民は多数の民族が入り混じった雑居地域でした。中国の中華思想は他民族に対する漢民族優位の政治的な主張ですが、朝鮮の小中華思想は文化的な根拠がないが主張が強く表れるところからファビョン民族の精神疾患に起因する病的なものであると考えられます。韓国の歴史観は歪みが強く矯正は不能です。

弁韓は、後の任那、伽耶と重なる地域であり、辰韓との境界は入り組んでいました。2世紀~3世紀頃、政治的には辰韓と弁韓は大きく分けられ、弁韓地域(伽耶諸国)は12カ国の連合体で、一番優勢な勢力は駕洛国(金官伽耶)でした。金官伽耶は中国から「狗邪韓国」と呼ばれたとおり「韓」と「倭」の二重国家です。韓系の加羅連合の一国であると同時に倭国の一部でもありました。このあたりに倭国王権の秘密が隠されていると考えられます。

金官伽耶は、自身を盟主とする連合体を形成して辰韓の盟主・斯盧(新羅)と勢力を争いましたが、新羅に敗れ消滅しました。しかし、王族の一員であった金氏は新羅の貴族として生き残り、後代の金春秋は新羅29代の武烈王となって、朝鮮半島を統一(676年)しています。新羅の朝鮮統一で倭国は朝鮮半島の既得権益を喪失して朝鮮半島から撤退しました。

今日の朝鮮民族は、この頃から高麗期にかけて、ツングース系ワイ族を主力とする北方系諸民族と半島南部の諸族の結合によって熟成されていったものと考えます。その割合は今日の朝鮮半島に継承された生活文化・習慣、文化人類学的な見地などから、北方系が8割に対し、韓系が2割程度という混淆の割合が考えられます。

しかし、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)と三国(三韓を継承した百済、新羅と北方系の高句麗)の生き残りをかけた500年戦争の苛烈な資源と領土の奪い合いの歴史では、敗戦国とその領民は徹底した破壊と略奪をうけ、奴隷として生涯を終らなければならない宿命であったという朝鮮半島の特徴的な歴史を直視しなければなりません。これは狩猟民族の特徴です。自らは生産活動をせず、他国を襲ってその生産物(鉄、食料品など)をことごとく奪い尽くす習性を持っていたことを忘れてはなりません。韓国民の不労所得のタカリ文化にはこのような淵源があります。

今日に残された朝鮮民族の文化内容を子細に検討すれば、韓族の文化がほとんどないと考えられるところから、韓族の生存率はもっと低いものであったとも考えられます。今日の朝鮮民族の諸文化を基準にすれば、朝鮮民族は北方系の複数の狩猟民族を核として熟成され形成されてきた民族と考えられるところから、今日に遺伝子を残せた朝鮮民族は圧倒的に北方系諸族が優位であった考えられます。現在の朝鮮民族が韓族の後継者を名乗ることは失当と考えられます。

かつて、日鮮同祖論を主張する説がありましたが、現在の朝鮮民族を構成する基本的な民族は明らかに北方系狩猟民族であり、日本人(縄文人と弥生人の混血)の祖形氏族の一つと考えられる三韓の氏族とは異なる、と考えられます。民族の個性が如実に現れる言語、風俗・習慣、服飾、食性、民間伝承の建築・建造物、宗教観、人間観など多くの点において、中国人、朝鮮人、日本人の価値観や人間性のあり方が驚くほど異なり、共通性が認められないところから、近隣性があっても全くの別人種と考えられます。この同祖論は政治的な意図を持つ粗雑な主張にすぎないと考えられます。

弁韓、辰韓地域には紀元1世紀頃に青銅器と鉄器文化がもたらされて社会統合が進んだ地域です。豊かな鉄産地を保有し海運の良好な条件を兼ね備えたことから富と技術を蓄積し社会統合が進んだのです。『三国志』弁辰伝によれば、言語は馬韓と異なり辰韓と類同していたとあります。

馬韓人は定住民であり、穀物を植え養蚕を行っていました。50余国が存在しましたが、集落に城郭はなく、部族には酋長(小規模)、邑借(中規模)、臣智(大規模)という族長がいました。この中の有力国であった伯済国が統一して百済になりました。百済の建国は346年ですが、韓国・北朝鮮の教科書には紀元前18年の建国と記述しています。これはファビョン特有の歴史観と考えられます。
『北史』新羅伝には、言語は(辰韓と)馬韓と(は)異なり、弁韓と類同し、中国語と類似していた、とあります。百済は、古代の朝鮮半島の南西部から来たツングース系扶余族の建国です。支配層の扶余族と被支配層の韓族・倭族との二重構造でした。

三韓の概要を簡単に述べれば、中国の春秋・戦国時代の華南地域では「呉と越」、「楚と越」、「楚と秦」が戦争と興亡を繰り返しました。
呉が滅亡した紀元前5世紀頃から、呉の流民が大挙して朝鮮半島南岸や西岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれたまとまりを形成しました。
この頃、内陸と北東部にワイ族や貊族が居住し、北西部には箕子朝鮮があり、西南部には韓族が集住して馬韓を形成しました。
弁韓と辰韓は馬韓に隣接する地域に形成された韓(倭)です。馬韓の王は、三韓を支配する大王でした。

紀元前4世紀後半、越が楚に滅ぼされ、越の流民が大挙して半島南部に逃れ「倭」の集団を形成しました。倭人は遅れて来た韓人です。越族=倭族であり、福井、石川、富山、新潟の旧国名を「越」と名づけたのは偶然ではありません。
倭人は弁韓南部と対馬海峡、九州北部を支配下に置いて倭国を建国しました。『後漢書』にいう「倭国大乱」は、九州に戦乱の遺跡がないことから、朝鮮半島南部地域の奪い合いと考えられます。

四世紀中頃、倭国は伽耶(南伽耶、安羅、大加羅=日本名「任那」)を支配下に置いて直接朝鮮半島南部地域に影響を与え、百済や新羅を属国としましたが、高句麗に敗れ、衰退しました。この間の事情は高句麗・広開土王が414年に建立した「好太王碑文」が明らかにしています。倭人が日本列島から朝鮮半島に進出し三韓の権益を侵食して半島南部に橋頭堡を築いたとか、伽耶の鉄を交易で確保したかの如く考える説は何らの合理性が無く支持できません。当時の権益は、領土と資源の奪い合いの性格が強く、権益は武力によって安定確保するしか方法がありません。3世紀頃の倭人は本来的に朝鮮半島南部の三韓の構成氏族であり固有の権益を確保していた複数の王が率いた氏族集団であったと考えます。

これによれば、「新羅、百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に百済・□□・新羅を破り臣民となしてしまった。」

「399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王(広開土王)は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした」。 「400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。」
「404年、倭が帯方郡(黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。」というものです。

3世紀頃までの倭は、日本列島から朝鮮半島に侵略の手を伸ばしたのではなく、もともと朝鮮半島南部(伽耶地方)の支配層であった倭人が、北方系狩猟民族の圧迫などを契機として日本列島(北九州)に徐々に移動して倭国を建国したが、建国の人々は朝鮮半島には既得権を温存していたと考えられます。倭国(三韓の一部と壱岐・対馬・北九州)の王族や有力貴族は、同時に伽耶地方の王族の資格を持っていたのではないかと考えられます。倭国と百済は通訳がなくとも言葉が通じたという伝承はこのことを示唆しています。

朝鮮半島南部地方に部族国家若しくは部族共同体を営んだ倭人集団の悉くが、朝鮮半島よりも温暖で米などの農耕栽培に適した日本列島に移動したとは考えられません。半島の既得権益を守るために三韓に残留勢力を温存させていた、と考えることは戦略的に当然のことです。朝鮮半島南部にみられる日本特有の前方後円墳や、古墳から数々の日本製遺物が発掘されている事実はこれを証明していると考えても不思議ではありません。
倭人は三韓地方、百済、新羅にも相当数が存在して国家の運営に直接に参加して既得権益を持っていたものと考えられます。しかし、日本民族固有の男系のY遺伝子が現在の朝鮮民族には見られないことから、朝鮮半島の生存環境の厳しさ(北方系狩猟民族の南下)の中では遺伝子が残せなかった事情、特に戦争などによる民族の交代・移動があったことが合理的に推定できます。

6世紀には百済と新羅が勢いを増し、南方の伽耶諸国(任那を含む)を次々に支配下に組み入れたので、倭国は伽耶(加羅)の勢力を失い、朝鮮半島から撤退しました。しかし、百済新羅、高句麗の王族は日本列島の王族、貴族と密接な関係にあったことが『新撰姓氏録』から見て取ることができます。

伽耶諸国が部族連合で終わり、統一国家を建国できなかった原因は、倭国が支配権や既得権益を手放さなかったからだと考えられます。
安羅には倭軍の前線基地が置かれ、伽耶諸国は倭と親しい関係を持っていました。伽耶に倭国の直轄軍を常設できた理由は、倭軍が違和感なく存在できる既得権益を持っていたからです。
倭軍の衰退により、529年に新羅と百済が伽耶を攻撃するようになりました。532年に南加羅が、554年に安羅が、562年に大加羅が、いずれも新羅の攻撃によって滅亡し吸収されています。
伽耶地区は重要な鉄の生産地であったところから、倭軍の衰退によって資源の奪い合いが激増したものと考えられます。伽耶の滅亡と倭軍の撤退によって、日本は朝鮮半島の既得権益を喪失し、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の勢力に三分されて三国時代が到来しました。

朝鮮は高句麗、百済、新羅の三国時代が3~7世紀中頃迄続きましたが、初めて朝鮮全土を統一したのは中国(唐)と同盟した新羅でした。この連合軍に660年、百済が滅ぼされ、百済の遺臣から救援要請を受けた中大兄皇子は、阿倍比羅夫を指揮官とする大軍を派遣しましたが、663年、日本と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に白村江の戦いで大敗し、朝鮮半島の権益を喪失しました。
百済の再興はついえました。高句麗も同様に668年に唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、百済と高句麗から多数の亡命者がヤマト(倭)に渡来しましたが、渡来人は朝鮮の文物を伝え、各地に定着しました。のちの遣隋使、遣唐使船は新羅が支配する朝鮮半島を避け、直接に中国を目指し半島との交流が断たれました。